第二話
「稽古、混ぜてくれねえか」
布を動かす音が止まった。
フェイは筵の上に革の腕当てを並べて、留め金を一つずつ拭いている。詰所の裏は日が回らない。土は踏まれて固く、撒いた水の跡がまだ乾ききっていない。
「うちのにか」
「うん」
「なんでうちだ」
レインは木剣を提げたまま立っていた。座れとは言われていない。
「相手が一人しかいねえから」
「親父がおるだろう」
「ガルドとしかやってねえ。ガルドは俺の型を直さねえんだ。真似するなって言うだけで」
「それはあいつが正しい」
フェイは留め金の一つを指で弾いて音を聞いた。聞いてから次のを取る。
「お前のは受けてから決める型だ。あれを親父が直すと親父の型になる」
「じゃあ」
「うちの若いのは仕事でやっとる。遊びに付き合う時間はない。それでもいいのか」
「いい」
鉄は春に買ってもらった。買った日から毎朝振っている。雨の日は縁側の下でやる。
数は決めていない。肩が言うことを聞かなくなるまで振る。夏のはじめより、そこまでが遠くなった。ガルドは数を言わない。言われたのは春に一度きりで、しばらくは持つ方を覚えろ、それだけだった。
鉄は木剣より先が重い。重い先を木剣の時と同じ場所で止めようとすると通り過ぎる。通り過ぎた分は肩が引き受ける。
今朝、手のひらの豆の位置が変わったのに気づいた。薪を割っていた頃の豆は指の付け根にあった。今できているのはそこより少し手前だ。斧と剣では握る場所が違う。違うことは知っていたが、豆の方が先に教えてくる。
フェイは布を膝に置いて、初めて顔を上げた。
「ガルドは知っとるのか」
「言ってねえ」
「言ってから来い」
戸口の内側から声がした。
「団長。子どもが庭で怪我をしたらうちの落ち度になる」
「なる」
「なるなら先に決めておけ」
カスパルさんは中を向いたまま言って、それきり何も言わなかった。団でいちばん古い人だ。膝が悪いので見回りには出ない。出ない代わりに、帰ってくる者の話は全部この人の前を通る。
フェイは腕当てを筵に戻した。
「三つ言う。覚えて帰れ」
「うん」
「一つ。親父に言ってから来い。二つ。怪我を隠したらその日で終いだ。三つ。うちに入る話ではない。混ぜとくだけだ」
「入るとは言ってねえ」
「今は言っとらんな」
フェイは布を取り直した。
「言う日が来たら、その時はうちが困る。困るのを先に言っておく」
意味は半分しか分からなかった。分からないまま、三つは覚えた。
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通りへ出たところでガイに会った。木剣を提げて、井戸の方から来る。
「レイン。うちの親父んとこ行ってたろ」
「見てたのか」
「戸が開いてんだから見えるよ」
ガイは自分の木剣の柄を握り直した。革が巻き直してある。巻き直したばかりで、まだ角が立っている。
「お前、鉄だもんな」
「春に買ってもらった」
「いいなあ」
ガイは羨ましがる時に、羨ましい、をそのまま言う。言ってからすぐ次の話へ行く。
「うちは持たせねえんだよ」
「フェイさんが」
「まだだ、しか言わねえ。理由聞いても、まだだ、だ」
「アシュには貸したのにな」
ガイは木剣の先で地面の土を一度だけ押した。
「理由は一回だけ聞いた。あいつが、手が笑わねえ日が十日続いたら一本振らせるって言われてた時にさ。ついでに俺のも言われたんだ。うちのは木剣で十分だってな。俺の目の前で」
「なんでだって」
「背が伸びる途中で腕だけ先に強くなるんだとよ。鉄を持たせたら形が崩れるって」
「筋は通ってんな」
「通ってるから腹が立つんだよ。それっきり一回も言わねえしな」
通ってはいる。ガイは冬からまた伸びた。手足が先に長くなって、握るところだけが厚い。
ただ、弟の方が小さい。小さい方に貸して大きい方に貸さない理由は、背だけでは足りない。
弟が借りていた鉄は、振るための物ではなかった。受けるための物だ。去年ガイに相談された時に、最初は受けだけだと言ったのは自分だ。
ガイの受けは形になっている。ただ、受けた次に必ず出る。
そこまで考えて、やめた。持たせるかどうかを決めるのはガイの親父だ。
弟も同じことを言われている。振っていいかは、まだだ。
弟のは家にあるのに振れない。ガイのは家にないだけだ。それでも二人とも同じ言葉で止められている。
自分だけが止められていない。
止められていない理由は、たぶん自分の側にはない。春にガルドが二本買うと決めて、順番が先だっただけだ。
「レイン。混ぜてもらうのか」
「言ってはみた」
「じゃあ俺も」
ガイはそこで言葉を切って、木剣を持ち直した。
「……いや、いい。俺が言うと親父が困る」
困る、という言い方が、さっき聞いたばかりのものと同じだった。
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母の使いが残っている。塩をひと袋と、青菜。
それと、ハンナのところへ寄って繕いは明後日でいいと言っておく。母の使いにはいつも用がもう一つ付いてくる。
夏の終わりの井戸は水がいちばん深いところまで下がる。桶が底に当たる音が、春よりずっと遅れて上がってくる。
順番を待つあいだ、レインは列の端に寄って立った。
人の多い場所では端を歩く。荷を持つときは角を内側へ入れる。いつからかそうしている。理由は自分でも説明していない。
釣瓶の縄を引いていたハンナが、こちらを見つけて手を振った。
「レインちゃん、悪いね。これ上げるの手伝っとくれ」
縄を握る。冬に握ったときの固さはもうない。日に焼けて、手のひらに当たる面が少し毛羽立っている。
「縄、伸びたな」
「伸びるわよ。井戸の縄なんだから」
「これ、いつ替えたんだっけ」
「冬の終わりだよ。町で替えたのさ」
桶が上がってくる。ハンナは自分の分を汲んで、縄の端を杭に掛け直した。
「前のは秋に替えたばっかりだったのにねえ。あれもすぐ駄目になったわ」
「秋のは誰が替えたんだ」
「町でだろ。みんなで出し合ってさ」
ハンナは桶を提げて、礼を言って帰っていった。
レインは残った桶にひと掬いだけ汲んで飲んだ。
夏の水はぬるい。
冬の終わりの縄は、本当に町の金で替えた。ガルドもいくらか出したと母が言っていた。だから今のハンナの答えは合っている。
合っているせいで、その前の縄の話が同じ形に埋まった。
秋の縄は町が替えたのではない。名前を出さずに払った人がいて、桶屋は、もらってます、とだけ言った。家の卓でその話を聞いたのは去年の秋だ。
去年、ハンナは同じ言い方をした。あの時のあれは間違いだった。今日のこれは間違いではない。
言葉は一字も変わっていない。中身だけが後から追いついて、前の分まで正しくしてしまった。
八百屋でヨナスに塩と青菜を頼んだ。
「兄ちゃん、また伸びたな」
「そうかよ」
「そのうち親父さんに追いつくぞ。……そういや、あの人はどうしたい。もう来ねえのかい」
ヨナスは束を藁で括りながら言った。名前を出さない言い方をしたが、誰のことかはすぐ分かった。
「ロートスさんか」
「そう、それだよ」
名前はこちらからも向こうからも詰まらずに出る。
「春に一度来て、そのまま行ったんだろ」
「行ったな」
「今年は来ねえのかね。菓子が来ねえと子どもが騒ぐんだよ」
ヨナスはそう言って、それきり値の話へ移った。
どこの人だったのか、とは今日は聞かれなかった。去年の冬に一度だけ、この人はそれを聞いている。答えは誰からも出なかった。
出ないまま、聞く人がいなくなっただけだ。
レインは束を受け取って通りへ出た。
言えることなら今もある。背はガルドより低い。外套は灰色。手の甲の染みは、とうとう確かめないまま終わった。
それと、人混みで誰ともぶつからない。
四つ目は去年から誰にも言っていない。言ったところで、あの人はどこの人か、の答えにはならない。ならないものを持っているだけだ。
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家に戻るとガルドが土間にいた。荷の話をひとつ母にして、水を飲んで、それで一日ぶんの報告は終わったところらしい。
リアが塩の袋にくっついてきた。
「なんで、おもい?」
「塩だからだよ」
「なんで?」
「たくさん入ってるからだ」
「なんで?」
答えを聞いている顔ではない。なんで、と言うたびに誰かが返す。この妹は返ってくるのを確かめて遊んでいる。
母が袋を受け取って、それからレインの腕を見た。
「袖、また詰めなきゃ」
「まだ着られるだろ」
「肘が出てるのよ。あんた、去年の秋にあたしを抜いたばっかりでしょう。あれからもう一段来てるわ」
母は袋を置いて、レインの隣に立ってみせた。母の頭のてっぺんはこちらの眉のあたりにある。
抜いたのは自分の背であって、母が縮んだわけではない。それでも、こうして立たれると縮んだように見える。
レインは木剣を壁へ立てかけてから言った。
「ガレアの稽古に混ぜてもらいてえ」
ガルドは椀を置いた。
「なぜだ」
理由は歩きながら考えてあった。考えてあったのに、口に出す段になると短くなる。
「冬、ガルドたちが賊を片づけに出てたあいだ、俺は薪割ってた」
ガルドは何も言わない。
「次に何かあった時に、薪割ってたくねえ」
しばらく間があった。竈の中で薪が一本崩れる音がした。
「フェイは何と言った」
「先に親父に言えって」
「言ったな」
「言った」
「行け」
それだけだった。
母が背を向けたまま口を挟んだ。
「怪我しても、あたしは驚かないわよ。驚くのは隠された時だから」
「隠さねえよ」
「隠す子は、みんなそう言うのよ」
ガルドは椀を持ち上げて、それから一つだけ足した。
「向こうの言うことは全部聞け。こっちの言うことより先だ」
「ガルドの言うことよりか」
「向こうの庭だ」
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日が傾いてからもう一度詰所の裏へ行った。
空き地に若い衆が四人いて、そのうちの一人がニコだった。細くて背だけ高い。上着を脱いで、木の棒を杖みたいに突いて立っている。
「おう、レイン。聞いてるぞ」
「早えな」
「団長が言ったんじゃねえよ。副長が言った。副長が言うと決まりになるんだ」
ニコは足元の束からもう一本取って投げてよこした。受けると思っていたより軽い。刃も縁もない、ただの棒だ。
「鉄は使わせねえって。今日はこれだ」
「なんで」
「知らねえ。決まりだ」
立ってみて、すぐに分かった。
ニコは真っ直ぐ前へ出てくる。速いが、出た後で止まらない。止まらない相手は流しやすい。
二本目でニコの棒が横へ抜けた。三本目も同じところへ抜ける。抜けた先で足がもつれて、ニコは自分で笑った。
「うわ。お前、それどこで習った」
「習ってねえ」
「団長のと同じだ、それ」
止まったのは、その言葉の方だった。
フェイの型と同じ、と言われたのは初めてだ。ガルドと違う型だとは思っていたが、誰かと同じだとは考えたことがなかった。
四本目の前に、後ろから声が来た。
「代わる」
副長だった。
いつからいたのかは分からない。この人は用のない相手には何も言わない。
副長は棒を取って、間合いの外に立った。
立って、それきり動かない。
レインは待った。
待っているあいだ、相手の重心が一度も動かない。踏み替えもしない。呼吸で肩が上がることもない。
しばらく待って、こちらが先に出た。
出た先で、棒が待っていた。
手首の内側に当たって、棒が土に落ちた。
「もう一度」
二度目も同じだった。三度目は、出る前に足だけ運んでみた。こちらが半歩ぶん寄っても、相手の重心はそこにあるままだ。動かない相手の前では、こちらの足だけが空回りする。それでも出る。手首の内側に当たって、今度は棒が手の中に残った。
「流すのは、来た物にしか使えない」
副長は棒を持ったまま言った。
「はい」
「来ない相手は、お前が呼ばないと来ない」
「呼ぶって、どうやって」
「先に出す。出したくない物を先に出すんだ」
言われたことの意味は分かった。分かったが、体がやり方を知らない。
出したくない物を先に出すのは引く型の反対だ。
「今日はできなくていい」
副長は棒を若い衆へ投げ渡した。
「できないと分かったのが今日の分だ」
それだけ言って、詰所の中へ戻っていった。
ニコが横から棒の先で地面を突いた。
「副長、あれ滅多にやらねえんだぜ」
「何が」
「言うことだよ。だいたい黙って見てる」
レインは手首をさすった。
当たった場所が熱を持っている。母には見せない方がいい種類の熱だ。隠すと終いだと言われたばかりなので、帰ったら先に言う。
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家に着く頃には日が落ちきっていた。
庭を回ると縁側の下に灯りが漏れている。土間の方だ。
弟が筵を敷いて、その上で鉄剣を拭いていた。
掛け棒のいちばん上から下ろしてある。下ろすところは見なかったが、爪先で立った跡が土間に残っていた。誕生日の夜からこっち、毎日そこに残る跡だ。
棒には四本掛かっている。ガルドの剣。自分の鉄剣。弟に渡した木剣。いちばん上が弟の鉄剣だ。上の一本は買った日から誕生日の夜まで、弟の手では一度も下りなかった。今は毎日下りて、毎日戻る。
「まだ拭いてんのか」
「油を薄くしています。夏は多いと埃がつくそうです」
「誰が言ったんだよ」
「父さん」
弟は布を持ち替えて、刃の縁を端から端まで一度だけ拭いた。
塔の話はしない。今日は何をやってきたのか、こちらも聞かない。
弟が坂の上で何を習っているかは、知らないままで三年になる。知らないままなのは聞かないと決めたからではない。聞く用がないだけだ。用ができたら聞く。
「振っていいって、まだ言われねえのか」
「まだ」
「聞いたのかよ」
「聞きました。まだだそうです」
弟は拭き終わった鉄剣を筵の上に置いて、それから掛け棒を見上げた。
下ろす時より、戻す時の方が難しい。あの高さは今の弟にとってはそういう高さだ。
「兄さん、詰所に行ったそうですね。母さんが言っていました」
「行った」
「どうでしたか」
手首の熱がまだある。
「棒が落ちた」
「落ちたんですか」
「二回落ちた。三回目は落とさなかった」
「三回目は当たらなかったんですか」
「当たった。落とさなかっただけだ」
弟は少し考えて、それから頷いた。頷いてから何も言わない。
こういう時、弟は世辞を言わない。言わない代わりに、聞いたことを取っておく顔をする。
「明日も行くのか」
「行く」
「じゃあ、朝の水は僕が汲みます」
「いいよ。俺がやる」
「兄さん、両方はできませんよ」
できないと分かったのが今日の分だ、と言った人がいた。
水と稽古は同じ朝の話だ。両方を持って両方が半分になるくらいなら片方は置いた方がいい。置くのは自分で決める。
レインは弟の手の中の布を見た。ガルドがこの夏まで使っていた布だ。
「……頼む」




