第八話
荷車の輪が窪みに落ちた。
積んだ荷が傾いて、いちばん上の一つが縄の下で前へ滑る。レインは横から肩を入れた。輪が土を噛んで乗り上がる。乗り上がった拍子に縄が鳴った。
「押すな。持ち上げろ」
荷方の男が縄尻を引きながら言った。
「持ち上げてる」
「肩じゃ上がらねえ。腰で上げるんだ」
昼の街道口は風が真っ直ぐ入ってくる。町の中と違って遮る物がない。風の当たる側の耳だけが先に冷える。
荷車は二台。馬は三頭。一昨日まで四頭だった。
ガレア傭兵団から出ているのは副長とニコと、若い衆が二人だ。荷が二台出る日は詰所から人が出る。
今朝、詰所の裏で三本やったところで副長に呼ばれた。団の庭で持たされるのは木の棒だ。鉄は使わせない決まりになっている。
北へ二人出したせいで庭に残っている者が少ない。荷が二台出るから街道口へ回る、と言われて、それから一つ足された。
「家へ戻って鉄を持ってこい」
「庭では使うなって」
「今日は庭じゃない」
それだけだった。理由の続きは出てこない。
家へ戻ると母が土間にいた。掛け棒から自分の鉄剣を下ろすのを見てもどこへ行くのかは聞かない。聞かない代わりに袖の詰めたところを指で押さえて、縫い目が持っているのを確かめた。
リアが足元まで来て、まんま、と言った。ガルドは荷の付き添いで朝から出ている。妹の中でガルドはまだそれだ。
掛け棒のいちばん上には弟の鉄剣が掛かったままだった。今朝拭いた分だけ柄が手前へ出ている。振る許可はまだ出ていない。
――――――――――――――――――――
縄を締め直しているあいだにニコが荷車の反対側から顔を出した。
「レイン。そっちの縄、もう一回頼む」
「締めたぞ」
「締めたのを締め直すんだよ。峠までのやつは二回締めるんだ」
ニコは細くて背だけ高い。上着の袖をまくると腕は思ったより細い。それでも縄の締め方は速い。
「一昨日やられたのがこの人の馬だ」
ニコは声をひそめなかった。荷方の男に聞こえている。男は縄尻を持ったまま、聞こえた方を見もしない。
「杭は残ってたんだよ。縄の端だけ食い切られてさ」
「食い切るのか」
「切れてた。俺が見た」
馬を繋ぐ縄は太い。手で切れる物ではない。
レインは自分の締めた縄をもう一度引いた。二回目の方が短く締まる。
人が来はじめたのは荷を積み終える少し前だった。
荷が出る日は町の者が見に来る。峠へ何が出ていくかで冬の値が変わる、と母が言っていた。
ハンナが前掛けのまま来て、荷車の高さを見上げた。
「今年は多いねえ」
「供出の分が先に出たからだよ」と荷方が言った。「残りをまとめて出すんだ」
女が二人、ハンナの後ろから覗いた。片方は井戸端でよく見る顔で、片方は知らない。知らない方が先に口を開いた。
「ねえ、あんた。ヴァルドさんとこの上の子だろ」
「そうだけど」
「下の子のこと聞いたよ」
縄を持つ手は止めなかった。止めると次に何が来るかを待っている形になる。
「賊を凍らせたんだって」
「うちの弟がそんなことするか」
「そんなに怒らなくたっていいじゃないの」
「怒ってねえ」
女は笑った。ハンナも笑った。笑いながら井戸端の方の女がレインの腕を軽く叩いた。
「知ってるよ。そんなわけないもの。うちの人なんか狼が出たらあの子に凍らせてもらえって言うんだから」
「言わせとけばいいのよ。誰も本気にしてないんだから」
本気にしていないのは見れば分かる。そこまでは女たちの言うとおりだ。
ただ、言い返すと言い返した分だけ話が伸びる。伸びた話は人の口に残る。残った話は次の日にもう一度出てくる。
だから短く言った方がいい。短く言えば短く終わる。
そう分かっていて、口の方が先に動いた。
「凍るわけねえだろ。凍るならうちは薪を斧で割ってねえよ」
「そりゃそうだ」
言い切ったが、確かめたわけではない。
女たちはそこで別の話へ移る。染物屋の白がまた値上がりしたという話だ。
レインは縄の端を杭の内側へ回して結び直した。ハンナは話の途中で町の方へ戻っていく。
――――――――――――――――――――
ガイが詰所の方から走ってきた。息が上がっていない。走り慣れている走り方だ。
「レイン。日の落ちる前に出せってさ」
「まだ二台目だ」
「じゃあ間に合うだろ」
副長は二十歩ばかり先で帳面を開いている。ニコは二台目の縄を見ている。若い衆の二人は荷の陰だ。
伝える用があるなら、こちらより先にあっちだ。
ガイは肩の木剣を下ろして、荷車の車輪に背中を預けた。夏の終わりに巻き直した柄の革が、もう手の形に馴染んでいる。
「お前、鉄持ってきたのか」
「副長が持ってこいって」
「ふうん」
ガイはそれ以上聞かなかった。聞かない代わりに木剣の先で地面の土を一度だけ押した。押してから手を止める。
「なあ。昨日言った見回りの二人な。二人にしたのはうちの親父が妙だと思ったからなんだと」
「妙って」
「俺も聞いた。分からん、だってさ」
「分からねえのに増やすのか」
「俺もそう言った。当番表の前で指止めて、そのまま二人にしたよ」
今朝の三本はどれも先に出たのがこちらだった。
真っ直ぐ来る相手なら流せる。待つ相手は動かない。動かない相手にはこちらから出るしかない。出れば出た先で待たれている。
来ない相手を呼ぶには出したくない物を先に出せ、と副長に言われたのは夏の終わりだ。
言われた形は覚えている。覚えているだけだ。体はまだ一度もやっていない。
毎朝振っても先に出す方は覚えない。増えるのは持つ方の手の皮だけだ。
馬が首を振って、耳の後ろを荷車の縁にこすった。三頭とも落ち着いている。
荷方の男が最後の縄を掛け終えて、腰を伸ばした。
「これで出られる。宿の内は高くついたが、まあ――」
男の言葉が途中で止まった。
馬が三頭とも同じ方を向いている。
杣道の口の方だ。
街道から折れて北へ入るところに梢の低い雑木がひとかたまり残っている。冬になる前に切る予定だと去年から言われている場所だ。
その根元が動いた。
低い草を割って一匹出てきた。すぐ後ろからもう一匹。
そこまで目で追った。追っている間に、追っていない方でも草が動いている。
「四匹だ」とニコが言った。
言われてから見た。草から出た方と、街道の縁に並んだ方がいる。
馬が後ろへ跳ねた。縄が張って、三本の杭のうち二本が土から抜ける。抜けた杭が地面を跳ねて荷車の輪に当たった。
三頭のうち二頭が街道の南へ走った。走らなかった一頭が首をねじって、鼻づらを地面に向けたまま後ずさりする。
馬は鳴いている。向こうは声を出さない。
「荷の内側へ入れ」
副長の声だった。帳面を土の上へ置いて、置いた場所を見ないまま剣を抜いている。
「子どもは荷車の向こうだ。荷方も入れ」
レインは荷車の向こうへ回された。回された先へガイも来た。
二人で覗いた。覗いた先で、四匹のうちの三匹が街道の上へ出てきている。
肩が高い。荷車の輪の上に背中が乗る高さだ。
胸と首が太くて、腰から後ろが急に細い。前ばかりが重い体をしている。毛は灰と茶が混じって、背筋の一本だけ色が濃い。
狼だと思っていた。町の誰もが狼だと言っていたからだ。畑をやられた家は猪だと言っていた。
どちらも半分ずつ合っている。顔は長くて目が前についているのに、足の先は割れた蹄だ。
近くで見ると背より先に口が目につく。下の牙が、口を閉じたままでも唇の外へ出ている。
どれも声を出さない。吠えも唸りもしない。出ているのは鼻の音だけだ。短く吹く音と、土を嗅ぐ湿った音が、街道の土の上を伝わってくる。
「あれ、犬じゃねえよ」とガイが言った。
四匹は人の方へ来なかった。
三匹がまとまって、繋がれたままの一頭へ向かっている。
一昨日も一頭持っていった。今日も同じ物を取りに来ただけだ。
「馬は捨てろ」
副長が言った。荷方が何か言いかける。言い終わる前に若い衆の一人に腕を掴まれて、荷車の内側へ下がらされた。
先の一匹が馬の後ろ足に食いついた。
馬が横へ倒れる。土が鳴った。倒れる音の方が、獣の立てる音よりずっと大きい。
残りの二匹が首の方へ回った。
馬はしばらく鳴いていた。鳴きやむまでのあいだ、誰も何も言わない。
自分の息が浅いことに気づいた。気づいてから深く吸おうとして、うまく入らない。
足の裏が地面についている感じがしない。
気づくと鞘を払っていた。いつ抜いたのかを覚えていない。
四匹目は街道の縁に残ったままだ。
残ったまま、荷車のこちらを見ている。
「動くな」
動かなかった。それでも来た。
副長は間合いの外で待って、入った線の上で剣を振り下ろす。刃が首のつけ根に落ちて、そこで止まった。
止まったところで獣が暴れた。刃が骨に噛んで抜けない。
暴れても声を出さない。馬はあれだけ鳴いた。この獣は刃を骨に受けたまま、息の音しか立てない。
副長は柄から手を離さない。離さないまま、そこから動けない。
馬に取り付いていた三匹のうち一匹が、そのあいだにこちらへ顔を向けた。
口のまわりが濡れている。
ニコが出た。真っ直ぐ前へ出るのは庭で立ち合った時と変わらない。出た後で止まらない。止まらないまま横を通って、通りすぎざまに剣先を首の下へ滑らせた。
毛と皮が横一文字に割れる。
それでも獣はすぐには倒れない。向きを変えられずに数歩行く。首から出た血が土の上を遠くまで飛ぶ。まだ足が止まらない。
夏の終わりに立ち合った時はこの止まらないところを流した。足がもつれて、ニコは自分で笑っていた。
向きを変えられない相手には止まらない方が効く。同じ出方が、今日は獣を斬っている。
そこまで見た。視界の端がまた動いた。
もう一匹が荷車の脇へ回っている。
若い衆の片方が剣を上げようとして間に合わず左の腕を前に出した。
牙が腕当ての上から入る。革の裂ける音が先で声はその後だった。
獣は噛んだまま前へ出た。前が重い体がそのまま乗ってくる。若い衆は膝から落ちて、横へ引きずられていく。踵が二本、土に筋を引く。
副長はまだ刃を抜けていない。獣の頭を踏んで体重をかけている。ニコの相手はまだ歩いている。
一匹に手を出したらそいつが動かなくなるまで離れられない。四匹なら四人要る。
引きずられていく体は全員に見えている。見えていて、誰の足も出ない。噛んでいる獣は声を出さない。引きずられている方の声だけが続く。
行ける者が一人もいない時間が、数を数えられるくらい続いた。
レインの足も出ていない。柄を握る手だけが強くなっていく。
先に終わったのは副長だ。刃が抜けて、抜いた勢いのままもう一度落とす。二度目で動かなくなった。
一度では足りない。
ニコの相手が前脚から崩れたのはほとんど同じ時だった。
ニコは崩れた方を見ずに戻ってきて、噛んでいる獣の脇腹を蹴った。牙が腕から外れる。外れて喉が上を向いたところへ剣を入れた。獣は横倒しになって、後ろ足だけがしばらく土を蹴っていた。
腕の方は間に合っていない。
最後の一匹が荷車を回ってきた。
こちら側だ。
副長は自分の獣から刃を抜いたところだ。ニコは腕をやられた方の前にいる。無事な方の若い衆は、荷車の内側で荷方を押さえている。
呼んでも間に合わない。
ガイが先に前へ出た。
出た先は獣の正面ではない。荷車とは反対の、道の側だ。
獣の頭がガイを追って道の側へ向いた。頭が向けば体もそちらへ来る。向いた先へしか行けない体だ。
来たところでガイは木剣を突き出した。受ける構えではない。押し込む。
口を閉じたままでも唇の外へ出ている下の牙、その内側へ木の腹が入る。
噛んだ。木は口の中で横になった。
柄はガイの手の中にある。道の側だ。先の方は牙の外へ出て、頭を挟んだ向こう側の荷車を向いている。ガイの腕は獣の頭を越えていない。越えているのは木だけだ。
押し込んだ分、頭が荷車の方へ流れた。
獣はそのまま前へ出た。出れば木の先が枠に当たる。当たれば頭が押し戻される。
頭が戻されても体は前へ来る。前と後ろが別々になって、前脚の踏む所が一足ぶん狂った。
外そうとして首を振る。振っても木は牙のあいだにある。
ガイの手の中で木が一度きしんだ。きしんだところで柄を離して、道の側へ転がる。
木では斬れない。ガイは斬るつもりで前へ出ていない。獣を一度だけ、前へしか行けなくした。
置いていられるのは一息ぶんで、その一息で斬れる物はこちら側に一本しかない。
「レイン」
名前だけだった。それで足りた。
足りたのに体が動かない。
荷車の枠が鳴る。木が牙の内側で軋む音だ。そこで足が出た。
レインは荷車の陰から横へ出た。
出た途端に音が減った。聞こえるのはガイの息と、獣の鼻の音だけになる。
牙が横へ振れて、木剣が土の上へ落ちた。
獣は真っ直ぐ来る。腰から後ろが細い体は来た先で急に向きを変えられない。
真っ直ぐ来る物なら受けなくていい。受けないで来た線から半分だけ体をずらす。
牙が外套の裾を掠めた。掠めた先へこちらの半歩が入る。
入ったところに後ろ足の付け根があった。
鉄剣を振った。
当たった。肉より先に骨が来る。骨は動いている物なので当てた側の腕がその分だけ跳ね返される。手首から肘まで一度に来た。
柄が手の中で回りかける。
落とさなかった。
獣が横へ転がった。転がった先で起きようとして、片方の後ろ足が土を掻いただけになる。掻いた足の下から土が跳ねた。
起きられないのに頭だけがこちらへ来た。
牙の並んだ口が、声のないまま開いて閉じる。
人なら下がる。下がるから流せる。この相手は下がらない。下がらないまま二度目が来る。
「離れろ」
副長が横から来た。頭の後ろで短い音が一つして、それきり動かなくなる。
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風が北から来ている。血の匂いは南へ流れて、こちらには来ない。
レインは鉄剣を下げたまま立っていた。下げているつもりだった。指の方が柄を離していない。離そうとすると外す順番が分からない。
一本ずつ外した。外し終わってから手が震えた。震えたのは終わってからだ。振っているあいだは何も起きていない。
呼ばなくても来た。出したくない物を先に出す用は、今日は一度もなかった。
ガイが木剣を目の高さに上げて、光にかざしていた。柄から手のひら一つぶん先のところに細い線が入っている。噛まれたのは真ん中で、きしんだのは手に近い方だ。
「割れたのか」
「ひびだ。まだ使える」
「使うなよ」
「使うよ。ほかにねえもん」
ガイは木剣を下ろした。下ろしてから荷車の脇を見た。
腕をやられた方が筵の上に座らされている。腕を上へ向けて、ニコが上着を裂いた布を巻いていた。血は袖から先の方へ落ちている。骨は無事だ、と副長が言った。言い方は帳面を読むのと同じ調子だった。
馬は一頭がやられた。南へ走った二頭は町の手前で止まっていて、無事な方の若い衆が連れて戻ってきた。
荷方の男は自分の馬の首に手を置いたまま、しばらく動かない。
獣は四匹とも街道の脇へ寄せた。一匹を動かすのに大人が二人で前と後ろを持って、それでも一度では持ち上がらない。
街道の方から二人が下りてきた。フェイともう一人だ。北の見回りから戻ったところらしい。二人とも膝から下が濡れている。
「渡ったのかよ」とガイが言った。
「渡っとらん。浅いところを見に行っただけだ」
フェイは獣の頭のところにしゃがんだ。外套の裾を土から浮かせておいて、剣の先で獣の唇を上へ持ち上げる。
「口を見ろ」
ニコが手を止めて覗いた。
「牙が」
「これは狼じゃない。大牙だ」
聞いたことのない名だった。
フェイは剣の先を外してから続けた。下の牙が、唇を戻しても外へ出たままになっている。
「ギルドのランクで言えばDだ」
「Dって、低い方ですよね」
ニコが言った。
「一匹なら大人が一人で足りる。低い」
「低いのに、こっちは腕を一本やられてます」
「低いから群れる。群れる物は数で来る。数で来られたらランクは何の役にも立たん」
副長は帳面を拾って土を払っていた。払ってから開いて、書いた。
書きながら、書いている中身を口に出した。
「四匹。昼。街道口。大牙」
書き終えて顔を上げた。
「団長。一昨日の馬もこいつらの仕業ですか」
「縄の端だけ切って持っていくのは犬の食い方じゃない」
「昨日は狼で書きました。書き直します」
「書き直せ」
「団長。こいつら、なんで下りてきたんですか」
「今は考えん。考えても今日の分は減らん」
フェイは立ち上がって、杣道の方を見た。長く見なかった。見て、それだけで足りたという顔で戻ってきた。
「明日、川を渡る。人を出す」
「猟師の小屋までですか」
「そこまでだ。物が見えた」
北の丘陵へ入ったきり下りてこない猟師が二人いる。前の市の日から数えて、今日で七日だ。
「ギルドへは」
「板に出せ。獣はあっちの仕事だ」
あっち、というのはガルドたちのことだ。
フェイはそれからこちらへ来た。鉄剣の先を見て、それからレインの手を見た。
「怪我は」
「ねえよ」
「見せろ」
手を出した。甲に土がついているだけだ。フェイは手首を上から下まで一度だけ触って、それで放した。
「怪我を隠したらその日で終いだと言ったのは俺だ」
「隠してねえ」
「なら今日はそれでいい」
振ったことには触れない。入ったことにも触れない。
触れられなかった分が腕に残る。
――――――――――――――――――――
町の方から人が来はじめた。
荷車の輪が止まったままなのが町の側から見えるからだ。先に来たのは男が三人で、その後ろからハンナが小走りで来る。
ハンナは大牙を見た。見てから一度こちらを見た。
「毎年」
そこで止まった。
続きは出てこない。誰も後を継がない。男の一人が土に手をついて、大牙の前足の太さを自分の腕と並べて見ていた。
毎年一度はあるんだよ、と今日この人は言わなかった。町へ帰ってから言うかどうかは分からない。ただ、今この場所では言わなかった。
「北の猟師は」
ハンナが言った。荷車の方でも誰かが同じことを言っている。
答える者はいない。副長は帳面を閉じただけだった。
昨日まではそのうち下りてくる話だった。
副長が荷方の男の前に立った。
「荷は明日にしろ。今日は宿へ戻せ」
「明日も出ねえ」
「出ないのか」
「峠が閉まるまでは日がある。日があるうちは俺は生きてる方を選ぶよ」
男は自分の馬の方を見ていた。生きている二頭ではなく、動かない一頭の方だ。
「値は」
副長が帳面を開いて言った。
昨日この男は詰所へ文句を言いに来て、帰り際に馬の値をもう一度言って帰ったそうだ。今朝、裏で若い衆がその話をしていた。
今日は聞かれてからも出てこない。
「……いい」
――――――――――――――――――――
日が傾いてから町へ戻った。
ガイは広場のところで別れた。別れ際にひびの入った木剣を一度こちらへ見せて、それから何も言わずに詰所の方へ曲がっていった。
広場に子どもはいない。日が落ちたら広場から北は歩かせるな、と決まったのは昨日だ。決まりは子どもの足より早く町を回る。
去年の冬、ガルドたちが街道へ出ているあいだ、自分は家で薪を割っていた。
次に何かあった時に薪割ってたくねえ。夏の終わりにガルドへそう言った。
今日は割っていない。
それで済んだ形になるとは思わない。片づけたのは大人で、こちらへ来たのは四匹のうちの一匹だ。
鉄剣を提げ直した。鞘へ入れる前に拭かないといけない。拭く布は家にある。
手首の重さが、歩くたびに一度ずつ上がってくる。




