第五話
白い糸が、底を突いていた。
巻きに残っているのは指の先ほどの分だけだ。繕い台にはまだ当て布前の物が三枚並んでいる。フェイの上着、レインの稽古着、それにガルドの肌着――刈り入れがすんで、繕いに回す服がまとめて出てくる時期になった。針を持つ手はこの十日、休む間がない。
ミラは糸巻きを窓の光にかざしてみた。足りない。今日のうちに市場で足すしかない。
当て布に使う分と合わせて、足りない分を頭の中で足す。要るのは白が二巻き。数えるのは得意な方だ。
繕い台の脇には冬支度の覚え書きがある。書いたのはガルドだ。品の名は読めないが、その横に並んだ数だけは読める。字と数は別の形をしていて、覚えたのは数の方だけだった。
もっとも紙を見に戻ることはない。端切れも油も薪も、いくつあるかは頭の中にある。
土間ではアシュが鉄剣の柄を布で拭いていた。塔へ上がる前の一仕事だ。拭き終えると掛け直して、また真っ直ぐにならないところを指で押さえる。
「行ってきます」
「気をつけてね」
レインはとうに詰所へ出ている。今日は朝稽古の番だと言っていた。
戸が閉まる音を聞いてからミラは糸巻きを籠へ入れた。
入れ違いに居間の戸が鳴って、ライナが顔を出した。ガルドの組で斧を持つ人で、この家には断りなしに上がる。
「ミラさん、いる?」
「あら、早いのね」
「詰所の帰り。フェイさんから預かり物」
差し出されたのは油紙の包みだった。詰所で上着を入れ替えたときに出た端切れだ。使えるところだけを切って寄越すのがフェイのやり方で、これで三度目になる。
「フェイさん、忙しそうだった?」
「相変わらず。今日は北の見回りの番だって」
「北の見回り? 珍しいわね」
「たまに交代であるんだよ。詰所の決まりで」
珍しくはない話のはずだった。それでもその一言だけが残った。
「ちょうどよかったわ。あんた、今日は暇?」
「暇っちゃ暇だけど。……何」
「町まで一緒に来て。荷物持ちがいるの」
ライナは肩をすくめただけで断らなかった。
土間ではリアが敷居に座って、靴紐と格闘していた。ガルドが出がけに一度結び直した紐はいつもより固い。
「まんま」
「父さんはもう出たわ」
「なんで?」
「仕事だからよ」
「なんで?」
「さあ、どうしてかしらね」
答えになっていないのを分かっているのかリアはそれで満足した顔で紐に戻った。教えてやらないのがこの家のやり方だと誰に教わったわけでもないが、ミラも自然とそうしている。
外の空気はもう朝から冷たい。庭の果樹の葉が、昨日より黄色く色づいていた。刈り入れが終われば次は冬支度だ。
支度を終えて外へ出るとライナはもう先に立って歩き出していた。歩幅が大きい。荷物持ちと言った側が置いていかれそうになる。
路地を出たところで父のランドが酒場の前に樽を転がしているのが見えた。
「精が出るわね」
「刈り入れの後は運び込みが多い。お前も達者そうだな」
それだけで済ませて、また歩き出す。長居する用はない。
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広場の井戸端ではハンナが桶の縁に手をかけて待っていた。
「ミラさん、聞いた? 染物屋に新しい人が入ったんですって。数えるのが達者だとかで女将さん喜んでるらしいわよ」
「へえ」
「どこから来た人かは知らないけどね」
数えるのが達者な人。この町にそう多くはいない。
ギルド支部の前を通ると戸口が開いていた。帳場に見慣れない娘が座っている。歳はライナよりずっと若い。指で紙をなぞって、声に出して確かめている。まだこの仕事に慣れていない指の動きだった。
壁には依頼を貼り出す板がある。貼られた紙は数えるほどもない。右端の四角はまだ白いままだ。
ライナは足を止めない。ミラも黙って通り過ぎた。
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市場通りは刈り入れの前より人が戻っていた。屋台の数も元に近い。日差しはまだ強いが、風だけが先に変わっている。軒先に吊るした唐辛子の束が、去年より心持ち多い。
道の端には落ち葉が寄せられて小さな山になっていた。誰かが朝のうちに掃いた跡だ。
通りの角に見慣れない荷車が止まっていた。荷台に筵を掛け、その上に針と糸を並べた行商が座っている。小さなはさみ、鑑札の紐、色とりどりの糸玉。旅から旅へ運べる分だけを几帳面に並べてある。並べ方に迷いがない。長く同じ商いをしてきた手だ。
「白いのを、ひと巻き」
「はいよ。……ずいぶん繕い物の多いお宅だ。指を見りゃ分かります」
男は糸を選りながら、手を止めずに続けた。
「今年は北回りをやめました」
「あら、どうして」
「理由と言えるほどのもんじゃありません。荷馬が嫌がるんです。何度なだめてもあの道の手前で止まる。馬の言うことを聞いて損をしたことはこれまでありません」
男は糸玉を一つ寄せてから思い出したように足した。
「今年は鹿も出が悪いとか。北の猟師仲間がぼやいてました」
それだけ言って、また糸を数え始めた。
「遠回りだと荷は高くつくでしょう」
「そのぶんはこちらで削ります。馬の機嫌の方が金より高くつきますんで」
男は糸を渡しながら、ついでのように言い添えた。
「隣の町でもね、都へやった子の便りがしばらく途切れてるって聞きました。うちの女房の里がそっちなもんで」
「そう」
「珍しくはないんですがね。忙しけりゃ便りなんて来ないもんです」
似た話は去年もあった。ヤンの時がそうだった。行商の話とヤンのことが同じ筋かどうかは確かめようがない。
ミラは糸を巻き直す手を、一度だけ止めた。それから何事もなかったように手を動かした。止めた分は誰にも見えなかったはずだ。
金を筵の端に置いて荷車を離れる。手から手へは渡さない。この町ではそうする。
ヨナスは青菜の束を持ち上げたまま、こっちを見た。
「今日は精のつくのを持ってけ。刈り入れの後はどこも疲れが出る頃だ」
いつもより一束多い。ヨナスの目には疲れの出方まで見えているらしい。
通りの先へ抜けると日は高くなっていた。荷馬車が二台、すれ違うのに難儀している。刈り入れの荷は、まだ町を出入りしている最中だ。
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染めと端切れを扱う店は、市場の外れにある。行商の白は染めがやや黄ばんでいる。仕立て直しの当て布にはそれでいいが、上等な白はこの店でしか手に入らない。
女将は字が読めない。仕入れの覚え書きも品書きもこれまでは近所の子に頼んで書かせていた人だ。子どもは長くは続かない。読み書きを覚えるとすぐ館の使いに取られる。女将はその繰り返しに疲れていたところへ、この人が来た。
戸を開けると染めた布の匂いが先に来た。棚には端切れが色ごとに束ねてあり、束の一つ一つに小さな札が下がっている。色と、幅と、値。三つだけを書いた木の札だ。
勝手口の脇の台に誰か座っていた。
「いらっしゃい。……ああ、悪いね、ちょっと待ってて」
女将は手にした端切れを棚の縁へ置いて、勝手口の脇を振り返った。声には張りがある。
「ここの数、合ってる?」
「合ってます。三束と二束で五束」
「じゃあそれで書いといて」
棚の品書きの札を、ライナが何気なく手に取る。
札から目を離さない。
振り向いた先で、台に座っていた人がこちらを見ていた。
「……この字」
「……久しぶり」
薄い茶の髪を編んで巻き上げて、鼻の上にそばかすがある。前掛けの下から覗く手は、紙の上で止まったままだった。
ライナの声の止まり方で分かった。イルザ・ホフだ。ギルドの帳場から賊に荷の出る日を流していた人として、去年の冬にガルドから名前だけを聞いている。顔を見るのは今日が初めてだった。
ライナは札を持ったまま、腰掛けには座らなかった。
立ったまま、しばらく何も言わなかった。
「……ここにいたの」
「うん。数の合う人を探してるって聞いて」
「そう」
ミラは半歩下がって、棚の方を見ているふりをした。
「帳面と品書きだけ。店の物には手を出さない。それだけは約束したの」
イルザは筆を置いて、両手を膝の上で重ねた。指だけが、置いた筆の形のまま少し丸まっている。
「あんたが帳場に来た日を覚えてる。字が汚いって言われて半泣きだったのよ」
「よく覚えてんね、そんなこと」
「忘れる方が難しいわよ、あの泣き方は」
「十五年前の話でしょ」
「十五年」
イルザが繰り返した。
ミラも数えてみる。十五年前なら、アシュが生まれるより七年も前だ。
「もっと早く、来ればよかった」
「来なくてよかったのよ。すぐには」
「なんで」
「あんたの顔、見たら泣くと思ってたから」
「……泣かなかったじゃない」
「まだ、慣れてないだけ」
イルザは笑った。声は明るかった。
「元気そうで良かった」
「うん」
館がどう決めたのかを、ライナは聞かなかった。
聞かなくてもこの人がこの店に座っていること自体がもう答えになっている。
「帳場の頃は毎晩数字が合うか確かめてた。今は合わなかったらやり直せばいいだけ。楽になった」
あの晩ガルドが言った言葉を、ミラはまだ覚えている。背負った物は分けん。
去年の冬、この人の名前を館へ出したのはガルドだ。
出した側の女房が、出された側から糸を買っている。
口には出さない。
「白いの、あるかしら」
「あるわよ。……こっちの棚」
イルザは腰を上げて棚へ向かった。棚の位置を見ないで手が伸びる。ここへ来てまだ長くないはずなのに体の方が先に覚えている。
店の隅では別の客が反物を選んでいた。イルザはその客にも同じ調子で値を言っている。身なりで声の高さを変えない人だ。
棚から下ろした一巻きは頼んだより少し大きかった。
「多いわよ、これ」
「端が解れてるでしょう。解れた分は売り物に数えられないの。だから値は一巻きぶん」
解れているのは端の指一本ぶんだ。多い分はそれよりずっと多い。
勘定は合っていない。合っていない方へ寄せて言えるのが、数の合う人なのだと思った。
イルザが値を数えているあいだにライナが小さく言った。
「門の外で日が暮れるまで待ったんだよ」
「……聞いた」
「聞いたけど、何も言わないの」
「言えないの」
それだけだった。イルザは紙に値を書いてミラへ渡す。数字の並びに迷いはなかった。
ミラは礼を言わなかった。
礼を言えば、これはもらった物になる。もらった物なら、それで終わりだ。
女将が奥から出てきて、イルザの肩越しにその紙を覗いた。
「この人が来てから無くし物が減ってねえ」
「ええ」
女将は何も知らずに笑っている。それでいいのだとミラは思った。
ライナはまだ棚の札を握っていた。束から外したまま返す気配がない。
やがて自分で棚へ戻しにいって、紐を掛けるのに二度やり直した。
帰り際、イルザは棚の隅から小さな包みを出してライナへ差し出した。
「これ、持ってって。売り物にならない半端だから」
「……いらない」
「知ってる。それでも持ってって」
ライナは受け取って、何も言わずに懐へ入れた。
それから台の方を向いた。
「また来る」
「うん」
外へ出る前に、ライナは戸口の柱に一度だけ手を触れた。触れただけで何もそこには残さなかった。
店を出るとき、もう一度だけ振り返った。イルザは顔を上げなかった。
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帰り道、ライナはしばらく口を利かなかった。荷物を持つ手だけがいつもより強く籠を握っている。
「怒ってるの?」
「怒ってない。……ただ、思ってたのと違った」
「どう違ったの」
「もっとみじめな暮らしをしてると思ってた。見れば怒れると思ってた」
ライナは籠の縁を指でなぞった。
「怒れないとどうしたらいいか分からない」
ミラは何も返さなかった。籠を持ち替えて、歩く速さだけライナに合わせた。
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夕餉の卓でアシュが名前を三つ挙げた。どれもミラの知っている顔だった。ガルドは頷いただけだった。何と言われたかは聞かない。
「人から聞いた分は」
「入れてません。僕の耳が聞いた口だけです」
「そうか」
レインが顔を上げた。
「母さん、今日は町へ行った?」
「ええ、ライナと一緒に」
「珍しいね」
「たまにはね」
それ以上は聞かれなかった。ガルドは椀を持ち上げただけで行き先までは聞いてこない。
レインは詰所の話を今日は出さなかった。黙って椀を空けている。
代わりにミラが聞いた。
「フェイさんは今日、北の見回りだったって?」
「らしいな。持ち回りだ」
それだけでレインもそれ以上は続けなかった。
リアが自分の椀を押して「まんま」と言った。
「まだあるぞ」
欲しいのはそれではないらしい。リアはもう一度同じことを言って、ガルドは汁を足してやった。
この子はまだガルドを名前で呼ばない。それでもこの人は毎度きちんと返事をする。
卓の下でリアの足がガルドの脛を蹴っていた。悪気はない。ただ足が届くようになっただけだ。ガルドは何も言わずに位置をずらした。
ミラは卓の向かいでガルドを見た。三年のあいだ背負うと決めた分を、子どもたちはまだ何も知らない。
分けない、とこの人は言った。分けなくていい、とミラは返した。
あの晩からまだ何も変わっていない。変わらないまま日だけが過ぎていく。
リアの靴紐は、結局その日のうちにもう一度ほどけた。今度はレインが結び直した。
買ってきた白い糸を、竈の脇の籠に仕舞う。明日からまた繕い物に戻る。
いつかライナがこの店の戸をまた開ける日が来るのかどうかはまだ分からない。
片づけを終えて、繕い箱の底に店でもらった紙をしまった。
書いてあるのは糸の名と値だけだ。値は読める。名の方は、字の形しか分からない。
横棒の終わりが、少し上がっている。指でなぞるとそこだけ墨が厚く残っていた。




