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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
客人は笑う

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第三十四話

 布は母の物だった。繕い籠の下に敷いてある古い一枚を、朝のうちにもらった。

 アシュはそれを居間に広げて、上に鉄剣を置いた。刃の縁は落としてある。斬る道具ではなく、叩く道具だ。秋に借りてから何度拭いたか分からない。拭くたびに油の匂いがして、その匂いはもう自分の手の匂いと区別がつかなくなっていた。


 布の端を折って、包んだ。


「持てる?」


 台所から母が言った。


「持てます」


「重いでしょう」


「重いです」


「そう」


 母はそれ以上言わなかった。前掛けで手を拭いて、包みの結び目を一度だけ見た。


 兄が戸口の柱にもたれて見ている。


「一人で行くのか」


「うん」


「途中まで行こうか」


「いい」


 兄は肩をすくめて、それから焚きつけの板を膝に載せた。炭で自分の名前を書いている。四つ目の字のところで手が止まって、また戻る。


 リアが土間から居間へ上がってきて、包みを指でつついた。


「あしゅ」


「そう」


「ないない」


「持っていくんだよ」


 リアはもう一度つついて、それから戸口の方を向いた。庭で父が動く音がする。


「まんま」


 名前は三つのままだ。父の分だけがまだ来ない。


 アシュは包みを両手で抱えて土間へ降りた。抱えると腕が下へ引かれる。初めて受け取った日と重さは変わっていない。変わったのは引かれた分をどこで受けるかを体が知っていることの方だ。


――――――――――――――――――――


 ガレアの詰所は板塀に囲まれている。屋根の低い建物が二つ、並んだまま朝の光を半分ずつ受けている。


 塀の外で若い衆が二人、木の棒で打ち合っていた。片方が顔を上げる。


「ヴァルドんとこの」


 ニコだった。棒を肩に担いで包みの形を見る。


「返しに来たのか」


「はい」


「団長は奥だ」


 ニコは中へ首を向けて、それから打ち合いに戻った。手を止めたのはそれだけだった。


 塀の内側の隅にガイがいた。木剣を提げている。今年もまだ木剣だ。


「返すのか、それ」


「うん」


 ガイは包みを見て、それから顔を上げた。


「一本、受けろよ」


「返しに来たんだけど」


「返す前ならまだ借り物だろ」


 理屈になっていない。なっていないが、断る理由の方も見つからなかった。


 アシュは布を解いて鉄剣を出した。

 ガイの木剣が肩口へ落ちてくる。斜めに出して当てる。当てた衝撃が手首で止まらずに背中まで抜けて、足の裏で地面に着いた。


 二本目は少し速い。

 三本目でガイが本気の踏み込みを混ぜた。それも同じところで止まった。


 初めてこれで受けた日は七本目で腕が笑った。今は十本受けても笑わない。


「もういい」


 ガイが木剣を下ろした。


「一昨日のあれ、もういいからな」


「一昨日の」


「聞いたやつ。お前に言わせようとした」


 ガイは木剣の先で土を掻いた。


「親父に言ったからさ。言ったらそれで済んだ。お前に言わせる必要はなかった」


 アシュは鉄剣を布へ戻した。


 済んだ、とガイは言った。済んでいないことをアシュは知っている。一昨日の夜、父はフェイと二人で外へ出た。何の話だったかは聞かされていない。

 知っているのに今それを言えばこの子はまた自分が悪いと思う。


「ありがとう」


「なんで礼なんだよ」


「分からない」


 ガイは変な顔をして、それから笑った。


――――――――――――――――――――


 建物の奥にフェイがいた。壁を背にして木の椅子に腰かけ、革の帯を油の布で拭いている。琥珀(こはく)の目が入り口の方へ動いた。


「来たか」


「はい」


 アシュは卓の上に包みを置いて、布を開いた。


 フェイは布を膝に置いて、鉄剣を取った。窓の光へ刃を向けて、縁を端から端まで見る。指の腹を当てて、戻した。


「欠けとらんな」


「街道には持っていきませんでした」


「知ってる」


 フェイは鉄剣を柄の方から差し戻した。


「振れ」


「今日は返しに来たので」


「返したあとは俺の前でも振れん。振っていいのは俺の前でだけだという約束だ」


 アシュは受け取った。


 冬のあいだ、詰所へは七度来た。来るたびに三本ずつ振らせてもらった。二十一本のうち、決めた場所で止まったのは九本だ。数えていたのはアシュだけで、フェイは一度も数を口に出さなかった。


 決める場所を先に手前へ寄せる。半歩ぶん。十本受けて手が笑わない日を十日数え終えた日にそう言われた。寄せた分がちょうど消える日もあれば、寄せすぎて手前で止まる日もある。


 アシュは鉄剣を正面に立てた。

 板塀の節を一つ選んで、そこから半歩ぶん手前に場所を決める。息を落として、振った。


 剣先は止まった。

 決めたところより、爪の幅ぶんだけ先だ。


「まだ行くな」


「はい」


「一生行く」


 フェイは手を出して、柄を受け取った。


「狭くなればいいんだ。俺のもまだ行く」


 フェイは鉄剣を壁へ立てかけた。立てかける音がして、それで終わりだった。


「あれを貸した時、俺は返す日を言わんかった」


「はい」


「言わんかったのに返しに来た。誰が決めた」


「父です」


「そうか」


 フェイは油の布を取り上げて、また帯を拭き始めた。


「借りた物ってのはな、返す日が決まっとらんと貸した方が先に忘れる。忘れられた物を持っとる奴は、そのうち自分の物みたいな顔をする」


「はい」


「顔をした時にはもう遅い」


 父も同じことを言っていた。言い方は違う。もらった物と変わらん、と父は言った。


「鉄はどうする」


「父が、春に買うと言っています」


「街道口に荷が来てる。峠が開いていちばんに来る男だ。鉄と金物を筵(むしろ)に並べて、三日いて次の町へ行く」


「今日ですか」


「今日か明日だ。行くなら親父を連れていけ。子どもだけで鉄の値は決められん」


 フェイは布の手を止めなかった。


「一昨日、お前の親父と話した」


 アシュは顔を上げた。


「中身は聞くな。聞くなら親父に聞け」


「聞いたら言いますか」


「知らん。言わんかもしれん」


 フェイは帯を裏返した。


「あの家のことは、あの家の親が決める。俺が決めることじゃない」


 それだけだった。

 アシュは頭を下げて、空になった布を畳んだ。畳んだ布は軽い。行きと帰りで腕の引かれ方がまるで違う。


――――――――――――――――――――


 街道口の荷は筵(むしろ)の上にあった。


 鉄剣が長さの順に並べてある。奥に刃のついたもの、手前に縁を落としたもの。金物の類は端の箱にまとめて、鍋の蓋やら閂(かんぬき)の金具やらが日を返している。


 荷の主は口数の少ない男だった。値を聞かれるまで値を言わない。


 父が手前の列を上から見た。


「レイン」


「うん」


「先に選べ」


 兄は筵(むしろ)の前にしゃがんで手を出しかけて止めた。


「どれでもいいのかよ」


「重さを見ろ。長さは後だ」


 兄は三本目を取った。持ち上げて、下ろして、二本目に持ち替えて、また三本目に戻った。


「これ」


「なぜだ」


「先が落ちねえ」


 父は受け取って、自分の手で一度だけ振った。振ったというより、置く場所を確かめただけの動きだった。


「流す型だからな。中心が近い方が合う」


 それだけで決まった。


 アシュの番は短かった。並んだ中でいちばん短いものを当ててみて、それでも前へ構えると、剣の先が下へ落ちる。


「今は重いです」


「重い」


「使えません」


「今日から使うんじゃない」


 父は短い一本を筵(むしろ)から取り上げた。


「持っておくんだ。持っておかんと使える日が来た時に借りることになる」


 値は一本が金貨一枚だった。二本で金貨二枚になる。

 町で働く男が一月に持ち帰る額の、半分ほどだ。


 父は布の包みから出して数えて、筵(むしろ)の端へ置いた。荷の主は同じ場所から取った。

 互いの手はひとつも触れない。


 帰り道でハンナに会った。青菜の籠を抱えて、こちらより先に口が開く。


「あら、二本も」


「はい」


「レインちゃん、いいの持ったねえ」


 兄は布の上から柄のあたりを握り直した。返事はしない。


「ねえ、聞いた? あの人、荷をまとめてるって」


 アシュはハンナの顔を見た。


「ロートスさん?」


「宿の人が言ってたのよ。今度はどこへ回るとも言ってないんですって。またすぐ来るわよ、あの人は」


 ハンナは自分の言った言葉に自分で頷いて、籠を抱え直して行ってしまった。


 まただ、とアシュは思った。

 この町の人は、あの人がどこへ行くかを毎回誰かから聞いてくる。どこから来たかを聞いてきた人は一人もいない。


 父は何も言わなかった。言わずに歩く速さも変えなかった。


――――――――――――――――――――


 坂を上ると塔の扉が開いていた。


 ゼドルは高窓の下の棚の前にいる。棚の上に置いてあるのは桶だった。水が張ってある。


「遅い」


「町に寄っていました」


「何をしに」


「鉄剣を買いに。借りていた分は今朝返しました」


 ゼドルは振り向かなかった。


「返す日を決めたのは誰だ」


「父です」


「そうか」


 老人は桶を両手で下ろして、床へ置いた。


「今日から桶だ」


「はい」


 椀ごと凍るようになったのは、坂の雪が固くなってしばらくしてからだ。初めて底に白が触れた日から、十のうち十が同じ厚さで凍るまでに二十二日かかった。数えたのはアシュだけだ。老人はその間、一度も日を数えなかった。


 二十三日目に、ゼドルは椀を棚の奥へ片づけた。それから今日まで、水を張る器は日ごとに大きくなっている。


「やれ」


 アシュは桶の前に膝をついた。


 水の量が椀とは違う。送る先を細く長く保っても、届く前に薄くなる。上の面はもう考えなくていい。考えるのは底の方だ。


 息を吐いて、送った。


 面が張る。張ったところで止めずにそのまま下へ伸ばす。白いものが内側の壁を伝って落ちていって、底に触れる。触れたところから薄く広がって、真ん中で止まった。


 傾けると中で水の動く音がした。


「真ん中が残ります」


「残るな」


「上と底は同じ厚さになりました」


「なった」


 ゼドルは桶を覗き込んで指の背で縁を叩いた。


 鈍い音がする。椀の時に最後に聞いた音とは違う。


「冬に一晩かけた氷は、どこから凍った」


「端からです」


「そうだ。端から真ん中へ来る。お前は上と底からやっとる。上と底は端だ。真ん中はいちばん遠い」


「椀では届きました」


「椀は小さい。小さいうちは端しかない」


「では、桶でも届きますか」


「届く。時間がかかるだけだ」


 老人は桶を棚へ戻さずに床へ置いたままにした。


「儂《わし》は届く日を言わん。言えばお前はその日まで数える」


 アシュは膝の上で指を握った。数える癖のことを、この人はいつも先に言う。


 聞きたいことが一つあった。

 冬の初めにこの人は名前を出さない場所の話をした。あれからまだ何も言われていない。今日聞けば話は半分だけ進む。半分だけ進んだ話は、半分だけ間違える。


 アシュは桶の水を見た。


「明日も来ます」


「来い」


――――――――――――――――――――


 夕方、ライナが来た。


 土間で立ったまま、居間へ上がろうとしない。父が腰掛けを出しても座らなかった。


「沙汰、出たよ」


 父は卓の前に立った。アシュは居間の端にいる。奥へ行けとは言われなかった。


「帳場を外された。それだけ」


「牢は」


「入らない。館の人が言うには取り上げた分で足りるって」


「壺か」


「壺ごと。金貨で二十四枚。あの人、一枚も使ってなかったからそのまま出せたんだよ」


 ライナは戸口の柱に肩をつけた。


「襲われた荷主に配るんだって。全部には足りないよ。二年で十一だもの。足りない分は館が足すのか足さないのか。そこまでは教えてくれなかった」


 ライナは柱についた肩を少しだけ起こした。


「もしかしたら、あたしらの報酬をあてるのかもね」


 父が顔を上げた。


「受け取らなかった百枚があるでしょ。あれを回せば館は一枚も出さずに済むもの。紙の上では、ちゃんと配ったことになる」


「そうか」


 アシュは膝の上で数えた。

 壺の中身は、今日買った鉄剣の二十四本ぶんだ。父が受け取らなかった方は、百本ぶんになる。

 二年で十一の荷が襲われて、人が死んだ年もあると、オルトが前に言っていた。配られるのは二十四本ぶんだ。


「町にはいるよ。顔は見てない」


 ライナはそこで息を一つついた。


「あたし、あの人が牢に入るならまだ分かるって思ってた。入らないって聞いて、なんでか腹が立ったんだよ」


「そうか」


「そうかばっかりだね、あんた」


「分かるようになる話じゃない」


 父は卓に手をついた。


「俺が名前を出した。出した先で誰がどう決めるかは俺の持ち分じゃない。持ち分じゃないものを分かろうとすると次に名前を出す時に手が鈍る」


「鈍ればいいのに」


「鈍る時は鈍る」


 ライナは笑わなかった。笑わないまま、居間の方を見た。


 アシュと目が合う。合ったまま、逸れなかった。


「大きくなったね」


「はい」


「鉄剣、買ったんだって」


「はい」


「重い?」


「重いです」


「重いよ、最初はね」


 ライナは柱から肩を離した。


「あたしね、昔はあんたの目を見るとどこかが必ず止まったんだよ」


「今は」


「止まらない」


 言って、それきり中へは入らずに帰っていった。


 卓では兄が焚きつけの板を膝に載せている。


「四つ目、書けたぞ」


「裏返らなかった?」


「裏返った。裏返ったけど、こっちが正しい」


 兄は板を回してアシュに見せた。それから、袖で消さなかった。


 リアが板の角をつついて、兄の顔を見上げる。


「れいん」


「おう」


 リアは満足したらしく、それから土間の方へ向き直った。


「まんま」


 誰も笑わなかった。笑わないのはもう四つ目が来ないことに家じゅうが慣れてしまったからだ。


 母だけが鍋の蓋を持ったまま、少しのあいだ戸口を見ていた。


――――――――――――――――――――


 日が落ちる前に、アシュは土間へ降りた。


 掛け棒を見る。


 冬のあいだ、ここには三本掛かっていた。父の剣と、兄から受け継いだ木剣と、借りた鉄剣。

 三本のうち二本がアシュの分で、そのうち一本は人から借りた物だった。


 兄の木剣は掛け棒に来ない。縁側の柱に立てかけたままで、雨の日だけ土間の隅へ移す。掛ける場所を分けてもらう物ではないと、たぶん兄が自分で決めている。


 借りた鉄剣が抜けた。

 買った鉄剣が二本入った。


 兄は自分の一本を、父の剣の隣へ自分で掛けた。掛けてから少し下がって、位置を見て、指で一度だけ直した。


 四本だ。


 増えた方は、誰にももらっていない。


 秋にこの棒を見上げた日、掛かっていた二本はどちらも人からもらった物だった。木剣は兄から、鉄剣はフェイから。あの時、自分で買った物は一つもないと思った。今もまだ一つもない。買ったのは父だ。


 それでも、あの日と今日では掛かっている物の重さが違う。


 アシュの一本は、いちばん上に掛けてあった。爪先を立てても指が届かない。


「届かんだろう」


 父が後ろにいた。


「はい」


「届く高さに掛けると毎日触る。毎日触る物はそのうち軽く感じる」


「軽く感じたら」


「持ち上げた時に驚かん」


 父は掛け棒の下で足を止めて、上から二本目のあたりを見ていた。


「驚かん奴は、重い物を重いまま扱えん」


 アシュは首を戻して、もう一度いちばん上を見上げた。


 届かないところにある物は、まだ自分の物ではない。写しとるうちは手本のままだとあの老人なら言う。


 それでも、これには返す日がない。


 外で閂(かんぬき)の音がした。母が戸を閉めにいったのだ。

 父が竈(かまど)の火を掻き起こす。薪が崩れて、壁に伸びた影が動いた。


 影は四本ある。冬のあいだは三本だった。


「三本だったな」


「はい」


「増えた分は、返さんでいい」


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