第七話
朝の市場通りは荷より霜の方が先に来ている。
台の脚の影にはまだ霜が残っている。日の当たるところは溶けて土が湿り、そこだけ色が濃い。雪はまだ来ていない。来る前に霜の方が毎朝厚くなる。
ガイは木剣を担ぐ手を持ち替えた。柄の革が朝は硬い。昼になれば手の温さで戻る。
振ってきた帰りだ。数は決めていない。決めると足りた気になる日があるし、決めないと足りない日がある。どちらにしても親父は見ていない。
今朝も三度目でつまずいた。
右から入って、当たる手前で手首を返して左へ抜く。ここまでは出る。返した勢いをそのまま使ってもう一度右へ振り直すのが三度目だ。そこで足がついてこない。前へ出した足を引く間がない。剣だけが先に行って体が置いていかれる。
使えるのは去年と同じ二度までだ。三度目をやった回数だけが増えて、出せた回数は増えない。
肉屋の前で足が止まった。
石の台に何も載っていない。冷却石は夏の終わりに仕舞われて、台だけが残っている。使わない日に出しておくと式が減って、刻み直しに金がかかる。
「今日はねえのか」
「北のが下りてこねえんだよ」
肉屋の親父は空の台を布で拭いていた。拭く物がなくても拭く。
「二人ともか」
「二人ともだ」
前の市の日も台は空だった。あれから六日たっている。
北の丘陵には猟師の小屋がいくつかある。夏のあいだは兎で、寒くなると鹿が下りてくる。下りてきた鹿を追って人も下りてくる。それがこの時期の順番のはずだ。
軒の下からハンナが出てきた。前掛けで手を拭きながら台を覗いて、無いのを見てから口を開く。
「あら。じゃあ今日は豆だね」
「豆はヨナスんとこだ」
「知ってるよ。言ってみただけさ」
ハンナは笑って、それから台の空いているのをもう一度見た。
「毎年一度はあるんだよ、これ。山で酔って寝てんのさ」
「山に酒はねえよ」
「じゃあ狼だろ。狼なんてどこにでもいる」
「猪じゃないの。うちの畑は毎年やられるよ」
通りかかった女の人が横から言った。
「猪は人を追わねえよ」
肉屋の親父は否定しない。布の動く速さも変わらない。
毎年ある、と言う人は毎年言う。去年もこの人は同じことを言った。去年は三日で下りてきた。
「あんた、笑わないねえ」
「面白くねえよ」
「そうかい。狼が出たらさ、あの子に凍らせてもらえばいいんだよ」
その女の人が声を上げて笑った。ハンナも笑った。
前は賊だった。去年の冬の街道の賊をアシュが凍らせた、という噂から出た冗談だ。今は狼になっている。頼み先だけが同じところに残って、頼む中身の方が入れ替わっていく。
ガイは笑わなかった。
町の人は笑える。町の人は塔のある坂を下から見ているだけだ。ガイも上まで行ったことはない。ただ、あいつが毎日その坂を上っていることは知っている。字を習っているというのも聞いている。
笑うには知っていることが一つ多い。
豆はヨナスの台で買った。
一掬いを筵の上の器へ移して、金は台へ置く。ヨナスは器を持ち上げてから手を止めた。
「北の二人な」
「うん」
「峠が閉まる前は、みんな一度はああ言うんだ」
ヨナスはそこで器をこちらへ寄せた。足したりはしない。
「今年は言うのが早い」
それだけ言って、次の客の方を向いた。
早い、というのは去年と比べた言い方だ。この人は毎年台の前に立って、毎年同じ話を聞いている。聞いた回数の分だけ、今年がどこにいるかが分かるらしい。
――――――――――――――――――――
広場へ出るとアシュがいた。井戸の縁に木剣を立てて、桶の縄を巻き直している。
「やるか」
「一本だけ。使いの途中だから」
一本で終わったためしがない。
浅い一段目を出して、受けられたところから内側へ返す。二段目は入る。入るところまでは夏と同じだ。
三度目の切り替えで木剣の先が土を掠めた。足が半分残っている。残った足の分だけ体が遅れる。
「今の、足」
「知ってる」
「知ってて出る」
「出るんだよ」
アシュは笑わない。人の悪いところを言う時に、この友達は言い方を柔らかくしない。柔らかくしない代わりに二度言わない。
六本やって、木剣を下ろした。息が白い。
受けが重くなっている。木剣同士だと去年は跳ね返りが軽かった。今は当たった先が動かない。動かない物を打つと打った側の手に残る。
打ち終わりに手のひらを見た。指の付け根の皮が厚い。厚くなったのは自分の振り方のせいだが、今日の分はこいつの受けのせいだ。
アシュが家の鉄剣をまだ振らせてもらえていないのは知っている。それでもこの受けはどこかで作られている。どこで作られているのかは聞いたことがない。
「なあ」
「なに」
肉屋の台の話をするつもりだった。台の話から狼の話になって、狼の話の先にさっきの笑い話がある。
並べ終えてから何を聞くつもりなのかが分からなくなった。
足が動かなかった。
半歩は知らない相手に使う。目の前にいるのは去年も一昨年も知っている顔だ。
「なんでもねえ。もう一本」
「一本って言った」
「言ったのは俺じゃねえ」
アシュは木剣を持ち直した。持ち直す前に一度だけこちらを見た。
見られたのは分かったが、見て何を確かめたのかは分からない。春に一度、この友達に言えないことがあると言われた。あれから半年たって、家の様子を聞くのはやめている。
聞かないと決めたわけではない。聞く用が来ないだけだ。
――――――――――――――――――――
昼過ぎに詰所へ寄った。
表の間の戸は開けたままだ。土間に筵が二枚敷いてあって、片方に留め金の外れた腕当てが並べてある。
カスパルさんはいつもの場所にいつもの向きで座っていた。ガイが覚えているかぎり、この人はずっとその場所にいる。膝が悪くて外へは出ないが、誰が何を持って帰ったかはこの人が先に知る。
ニコが街道口から戻ってきた。息が上がっている。
「団長。荷方の馬が一頭やられました」
「いつだ」
「昨日の夜です。街道口の外れに繋いだままで」
親父は革の帯を膝から下ろした。
「縄は」
「杭に残ってました。端が食い切られてます」
副長が帳面から目を上げずに聞いた。
「何頭繋いであった」
「四頭です」
「持っていかれたのは一頭だな」
「一頭です。跡は北の杣道の方へ折れてました」
ガイは戸口の柱に背中を預けたまま、今のやりとりを頭の中で置き直した。
ほかの馬は残っている。腹を満たすだけなら一頭で足りたということだ。足りたのならまた来る時も一頭でいい。
「団長。行商の話も同じ向きです」
「先月からだ」と副長が言った。「馬が嫌がる、だったな」
「それです」
カスパルさんが座ったまま口を開いた。
「猟師は自分の足で帰ってくる。馬は自分では帰ってこない。何かが連れていったんだ」
それだけだった。誰も返事をしない。
返す言葉がないからではない。この人の言うことに返事をすると長くなるからだ。
戸口の外で声がした。
馬をやられた荷方だ。中へは入らない。土間の手前で外套の裾を払っている。
「見回りは通ってたのかい」
「通っていた」
「通っててこれかよ」
「そうだ」
親父は言い訳をしない。言い訳をしないと相手はたいてい二度目が言えなくなる。
「峠はまだ開いてる。明日には出るんだ。残りの三頭が減ったら荷が積めねえ」
「今夜は繋ぐな。宿の内へ入れろ」
「入れる場所には金がかかるんだよ」
「馬一頭よりは安い」
男は鼻を鳴らして、それから声の調子を戻した。
「熊か猪だろ。冬の前は毎年だ」
毎年だ、と男も言った。また同じ言い方だ。
言う人は別々のところにいる。続けて聞くと、聞いている方もそう言いそうになる。
男は帰っていった。帰り際に馬の値だけもう一度言った。値まで言うなら勘定はもう済んでいる。
親父は立ち上がって、壁の当番表の前に立った。指が上から下へ落ちて、途中で止まる。
「北の見回りを二人にする。今夜からだ」
「一人ずつでした」
「二人だ。川までにしておけ。渡るな」
「わかりました」
副長が言った。
「猟師は」
「下の家に人をやりました。身内は待つと言ってます」
「なら待て」
「探しに行かねえのかよ」
言ってすぐ聞く相手を間違えたと思った。ニコがこちらを見ないようにしている。
「行けば人が減る」と親父は言った。「減らすのは物が見えてからだ」
物が見えていない。
縄の端。跡の向き。六日。それだけで何が来ているかは決まらない。決まらないうちに川を渡ればその人数の分だけこっちが薄くなる。
薄くなるという言い方は親父のではない。稽古で自分の体が教えたことだ。片側へ寄せた足の分だけ、反対側が空く。
副長は帳面に線を引いて、書き足すのに少し時間をかけた。人を動かせば別のところが空く。空いた分をどこから持ってくるかを、この人はいつも書きながら決める。
「団長。日暮れの広場は」
「日が落ちたら広場から北は歩かせるな。子どもは家へ入れろ」
ガイは柱から背中を離した。
「なんかいるのかよ」
「分からん」
「分からねえのに増やすのか」
「妙だと思ったからだ」
親父はこちらを見ずに言った。当番表の紙に指を当てたままだ。
妙だと思ったら先に半歩下がれ。理由は下がってから考えればいい。去年の秋にそう言われた。
こっちに言うためだけの言葉ではなかったらしい。
「親父」
「なんだ」
「鉄は」
「まだだ」
理由は今日も出てこない。出てこないのはいつものことだが、狼の話をしている日に言われると去年とは違う音に聞こえる。獣が出るなら持たせる物の方が増えるはずだ。増えないなら増えない理由が別にある。
聞いてももう一度まだだと言われるだけだ。
――――――――――――――――――――
裏へ回ると木の棒が土を打つ音が続いていた。同じ間で続いて、途中で一度だけ乱れる。
レインだ。夏の終わりから通っている。混ぜとくだけで団に入る話ではない、と親父が言っているのをその日に聞いた。
若いのが二人ついていた。片方が棒を寝かせて突き出す。レインは受けずに外へ流して、流した先へ半歩入る。入ったところで相手が下がる。下がられると次がない。
「レイン」
レインは棒を下ろして、袖で顎を拭いた。
「見てたのか」
「音でわかるよ。ここは土が固いから鳴るんだ」
夏の終わりにも同じことを聞かれた。あの時は裏へ抜ける戸が開いていて、通りから中が見えていた。今度は音しかない。
音だけでも誰が振っているかは途中で分かる。
「二人になるんだってな。見回り」
「聞いたのかよ」
「中で言ってた」
レインは棒を肩へ担ぎ直した。汗をかいた後の顔で、これから帰るという顔をしていない。
「お前も稽古混ぜてもらえよ。夏に言いかけてやめただろ」
夏の終わりだ。レインが自分から親父のところへ来た。あの日ガイも言いかけて途中でやめている。
「言わねえ」
「なんで」
「俺が言うと親父が困る」
レインはそれ以上聞かなかった。聞かずに棒を若いのへ返して、井戸の方へ歩いていく。
混ざれる者と混ざれない者の違いは背丈だけではない。レインの親父はここの人間ではない。だから頼めるし、断られても家に何も残らない。
ガイが頼めば断る側にも受ける側にも親父が立つ。
――――――――――――――――――――
夕方の広場は、いつもより早く人が引いた。
団の若いのが二人、井戸のあたりを通って、子どもの数を目で数えてから北へ歩いていった。数えているのは分かったが、子どもの方は誰も気づいていない。
テオが石を蹴って遊んでいた。蹴った石が転がって、井戸の石組みに当たって止まる。
広場の子ども仲間だ。あの商人が町にいた頃は、飴をいちばん先にもらいに行く側にいた。都の話を、自分が見てきたみたいに年下へ喋り直す。
「ガイ、明日やろうぜ」
「明日は分かんねえ」
「なんで」
「用がある」
用はない。用があると言えばテオはそれ以上聞かない。
「なあ、北で人が食われたって本当かよ」
「誰から聞いた」
「知らねえ。みんな言ってる」
「みんなって誰だよ」
「みんなだろ」
テオは名前を言わない。誰かが言ったのを誰かから聞いた、で済ませている。
肉屋の台が空いた話が、半日で人の食われた話になっている。減ったのは馬が一頭で、人はまだ下りてきていないだけだ。
言い直そうとしてやめた。言い直せばテオはもっと面白がる。
知っていることはほかにもある。荷方の馬が一頭やられた。猟師が六日下りてこない。当番が二人になった。
どれも言っていい話かどうかをガイは決められない。決められないものは言わない。あの商人の飴を断った理由を、親父のほかには言っていないのと同じだ。
テオは次の石を見つけて、そっちを蹴りに行った。
家に戻ると親父は外套を肩に掛けるところだった。剣を取った。
「出るのか」
「一回りしてくる」
「当番じゃねえだろ」
「そうだな」
親父は戸口で足を止めて、それから思い出したように言った。
「戸を閉めておけ。閂もだ」
「うちに何が来るんだよ」
「来ん。来んと思っとる時に閉めておくもんだ」
戸が閉まった。外の土は霜で硬い。硬い日は足音がよく通る。それなのに途中で聞こえなくなった。
ガイは椀を二つ並べて、自分の分だけ食った。
食い終わってから外へ出た。閂は掛けなかった。掛けるのは寝る前でいい。
庭で一度だけ振った。
一段目、二段目、三度目。三度目でまた足が残る。残った足を先に動かそうとすると今度は木剣の方が置いていかれる。どちらかが先に行けばどちらかが遅れる。親父はそれを二度で決めろと言う。
二度で決められる相手なら二度でいい。三度目の要る相手がどこかにいるから抜けないのだと思う。
息を整えてから北の方を向いた。
風は北から来ている。荷車の音がしない。供出の荷はもう出きって、街道へ出ていく物が減った。
ガイは半歩下がった。
下がった分だけ、見る時間ができる。
見えたのは低い雲だけだった。




