第六話
「――だからさ、今度賊が出たらあの子に頼めばいいんだよ」
笑い声が二つ重なった。
通りの角、樽を並べた店の先でマレンが連れの女の人と立ち話をしている。
仕立て屋のマレンだ。繕いはどの家も自分でやるが、革物や外套の厚物になるとみんなこの人のところへ持っていく。手首にいつも革の針刺しを着けていて、顔より先にそっちで分かる。
連れの人の顔は知らない。
「やだ。あんた、本気で言ってんの」
「本気なもんかね。……でもさ、あの子、毎日あの坂の上の塔へ通ってんのよ」
「……ああ、あそこの」
「字を習ってるんだとさ」
連れの人は今度はすぐに笑わなかった。笑うまでに間があった。
アシュは歩く速さを変えなかった。
マレンがこちらに気づいて、口の前に手を当てた。当てたまま笑っている。
「やだ。聞こえてた?」
「はい」
「冗談よ、冗談。怒らないでよ」
「怒っていません」
「ほんとにねえ。大きくなったこと」
それで話は終わって、二人は続きへ戻っていった。
あの子かい、と連れの人が小さく言うのが背中に聞こえた。あの子だよ、塔の、と返す声は少しも小さくない。
怒っていないのは本当だ。返事をしながら、アシュは別のことをしていた。
名前を一つ覚えた。今日の分だ。
母の使いを一つ済ませた帰りで手は空いている。ここから塔までは上りだけだ。
市場通りは屋台が減って、そのぶん荷車が増えている。供出の荷が街道へ出ていく季節だ。台に並んでいる物より、縄を掛けられて通り過ぎていく物の方が多い。荷が増えると父の仕事も増える。刈り入れが終わると街道はまた父を連れていく。
角には薪売りの荷車が停まって、束を下ろしていた。今年は乾きがいい、と売りの男が買い手に言っている。夏の暑かった年は薪がよく乾くらしい。冬の匂いのする商いから順に増えていく。
井戸端に人はいない。立ち話をするには水のそばはもう寒い。
賊の話は、刈り入れの頃より減った。
減って、言われ方が変わった。
前は、やってみろ、だった。今は、頼めばいい、になっている。
もう一つ変わった。話に塔が付くようになった。
アシュが毎日坂を上っているのは町の誰もが知っている。字を習っているのも知られている。どちらも本当だ。ただ、塔の中を見たことのある人は町にいない。見たことのない場所はどんな話でも入れられる器になる。
本当の話が一つ付くと笑うまでに間ができる。間のできた話は流れにくい。
十日ほど前には峠の雪もあの子に頼めば早く来るだろう、と言った人がいた。その人の名前も、その日のうちに父へ言ってある。
誰も本気にしていないのは前と同じだ。本気にしないまま、冗談の頭数にアシュが入っている。入れた覚えは言った側にもたぶんない。
頼まれた覚えもこちらにはない。頼まれていない仕事の数だけが先に増えていく。
――――――――――――――――――――
坂の上り口で、町の音が背中へ回る。
半分から上は風の音だけになる。夏に蝉だった場所が、今は乾いた葉の音に替わっていた。落ち葉は坂の低いところへ寄って、踏むと足の下で鳴る。
霜はまだ日陰にしか残らない。日向の土は乾いて白い。あとひと月もすればこの坂は上りより下りの方が難しくなる。
塔の戸は閉まっていた。開けると中の空気が外より少し暖かい。竈に火の入る季節になっている。
高窓の光は床を離れて、壁の途中まで上がっていた。夏に床の真ん中にあった四角だ。日ごとに壁を上っていって、いちばん寒い頃には棚の高さまで行く。高窓には夜のあいだ窓の板を立てるようになったらしく、朝に外した窓の板が壁際に立てかけてある。
戸の内側には筵が二枚、丸めて立ててあった。雪の日に戸口へ吊る物だ。この人の冬支度はアシュの知らないところで進んでいる。
桶の前に膝をつく。
膝の下には藁を一枚敷くようになった。石の床が冷たくなると冷たさの方へ気が行く。藁が一枚あるだけでそれが消える。
桶を回して置くようになって、二十日になる。
目印は箍の継ぎ目だ。毎日、指四本ぶんずつ回す。
回した次の日、薄いところは桶についていかなかった。手前に残った。覚えていたのは桶ではなく手の方だ。どちらのせいかは三日で見えた。
見えてから直るまでの方が長い。避けていると分かった後も手は避けた。分かった上で同じ厚さを置き続けて、縁が揃うまでが二十日。前より時間がかかるだけだ、と言われたとおりの長さになった。
一度目を送る。
幅で持って、息と一緒に送る。端から白が壁を伝って下り、底へ広がって、真ん中で止まる。
縁は同じ速さで汗をかく。先に濡れる場所はもうない。
真ん中の残りは指の幅一つ。夏の半分だ。
「真ん中は」
「指一つです」
「そうか」
ゼドルは椅子から見ただけで桶のそばへは来なかった。来ない日は、直す物がない日だ。
「回すのは続けとるか」
「続けています。箍の継ぎ目で数えています」
「なら明日から戻せ。置き場所も元のままでいい」
「直ったんですか」
「直ったかどうかは戻してから分かる」
戻した桶で縁が揃えば直っている。揃わなければ直っていたのは回しているあいだだけになる。
回して見えた物は、戻して確かめる。確かめの形まで先に決まっている。そこまでがひとつの稽古らしい。
「ゼドルさん」
「なんだ」
「桶が終わったら新しい形の話でした」
「そうだ」
「終わりは真ん中が消えた日ですか」
「儂が終いと言った日だ」
桶の終いもこの人が持っている。
いつ、とは聞かなかった。聞いた先の返事は分かっている。
新しい形が何なのかも聞いていない。聞いても言わないし、言われれば今日から桶より新しい形の方を考える。それくらいは自分でも分かるようになった。
二度目を送った。
一度目より手が早く動いて、端の白が厚くなった。真ん中へ届く前に、入り口で使いすぎている。
「今日は手が急いどる」
「……はい」
「誰に見せる氷だ」
「誰にも見せません」
「なら急ぐ用はない。桶に客はおらん」
できねえんだよ、と言った声を、手の方がまだ覚えていたらしい。
広場の子どもは四人で、言ったのはそのうちの二人だ。それはあの日のうちに父へ言ってある。言っても手には残るらしい。一度覚えた形が抜けるまでには時間がかかる。縁も手も、同じ決まりで動いている。
三度目は急ぎを一つ置いてから送った。
端は薄く、底は同じ厚さ。真ん中の白は指の幅一つの内側で止まって、それより先へは減らない。
減らない分を見つめても減らない。そこは桶も噂も同じだ。
水を捨てる前に一度傾ける。真ん中の残りが縁へ寄って、氷の下で水の動く音がする。この音は夏より低い。水が冷たくなると音まで変わる。
石板を出して、印を四つ写した。
このごろ、写し終えた線の継ぎ目が自分でも見つけられない。引き始めた場所を、閉じたあとの印は教えてくれない。始めた場所が消えるのが、閉じるということらしい。
「継ぎ目が、分からなくなりました」
「なら写しに近づいとる」
写した四つを床に並べるとゼドルが上から順に見ていった。
「どれが最初だ」
「……分かりません」
「なら今日は四つとも写しだ」
同じに書けた日は、どれが先だったかが消える。消えることが褒め言葉になる稽古は、これが初めてかもしれない。
稽古の終いに裏手の薪を中へ運んだ。
夏のあいだに割って積んであった物だ。雪が来ると裏手へ回るだけでひと仕事になる。入るだけ先に入れておく。
薪は乾いて軽い。軽いぶん数がある。塔の中の段は狭いので一度に多く抱えると足元が見えなくなる。多く持たない方が結局早い。慌てた者は要る分より多く集める、と教わったのは魔法に使うアニマの話だったが、薪でも同じことが起きる。
三度目の束を竈の脇へ下ろしたところでアシュは手を止めずに聞いた。
「冬のあいだも、ここにいるんですね」
「降りん」
老人は石板を膝に載せたまま動かない。
「前に言った」
「はい」
用のない年寄りが降りると、それだけで用があることになる。動く先がなければ動かない。どちらも前に聞いている。
一度だけ、この人が坂の下に立っているのを見たことがある。
攫われて、沢で朝になった日だ。あの朝のことは切れ切れにしか覚えていない。視界が灰色で音が遠かった。それでも山を下りてきた足で皆の前に立っていたことだけは覚えている。あの日、この人には動く先があった。
先ができれば山を一つ越えてでも来る。同じ一つの決まりを、表と裏から言っているだけだ。
「一昨年は、沢まで来ました」
「用があった」
「先ができたら次も来ますか」
「聞くまでもないことを聞くな」
「困りませんか。冬のあいだ、出ないで」
「困る用は向こうが困っとる用だ。困っとる方が上って来る」
「僕もその一人ですか」
「お前は困っとらんだろう」
「……桶の真ん中が」
「それは困っとるとは言わん」
老人は石板を棚へ戻した。
「先は、どうやってできるんですか」
「できてから分かる」
「分からないうちにできていることもありますか」
「あるだろうな。分かっとったら先に手を打っとる」
薪を積み終えると竈の脇は壁の半分まで埋まった。割り口はまだ夏の匂いがする。冬をここで越す匂いだ。
坂の上では賊の話はあれきり出ない。老人は聞かない。アシュも、あの日の一度きりで持って上がらなくなった。それで、どちらからも出ない話になっている。
この場所でだけ、アシュの名前はまだ誰にも数えられていない。
それが楽な日と、桶の真ん中ばかり見てしまう日がある。今日は両方だった。
「帰ります」
「ああ」
戸口を出たところで後ろから声が来た。
「桶が終わる頃には雪が来とる」
「はい」
「雪の深い日は来んでいい。来るなら坂で転ぶな。坂の雪を儂は掻かん」
「はい」
「急いどるうちは終わらん」
頭を下げて、坂を下りた。
下りの半分で町の音が戻ってくる。荷車の重い音だ。音まで冬の支度をしている。
詰所の裏の方からは木の棒の音がした。鳴って、止んで、また鳴る。誰の音かは分からない。分からなくても振っている音だということは分かる。
――――――――――――――――――――
広場の隅で、子どもが三人、鬼ごっこの続きのような遊びをしていた。
鬼が触ると、触られた子はその場で固まって動けなくなる決まりらしい。固まった子は、残りの子が触ると動けるようになる。凍った、と鬼が言い、溶けた、と動けるようになった子が言う。
鬼の子は両手を前に出して、口の中で何か節をつけていた。節は出まかせだ。それらしく聞こえれば遊びには足りる。
誰の名前も出ていない。三人ともこちらには気づかない。知らない顔だ。あの日、広場で棒を持って走っていた四人の誰でもない。口から口で来た話は、アシュの顔を知らない子のところまで行っている。
遊びになった話にはもう名前が要らないらしい。
覚えて帰る名前は増えなかった。数えられない物だけが増えた。
家に着くと庭の果樹は葉を落としきっていた。枝の先に取り残しの赤い実が二つ、日暮れ前の光の中で色だけ濃い。
父は土間にいて、荷紐を巻き直していた。明日の仕事の支度だ。
「父さん。今日、通りで聞きました」
「言え」
「マレンさんです。連れの人は聞く側だったので、数に入れていません」
「そうか」
「もう一つあります。話に塔が付くようになりました。僕が字を習いに通っている、という方の話です」
「本当の話が混ざったか」
「はい。笑うまでに間ができていました」
「その分だけ長く残る」
それ以上は言わなかった。
父は名前を聞いて、中身は聞かない。聞いた名前をどこへ仕舞っているのかも言わない。
「広場で、遊びになっていました。それも言った方がいいですか」
「誰かの口から出たか」
「遊びの中だけです。誰の名前も出ていません」
「なら要らん」
紐の端を留めてから父は一度だけこちらを見た。
「名前は、いくつ集まったら終いですか」
「終いは俺が決める」
「はい」
桶の終いはゼドルが持っている。名前の終いは父が持っている。
アシュが持っているのは拭く手と汲む手と覚えて帰る耳だ。どれ一つ、終いを自分では決められない。
夕餉の前に兄が戻った。手の甲に擦り傷がある。母が口を開く前に、自分から手の甲を出して見せた。
「転んだだけだ。詰所で言ってある」
「見せに来たならいいのよ」
母は傷を一目だけ見て、それ以上は触らなかった。膝の脇には繕い物の山がある。冬の前は針の仕事が積み上がる。
兄は振って、擦り傷を作って帰ってくる。アシュは今日も拭いただけだ。振る許可も新しい形も、まだ人の手の中にある。
「アシュ。朝の水瓶、氷が張り始めたら言えよ」
「割るくらいはできます」
「薄いうちはな。厚くなったら俺がやる。素手で割ると手ぇ切るんだよ」
兄がどこでそれを覚えたのかは聞かなかった。氷の話を、この家では誰もアシュに振らない。振らないまま、水瓶の心配だけが先に来る。
夕餉の卓で、父は明日の荷のことを短く母に話した。行き先までは言わない。母も聞かない。聞かないやりとりがこの卓に増えたのは秋に入ってからだ。増えた分がどんな中身なのかを、アシュはまだ知らない。
リアはアシュの隣にいた。椀が空くと袖を引いてくる。
「あしゅ、て」
「なに」
リアはアシュの手を両手で引き寄せて、鼻を近づけた。
「まき」
「そう。薪」
「まき、におい」
塔で運んだ匂いが残っていたらしい。いつ覚えた言葉なのかは誰も知らない。教えると覚えない。教えないところで勝手に覚えてくる。
覚える先を、この子は自分で決めている。この家でそれができるのは今のところ妹だけだ。
リアはもう一度、まき、と言って、満足すると母の膝の方へ戻っていった。




