第三十二話
雪の落ちた道は歩きにくい。
凍っている場所と溶けた場所が交互に来て、足の裏が毎回違う返事をする。
ガイは木剣を担いで通りへ出た。
昼前だ。稽古で右から入って途中で左へ変える切り替えを、また三度目まで出して膝をついた。親父の言うことは去年から一つも増えない。三度目は二度目より遅い。
峠が開いたのは四日前だ。
開いた日から荷が動き出して、広場の端に空の荷車が二台停まっている。轍がぬかるみに深く残って、その上をまた別の車が通る。
冬のあいだ町にはほとんど人が入ってこなかった。入ってこないと町は静かになるのだと今年初めて知った。静かなのが嫌だったわけではない。ただ、うるさくなった日にそれが分かる。
通りの向こうから荷馬車が来た。
ガイは端へ寄って背中を壁につけた。御者は知らない顔だ。荷台には木箱が二つと鞄が一つ載っている。
箱の数が去年と同じだった。
軒下からハンナが出てきて、通り過ぎる荷台に向かって手を上げた。
「あら、あら」
「知り合いかよ」
「知り合いじゃないよ。でも、もう来る頃だと思ってたもの」
冬のあいだ、この人は何度もそう言っていた。春には戻ると言っていたから戻ってくる、と。
言ったことがそのとおりになるのを、ハンナは毎回嬉しそうに数える。
「井戸の縄、見た?」
「見てねえ」
「うちらで替えたんだよ、今度は。金を集めてさ」
ハンナは前掛けで手を拭きながら、荷馬車の行った方をまだ見ている。
去年の縄が誰の金で掛かったのかをガイは知らない。町の誰も言わない。言わないうちに次の縄は町の金で掛かった。
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井戸のまわりに子どもが集まっていた。
輪の真ん中に大人が一人いる。
外套は灰色で、上等そうに見えるのに飾りが一つもない。
戻ってきた。
ガイは井戸の反対側の石段に腰を下ろした。
去年と同じ石段だ。座ってみると膝の位置が去年より高い。
配り方も去年と同じだった。
まず顔を見る。名前を聞く。渡すときにもう一度その名前を呼ぶ。
違うのは名前を聞かれない子がいることだ。
「テオ君。はい、どうぞ」
「ありがと」
テオは名前を言っていない。
言っていないのに呼ばれて、呼ばれたことを不思議がりもせずに飴を口へ入れた。
去年の秋に一度言った名前が、冬をまたいで向こうに残っている。
都の話が始まった。
橋が四つ。石の橋。橋の上に店が並んでいる。菓子屋の窓から出る湯気。
去年と同じ話なのに輪の子どもは去年と同じところで声を上げる。数を聞き返すと同じ数が同じ声で返ってきた。声の大きさは今年も一度も変わらない。
「船、広場三つだろ」
「三つ入ります」
「知ってる!」
知っている話を、知っているとおりに聞きたがる。
輪の後ろに去年はいなかった小さいのが二人混じっていた。去年からいる子は話を覚えていて、覚えた分だけ前に座っている。
テオは去年より頭ひとつぶん前にいる。背も伸びた。冬のあいだに一段伸びるやつがいる。
輪の外で女の声が上がった。
冬のあいだ溜まっていた話が二つも三つも出てくる。うちの下の子の口はないか。上の子の奉公はどうなったか。
「後ろに四人おられます。その後で伺います」
断らない。急かさない。
去年その言葉を子どもが真似した。今年は大人が真似している。
列の三番目にマレンがいた。去年ヤンに繕った上着を持たせた人だ。手には何も持っていない。持っていく物がないから列に並んでいるのだと並び方で分かる。
テオが飴を鳴らしながら首を伸ばした。
「なあ、ヤンから手紙来た?」
輪が少しだけ静かになる。
商人は笑った顔のまま、テオの方へ体を向けた。
「私のところへは届いておりません」
「都って遠いもんな」
「馬車で十日でございます」
テオは納得した顔で口の中の飴を転がした。
ガイは石段の上で足の指に力を入れた。
どこも嘘ではない。手紙は来ていないし、都は十日だ。
なのにヤンがどうしているかは一つも出ていない。
去年この人は、ヤンの着く日を先に文で知らせると言った。着く日を知らせた人が、着いた後は知らない。
去年の同じ井戸で、ガイはヤンの水桶を持ってやった。二つのうち軽い方を持って、それでも肩に食い込んだ。
ヤンの手のひらは皮の厚い場所がガイと違った。ガイは指の付け根で、ヤンは手のふちだった。四つ上のぶんだけ桶で先に厚くなった手だ。
今、井戸で桶を担いでいるのは別の子だった。名前は知っている。ヤンより二つ下で、朝の水汲みがそのまま回ってきただけの子だ。
仕事は残って、やっていた人だけがいない。
ガイも聞こうと思った。
ヤンはどこにいるのか。
口を開く前に、テオが先に聞いて、先に答えをもらってしまっていた。もう一度同じことを聞けば二度聞いたことになる。二度聞く子は覚えられる。
誰にそう言われたわけでもないのにそう思った。
商人の目がこちらを向いた。
去年と同じ順番なら、まず名前を聞かれる。
「ガイさん」
聞かれなかった。
「去年より背が伸びられましたね」
輪の何人かが振り返る。
ガイは立たなかった。
足が動いた。石段の上で半歩ぶん後ろへ下がって、そこで止まる。
去年と同じ動きだ。違うのは下がってから理由が来たことだった。
背が伸びた、と言うには去年の背を覚えていないと言えない。
この人は去年、ガイの背を測っていない。並んで立ったこともないし、頭に手を当てたこともない。
測っていないのに去年の分を覚えている。
覚えているということはどこかに書いてあるということだ。
親父が馬を見る時と同じだ。
歯を見て、脚を見て、値を言う。買う気がなくても値は言う。癖でやっている人の目は、物を見る時と人を見る時で変わらない。
値踏み。
その言葉が頭の中でやっと形になった。
油紙の包みが目の高さまで来る。
手は去年と同じで膝から動かない。断る言葉だけが去年より早く出た。
「いらねえ」
「では、またの折に」
包みは引かれた。
離し方の速さは去年と同じだった。早くもなく、遅くもない。
商人はもう次の子の名前を聞いている。去年名前を渡していない子だ。
ガイは石段から立って、輪の外を回って広場を出た。
出しなに一度だけ振り返る。
商人は子どもの輪の中にいて、こちらを見ていない。見ていないのに背中の真ん中がむずがゆかった。
稽古で親父に背中を取られた時と同じ場所だ。
――――――――――――――――――――
夕方、ガイはヴァルドの家の庭に寄った。
アシュが庭の真ん中で鉄の剣を提げて立っている。
「まだ持ってんのか、それ」
「明後日返しに行く」
「親父に?」
「うん。僕が持っていく」
「お前が?」
「借りたのは僕だから」
貸してやれと言い出したのはガイで、実際に渡したのは親父だった。返しに行くのはアシュひとりらしい。
ガイは木剣を構えて上から打った。
鉄が音を吸う。木と木で当たる時の跳ね返りがない。
去年は五本目でアシュの肘が落ちてきた。今日は六本、七本と続けても落ちない。落ちないどころかこっちの木剣の方が先に鳴る。
打つ側が疲れる受けというのがあるのだと今年初めて知った。
「十本いけるだろ、それ」
「今は十五」
「聞いてねえよ」
アシュは笑わない。数を言う時、この友達は自慢の顔をしない。
「あいつ、戻ってきたぞ」
アシュの剣先は動かなかった。
知っている顔だ。町の噂は坂の上まで届く。
「今日、広場で会った。名前、聞かれなかった」
アシュがこっちを見た。
「去年は聞かれた」
「うん」
「今年は聞かねえで呼んだ。背が伸びたな、って言われた」
アシュは何も言わない。
言わないのに聞いていないのとは違う顔だ。
「あいつ、値踏みしてんだよ」
言ってから自分の声が思ったより低かったことに気づいた。
「馬とか荷を見る時の目だ。うちの親父がやる。買わなくても値は言うんだよ」
アシュは鉄の剣を地面に立てた。
立ててからしばらく何も言わなかった。
「……そう見えた?」
「見えた」
「そうか」
それだけだった。
去年の夕方、ガイが理由を言えなかった時、この友達は分かったら言うと言った。今日は分かった方の話をしているのに向こうから返ってくるものがない。
縁側の方でレインが素振りをしている。こっちを見ていないふりをするのは去年と同じだ。今日は数えていない。数えていないのに手が止まらない。
「レイン、あいつ来たぞ」
「知ってる」
「顔、見たか」
「見ねえ」
素振りが一本増えた。
「見ねえのかよ」
「見たら覚えるだろ」
覚えたくない、ということらしい。
去年の秋、レインは商人の顔を見ないまま嫌っていた。今年は見られるのに見ない。嫌い方が去年より固い。
「なんで嫌いなんだよ。話したこともねえだろ」
「声だ」
素振りが止まった。
「怒鳴る奴はな、こっちが何言ったら怒るか分かるだろ。あれは分かんねえんだよ」
言い終わるとレインはまた振り始めた。
顔を見ないで決めた。決めてから一冬たっても変えない。
ガイは顔を見て、飴を出されて、それでも去年は理由が出てこなかった。
同じものを、こっちは目で探して、この人は耳で先に見つけていたことになる。
戸が開いて、リアが敷居のところまで出てきた。
冬のあいだにずいぶん歩くようになっている。アシュを見つけて手を上げた。
「あしゅ」
「戻る」
「あしゅ」
「うん」
リアはガイの方も見た。見て、何も言わずに戸の内へ戻っていった。
ガイの名前はまだ言わない。
言わない子に呼ばれないのは当たり前だ。当たり前なのに今日ここまでで自分の名前を呼んだのは一人しかいないことに気づいた。
あの商人だけだ。
「なあ」
「なに」
「お前んち、なんかあったのか」
「なんで」
「みんな喋んねえから」
アシュは井戸の方を見て、それから言った。
「言えないことがある」
「俺に?」
「僕が決めたんじゃない」
嘘ではない言い方だ。
今日二度目だった。嘘を言わないまま何も渡さない人に、今日は二度会っている。
腹が立たなかったのが自分でも意外だった。
腹が立つ代わりに足の裏が冷たい。土がまだ冬の温度でいる。
「返しに行く日、俺も行くか」
「いい。一人で行く」
「そうかよ」
アシュは剣を持ち上げて、柄杓の水を刃に沿って流した。
水は刃を伝って土に落ちて、落ちたところだけ色が濃くなる。
借りた物を返す前に洗う手つきだった。
返したら次は自分の鉄剣が来る。レインが先で、その次だとこの友達は言っていた。
ガイの家はまだ木剣のままだ。親父がそう決めている。
――――――――――――――――――――
家に戻ると土間で親父が革の帯に油を入れていた。
去年と同じ布で、同じ速さで往復している。
ガイは戸口の柱に背中を預けた。
「親父」
「なんだ」
「言えるようになった」
布の音が止まった。
去年、止まらなかったものが止まる。
「言え」
「あいつ、値踏みしてる」
「どこで見た」
「今日、広場で。背が伸びたなって言われた。去年の俺を覚えてねえとあれは言えねえだろ」
親父は帯を置いた。
「ほかには」
「テオがヤンのこと聞いた。手紙来たかって。俺のところへは届いてない、って言った」
「それだけか」
「それだけだ。嘘は一つも言ってねえ」
「嘘を言わんのは知ってる」
親父は立ち上がって、棚の布で手を拭いた。
拭き終わってからガイの顔を見る。
「よく覚えてたな。冬ひとつぶんだ」
褒められたのだと分かるまで少しかかった。
褒め方が短すぎる。
「どうすんだよ」
「ヴァルドのところへ行ってくる」
「なんで」
「言わん」
「俺が言ったからだろ」
「お前が言ったからだ」
親父は外套を取って肩に掛けた。
剣は取らなかった。剣を持たずに出る用があるのだとそれで分かる。
「一つ聞いていいか」
「言え」
「半歩下がれって去年言ったよな。下がったあとはどうすんだ」
「下がった分だけ、こっちに見る時間ができる」
「見て、どうすんだよ」
「見えたことを人に言う。お前は今日それをやった」
親父は戸に手をかけて、思い出したように足を止めた。
「アシュには言うな。あの家のことは、あの家の親が決める」
「なんも言ってねえよ」
値踏みの話はした。あの家のことはこっちから聞いただけだ。
聞いて、返ってこなかった。
「飯は」
「食っとけ」
戸が閉まった。
閉まってから外の足音が遠ざかるのを聞いた。速くも遅くもない。用のある人の歩き方だ。
ガイは椀を二つ並べて、自分の分を先に食った。
飴は去年断って、今年も断った。テオはうまいと言った。うまいのかどうかを、ガイは今も知らない。
知らないままで一年経った。知らないままで済んだのならたぶんそれでよかったのだと思う。
食い終わってから親父の椀に木の蓋をした。
蓋をするとまだ湯気が出ているのが手のひらに来る。
外では雪解けの水が軒から落ちている。一定の間で落ちる音だ。
数えれば数えられる。
ガイは数えなかった。




