第六話 塔の老人
老人がこちらを見ていた。
アシュも見ていた。
どちらも何も言わなかった。竈の音だけが部屋に満ちていた。薬草に近い匂いがした。甘くはなくて、少し苦い種類の匂いだった。
老人の目はオレンジ色だった。白髪で、痩せていた。立っていればアシュの頭が腰のあたりに来るくらいの背丈だった。さっき青い目を見たときの止まり方が、ライナとは違っていた。ライナは反射的に止まる。習慣のように、毎回同じタイミングで。でもこの老人は、意図して止まっていた。確かめるために、見ていた。
アシュも老人を見た。
それから部屋を改めて見渡した。
棚がいくつも並んでいて、本と、瓶と、石と、正体の分からないものが雑然と置かれていた。天井に光の付与石が複数埋め込まれていた。白い光が均一に部屋を照らしていた。竈の横に大きな保温の付与壺があった。棚の一角に石板が積み重なっていた。
全部、光っていた。
強さが全部違った。天井の付与石は明るかった。付与壺は薄かった。棚の石板は種類によってばらばらだった。扉の横の石壁に刻まれていたものが一番薄かった。部屋に入る前から見えていたが、今もかすかに光っている。
それぞれに流れがある。それぞれに形がある。でも意味は分からない。
部屋の中にいる間だけで、これだけの魔法式が視界に入る。今日の昼に町を歩いたときも同じだった。見え始めると、至るところにある。当たり前のように置かれていて、当たり前のように使われていて、誰もその中身を気にしていない。アシュだけが光を見ていた。
棚の石板を一枚、目で追った。光の強さが隣の石板と微妙に違った。刻まれている魔法式が違うからだと思う。同じ形に見えても、中身が違う。外から見ても分からないものが、光には出る。そういうものなのかもしれない。
老人が先に口を開いた。
「名前は」
「アシュ・ヴァルド」
「ヴァルドか」
老人が低く繰り返した。
「冒険者のガルドの息子か」
「そうです」
「あいつにもう一人息子がいたとは知らなかった」
独り言のような言い方だった。アシュへの問いかけではなかった。アシュは何も答えなかった。
ガルドと面識がある。それだけ分かった。どういう経緯かは分からない。
老人が棚から何かを取り出した。
小さな石だった。親指ほどの大きさで、角が丸い。表面に文様が刻んである。老人はそれをアシュの前の卓に置いた。
「これが何か分かるか」
アシュは石を見た。
文様は細かくて整っていた。石そのものは何の変哲もなかったが、文様の中に何かある気がした。見ていると、文様の一部がわずかに光って見えた。どこが起点で、どの方向に流れているか、少しだけ追えた。
外から内に向かっている。今日の昼に町の水汲み場で見た浄水石と、流れの向きが同じだった。
「魔道具だと思います」
「何の効果だ」
「水に関係してるかも」
「なぜそう思う」
「流れが、外から内に向かってます。今日、浄水石が光るのを見て。同じ感じがした」
老人の目が少し動いた。さっきまでとは違う見方になった。確かめる目から、測る目に変わった気がした。
「当たりだ」
老人が言った。
「浄水の付与石だ。ただ、理由が半分しか合っていない」
「半分」
「外から内に向かうのは正しい。だがそれは浄水の特徴ではない。収束型の魔法式全般に言えることだ。熱を集める石も、アニマを蓄える石も同じ方向に流れる。それだけでは浄水とは言えない」
アシュは石を見た。
言われてみればそうだ。方向だけでは何かを集めているとしか分からない。何を、何のために集めるかは、別の情報がいる。流れの向きは入口でしかなかった。
「じゃあ残り半分は」
「教えてやる義理は今のところない」
老人がそう言って、石を回収した。
アシュは黙っていた。怒っていなかった。半分間違えたのはこちらだ。義理がないのは理屈として正しい。
だからこそ、もう一度聞く価値がある。
「弟子にしてください」
「断る」
「なぜですか」
老人が少し眉を上げた。
「なぜを聞いてどうする」
「理由によります」
老人がしばらくアシュを見た。それから小さく息を吐いた。笑ったわけではなかったが、何か変わった気がした。空気が、少しだけ動いた。
「子どもに教えることはない。それだけだ」
「それは理由じゃないです」
「同じことだ」
「違います」
アシュは言った。
「なぜ子どもには教えないのか。そこが理由のはずです」
老人が黙った。
部屋の中で何かが煮える音がしていた。竈の上の鍋だった。老人は立ち上がってそちらに向かい、鍋をかき混ぜた。アシュは老人の背中を見ていた。痩せた肩が、ゆっくりと動いていた。追い返すつもりなら、もう追い返している。まだここにいるということは、何かを考えている。
老人が背中を向けたまま言った。
「お前はいくつだ」
「五歳です」
「五歳が何をしに来た」
「魔道具の仕組みを知りたい」
「知ってどうする」
アシュは少し考えた。
魔道具を作りたいとは思っていなかった。使いたいとも今は考えていなかった。ただ、光が見えた。文様の流れが見えた。それが何を意味するのか知りたかった。仕組みを知らないまま見え続けるのが気持ち悪かった。
前世でも似たような感覚があった。コードが走っているのは分かるのに、何をしているのか読めない状態。それに近かった。見えているのに、意味の手前で止まっている。
ただ「気持ち悪い」という言葉が正確かどうかは、自分でも自信がなかった。知りたいのか、知らなければならない気がしているのか。どちらかと言われると、どちらでもある気がした。見えてしまっている以上、意味を知らずにいるのは難しかった。
「見えてるものの意味が知りたい」
老人が振り返った。
「見えているもの」
「魔法式が光って見えます。流れの向きとか、起点とか。でも意味が分からない。気持ち悪い」
老人が鍋から離れて、こちらに戻ってきた。椅子に座って、腕を組んだ。それからアシュの顔を覗き込んだ。青い目をまじまじと見た。さっきとは違う。今度は意味を探すような見方だった。老人のオレンジの目と、アシュの青い目が向き合った。
「……本当に見えるのか、魔法式が」
「はい」
「何色に見える」
「白に近い光です。強さは場所によって違う。天井の付与石は明るかった。浄水石は薄かった。扉の横の石壁にも何か刻まれてて、あれは特に薄かった」
老人の目が少し変わった。
「扉の横か」
「何の効果かは分からなかったけど、光ってた」
老人がしばらく黙った。何かを考えている顔だった。それから短く言った。
「来訪者を知らせる術式だ。客が来ると竈の石が一度光る」
アシュは納得した。だから老人は気配を知っていた。扉を叩いたとき、返事が早かった。老人はもう近くにいた。術式が知らせていたからだ。
老人は説明する必要のないことを教えた。それが何を意味するのか、まだ分からなかった。でも、記録しておく価値はある。
「厄介なものが来た」
老人が低く言った。独り言のような声だった。
アシュは何も言わなかった。答えを待っている方が有益だと判断したからだった。
「一つだけ試してみる」
老人が立ち上がって、棚から石板を一枚取り出した。手のひらより少し大きい、薄い石板だった。老人がそれを卓に置いた。
「これを見ろ。見えるものを全部言え」
アシュは石板を見た。
表面に魔法式が刻まれていた。光っていた。浄水石よりずっと複雑だった。流れが複数あって、向きも本数もばらばらで、どこかで交差していた。流れの密度も均一ではなかった。濃いところと薄いところがある。
一本ずつ追った。どこから来て、どこへ向かっているか。それだけを追った。焦らなかった。焦る理由がなかった。
流れの一本が、石板の左の端から中央に向かって走っていた。途中で密度が上がった。交差点に近づくにつれて濃くなっていた。もう一本が右の端から同じ点に向かって、こちらは密度が一定だった。その二本が中央でぶつかっている。
逆方向の流れが二本。どちらも中央から外へ向かっていたが、向かう先が違った。一本は石板の上端へ、もう一本は左端の別の点へ。左端の点で、さっきの収束の流れと再び交差していた。これが二つ目の干渉点だ。
「四本の流れがあります」
アシュは言った。
「二本が外から内。二本が内から外。交差してる場所が二箇所。中央と、左の端」
老人が何も言わなかった。続けろということだと思った。
「密度が均一じゃない。中央の交差点に近い部分の流れが濃い。左の端に向かってる流れは全体的に薄い」
「密度が見えるか」
老人の声が少し変わった。低くなった。さっきとは違う種類の反応だった。浄水石を当てたときの「測る目」とも違う。もう少し、奥の方にある反応に見えた。
「色の濃さが変わる感じで見えます」
「……そうか」
老人がしばらく黙った。鍋の音がしていた。窓の外で風が動いた。
それから老人が石板を裏返した。裏面にも文様があった。
「今度は」
「収束だけです。二本が同じ点に向かってる。表の中央の交差点と位置が対応してる気がします。表と裏がつながってる」
老人がまた石板を置いた。
部屋が静かになった。竈の音だけが続いていた。
老人はしばらく何も言わなかった。石板を見ているわけでもなく、アシュを見ているわけでもなく、ただ黙っていた。アシュも待った。急かしても意味がない。この老人は急かして動く種類の人間ではないと、会ってから短い時間で分かっていた。
老人がゆっくり口を開いた。
「……お前は青い目の意味を知っているか」
「変わった力を持つ者が多いって聞きました」
「それだけか」
「それだけです」
「誰から聞いた」
「父のパーティの魔法使いから」
老人が少し目を伏せた。
また黙った。今度は長かった。部屋の空気が少し重くなった気がした。老人が何かを決めようとしているのか、それとも全く別のことを考えているのか、外からは分からなかった。
アシュはじっと待った。
竈の音がした。風が窓を鳴らした。老人が棚に向かって、石板を一枚手に取った。さっきアシュが読んだものとは別のものだった。開くでもなく、ただ手の中に持ったまま、また黙った。
「……今日はここまでだ」
「また来てもいいですか」
「……好きにしろ」
追い返すとは言わなかった。
アシュは立ち上がった。
「ありがとうございました」
老人は答えなかった。手の中の石板に目を落としていた。アシュに背を向けたまま、それだけで終わりにするつもりらしかった。
アシュは扉をくぐった。
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路地に出ると、昼の光がまぶしかった。
石畳が乾いていた。入ったときより時間が経っていた。どのくらい経ったか、正確には分からなかった。
しばらく塔の前に立っていた。煙突から煙が細く上がっていた。中ではまだ何かが煮えている。老人はまだそこにいる。
弟子にするとは言われなかった。でも好きにしろとも言った。追い返されなかった。来訪者術式の話を、わざわざ自分から教えてくれた。教える必要のないことだったのに。
半分間違えた。でも半分は合っていた。石板は全部読めた。密度が見えると言ったとき、老人の声が少し変わった。あの反応は、普通の反応ではなかったと思う。
「厄介なものが来た」というのも、悪い意味だけではない気がした。少なくともそのあと追い返さなかった。「好きにしろ」は「来るな」ではない。アシュはそう解釈した。解釈が間違っていたとしても、また来て確かめればいい。
アシュは路地を歩き始めた。
石畳の端に水たまりが残っていた。踏まないように脇を歩いた。路地の突き当たりを曲がると、市場の方からざわめきが戻ってきた。人の声と、荷馬車の音と、どこかの店の鉄を叩く音。塔の中とは全然違う空気だった。
ガイはまだ広場にいるかもしれない。でも今は少し、歩きたかった。頭の中でさっきのやり取りを整理したかった。どこが合っていて、どこが足りなかったか。次に来るときまでに、何を考えておくか。
浄水石は半分正解だった。収束型、という言葉を老人は使った。収束型の魔法式全般の特徴。では、何が浄水を浄水と決めるのか。流れの向き以外の、別の何かがある。老人は答えを教えなかった。でも問いは残った。問いが残るなら、また来る理由になる。
来てよかった、と思った。一拍遅れてから、そう思っていると気づいた。
もう一度来る。
そう決めて、アシュは町の中へ戻っていった。




