エピローグ
町の壁が轍の向こうへ低くなっていく。
男は御者台で手綱を握り直した。馬の足は速めない。
急ぐ旅ではない。
今年は、急ぐ理由の方がなくなった。
荷台は軽い。
箱は二つとも空で、鞄の中身も置いてきた。置いてくるために積んできた物だからこの減り方は正しい。
持って帰るのは帳面だけだ。
去年もこうして町を出た。違うのは頁だけだ。
あの家では、こちらが懐から出すより先に卓を書付が一枚滑ってきた。
公爵家の預かり、と書いてある。子の名前は書いていない。
名前を書かずに家ごと括る書き方を、あれを書いた者は知っている。知っている者は、名前を書く必要のない場所に座っている。
男が扱うのは順番だ。
誰の話を先に通すか、誰の口利きを先に届けるか。順番は、並ぶ場所がある限りいくらでも作れる。
あの一枚は、並ぶ場所の方を消す。
去年、断られた家のことは頁の上でこう書いた。
伺った。お返事をいただいた。
断りは出来事であって、失敗ではない。話をしていない家より、話をして断られた家のほうが、次に申し出るまでが短い。
今年は一行増える。
動かない、とは書かない。
書くのは三つになる。伺った。お返事をいただいた。公爵家の預かりが先にある。
そう書いておけば、次にあの家へ行く者は預かりを外せる書付を先に用意してから行く。
自分には出せない書付だ。出せる者に頼めばいいだけの話でもある。
嘘は一つも書いていない。
嘘は帳簿に穴を開ける。
卓の向こうであの家の母親が言った。
この子の値段を決めるのは、この子です。
よい言葉だと思った。思ったとおりのことを、思ったとおりに返した。
値をつけるのは自分ではない。自分がするのはそれがどこにあるのかを正確に書き留めることだけだ。
去年、坂の上で書いた一行は今年も直していない。
――ある。
依頼の文面の金額の欄は来た時のまま空いている。埋めるのは自分の仕事ではない。
名は一度も呼ばなかった。
呼ばずに済む家だった、というだけの話だ。帳面には書いてある。
南へ出す手紙は二通と決めている。
同じ厚さ、同じ封。
宛先が二つあるのは片方が届かない時のためだ。
自分が来なくなっても、頼んだ方がいなくなるわけではない。あの家の主にそう言った時、男は自分のことを言っていた。
峠はもう乾いている。
閉まる前に、という言い方が今年は使えない。急がせる季節がないというだけで同じ道がずいぶん長く見える。
次にいつ伺うとは言わなかった。
いつになるか分からないことは言わない。
門を出るとき、客人は振り返らない。
男はその型のとおりに、振り返らなかった。
次に笑う門を、まだ決めていない。




