第三十三話
雨は朝までに上がっていた。
軒から落ちる雫の間が昨日より長い。
ミラは敷居に溜まった水を箒で外へ掃き出した。掃いた先の土が黒い。峠が開いて五日目で、道の色はもう冬のそれではない。
卓ではレインが竈の焚きつけの板を膝に乗せていた。炭で自分の名前を書いて、書いた端から袖で消している。
「消さなくてもいいのよ、それ」
「四つ目が裏返る」
レインは板を回して、また同じところで手を止めた。
リアが板の角を指でつついた。
「れいん」
「そう。れいんよ」
リアはもう一度つついて、それから戸口の方を向いた。庭で誰かが動く音がすると必ずそうする。
「まんま」
ガルドのことだ。
この子はもう何でも喋る。だめ、ないない、あっち、と二つ三つ繋げて言う日もある。名前も、みら、あしゅ、れいん、と冬のあいだに三つまで来た。
来ないのは四つ目だけだ。
いちばん名前を呼ばれない人がいちばん最後になる。
ミラはそのことをガルドに言っていない。言えばあの人は急がんと返す。返事が分かっているから聞かない。
ミラは前掛けで手を拭いて、居間の棚を見た。
いちばん上に紙が一枚置いてある。
冬の初めに家へ入ってきて、それから指一本ぶんも動いていない。
ミラは字が読めない。
読めないが、中身なら言える。あの日アシュが家族の前で一度だけ読んだ。その声のまま覚えている。
ヴァルド家の子の身柄は、グレンツ公爵家の預かりとする。身柄に関わる取り決めは、養子縁組、後見、奉公の口利きのいずれであっても公爵家の許しなしには成立しない。
長い言葉だ。
聞いたのはあの一度きりで、それきり忘れていない。
店にいた頃、品書きの読めないミラは客の頼みを音で覚えた。音で覚えたことは十年経っても出てくる。
ミラは籠から繕い物を出して膝に載せた。
レインの上着の肘だ。冬のあいだに二度当てて、二度とも同じところが切れている。切れ方を見ればこの子が板塀のどこに肘をつくかまで分かる。
針を通しながら庭の音を聞いた。木剣の音は今朝は鳴っていない。
「アシュは」
「塔」
レインは板から目を上げずに答えた。
「昼には戻るって。明日、フェイさんとこ行くから今日のうちに終わらせるとさ」
「鉄剣を返しに?」
「自分で持ってくんだと」
借りた物を借りた本人が返しに行く。冬のうちにそう決めたのはガルドの方だ。
ミラは針の向きを変えた。
ガルドが庭から上がってきた。
剣は提げていない。
「今日は出ん」
「仕事は」
「断った」
ミラは針を止めなかった。
昨夜、フェイが来た。
戸口で二言か三言だけ話して、二人とも外へ出ていった。ガルドがいつ戻ったかは閂の音で分かっている。ミラは起きていたが、起きているとは言わなかった。
何を聞いてきたのかは知らない。
知らないまま朝が来て、ガルドが仕事を断っている。
「来るのね」
「来る」
「今日?」
「たぶんな」
ミラはそれ以上聞かなかった。
店では注文を言わずに座る客がいちばん厄介だった。厄介だが、そういう客ほど帰り際に何を頼みに来たのかが分かる。先に聞いても出てこない物は、待っていれば向こうから出てくる。
昨日の市場でもあの人は同じことをしていた。
青物の並びの端に腰掛けを一つ借りて、そこに座って、前に人が並んでいた。並べと言った人はいない。ミラが通ったときで六人。
六人のうち四人は、去年の秋に一度並んだ顔だった。残りの二人は去年は並ばなかった家の人だ。
並んでいる人たちは怒っていない。順番を抜かす人も出ない。
列は待たされて嫌な思いをした人から崩れる。この列は崩れない。
誰も待たされたと思っていない。
昼前にアシュが戻った。
いつもより早い。
「今日はもう終わり?」
「水を張るところまででいいって」
アシュは土間で足を拭いて、居間へ上がった。上がってから棚の紙を一度見て、それから何も言わずに座った。
この子は家に入ると先に物の位置を見る。
「アシュ」
ガルドが呼んだ。
「はい」
「昼を食ったらそこにいろ」
「奥じゃないんですか」
「今日も座ってろ」
ミラは鍋の蓋を持ったまま二人を見た。
あの商人が最初に来た時は奥へやった。
二度目は座らせた。
今日も座らせる。
レインは板を抱えて庭へ出ていった。
ガルドは棚の紙を下ろして、外套の内側へ入れた。
――――――――――――――――――――
戸が叩かれたのは昼を過ぎてからだった。
二度。
前と同じ数だ。
ガルドが戸を開けた。
「ヴァルドさん。突然に失礼いたします」
男は笑っていた。
戸が開いた時にはもう笑っていて、笑ってからガルドを見る。
「入れ」
「失礼いたします」
男は敷居で足を止めて、外套の裾を払った。
払う手つきが短い。土は初めからほとんど付いていない。
「ミラさんもお変わりなく」
「おかげさまで」
男は居間へ上がる前に、上がる先の床を一度だけ見た。
それから腰掛けを引いた。引く音がしない。
ミラは茶を出さなかった。
鉄瓶の湯は沸いている。椀も伏せてある。出そうと思えば手を伸ばすだけで済んだ。
伸ばさずに前掛けの紐を結び直した。
男は何も言わない。
出ない物を待つ顔もしない。
店にいた十年で、出てこない物に気づかない客を一人も見たことがない。気づかない振りをする客なら何人もいた。
この人は振りもしない。
初めからそこに椀があるかないかを見ていない。
「息子だ」
ガルドが言った。
「はい」
男はそれだけ言って、アシュの方へ体を少し向けた。
向けただけだ。名前は出てこない。
アシュは膝の上に手を置いて、そのまま動かさずに座っている。聞かれたことだけ答えろと父に言われた日の座り方を、この子は一度で覚えている。
ミラは数え始めた。
戸口でヴァルドさん。
上がってすぐミラさん。
それから、はい。
読めない代わりにミラは数を忘れない。市場の値も、繕いの代も、貸したままの椀の数も、書かずに覚えている。数えるのに紙は要らない。
「用件を聞こう」
ガルドが言った。
「先だってのお話でございます」
「秋のか」
「はい。雪の前にもう一度と申し上げて伺いまして、そのまま峠が閉まりましてございます」
男は膝の上で手を組んだ。
組んだ指が動かない。ミラはそれを秋に一度見ている。
手の甲の乾いたインクの染みは秋より一つ増えていた。洗って落ちる色ではない。
「都のお話は、今も生きております」
男は言った。
「後見の家も、離れのお部屋も、当時のまま押さえてございます。春にお出しいただくのがよろしいと申し上げましたが、春は始まったばかりでございますから」
「押さえてある」
「はい」
「町の方でもまた並ばせてるらしいな」
「並べとは申しておりません。後ろに何人おられますと申し上げるだけでございます」
「同じことだろう」
「同じでございますね」
男は否定しない。
ミラは前掛けの上で指を握った。この人は都合の悪いことを言われた時に、いちばん短く返す。
ガルドは腰掛けの上で足の位置を変えなかった。
変えないまま、外套の内側へ手を入れた。
ミラは息を止めた。
ガルドが懐へ手を入れる時は、たいてい金か鍵だ。今日はどちらでもない。
ガルドは紙を出して、卓の上に置いた。
置いてから指の腹で男の側へ滑らせた。
卓を滑る音がする。
男が紙を出すのを、この家は二度見ている。二度とも卓には置かれなかった。指の間に持ったまま、書いてある面をこちらへ向けただけだ。
今日は逆になった。
「読める字か」
「読めます」
男は紙を取らずに卓の上のまま目で追った。
指は使わない。上から下まで一度で行って、それからもう一度上へ戻った。
二度目の方が遅い。
ミラはそこを見ていた。
勘定書きを二度見る客は、一度目で数が合わなかった客だ。
男は顔を上げた。
「けっこうなお紙でございます」
「そうか」
「公爵家の預かり。お名前は書いておられない」
「書かん方がいいと言われた」
「よくお分かりの方が書いておられます」
男は紙をもう一度だけ見た。
「この紙は、私の手では動きません」
ミラは前掛けの紐を握り直した。
「動かんのか」
「はい。後見も、養子縁組も、奉公の口利きも、この一枚が全部を止めております。私が扱えるのはその三つでございますので」
「他はないのか」
「ございません。私は順番を扱っております。順番より前に紙が置かれますと順番の方は要らなくなります」
男はそこで初めて椀のない卓に目を落とした。
落として、すぐ戻した。
「私が申し上げることは変わりません」
男は言った。
「お子さんの先を用意できる場所は、この町にはございません。それは今日も本当でございます」
「だが動かんのだろう」
「動きません」
引かない。
足しもしない。
ミラは、この人が値を下げるところを一度も見ていない。市場でも、井戸端でも、この卓でも。下げないかわりにこちらが下りてくるのを待っている。
「私が消えても、この話は消えません」
男は続けた。
「私は使いでございます。使いが来なくなっても、頼んだ方がいなくなるわけではございません」
「誰だ」
「存じません」
ガルドは何も返さなかった。
返さずに卓の紙を自分の方へ引き戻した。
引き戻す音が、置いた時より大きい。
――――――――――――――――――――
「あのね」
ミラは言った。
三人がこちらを見た。男だけは、見る前にもう笑っている。
「あたし、店に十年いたのよ」
「ランドさんのところでございますね」
「そう。品書きのある店」
ミラは針を籠へ置いて、卓の端に指をついた。
「品書きって、値が書いてあるでしょう。あたしは品の名は読めないけど、値なら読めるの。あれがあるだけでお客さんは落ち着くのよ。頼む前にいくらか分かるから。値が書いてないと旨い物でも半分の人が手を出さないのよ」
「さようでございます」
「値のついてない物を置いていくお客さんがいたのよ。旅の人でね、来るたびに包みが一つ。開けると干した果物とか、いい針とか」
「よいお客さんでございます」
「三月あとにね」
ミラは指を一本ずらした。
「娘を店で使ってやってくれって言いに来たわ。うちは人が足りてたの。足りてたのに、断る言葉が出てこなかった」
男は頷いた。
否定もしない。困った顔もしない。
「あたし、あの人が悪い人だったとは今でも思ってないの。果物は本当に旨かったもの。娘さんもよく働いたわ」
「でしたら」
「でも、値はあの人が決めたのよ。あとから、あの人が」
ミラは指を卓から離した。
「あんた、この家に値を言ったことが一度もないでしょう」
「買う話ではございませんので」
「知ってるわ。あんた、値を言わないもの」
ミラは男の手を見た。
組んだ指はまだ動いていない。
「うちの店でね、いちばん高くついたのは、いちばん値を言わないお客さんだったのよ」
竈の火が薪を食う音がした。
アシュがこちらを見ている。ミラは見返さずに続けた。
「この子の値段を決めるのは、この子です」
男は笑ったままだった。
笑ったまま、少しのあいだ何も言わない。
その黙りが、秋にガルドが取り分を聞いた時と同じ長さだった。一拍。
「よいお言葉でございます」
男は言った。
「私の商いではそのお言葉はあまり通りません」
「知ってるわ」
「はい」
「通らないところで言ってるのよ。うちの卓だもの」
男は膝の上の手をほどいた。
ほどいて、腰掛けの脇へ置き直した。
「そろそろお暇いたします」
――――――――――――――――――――
男は戸口で外套を直した。
急かす言葉は一つもない。次に来る日の話も出ない。
秋は出た。閉まる前にもう一度、と男の方から言った。
今日は言わない。
ミラは最後まで数えていた。
ヴァルドさん。
ミラさん。
レイン君。
庭の方をレインが板を抱えて通ったとき、男は名前で呼んだ。レインは返事をしなかった。
卓に座っていた子の名前は、最後まで出てこなかった。
秋も出なかった。冬をまたいで今日も出ない。
男は頭を下げた。
下げてから体を戻す途中で家の奥へ目をやることもしない。
戸が閉まった。
通りへ出た足音が遠ざかる。速くも遅くもない。
ミラは閂を落として、落としてからしばらく戸に手をつけていた。
アシュが立ち上がって、卓の紙をもう一度見た。
「母さん」
「なあに」
「読みますか」
「いいわ。覚えてるもの」
子どもが少し驚いた顔をした。この子が驚くのは久しぶりだ。
「明日、鉄剣を返しに行くんでしょう」
「はい」
「早くお行きなさい。フェイさんは朝が早いから」
アシュは頷いて、紙の位置を指で直してから土間へ降りた。
ガルドは紙を棚のいちばん上へ戻して、卓に肘をついた。
「ミラ」
「なに」
「今日はよかった」
二言で終わりだった。ミラは椀を下げにいった。
卓の前を通るときに男が座っていた腰掛けが目に入った。
ミラは元の場所へ戻そうとして、手を止めた。
ずれている。
指の幅ひとつぶんだけ、卓から離れる方へ。
秋は動いていなかった。戻す必要がなかったと、あの晩ガルドが言っていた。
ミラは腰掛けを戻さなかった。
戻さずにその脇を通って外へ出た。
軒の下はもう乾いている。
掃き出した水の跡だけが、土の色を変えたまま残っていた。




