第三話
街道口から広場へ出ると詰所の前に馬が三頭繋いであった。
町の馬ではない。鞍の革が新しく、鐙の高さが三頭とも揃えてある。乗る者の決まっている馬の置き方だ。
昼前の広場は人が少ない。刈り入れの前で、動ける手はみんな畑の方へ出ている。井戸の順を待つ列もない。
朝にニコが家まで来て、詰所へ来てくれとだけ言って走って帰った。誰が呼んでいるかは言わなかった。
フェイは戸口の外に立っていた。中には入らず日の当たらない側で腕を組んでいる。
「早いな」
「呼ばれた」
「呼んだのはうちじゃない。うちは場所を貸しとるだけだ」
フェイは顎で戸の中を示した。
「地区の沙汰と秋の供出を回しとる家の当主だ。館の上の話じゃない。うちらに紙を回してくるのはこの家だ」
「ベルツか」
「そうだ」
家の名は去年から知っている。知っていて、顔は一度も見ていない。
紙が先に来て、人が後から来る。この一年、その順番ばかりだった。
「先に一つ言っとく」
フェイは腕を解いた。
「向こうは長く座らん。長く座らん奴は、こっちが考えるより先に決める。持っていく物があるなら最初に出せ」
「あるように見えるか」
「持ってきた顔をしとる」
春に、この男が夜になってから庭まで来たことがある。
話したのは、去年の秋に下の子を都へ出す話を持ってきた商人、ロートスの身元だった。門の記録、宿の帳面、館の控え、市場の並び。四つとも調べて、四つとも書いてあるとおりだったという。秋のうちに一人で回り始めて、冬を越して、春まで続けた。
何も出なかった。洗って何も出なけりゃそれが答えだ、というのがこの男の言い方だ。
そう分かるまでに半年かかった。そのあいだ、うちの家の話なのにうちには一言もない。
なぜ黙っていたのかも聞いた。確かかどうか分からんうちに言えば聞いた方は毎晩そのことを考える。考えてもその晩にできることは何もない。
あの夜はもう一つ聞いた。ガイが自分で気づいた分だ。去年、飴を断った時にあの子の足は半歩下がった。なぜ下がったのかを、この春、本人が自分で言えるようになったという。
こっちが返した言葉は短い。礼でもなく、次は先に言えでもない。
――そうか。
それで足りる相手だからそれで済ませた。
「フェイ」
「なんだ」
「あんたが一人で回った半年は、まだ返していない」
「頼まれてやったんじゃない」
「頼まれなくても借りだ」
「お前の家は借りを数えすぎる」
フェイは戸を引いて、自分は入らなかった。
詰所の表の間は、卓を一つ真ん中へ出してあった。
壁際に兵が一人。卓の端に書記が一人。紙とインク壺が置いてある。
卓の向こうの男は立ち上がらなかった。
背はこちらより低い。座っていても分かる。胸から腕にかけて厚く、首の後ろが日に焼けている。栗色の髪に灰色が混じっていて、短く刈ってある。旅の格好のままだ。上着の裾に埃がついている。
指輪は一つだけ。左の小指。
「ベルツ様は、第五地区の沙汰と秋の供出を預かっておられる」
書記が言った。名乗りはそれだけで自分の名前は言わない。
「お前が押さえたのか」
男の最初の言葉がそれだった。
「はい」
「五人か」
「押さえたのが五人。峠へ抜けたのが二人。全部で七人でした」
「荷は」
「二年で十一件と聞いています」
「十一件だ。うちの地区から出た荷もある。その家の者は、今も俺のところへ来る」
「峠へ抜けた二人は」
「隣の領だ。文は行った。返事はない」
「はい」
「返事の来ない文は当てにせん。俺の手にあるのはうちの牢の五人だけだ」
来る、と言った。
館へ来る、ではない。この男のところへ、だ。
高い所に座っている家ではないらしい。
「順に言え。書かせる」
押さえた日から順に言った。宿場の外れに繋いであった馬の数。前の日に馬を見に行った男の顔。夜のうちに動いた者と、動かなかった者。縄をかけた順。
書記のペンは速くも遅くもない。こちらが止まると同じところで止まる。館の書記と似た手つきだ。字を書く仕事の人間は、どこの家でも同じ手をしている。
「五人とも生かして納めました」
「殺さずに五人だ。やり方は」
「言えません」
ペンが止まった。男は止めなかった。
「書け。ヴァルドは言わなかった、と」
ペンがまた動く。
「書いておけば次に誰かが同じことを聞いた時に、俺がもう一度聞かなくて済む」
館では聞かれずに済んだ。ここでは聞かれて、言わなかったことの方が紙に載る。
どちらが重いかは今日は分からない。
「五人の始末だ」
男は初めて上体を起こした。
「牢は館の物だ。中の人間の使い道はうちが持つ。上が決めるのは名前の残る話だけだ」
「はい」
「刈り入れが済めば供出が来る。人手はいまがいちばん薄い。あの五人を牢で生かしておけば、その分だけ飯がいる」
「はい」
「牢番が言うには、五人とも喚いているそうだ」
息が一つ止まった。顔に出たかどうかは分からない。
「命乞いに作り話を並べる。牢では毎度のことだ。俺は中身を聞いていない」
「はい」
「聞いた者も本気にはしない。首の決まっていない人間の言うことだ」
ここだ、と思った。
思ったところで間の取り方が上手くなるわけではない。
「一つ、頼みがあります」
「言え」
「五人の首を刎ねないでください」
男はこちらを見た。見たのはひと呼吸ぶんだった。
「首か」
「はい」
「理由は」
「言いません」
理由を言えば、五人が何を見たかを言うことになる。
そこまで行けば、この卓の紙に子どもの名前が載る。
載らない値なら、高くても買う。
「二度目だな」
「はい」
「理由を言わん男に二度会うとたいていは三度目に嘘をつかれる。お前は今日、二度とも言わずに嘘は一つもついていない」
男は卓に手を開いて置いた。
「値はつく」
「はい」
「何を出す」
「俺の名前を」
言い終わってから去年の冬に館で同じことをしたのを思い出した。
あの時に出したのは他人の名前だ。賊に荷の出る日を流していた、ギルドの帳場のイルザの名前だった。
出した先で誰がどう決めるかはガルドの持ち分ではない。持ち分でない物を分かろうとすると次に名前を出す時に手が鈍る。春にそう言ったのはガルドだ。
今日は自分の名前になった。鈍る余地がない。
「名前だけか」
「足りませんか」
「足りない」
男は指を二本立てた。
「一つ。五人は牢から出す。峠の下の道へ回す。二年直っていない道だ。街道の普請で三年働かせる。三年のあいだに一人でも逃げるか、人を殺すか、火を出すかしたら、その分はお前に付ける。金で払え。払えなければ体で払え」
「はい」
「二つ。同じ三年のあいだ、うちが呼んだら来い。金は普通に払う。三年、お前は断れない」
値が二つになった。
名前で足りると思って来た。足りると思っていた分だけ、こちらが自分を安く見積もっていたことになる。
「受けます」
「早いな」
「二つとも払える物です」
「払える物しか言っていない。俺は、払えん物を言って断られるのが嫌いだ」
書記が新しい紙を出して、上の端に紋を押した。
朱の色は館の物より薄い。形は覚えている。
去年の秋に、うちの卓へ一度だけ載った封と同じだ。外へ伸びたまま終わる線が二本ある。
「一つ、伺っていいですか」
「言え」
「去年の秋にうちへ来た男が持っていた紙に、その紋が押してありました」
男は紙を見たままだった。
「紋か」
「はい」
「うちの紋は年に何百と出る。身元を請け合った紙だ。誰に頼まれて請け合ったかは押した紙には書かない」
この男は聞かれた分しか答えない。首の話も五人の話も一言で足りていた。
紋のことだけ三つ続けて言った。
「押したのはどなたですか」
「うちの家の者だ」
それだけ言って、紙をこちらへ回した。
「そこから先は、お前に言う話ではない」
紋を書いた家と、頼んだ者が同じとは限らない。
今日、その家の当主が卓の向こうに座っていて、否定もしなかった。
否定しない男は知っていて言わないのか、知らずに言わないのか。
この卓の上ではどちらも同じ顔になる。
「上から紙が一枚来ている」
男が言った。
「お前の家の子の身柄の話だ。読んだ」
「はい」
「うちには関わりのない紙だ。うちは沙汰と供出を回す。子どもの先を決める紙は、俺の卓へは来ない」
嘘か本当かは分からない。
分からないまま、この人はもう次の紙を見ている。
「一つ言っておく」
男は立ち上がった。座っていた時間は、フェイの言ったとおり短かった。
「牢で口の回る奴は、たいてい助かりたいから回る。助かる目が出れば黙る。お前が今日買ったのはそれだ」
「はい」
「だが、今日までに出た分は戻らない。牢の外へ落ちた分は、うちの領分ではない」
言う理由は消せる。
言った分は消せん。
今日買えたのは、五人がこの先黙ることまでだった。
男は上着の裾を払って戸の方へ歩き、途中で一度だけ止まった。こちらは見なかった。
「三年は長い」
「はい」
「長い物は、途中で誰かが数えるのをやめる。やめた側から先に困る」
馬の蹄が広場の石を叩いて、じきに聞こえなくなった。
フェイは同じ場所に立っていた。日陰の幅がさっきより狭くなっているのに寄りもしないで立っている。
「終わったか」
「終わった」
「そうか」
それきりだった。
何を出したかも何を持って帰るかも聞かない。
春に、この男の見回りの順が変わったのに気づいて、こっちも聞かなかった。今日はこの男が聞かない側に回った。
「フェイ」
「なんだ」
「三年は、この町から動けん」
「動く用があったのか」
「ない」
フェイは腕当ての革を一枚拾い上げて、裏返して土を落とした。
「動けんと先に言う奴は、たいてい動く日のことを考えとる」
「考えていない」
「なら、考えていないうちは女房に言うな。言えば数え始める」
――――――――――――――――――――
帰りにギルドの支部へ寄った。
壁の板に依頼が一枚ずつ貼り出してある。今は刈り入れの仕事で半分埋まっていた。日雇いの畑、荷の運び、藁の積み上げ。どれも書付が薄くて字が大きい。すぐ剥がれて、すぐ次が貼られる類だ。
右の端の一枠だけが白い。
街道の賊の依頼が二年貼りっぱなしだったところだ。二年ぶん日に焼けなかったので、周りより明るいまま残っている。
あそこにはもう二年ものを貼らせないで、と館へ名乗り出る前に帳場のイルザは言った。言ったとおりになっている。
帳場には知らない娘が座っていた。書く手が遅い。遅いが、書き直しはしない。
刈り入れの十日は、腕のある者ほど仕事が薄くなる。賊も獣も畑には出てこないからだ。
薄い十日のあいだに一つだけ受けておく。荷の付き添いの一枚を剥がして帳場へ出した。娘は日付と名前を確かめて、それから写しの方を先に書いた。
順が正しい。教えた者がいたのだろう。
館からはまだ何も言ってこない。
うちの子の身柄を公爵家の預かりとする紙をもらってから半年以上になる。その紙の代の話は一度も出ていない。
払わずに帰る客がいちばん高くつくのだと女房が言っていた。忘れた頃に、その分あんた頼まれてよ、と言いに来るのだそうだ。
――――――――――――――――――――
家に着いた時、日は庭の端まで来ていた。
土間ではミラが竈の横の光の付与石から布を取っているところだった。
まだ灯を入れるほど暗くはない。手元だけ先に明るくしておく。刈り入れの前は繕い物が増える。
リアが敷居の内側からこちらへ手を伸ばした。
「まんま」
「ああ」
抱き上げると重い。
この子が持っている人の名前は、みら、あしゅ、れいん、の三つだ。ガルドの分だけがない。
順番が来ない理由は分かっている。この家で、いちばん名前を呼ばれない場所に立っているのが自分だからだ。
呼ばれない場所に立つのは仕事のうちだ。それを寂しいと言うのは筋が違う。
「上は」
「詰所。朝の水はもうアシュが汲んでるわ」
「そうか」
「アシュは坂の上。今日は遅くなるって」
リアを下ろした。
「あんた、この頃ずっと上の下のって言うのね」
「言ってたか」
「言ってるわよ。自分が呼んでもらえないからって、子どもの名前まで引っ込めなくていいのよ」
「そんな話じゃない」
「そういうことにしといてあげる」
卓の前へ座った。
「ミラ」
「なあに」
「今日、地区の当主に会った」
ミラは布を畳む手を止めない。止めないまま、体だけこちらへ向けた。
「何を出したの」
値の話から入るのがこの女だ。
「名前だ。俺の」
「それで」
「足りんと言われた。三年、向こうが呼んだら断れん」
「断れないのはうちの話ね。それはあたしも払うわ」
「そうだ」
「もう一つは」
「牢の五人が三年のあいだに何かやったら俺が持つ」
ミラは布を膝に置いた。
「それは、あたしには払えないのね」
「払わせん」
「そうじゃないのよ」
ミラは膝の上の布を一度だけ撫でた。
「うちの店にね、つけを溜めるお客がいたのよ。誰がいくら溜めてるかはあたしが全部覚えてたわ。字は読めないけど数は忘れないの。……でも、一人だけ父さんが誰にも言わない人がいたの。その人が来てもあたしには何も分からないのよ。父さんの機嫌だけ見てるの。見てても何も手伝えないわ」
布を持ち直す。
「置き場所は分けなくていいわ。どこに置いたかだけ言っといて」
「これは俺が背負った分だ。背負った物は分けん」
「分けなくていいって言ってるでしょう」
「子どもらには言わん」
「言わなくていいわ」
「上のにはそのうち分かる」
「分かる子には分かるのよ。分かってから来るわ。来た時に、あんたが今と同じ話をすればいいの」
ミラは立って鍋の蓋を取った。湯気が上がって、竈の火が一度大きくなる。
「一つだけ聞くわ」
「なんだ」
「五人は、生きるの」
「生きる」
「なら、いいわ」
それきり、ミラは鍋の方を向いた。
背中は何も言っていない。言わない背中の方が、こっちには読める。
ガルドは腰の剣を外して掛け棒へ掛けた。
いちばん上の一本が、今朝より少し手前へ出ている。
拭いて戻す時、あの子はまだ真っ直ぐには掛けられない。爪先を立てて、上げるところまでで力が尽きる。
直さずに置いた。




