第四話
朝から、麦を打つ音がしていた。
町の外れの脱穀場から上がってくる音だ。広げた麦の束を殻竿で叩いている。長い柄の先に打つところが革一枚で繋いであって、振り下ろすと先だけが遅れて落ちる。その遅れの分だけ音が重い。
当たって、間を置いて、また当たる。打ち手が替わると間の取り方が変わる。今朝はもう三度替わった。
刈り入れの十日は町の音が入れ替わる。市場のざわめきが薄くなって、代わりにこの音が朝から日暮れまで鳴っている。
井戸端には誰もいなかった。
水を汲むのは夏の終わりからアシュの仕事だ。兄の朝が詰所へ行ってしまったのでそのぶんがこちらへ回ってきた。桶に二杯を三度運ぶ。三度目の帰りだけ、腕が最後の十歩をいやがる。
人のいない井戸端は音が高い。釣瓶の軋みが向かいの壁に当たって返ってくる。誰かが並んでいる日にこの音が聞こえたことはない。
水瓶へ移して、蓋を戻した。
それから土間の掛け棒の下に立つ。
いちばん上に鉄剣が掛かっている。
布は白い方を使う。父がどちらを使っていたかは夏のうちに一度だけ確かめた。油は薄く引く。厚く引いた日に埃が来たのでそれきり薄くしている。
拭き終えてから掛け直す。下ろすより載せる方が難しい。重さは下へ落ちたがるので腕ではなく背中で支えて、受けの細いところへ滑らせる。今朝も真っ直ぐにはならなかった。柄の側が指の幅ひとつぶん手前へ出ている。
振るのはまだだ。拭く手と振る手は別だと言われている。今のところアシュが持っているのは拭く手の方だけになる。
腕当ての紐は夏の終わりに母が付け替えた。前より長い。長い分を余らせて巻くと朝のうちは少しだけ手首が重い。
居間では母が繕い物をしていた。刈り入れの前から繕いが増える。畑へ出る人は袖と膝が同じ場所から破けるからだ。
「母さん、市場は」
「行っておいで。塩と、油を少し。ハンナさんとこに預けてある洗い物も持って帰ってちょうだい」
「はい」
「重かったら二度に分けるのよ。無理して片手にすると零すわ」
リアが敷居の内側から出てきて、アシュの膝に手をかけた。
「あしゅ」
「行ってくる」
「なんで?」
「塩がいるから」
「なんで?」
答えると次が来る。増やすと増える。この妹の相手は水を汲むのと似ていて、汲んだ分だけ減るということがない。
――――――――――――――――――――
市場は屋台が半分だった。
畑へ出られる者はみんな出ている。残っているのは畑を持たない店と、動けない年寄りだ。刈り入れの十日は町のまん中から人がいなくなる。
通りの土には荷車の轍が何本もついていた。行きは深く、帰りは浅い。束を積んだ車が脱穀場との間を往復している。角のところで藁がこぼれて、あとから来た子がそれを拾って籠へ入れていた。
肉屋の前を通ったが空気は変わらなかった。冷却石は夏のあいだだけ出す物で、もう仕舞われている。
ハンナは自分の家の前に洗い桶を並べて、その縁に腕を載せていた。
「アシュ、来た来た。おたくの分はそっちの籠よ」
「ありがとうございます」
「ねえ、聞いた? あんたの話よ」
ハンナは籠を渡す手を途中で止めた。話す方が先になる人だ。
「去年の冬の、街道の賊さ。あの五人ね、牢で妙なことを言ってるんですって。青い目の子どもが魔法を使ったって」
「はい」
「うちの町で青い目なんてあんたしかいないでしょう。だから朝からみんな、あんたの名前で言ってるのよ」
ハンナは笑った。この人は声が大きいので笑うと隣の台の人まで顔を上げる。
「首の決まってない人はねえ、いくらでも作るのよ。それがよりによってあんただもの。井戸の桶をまだ両手で持ってる子がさ」
アシュは籠を受け取った。麻の匂いがする。
「誰から聞いたんですか」
「ソフィちゃん。館の兵隊さんが酒場で喋ってたんですって。ヨーデルの爺さんなんかその場でもう一回聞き直したそうよ」
「そうですか」
「気にすることないわよ。誰も本気にしてないんだから」
ハンナはもう一度笑って、洗い物の続きへ戻った。
悪気は一つもない。この人は去年の秋にも悪気のないままアシュの目の色を人へ教えた。今日人に伝わっているのは、色ではなくて名前だ。
誰も本気にしていない。それは本当だと思う。
本気にされていない話の中で、名前だけが合っている。
青菜の台はいつもの場所に出ていた。
ヨナスは笑っていなかった。ハンナの声はここまで届いていて、届いた上で笑っていない。
「三束でいいのかい」
「はい」
ヨナスは数えた。数えて、数えた分だけ籠へ入れる。数え直しはしない。
「ハンナさん」
「なによ」
「いや」
それきり、ヨナスは台の上の青菜を並べ直した。
笑わなかったのはこれで三度目になる。
一度目は、ヤンが都へ奉公に出るのを見送った朝だ。二度目は、商人のロートスが訪ねてくる日を館の使いが家へ知らせに来た、その次の日だ。どちらの日もヨナスは何も聞かなかった。聞かない代わりに一度目は塩をもう一包み足して、二度目は青菜を一束多く入れた。
今日は多く入れない。三束と言われて三束だ。
一束多ければ台の前にいる全員がその一束を見る。
だから三束だ。
塩と油を買って、坂の方へ歩いた。
広場の井戸のそばで小さいのが四人、棒を持って走っていた。刈り入れのあいだ、上の子は畑に取られる。残るのは走るだけの子だ。
こちらを見つけたのはいちばん背の低い子だった。
「アシュだ」
四人が走るのをやめた。
「お前だろ。牢の奴らが言ってたって」
「賊を凍らせたんだろ。十人」
賊は五人だ。市場では誰も凍らせたとは言っていなかった。
半日で数が二倍になって、中身の方は本当に近いところへ寄っている。
「やってみろよ」
いちばん前の子が棒の先を地面につけた。
「一回でいいから」
「やらない」
「なんでだよ」
「やらない」
少しのあいだ誰も何も言わなかった。それから後ろの一人が笑った。
「ほら見ろ。できねえんだよ」
「できねえのに言われてるんだ。かわいそうじゃんか」
四人はまた走り出した。棒の先で地面を叩いて、叩かれた方が凍ったことになるらしい。凍った子はそこにしゃがんで数を十まで数えてから立つ。
やらない、と言った。
できない、とは言っていない。
言わなかった方をこの子たちは勝手に埋めた。埋めた分はそのまま持っていかれる。取り返す言い方が一つも見つからない。
――――――――――――――――――――
坂を上る。
麦を打つ音は坂の途中まで来て、そこから先へは来ない。半分ほど上ったところで音が届かなくなって、風の音になる。
塔の戸は開いていた。
高窓から落ちる四角は夏より長い。床の同じ場所にあった光が、少しずつ壁の方へ寄っていく。
桶の前に膝をつく。
水を張って、手のひらをかざす。送る先は点ではなく幅で持つ。息を吐いて送ると面が張って、端から白が壁を伝って下り、底へ広がって真ん中で止まる。
指の幅を二つ。夏に数えたのと同じところだ。
張り終えた氷は、手を離れたそばから縁が汗をかき始める。張るのと溶けるのが同じ桶で同時に進んでいて、夏は溶ける方が速い日があった。
「残ったか」
「残りました。夏と同じです」
「溶ける方は」
「遅くなりました。追いつかれません」
「そうだろう。ここから冬までが稼ぎ時だ」
二度目を送った。
今度は縁の一箇所が先に汗をかいた。左の手前だ。膝をついている側の、いちばん近いところになる。
「同じところから先に溶けます」
「どこだ」
「手前です。昨日も、その前もそこでした」
「一度溶けた縁は覚えとる」
ゼドルは椅子から立って、桶を上から覗いた。指の背で縁を叩く。
「そこだけ薄く張っとる。薄いから先に溶ける。溶けた形をお前の手が覚える。次に張る時、手が先にそこを避けて通る。避けた分がまた薄くなる」
「直りますか」
「直る」
老人は椅子へ戻った。
「前より時間がかかるだけだ」
三度目は送らなかった。送っても手前を避けるのが分かっている。分かっている失敗を確かめるために水を使うなと椀の頃に一度言われた。
桶の水は捨てる前に一度傾ける。氷の内側で水が遅れて動いて、真ん中の残りが縁へ寄っていく。寄せてみたところで繋がらない。真ん中と端は、水の上では別の場所だ。
水を捨てて床を拭いてからアシュは布を絞る手を止めた。
「ゼドルさん」
「なんだ」
「町で、去年の賊の話が出ています。僕の名前で出ています」
老人は椅子から動かなかった。
「牢の口か」
「はい。青い目の子どもが魔法を使ったと言っているそうです」
「去年、任せておけと言った」
「はい」
「言ったことは二度言わん」
それで終いになった。
誰が言っていたのか、何人が聞いたのか、どこまで広がったのか。聞けば分かることを、この人は一つも聞かない。
同じ一つの話が、坂の下では半日で数が二倍になって名前まで付き、坂の上では一往復で床に落ちる。
落ちた話は拾われないままそこにある。拾わないと決めている人の部屋は、こんなに静かになるものらしい。
石板を出して印を二つ写した。
線がどこへ伸びても終いには始めた場所へ戻る。何度写しても戻る。戻らない形は印ではない。写す手は町の話と関わりがないので暑い日でも噂の出た日でも同じ速さで進む。
帰り際、戸口のところで声が来た。
「明日は桶を回して置け」
「回すんですか」
「手前が向こうになる。手が覚えとる場所と、水の薄いところが別々になる」
「はい」
「それで直るとは言っとらん。混ざるだけだ。混ざればどっちのせいかが見える」
アシュは頭を下げて坂を下りた。
下りの半分まで来たところでまた麦を打つ音が届き始めた。脱穀場は昼のうちに打ち手が増えたらしい。間の取り方が朝より速い。
――――――――――――――――――――
家に着いた時、日は畑の方へ傾いていた。
土間に兄がいて、木の棒を壁へ立てかけているところだった。詰所の帰りだ。棒の先が土で白くなっている。
「水は」
「汲んであります」
「早いな」
「兄さんが遅いだけです」
「言うようになったな」
兄は笑って、上着の肩の土を叩いた。叩くと乾いた土がぱらぱら落ちる。落ちた分を母が見ていた。見られた兄は戸口の外へ出て、もう一度叩き直した。
父が帰ってきたのは日の落ちる少し前だ。
荷の付き添いは三日で終わって、今日は街道口で勘定を済ませてきただけらしい。刈り入れの十日は父の仕事が減る。畑に出ている人を襲う賊はいない。十日が過ぎれば供出の荷が動き出して、また出ていく。
卓に着くのを待ってからアシュは言った。
「父さん。今日、市場で聞きました」
「言え」
「去年の賊が牢で、青い目の子どもが魔法を使ったと言っているそうです。僕の名前で回っています」
母の手が止まった。
止まって、すぐ動いた。動くのが早すぎた。繕い物の針は、止まった場所からもう一度同じ目を拾うのに少し要る。母の指はそれをやらずに次の目へ行った。
「誰から聞いた」
父は椀を置かなかった。
「ハンナさんです。ハンナさんはソフィさんから聞いたそうです。館の兵隊が酒場で喋ったと言っていました」
「ハンナさんだけだ」
「え」
「お前が聞いたのはハンナさんの口だ。ソフィも兵隊も、お前は見ていない」
「はい」
「ほかには」
「広場の子どもが四人です」
「四人とも言ったか」
「言ったのは二人です」
「そうか」
父は名前だけを聞いた。
何と言われたかは一度も聞き返さない。何をではなく、誰が、を先に聞く。
去年の冬、この人は名前を一つ館へ出して、この家の子の身柄を公爵家の預かりとする紙を買っている。
「名前は誰が最初に出したんですか」
「町だ」
父は間を置かなかった。
「牢の連中は青い目としか言っていない。この町で青い目はお前しかおらん。名前はこっちが足す」
驚いていない。
この人は最初からその勘定でいた。青い目の子どもという言い方が町へ落ちればそこから先は誰の手も要らない。
「広場で、やってみろと言われました」
「やったか」
「やっていません」
父は一度だけ頷いた。それ以上は何もない。
「消えますか」
「消えん」
父は椀を持ち上げた。
「笑った話は、覚えていないように見えるだけだ。次に似た話が来た時、笑った側から先に思い出す」
アシュは自分の膝を見た。
市場で笑った人は本気にしていない。本気にしていないから覚えていないのだと思っていた。そうではないらしい。笑った分だけ、口に出した分だけ、その人の中には置き場所ができている。空いた場所は次に何か来た時に埋まる。
「牢の五人は」
言いかけたところで母が立った。
「アシュ、そこの皿とって」
言われて取った。渡した皿を母は卓の端へ置いて、そのまま使わなかった。
父は何も言わない。
母が話を切って、父がそれを止めない。二人のあいだでこの話はもう済んでいる。
済んでいる話に子どもが入る道はない。それは去年の秋、板戸の内側で一度覚えた。
「父さん」
「なんだ」
「僕は何かした方がいいですか」
「いい」
「はい」
「やることは去年から変わらん。坂を上がって、口を閉じて、家へ帰る」
「はい」
「一つ増えた」
父は椀を置いた。
「これから先、町でその話を聞いたら誰の口から聞いたかを覚えて帰れ。中身はいい。名前だけでいい」
「はい」
「人から聞いた分は入れるな。お前の耳が聞いた口だけだ」
「はい」
アシュは頷いた。
名前を覚えるのが自分の仕事になった。覚えた名前をどうするかは父の仕事の側にある。
リアが卓の脚のあいだを抜けて父の膝の横へ来た。
「まんま」
「なんだ」
「まんま、なんで?」
「……何がだ」
リアは答えずに父の膝を叩いた。叩いてからもう一度「なんで」と言う。今度は自分で言って自分で笑った。
この妹の口から今日も、みらとあしゅとれいんは出た。父の分だけがまだ来ない。まんまは名前ではない。それを言っていいのはこの家ではリアだけだ。
夕飯のあいだ、兄は詰所で棒を握る位置を変えた話をしていた。指一本ぶん下げたら受けが楽になって、その代わり返しが遅くなったという。母はそれには相槌を打った。
兄は賊の話を一度もしなかった。
詰所にいれば館の兵の話は入ってくる。入らなかったのかもしれないし、入って言わなかったのかもしれない。
この人は、前に一度聞いてアシュが言えないと答えてから、坂の上で何を習っているかを聞いてこない。
だからこちらからも聞かない。
母は値の話をしなかった。
いつもなら母は、賊の話が出れば館がいくら使ったかを言う。今日は一度も言わない。
聞かない人と、値を言わない人が、同じ卓に二人いる。
片づけのあとアシュは水瓶の蓋を確かめに土間へ下りた。
麦を打つ音は日の落ちる前に止んでいた。
十日のあいだ朝から鳴っていた音だ。止むと町は急に広くなる。広くなった分だけ遠くの音が届く。
どこかで人が笑った。
何を笑っているのかは分からない。
笑い声だけが来る。




