第五話 魔道具
朝、目が覚めると台所から音がしていた。
ミラが何かを煮ている音だった。鍋が微かに揺れる音と、木べらが底をこする音。アシュはしばらく布団の中でそれを聞いていた。毎朝同じ音がする。同じ時間に起きて、同じ順番で朝食を作る。ミラはそういう人間だった。
起き上がって廊下に出た。
台所を覗くと、ミラが竈の前に立っていた。傍らに小さな石が置いてあった。親指ほどの大きさで、表面が少し黒ずんでいた。火起こし石だとアシュは知っていた。叩くと確実に火花が出る。普通の火打石より失敗がない。
「おはよう」
ミラが振り返らずに言った。鍋をかき混ぜながら答えた。
「今日も早いね」
「うん」
アシュは台所の入り口に寄りかかって、ミラの動きを見ていた。
竈の横に光の付与石が置いてあった。手のひらよりひとまわり小さい、丸みを帯びた石で、薄く光っていた。朝の準備をするには窓からの光だけでは足りないからだ。ランタンより小さくて邪魔にならない。ミラは台所ではいつもこれを使っていた。
窓際に保温の付与壺があった。昨夜の残りのスープが入っている。朝になっても温かいままだった。
アシュは台所の中を見渡した。
よく考えると、魔道具が至るところにある。火起こし石、光の付与石、保温壺。当たり前のように使われているから気にしたことがなかったが、一つひとつに魔法式が刻まれている。誰かが作ったものだ。
「これ、全部魔道具だよね」
ミラが少し振り返った。
「そうよ。なんで急に」
「気になって」
「火起こし石はランドじいちゃんからもらったやつね。光の石はガルドが買ってきたわ。保温壺はあたしが嫁入りのときに持ってきたやつね」
ランドじいちゃんというのはミラの父親のことだ。町で酒場を営んでいる。アシュも何度か会ったことがある。おしゃべりで面倒見がいい人間だった。
アシュはそれを聞きながら頭の中で整理した。嫁入りのとき。つまりかなり前から家にある。それでもまだ使えているのか。
「壊れないの」
「長く使うと弱くなるよ。保温壺はもう少し温度が下がってきた気がする。そろそろ手入れに出した方がいいかもしれないわ」
「手入れって」
「魔道具屋に持っていくと、魔法式を刻み直してくれるのよ。また新品みたいに使えるようになるんだけど高いんだよね」ミラが苦笑した。
「ガルドに頼まないといけないわ」
アシュは保温壺を見た。表面に細かい文様が刻まれていた。嫁入りのときから使っているということは、十年以上前のものだ。それでもまだ温かさを保てている。
「誰が作るの、魔道具って」
「魔道具職人っていう人たちよ。滅多にいないんだって。作れる人が少ないから高くなるのよ」ミラがスープを器に盛りながら言った。
「なんで急にそんなこと気になったの」
「昨日、オルトさんにアニマのことを聞いたから」
ミラが少し手を止めた。それから何も言わずにスープを渡してくれた。アシュはそれを受け取った。温かかった。保温壺の中で一晩保たれていた温度だった。
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朝食が終わってから、アシュは外に出た。
秋の朝の空気は少し冷たかった。石畳が昨夜の雨で濡れていた。水たまりに空が映っていた。
町を歩くと、あちこちに魔道具があった。今まで見えていなかったものが急に見えてきた感じがした。
肉屋の軒先に冷却石が置いてあった。平たい石で、その上に肉が並んでいた。夏場でも鮮度が保てる。肉屋の親父がそれを当然のように使っていた。アシュが立ち止まって見ていると、親父が「何か買うか」と言った。「見てただけです」と答えると、「変な子だな」と言われた。ガイにもよく言われる言葉だった。
薬屋の窓に光の付与灯があった。ランタン型ではなく、指向性があって一方向を照らすやつだ。棚の薬草を照らすのに使っていた。炎がないから火事の心配もない。薬屋の老婆がアシュに気づいて手を振った。アシュも軽く頭を下げた。この老婆は雨の日だけ店を閉める。今日は晴れているので開いていた。
道具屋の前に農具が並んでいた。鍬や鎌が何本か立てかけてある。その中の一本に、柄の部分に細かい文様が刻まれているものがあった。これも魔道具なのかもしれないとアシュは思った。値札を見ると金貨二枚と書いてあった。隣に並んでいる普通の鍬は銀貨三枚だった。文様一つで、それだけの差がつく。それでも買う人間がいるから売っている。
路地の曲がり角に街灯があった。石造りの柱の上に、炎のランタンが取り付けられていた。夜になっても消えない炎。誰かが火をつけたわけでも、誰かが管理しているわけでもない。燃え続けている。
アシュは立ち止まってそれを見上げた。
この町のあちこちに、魔道具がある。生活の中に溶け込んでいて、誰も特別なものとして見ていない。でも全部、誰かが何らかの方法で魔法式を刻み込んで作ったものだ。どうやって出来ているのかは分からなかった。
橋のたもとに水汲み場があった。石造りの水盤に、常に水が流れ込んでいる。上流から引いた水だが、水盤の底に浄水の付与石が沈めてあった。町の人間が桶を持ってくる場所だった。子供が水盤の縁に手をついて水を飲んでいた。当たり前の光景だった。
その子供の手が水に触れる前に、水盤の底の石がわずかに光った。アシュにはそれが見えた。他の人間には見えていないらしかった。
なぜ見えるのかは分からなかった。ただ、光った。
どうやって作るんだろう。
そう思った瞬間、頭の中で何かが動いた。作り方を知りたい、というよりも、仕組みを知りたいという感覚だった。魔法式がどういう構造をしていて、どうやって物体に定着して、どういう条件で効果が出るのか。
全部、まだ知らない。
アシュは歩き続けた。
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ガイは広場にいた。
いつもの場所で棒を構えていた。アシュが来たことに気づいて、構えを解いた。
「今日は遅いな」
「町を歩いてた」
「何してたんだ」
「魔道具を見てた」
ガイは少し考えた。
「魔道具って、剣を強化するやつか」
「そんなのもあるの。台所とか、街灯とか、いろんなところにあった」
「あー」ガイが頷いた。「言われてみれば家にもある。父さんが腰に下げてる水筒、中身が冷たいままなやつ」
「冷気の加護が入ってるんだと思う」
「なんで分かるんだ」
「そういう魔道具があるって聞いたから」
ガイがまた「変なやつだな」と言った。悪口ではなかった。
二人はしばらく並んで座った。広場を行き交う人を見ながら、アシュは魔道具のことを考え続けていた。仕組みが知りたかった。でも誰に聞けばいいか分からなかった。
広場の向こうに薬屋が見えた。窓に光の付与灯が光っていた。その隣の布屋の軒先に、小さな風除けの付与布が張られていた。風が吹いても揺れない。布の端に魔法式が刻まれているからだと推測した。
見始めると止まらなかった。町のあちこちに魔道具がある。当たり前のように使われているから今まで意識しなかった。でも今日から見え方が変わった気がした。
オルトが言っていたことを思い出した。
街外れに変な爺さんがいる。魔法に詳しいらしい。
アシュは広場の端から、南の路地の方向を見た。あの古い塔がある方向だった。今日も煙が出ているかは分からなかった。でも、たいてい出ている。
「どこか行くのか」
ガイが聞いた。アシュが遠くを見ていたのに気づいたらしい。
「行きたいところがある」
「どこ」
「街外れの塔」
ガイが少し間を置いた。
「変な爺さんがいるって言われてるとこか」
「そう」
「一人で行くのか」
「うん」
ガイは何も言わなかった。止めるでも一緒に行くでもなく、ただ頷いた。それがガイだった。アシュの判断に口を出さない。
「行ってみる」
アシュは立ち上がった。
ガイが短く言った。
「また来いよ」
アシュは頷いて、南の路地の方向へ歩き始めた。
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路地に入ると、空気が変わった。
市場の賑わいが遠くなって、石畳の音が自分の足音だけになった。南の区画は住宅が多い。昼間でも人通りが少なかった。
塔が見えてきた。
路地の突き当たり、周囲の建物から少し離れた場所に建っていた。石造りで、三階建てほどの高さがある。窓が少なく、壁に蔦が這っていた。煙突から薄い煙が出ていた。今日も誰かいる。
アシュは路地の入口で立ち止まった。
前回ここに来たのは四歳のときだった。レインと歩いていて、路地の奥にこの輪郭を見た。あのときは遠くから見ただけだった。今日は近づくつもりだった。
一歩、踏み込んだ。
石畳が続いていた。両側に古い石壁が迫っていた。塔に近づくにつれて、空気の感じが変わってくるのが分かった。温度ではない。音でもない。何かが違う。うまく言葉にならなかったが、前回ここに来たときと同じ感覚だった。
扉の前まで来た。
古い木の扉だった。鉄の取っ手がついていた。表面が少し傷んでいたが、朽ちてはいなかった。扉の横に小さな魔法陣が刻まれていた。何の効果かは分からなかった。
アシュは扉を見た。
ノックするか迷った。迷ってから、した方がいいと判断した。追い返されるかもしれない。でもオルトが「追い返されたらそれはそれで収穫だ」と言っていた。それはそうだと思った。
扉を三回叩いた。
何も起きなかった。
もう一度叩こうとしたとき、扉の向こうから声がした。
「なんか用か」
思った以上に早い反応で驚いた。
低い声だった。老人の声だった。
アシュは少し考えた。帰るつもりはなかった。ただ、何を言えばいいかを考えた。
「魔道具の仕組みが知りたい」
沈黙があった。
「帰れ」
「まだ帰りたくない」
また沈黙があった。今度は少し長かった。
扉が開いた。
白髪の老人が立っていた。痩せた体で、薄いオレンジの目をしていた。アシュを上から下まで見た。それから青い目のところで少し止まった。
老人は何も言わなかった。
アシュも何も言わなかった。
しばらく二人は無言で向き合っていた。外の風が路地を抜けていった。煙突から煙が流れた。
老人の目が動いた。アシュの目から、顔へ、体へ、また目へ。何かを確かめるような見方だった。ライナが青い目を見て止まるのとは違った。ライナは反射的に止まる。この老人は意図的に見ていた。
「……入れ」
老人がそれだけ言って、中に戻っていった。アシュは扉をくぐった。
塔の中は思ったより広かった。石造りの床に、棚がいくつも並んでいた。本と、瓶と、石と、正体の分からないものが雑然と置かれていた。奥に竈があって、何かが煮えていた。
魔道具が随所にあった。
天井に光の付与石が複数埋め込まれていた。炎のランタンではなく、白い光が均一に部屋を照らしていた。棚の一角に、表面に細かい文様が刻まれた石板が積まれていた。何かを記録するものだろうと推測した。竈の横に、外のものより大きな保温の付与壺が置かれていた。
アシュは部屋の中を一度見渡した。
老人が椅子に座って、こちらを見ていた。
「何が知りたい」
「魔道具の仕組みです」
「なぜ」
アシュは少し考えた。
「見えるから」
「何が見える」
「魔法式が光るのが見えます。水汲み場の浄水石が光るのが見えた。他の人には見えていなかった」
老人がわずかに目を細めた。
「青い目か」老人が低く言った。独り言のような声だった。「……座れ」
アシュは部屋の奥の椅子に座った。老人がこちらを見ていた。まだ何かを確かめている目だった。
追い返されなかった。
それだけで、今日来た意味はあった。アシュは椅子に座って、老人を見た。老人もこちらを見ていた。どちらも何も言わなかった。窓の外で風が路地を抜けていく音がした。煙突の煙が揺れた。
ここから何かが始まる気がした。うまく言葉にならなかったが、そう思った。




