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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
グレンツ防衛線

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第一話

 昼の坂を上りきる。塔の扉は今日も開いている。

 坂の草は夏の匂いがした。上りの半分で汗が出て、残りの半分で乾き始める。

 石の壁は夏でも冷たさを覚えていて、外の光が戸口で切れるところから空気が変わる。汗をかいた背中にはその境目がはっきり分かる。敷居をまたぐと、足の裏から熱が石へ抜けていく。

 高窓から入る光は冬より高いところを通る。床に落ちる四角が小さい。

 アシュは桶の前に膝をついていた。


 桶には水が張ってある。

 やることは椀の頃から変わらない。水の面に氷を張り、張った氷を内側の壁に伝わせて底まで届かせ、底で一枚に繋げる。道具は使わない。手のひらを水の上にかざして、アニマを送るだけだ。

 椀は冬のうちに終わった。それからは水を張る器が日ごとに大きくなって、春からはこの桶になっている。


 峠が開いて、季節がひとつ回った。

 坂の上のこの塔には字と、字にできない稽古を習いに通っている。通う日は毎日で、休む日は父が決める。

 今日でアシュは八つになる。塔でそれを言う理由はないので言わないまま膝をついている。


 手のひらを水の上にかざす。送る先は点ではなく幅で持つ。椀の頃の幅は手のひらほどでよかった。桶の幅は肩まである。広げた分だけ薄くなる。薄くならないところまでしか広げない。

 息を吐いて、送った。

 面が張る。端から白が壁を伝って下り、底に触れて広がる。上と底が同じ厚さになって、真ん中で止まった。

 桶を少し傾ける。氷の内側で、水が遅れて動く。


「真ん中です」


「残ったか」


「残りました。春よりは狭いです」


 ゼドルは高窓の下の椅子から立って、桶を上から覗いた。指の背で縁を叩く。叩いた音で厚みが分かるらしい。アシュにはまだ音の違いが半分しか分からない。老人は何も言わずに椅子へ戻った。


 夏の稽古には冬になかった相手がいる。暑さだ。

 張り終えた氷は、手を離れたそばから縁が汗をかき始める。溶ける方が張るより速い日は、どこまで届いたかを確かめる前に端が細り出す。


「溶ける方が速いか」


「今日は同じくらいです」


「ならいい」


「溶けた分を追いたくなります」


「追うな。追えば張った方が割れる。溶ける分は溶かせておいて、張る方だけ見ろ」


 ゼドルは椅子の背に手を置いた。


「冬の氷は、寒さが半分やっとる。夏はお前が全部やる。夏に張れるようになれば冬の分は考えんでいい」


 アシュは桶の水を見た。

 真ん中の残りは桶を始めた頃より狭くなっている。狭くなり方を日で数えたくなって、やめた。数えると急ぐ。急ぐと余る。それは椀で覚えている。

 真ん中から行けば早いのではないか。春には一度だけそれをやった。真ん中だけが浮いて、端と繋がらないまま回る。それきりやめた。真ん中は最後だ。


 額の汗を手の甲で拭ってから二度目を送った。

 二度目は、真ん中の残りが一度目より広い。


「欲か」


「……たぶん」


「一度目で狭くなると二度目は真ん中から行きたくなる。真ん中は最後だ。順番は変えるな」


「はい」


 三度目は急がなかった。上を張り、壁を下ろし、底へ広げる。白が真ん中へ寄っていって、指の幅を二つ残して止まる。

 一度目と同じところだ。

 同じところで止まったのが、今日の終いだった。


 水の稽古が終いになってから石板を出して、印を三つ写した。写す方は汗と関わりなく進む。手が覚えた形は暑さでは崩れない。

 印は精霊の形で、最後まで筆を離さずに引く。線がどこへ伸びても終いには始めた場所へ戻ってくる。閉じない形は印ではない。それだけは器が変わっても変わらない。


 桶の水を捨てて、床を拭く。竈《かまど》の灰は夏のあいだ少ない。掃く手もすぐ終わる。


「明日は」


「同じだ」


「はい」


 戸口を出るとき、後ろから声が来た。


「八つか」


 アシュは振り向いた。老人は椅子から動いていない。


「はい」


「フォイグニスの月だな」


「なんですか、それ」


「月の名だ。字を読む者は月を精霊の名前で数える。夏の盛りのふた月は炎の精霊が持つ」


「僕の生まれた月ですか」


「そうなる」


 精霊の名前は塔で六つとも習った。月に同じ名前がついていることは、今日まで知らなかった。


「去年は新しい形を二つ教えた」


「はい」


「今年はない。桶が終わっとらん」


「はい」


「終わってから考える」


 それだけだった。

 考える、の先は聞かなかった。この人が言わないと決めた話は、聞いても出てこない。

 アシュは頭を下げて、夏の光の中へ出た。


――――――――――――――――――――


 坂を下りる頃になっても日はまだ高いところにあった。

 夏は一日が長い。冬なら暮れている時刻に、影がまだ伸びきっていない。井戸端で誰かが桶の水を頭からかぶって、まわりの子どもが声を上げている。通りの石は昼の熱を残していて、素足で歩く子は端の土の上を選んで歩く。


 広場の端でガイが待っていた。木剣を提げて、もう片方の手で首の汗を拭いている。


「遅えよ」


「塔が長かった」


「いいから構えろ」


 夕方に数本合わせるのはいつからか決まりごとになっている。何本と決めてはいない。腕が言うことを聞かなくなったら終わりだ。

 ガイの踏み込みは春より深くなった。浅く入って速く切り替えるのは変わらない。変わったのは、浅い踏み込みの奥にもう一段あることだ。一段目を受けると、受けた反動の内側から二段目が来る。

 三本目でそれをもらった。木剣の腹で受けて、肩まで抜ける。


「今の、二つ入ってただろ」


「入ってた」


「親父の受け売りだけどな」


 ガイは笑って、それから木剣を下ろした。


「今日、菓子の日だろ」


「知ってたの」


「去年言ってた。行けよ、冷める前に」


 菓子は冷めても甘い。言わずにおいた。


 帰り道の途中、肉屋の前だけ空気がひやりと変わる。冷却石が仕事をする季節だ。井戸に寄って顔を洗った。水は昼のあいだにぬるくなっている。それでも洗うと汗の分だけ軽くなった。頭からかぶるのはやめておいた。濡れて帰ると母の仕事がひとつ増える。


 家の戸口の手前で、甘い匂いがした。

 竈《かまど》の方から来る匂いだ。年にいくつもない匂いなので体の方が先に思い出す。


 戸を開けると母が竈《かまど》の前にいた。


「おかえり。今日は早いね」


「匂いがしたからです」


「坂の上まで?」


「戸口の前です」


「なら普通よ」


 卓には兄がいて、焚きつけの書き板を膝に載せていた。炭で字を書いている。自分の名前の四つの字は冬の終わりに全部書けるようになったから今書いているのは名前ではない字だ。書いては炭の側面で擦って、また書いている。何の字かは聞かなかった。


「ガイと合わせてきたのか」


 書き板から顔を上げずに兄が言った。


「三本です。二段目が来るようになっていました」


「だろ。フェイさんの仕込みだな。俺も先週もらった」


 リアが土間を渡ってきて、アシュの膝に手をかけた。


「あしゅ、おかえり」


「ただいま」


「なんで、おそい?」


「今日は早いよ」


「なんで?」


 答える前に、リアはもう竈《かまど》の方へ歩き出していた。答えを聞くために聞いているのではない。この妹は今、聞くこと自体をやっている。


 夕食は普段どおりだった。終わってから菓子が出る。

 焼き菓子だ。丸くて、上に蜜が塗ってある。去年の誕生日の夜にもこれが出た。


「八つね」


 母が皿を置きながら言った。


「あんたを産んだ日もこんなふうに暑かったのよ」


「なんで?」


 リアが横から言う。


「夏だもの」


「なんで?」


「夏は暑いの」


 母はそこで打ち切って笑った。


 リアの前にも小さいのが一つ置かれた。リアは両手で持ち上げて、しばらく眺めてから割った。半分を自分の口へ入れ、残りの半分をアシュの皿へ置く。


「あしゅ」


「僕のはあるよ」


「あしゅ」


 置いたことに満足して、自分の席へ戻っていく。戻ってから自分の半分を指でつついた。


「まる」


「割ったからもう丸くないよ」


「まる。あまい」


 丸くて甘い。それで足りているらしい。


 母が笑った。


「あんたの癖よ、それ。パンを半分置くでしょう。あの子、ずっと見てたのよ」


 兄は自分の菓子を割らずにかじった。


「俺は割らねえぞ」


「はい」


「割るとこっちが半分になるだろ」


 リアが卓の縁から顔を出して、兄を見た。


「なんで?」


「半分だからだよ」


「なんで?」


「割ったら半分なんだよ」


「なんで?」


「……知らねえよ」


 兄が先に沈んだ。リアは満足して、今度は父の方を向く。


「まんま」


「なんだ」


「まんま、なんで?」


「……何がだ」


 リアは答えずに待っている。聞き返された分だけ、聞いた方が偉くなったような顔だ。

 父は椀を置いて、少しのあいだ考えてから言った。


「分からん」


 リアは頷いた。分からん、で足りたらしい。


 父の呼び名は、まだ来ない。名前はみらとあしゅとれいんの三つだ。四つ目だけが空いている。去年のこの菓子の夜、この妹はまだ誰の名前も言えなかった。今はいくらでも喋る。喋るのに、そこだけが来ない。


 菓子は甘かった。蜜の下の生地に、塩をひとつまみ入れるのが母の決まりだ。


 皿を下げながら母がアシュの腕を見た。


「腕当ての紐、また短くなったんじゃないの」


「なりました」


「革は伸びないのよ。あんたが伸びるの」


 去年の誕生日には父からあの腕当てをもらった。革は今も毎朝使っている。紐の足りない分は、そのうち母が付け替えるのだろう。

 八つになった夜は、それで終わるはずだった。


 片づけの水音が始まった頃、父が立った。


「アシュ」


「はい」


「土間へ来い」


――――――――――――――――――――


 土間の壁には掛け棒がある。

 四本掛かっている。父の剣。兄の鉄剣。兄から受け継いだ木剣。いちばん上がアシュの鉄剣だ。


 春に父が買った。街道口の行商の筵(むしろ)の前で、並んだ中のいちばん短い一本を腕に沿わせてみて、それでも柄の先が肘より下へ落ちた。今日から使うんじゃない、というのがあの時の父の言い分だ。持っておかんと使える日が来た時に借りることになる、とも言った。

 借り物の鉄剣なら、秋から春まで手の中にあった。重さも重心も覚えている。自分の鉄剣を握ったのは買った日の一度きりだ。覚えているのはその一度の重さだけになる。

 買った日から一度も下ろしていない。届く高さに掛けると毎日触る、毎日触る物はそのうち軽く感じる、と父は言った。だから届かない高さに掛けてある。

 春の初めのあの夕方、爪先を立てても指はいちばん上に届かなかった。


 父は竈《かまど》の火を背にして立った。


「取ってみろ」


 アシュは棒の下に立った。

 見上げる。春より近い。近いといっても指の幅がいくつか縮んだだけの近さだ。

 爪先を立てた。

 指の先が、柄に触れた。


 触れただけでは下ろせない。壁に手をついて、足の位置を半歩だけ変える。柄の端に指をかけて、手前へ滑らせる。棒の受けから外れて、重さが落ちてきた。両手で受ける。

 腕が下がる。膝で受けて、止まった。


 驚いた。

 重さにではない。

 覚えていた重さより、軽い。


「どうだ」


「……取れました」


「重いか」


「重いです。でも」


 アシュは手の中の鉄剣を見た。買ったままの、布も巻いていない鉄剣だ。柄に薄く油の匂いがする。この三月、自分は一度も触っていない。


「錆びる物は、掛けておくだけでも錆びる」


 聞く前に父が言った。触るなと言った人が、拭く方は続けていたことになる。


「春に思った重さより、軽いです」


「鉄は変わらん」


 父は動かずに言った。


「変わったのはお前だ」


 アシュは柄を握り直した。握りの太さは変わらない。手の方が育って、指が前より深く回る。

 振らない。振っていいとは言われていない。


「振るのは」


「まだだ」


「はい」


 父は掛け棒を見上げた。


「届かん高さに掛けたのは触らんようにするためだ。届いた棒は、もうその仕事をせん」


「はい」


「明日から触らんでおくかどうかは、棒じゃなくてお前が決めることになる」


 アシュは頷いて、それから気づいた。

 届かないところにある物は、まだ自分の物ではないと春に思った。届けば自分の物になる、と。

 違う。届いた日に増えたのは触らないと決める側の仕事の方だ。


 掛け直しは下ろすより難しかった。

 重さは下へ落ちたがる。落ちたがる物を、届いたばかりの高さまで持ち上げて、細い受けに載せる。爪先が二度ぐらついて、三度目に載った。


 棒の上で鉄剣が小さく揺れて、止まる。


 下で見ていた父は、手を貸さなかった。貸さない側に立っている時のこの人は、たいてい黙っている。


「拭くのは」


 アシュは聞いた。


「明日からお前がやれ。触らんと決めた日も、拭く日は触ることになる」


「いいんですか」


「拭く手と振る手は別だ」


 布と油は竈《かまど》の脇の箱にある。父がどの布を使っていたかは明日たしかめればいい。


「八つだったな」


「はい」


「よし」


 父は先に居間へ上がっていった。


 アシュはもう一度だけ見上げた。

 いちばん上の鉄剣は、昨日までと同じ場所に、昨日までとは違う遠さで掛かっている。

 爪先を下ろす。かかとの下の土間は、夏の夜でもひんやりと冷たい。

 居間へ上がると卓の方からまだ菓子の匂いがしていた。


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