第三十一話
夜明け前に家を出た。
戸を開けると外の方が明るい。雪が下から光を返している。
居間で兄が片肘をついた。
「行くのか」
「氷を見てこいって」
「氷ならそこらじゅうにあるだろ」
「昼には溶けるから」
「……溶ける物を、暗いうちから見に行くのか」
そう言いながら兄はもう寝返りを打っている。行くな、とは言わない。
母は竈の前で種火をつついていた。湯を持たせようとするのを断る。壺は刻み直しに出していないので坂の上まで持つ日と持たない日がある。帰りに詰めてもらえばいい。
坂の雪は一晩で締まって、踏むと下の方で鳴った。
息が白い。白いのが顔の前を通り過ぎるより先に、次の息が出る。
峠の方を見ると山の上半分が白かった。ふもとの木の色はまだ残っている。白い線は日ごとに下りてきていて、下りきったら峠は閉まる。
――――――――――――――――――――
塔の扉は開いていた。
中は外より暗い。高窓はまだ灰色で、竈の火だけが赤い。ゼドルは棚の前に立っていた。
「来たか」
「はい」
「見ろ」
棚の上に椀がある。
水は白かった。水の形のまま止まっている。上の面はゆうべ張った膜のように平らだ。その下に細かい筋が何本も立っていて、筋は底へ向かって伸びて、底のあたりで一つにまとまっている。
指で押した。動かない。押した所だけが冷たさで濡れる。
「底までですか」
「持ってみろ」
持ち上げると重かった。中で水の動く音がしない。傾けても揺れない。
昨日、三度目にやっと底へ触れた白は指の先ほどだった。今は椀の中身が全部それになっている。
「一晩かけとる」
ゼドルは腰掛けに座った。
「寒さは急がん。急がんから端も底も同じだけ凍る。お前が四度やって、端から端までは届かんかった所へ、寒さは一度も狙わずに届いとる」
「狙っていないんですか」
「狙う物を持っとらん。ずっとそこにおっただけだ」
「僕がやろうとしているのは」
「一晩ぶんを一息でやることだ」
「できますか」
「知らん」
アシュは椀を棚へ戻した。
「今日の稽古は」
「やらん」
「……はい」
「手本を見た日に手を動かすと手本の真似になる。真似は速い。だが真似た物は自分の手から出とらん。出とらん物は、要る時に出てこん」
昨日の言葉の続きだった。別の場所で使えて初めて自分の物になる。今日はその別の場所を探す日ではないらしい。
老人は火の方を見た。しばらく何も足さない。薪が一本ぶん崩れて、火の色が変わった。
「昨日、儂は任せておけと言ったな」
「言いました」
「あれは半分だ」
手が冷たくなっている。指を握って開いた。
「見た者が九人だと言ったろう。九人とも、いつかは喋る。牢におる者も、その仲間もだ。喋った者を追いかけて回るのは父親の仕事としては多すぎる」
「……はい」
「それで隠す場所を数えてみた。この町にはここしかない。ここは狭い。狭い場所は、増えた物を置くとすぐ分かる」
高窓が少しだけ白んだ。四角い光が床の手前へ落ちて、椀の影が横へ伸びる。
「世の中にはお前みたいなのを隠さんでいい場所がある」
「隠さなくていい場所ですか」
「そこではできる子どもは珍しくない。珍しくない物は数えられん。数えられん所におるのが、いちばん安全だ」
数えられない所。
この秋に家の周りを通っていったものを思い出す。井戸の縄。相談の列。うちの通りを三つ数えるあいだ見ていた、あの人の目。館の棚の紙が四枚。
「どこですか」
「言わん」
「……」
「今言えばお前は明日から荷を作る。作った荷は必ず誰かの目に入る。何も決まっとらんうちに行き先が町の噂になるのは高くつく」
聞きながら別のことを考えていた。
字を教える。順番がある。そこへ行けば守られる。
どこかで聞いた並びだ。
黙っていると老人が先に言った。
「同じに聞こえたか」
「……はい」
「聞こえるだろうな」
否定しない。この老人は嘘をつかない。それは前に一度確かめている。
「違いは一つだ。あの男は、お前に何ができるかを最後まで聞かんかった。字の話しかしとらん。儂は二年見た。見てから言っとる」
「ゼドルさんが教えられなくなるからですか」
訊いてから失礼な言い方だったと思った。老人は怒らなかった。
「儂が教えられるのは形だけだと前に言ったな」
「言いました」
「形の先は儂も知らん。知らん物を教える者は弟子を殺す」
火が鳴った。
「言っておくが、そこに儂より上等な教師がおるかは疑わしい。行ったこともない。人から聞いただけだ」
「なぜ勧めるんですか」
「教師の話ではない。場所の話だ」
アシュは頷いた。頷いてからまだ何一つ決まっていないことに気がついた。
「いつですか」
「まだだ。お前は七つだろう。何年もある」
高窓の光が椀の縁に届いた。当たっている側の角に小さな水の粒が立つ。
凍る時は端から、溶ける時は当たっている側から。
筋の一本に細いひびが入って、それきり動かなくなった。
「割れませんか」
「割れる。どう割れるかは前に言ったな」
「均した面は一枚で割れます。薄いところから先に割れるのは穴です」
「なら今日は帰れ。溶けるところまで見とると昼になる」
筵を畳んで扉の脇へ寄せていると後ろで声がした。
「明日は水を張る。椀は一つだ」
「はい」
「一晩ぶんを一息でやる話は、明日から先の話だ。何年かかるかは言わん」
「言わないんですか」
「言えばお前はその数を当てにする」
昨日と同じことを別の言い方で言われた。言い方が変わるたびにこちらは一度ずつ考え直すことになる。
外へ出ると朝になっていた。坂の下の家々から煙が上がっている。数えなかった。
数えたところでこの冬に増える物はもう決まっている。薪の値と、塩の値と、雪だ。
――――――――――――――――――――
家に戻ると母が籠を出して待っていた。
「薪が上がる前に塩を買っておくの。あんた、荷は持てるでしょう」
「持てる」
「レイン、行っといで」
兄は口の中で何か言ったが、上着を取った。
昼前の市場は人が出ていた。
ヨナスの台の青菜は冬の分だけ細い。
「よお。塩か」
「二袋ください」
「上がるぞ。もう上がってる」
ヨナスは塩の袋の口を二度折って紐で縛った。
「うちのは去年の塩だ。今年のはまだ来てねえ。値だけ先に来やがる」
「爺さんの所は、まだ通ってんのか」
「通ってます」
「そうか」
それ以上は聞かない。この人はいつもそうだ。
金を数えている横でハンナが喋っていた。相手はソフィだ。話は井戸の縄だった。また毛羽が立ってきたのでそろそろ替える相談をしなくてはいけないらしい。
「前は誰が替えたんだっけ」
「みんなでさ」
次に替える時は町の金で替えることになるらしい。集める役はハンナで、いくらかかるかを知っているのもハンナだ。前がいくらだったかはもう誰も知らないままでいい。
あの縄は縄の話が出た四日あとの夜明けに黙って掛かっていた。代は誰かが払っていて、払った人の名前は誰も言わない。言わないうちに「みんな」になった。
ハンナがこちらに気づいた。
「アシュちゃん、また背が伸びたねえ。……そういえばヤンは、そろそろ手紙をよこす頃じゃないかい。字を習うって言ってたもの」
口を開いて、閉じた。
都の問屋にヤンはもういない。いい所へ移ったと番頭が言い、行き先は誰にも分からない。
それを知っているのは町でも数えるほどだ。伯母のグレーテ。父。バルト。坂の上の老人。それとアシュ。
「……習ってると思います」
嘘は言っていない。言っていないだけだ。
籠の紐が肩に食い込んだ。持ち直すとさっきより重い。
帰り道で兄が言った。
「ハンナのおばさん、ヤンの伯母さんとこには行かねえんだよな」
「なんで」
「行ったら聞くだろ。聞いて何も返ってこなかったら次から行きにくくなる。だから行かねえんだ」
兄はそういうことに気づく。字は四つ書くのに苦労するのに。
広場を抜けた。
子どもが石を蹴って走り、荷車が通り、井戸の前で桶が上がる。夏と同じ音が雪の上でしていた。
「なんも変わってねえよな、ここ」
「うん」
「うちは変わった」
「うん」
兄は荷を担ぎ直した。
「町は転ばなかったんだよ。転ばなかったやつは誰に押されたかも覚えてねえ」
「井戸の縄は替わってる」
「……そういうことだよ」
兄はそれ以上言わなかった。
言わないまま、人の多い所では道の真ん中を歩かない。端を歩いて荷の角を内側へ入れる。いつからそうしているのかはたぶん兄しか知らない。
――――――――――――――――――――
夕方、父は庭で薪を割っていた。
アシュは朝の話を順に言った。椀のこと。九人のこと。隠さなくていい場所があると言われたこと。場所の名前は聞いていないこと。
斧が一度止まって、また動いた。
「その爺さんが、お前を外へ出す話をしたのは初めてか」
「初めてです」
「そうか」
薪が二つに割れて片方が転がる。アシュは拾って積んだ。
「行きたいか」
「分かりません」
「分からんならいい」
父は斧を置いた。
「あの男の話と、爺さんの話と、どこが違う」
考えた。坂を下りるあいだにもう考えてある問いだった。
「あの人は、僕に何ができるかを一度も聞きませんでした。字の話だけしていました。ゼドルさんは二年見てから言いました」
「それだけか」
「あの人は春に来ると言いました。ゼドルさんはまだだと言いました」
「……そうだな」
父はしばらく雪を見ていた。それから割った薪を一つ拾って、割れ口の方を見た。
「棚の上の紙な」
「はい」
「あれはもらった物じゃない。買った物だ」
「賊で、ですか」
「賊と、名前でだ」
斧の刃の雪を親指で落としながら父は続けた。
「館で人の名前を出した。ギルドの帳場の人だ」
「……イルザさん、ですか」
「そうだ。あの人がやったことは本当だ。だが、出したのは俺だ。そこは分けん」
アシュは積んだ薪の面を揃えた。揃えても意味はない。手が何かをしていないと落ち着かなかった。
「借りは残ったんですか」
「残った」
「誰にですか」
「公爵家にだ」
「返せますか」
「返す物は向こうが決める」
その言い方をどこかで聞いた。
私の取り分は、私に頼んだ方がお決めになります。卓の向こうで腰掛けを指の幅ひとつぶんも動かさなかった人が、秋にそう言った。父は今、同じことを言っている。
「父さん」
「言うな」
父は薪を積み棚へ放った。
「分かってる」
前の生でも似たものを見た。金を貸すのが仕事の人は返せる相手にしか貸さない。返せない相手に貸すのは金以外の物を取るつもりがある時だ。
父はたぶんそれを知っていて、知ったうえで借りに行った。
「フェイさんにはいつ返しに行きますか」
「峠が開いたらだ。お前が持っていけ」
「僕がですか」
「借りたのはお前だ」
欠けも曲がりもないまま返せるかどうかは峠が開くまでに受ける本数で決まる。
――――――――――――――――――――
夕飯の椀が五つ並んだ。
母は庭の話を戸口で聞いていたらしい。汁を掬いながら言った。
「借りは返す物を向こうが決めるのよね」
「そうだ」
「店にもいたわよ、そういうお客さん。今日はいいからって払わないで帰るの。忘れた頃にその分あんた頼まれてよって言いに来るのよ」
「同じだな」
「同じよ。……でも、貸してくれる人が一人もいなかったらうちはあの日で詰まってたんでしょう」
父は何も言わずに椀を持った。
兄が横で塩の値の話をした。母は値を全部覚えていて、去年の同じ月と比べてみせる。読めない人が、数だけは一つも忘れない。
――――――――――――――――――――
夜。竈の横の光の付与石に布をかけて伏せると家の中が火の色だけになった。
卓には板が二枚出ている。一枚は朝の焚きつけの割れ端で、もう一枚は兄が自分で探してきた薄い板だ。薄い方には四つの字が上から下まで並んでいて、下の列ほど形が締まっている。
リアが伸び上がって板を叩いた。
「れいん」
「おう」
母が繕い物の糸を切って笑った。
掛け棒には三本かかっている。父の剣と、兄からもらった木剣と、借り物の鉄剣。
春には一本減って、別の一本が増える。減る方は返す先が決まっていて、増える方の値段はまだ決まっていない。
棚のいちばん上にある紙には借りが付いている。返す先は分かっている。返す物だけが決まっていない。
水を飲みに土間へ下りた。
水瓶の口に薄い氷が張っている。朝の椀とは違う。上の面だけが固まって、下では水が動いていた。固まっているのは上から見えるところだけだ。
顔は映らない。
指を当てると氷は割れずに当たった所だけが濡れた。
春になればこれは張らなくなる。張らなくなった頃に、峠を越えて戻ってくる人がいる。
暗がりで父が閂を確かめた。音は一度きりだった。
「凍ってるか」
「上だけです」
「そうか」
父が居間へ上がっていく。
指はまだ濡れていた。乾く前に冷たくなって、その冷たさだけが、居間へ上がるまで指の先に残っていた。




