第三十話
「今度って言ったろ」
兄が向かいに座る。
「今度は今日だ」
朝の卓に、板が一枚のっている。アシュの前だ。
竈の焚きつけにする割れ端だ。灰をはらって、端まで袖で拭いてある。拭いたのは兄で、炭も一本、板の横にそろえてあった。
朝の受け十本は、暗いうちに庭で済ませてある。冬は明るくなるのを待っていると日が足りない。
ゆうべの卓で兄は言った。俺の名前の形、教えろよ。理由はゆうべも言わなかったし、今朝も言わない。アシュも聞かない。
居間の棚のいちばん上には布に包んだ紙がのったままだ。誰の名前も書いていない紙。あの紙に自分が入っているかどうかを、兄は昨日、人に読んでもらって知った。
アシュは炭を取って、板の左半分に寄せて書いた。字は左から右へ並べる。並べ方はそれしかない、と塔で最初に教わった。塔の字は口で言う音をもっと細かく分けて、一つずつ書く。
四つ書いて、炭を置く。
「これで、れいん」
「……四つか」
「四つ」
「リアはひと息で言ったぞ。四つもあるのに」
「口で言う時は数えない。書く時だけ四つになる」
兄は板を持ち上げて、目の高さで見た。しばらく動かない。
「どれが、れ、だ」
「いちばん左」
「リアのやつと同じか」
「最初の字だけ同じ。次で分かれる」
「お前のは」
「僕のは三つ」
「三つ?」
「アシュで三つ。ヤンと同じ数」
「……俺のが一個多いな」
「多いよ」
「勝ちだろ、それは」
「数えるものなら」
兄の名前とリアの名前は、言うと似ていないのに書くと最初の字が同じ形で並ぶ。兄は確かめるように板とアシュの顔を見比べて、それから炭を取った。
人の名前を書くのはこれで二度目だ。
一度目はヤンの紙で、あの名前は三つで足りた。三つの字の紙が今どこにあるのかは誰も知らない。
炭の先が板の上で一度止まって、それから動いた。
兄は木剣の柄を握る形で炭を握って、すぐ握り直した。
一つめの字は太くなった。二つめは曲がり口で止まる。三つめは通って、四つめは最後がはねた。
「重えな、これ」
「炭は軽いよ」
「軽いから重えんだよ。剣は重さが道を教えるだろ。こいつは全部こっちで決めなきゃならねえ」
文句を言う手が、もう二列目を書き始めている。左のアシュの字を見て、右に自分の字を置く。見る、書く、見る、の順で目が往復する。
母が後ろから覗いた。
「あら。書けてるじゃない」
「どれがいい」
「二列目の、二つめのやつ」
「読めねえのに選ぶなよ」
「読めなくても手つきは分かるのよ。店にいた頃はね、帳面につける手つきだけで払う気のある客かどうか分かったんだから」
「母さんのも書こうか」
「あら。書いてみてよ」
板の空いたところに四つ書いた。母はしばらく黙って見ていた。
「これがあたしなの」
「みら、って読む」
「ふうん。……悪くないわね」
読めない字を、母は指で一度なぞった。なぞった指は、繕い物の針目を確かめる時の指だった。
リアは母の足元で木の玉を並べている。並べては崩し、そのたびに卓を見上げた。板へ手を伸ばしかけて、兄の指が炭で黒いのを見て、やめた。
父は戸口の脇で革帯の手入れをしている。手を止めずに一度だけ言った。
「その板は竈に入れるな」
「入れないわよ」
母が先に答えた。
塔へは昼前に上がる。帰りは日のあるうちだ。
あの男が町にいた頃に決まって、男が出ていってからも変わらない決まりだった。
支度をすると母が保温壺を持たせてきた。刻み直しに出していない壺は、ぬるくなるのが早い。それでも坂の上までなら湯のまま持つ。
「手本、置いていくから」
板を棚の下の段に立てかけて言うと、兄は手を振った。もう見ないで書けるつもりの手の振り方だ。
――――――――――――――――――――
坂の雪は踏まれて固かった。
塔の中は昼でも暗い。高窓の四角い光が床の手前に落ちて、竈の火が低く鳴っている。
ゼドルは卓の椅子にいた。
「顔は見た。座れ」
無事の確かめはそれで終わりらしい。アシュは腰掛けに座った。
「使ったか」
「使いました」
「先に決めとったか」
「決めていました。三つです」
指を折って言う。父が使えと言うまで出さない。人には向けない。一度に一つだけ。
「守れたか」
「一度目は守れました。土間に水を出して凍らせて、面を張って、足を滑らせました。塔でやっていた面の均しで足りました」
「二度目は」
「守れませんでした。起きたことを決めていませんでした」
順に話した。裏口が内側から開いて、庇いたい人の後ろに賊が立っていたこと。決めてから唱えたので遅れて、遅れた分を取り返そうとして、どれだけ送ったか覚えていないこと。余った風が薪の山を崩して、庇ったはずの人に当たったこと。
ゼドルは最後まで口を挟まなかった。
「その人は」
「治りました。治す人なので、町に着いてから自分の肩を自分で治しました」
「そうか」
頷きもしない。
「見た者は」
「父の仲間が四人。それと賊が五人です」
「多いな」
「父が、そこは俺が引き受ける、と言っていました」
「なら任せておけ。子どもが引き受ける話ではない」
帰り道のことは聞かれる前に足した。薬箱を三日、自分で担いだこと。渡さなかったこと。
「誰かに渡せと言われたか」
「言われました。ライナさんに」
「渡さんかったのか」
「はい」
「なぜだ」
「……分かりません。降ろすと何かをやめたことになる気がしました」
「なら、降ろした時に分かる」
分かる、の先は言わない。この老人は答えを先に渡さない。
「出る前に儂が言ったことを覚えとるか」
「慌てた者は、要る分より多く集める。余った分の行き先を決めていなかったらいちばん近くに立っている人のところへ行く」
「聞いとって、なったな」
「なりました」
「誰でもなる」
天気の話をする声だった。
「遅れは直る。数をやれば縮む。決めんで出す癖は直らん。お前は、癖の方はつけんで帰ってきた」
叱られるつもりで来た。
叱られなかったことに追いつくのに少しかかった。
「一つ、聞いてもいいですか」
「聞け」
「外で使ったのに外で稽古をしてはいけない理由が、まだよく分かっていません」
「稽古は失敗するためにやる。失敗していい場所で先に失敗しとくのが稽古だ。外には、失敗していい場所がない。ないことはお前がいちばんよく知っとる」
「……分かりました」
老人は椀の方へ顎をやった。
水を張った椀が一つ、床に置いてある。筵はない。
「今日から、椀の意味が一つ増える。底まで凍れば、送った分は残らず底へ行ったということだ。余りが出ん。上の膜だけ厚くなって底が痩せたら、その厚みが余りだ。行き先を外した分が、そこに溜まっとる。ここでなら、余りは厚い氷で済む」
「外では、薪を崩します」
「そうだ」
「一つ、まだ考えていることがあります」
「言え」
「あの夜、床ではなくあの人の足を凍らせた方が早かったのではないかと」
「人の中の水は凍らん。生き物は外から来たアニマを弾く。届くのは体の外にある水だけだ」
「濡らして、その水を凍らせるのは」
「できる。だが人は温かい。触れたところから溶ける。動けば体重で割れる。止めるには厚みが要る」
老人は床の椀を顎で指した。
「面は指の腹一枚で足りた。足を一つ止める厚みは、その何倍だ。今のお前が送れば足りん。足そうとすれば」
「……外した分が、横へ行きます」
「そうだ。床を選んだのは正しい。今のお前の手で届く方を取った」
一度目は、いつもの癖で上から張った。上の膜が先に育って、底が痩せる。
送っているアニマは目に見える。薄い青の糸が水の中へ落ちて、落ちた先から膜になる。見えているのに糸は目でねらった場所より手前で開きたがる。癖があるのは手ではなく、たぶん目の方だ。
二度目も同じところで止まる。上を薄くしようとすると糸が揺れて、膜に厚いところと薄いところができた。
手を止めて、椀を見る。
昨日の夕方、兄と木剣を合わせた時のことを思い出した。決める場所を先に手前へ寄せておく。フェイの教えだ。剣が行きたがる分を、行く前に引いておく。
水なら、どこへ寄せればいい。
目の置き場所を変えてみる。上の面ではなく、先に底を見る。いちばん深いところを、届けば良い場所ではなく、決めた場所にする。
三度目。送りながら、目を底から離さなかった。
膜は薄いまま、白いものが一度、底に触れた。
触れて、消えない。指の先ほどの白が、底のまん中に残っている。
そこまでだった。上の膜は薄く、椀はまだ椀のままだ。
四度目は白が立たなかった。届いた場所をもう一度と思った途端、糸が太くなる。太くなった分は上で開いて、膜だけが厚くなった。
覚えた場所を当てにすると急ぐ。塔で何度も言われてきたことが、椀の中でそのまま起きる。
ゼドルが椅子を立って、覗いた。
「……底に触れたか」
「一度だけ」
「何を変えた」
「決める場所を先に底へ置きました。剣の教えの借り物です。決める場所を先に手前へ寄せる、というのを、下へ寄せました」
「誰の教えだ」
「フェイさんです」
「剣の男の言葉が、水で使えたか」
「使えました」
「なら、もうお前の物だ。手本は、写しとるうちは手本のままだ。別の場所で使えて、初めて自分の物になる」
老人は椀を片づけなかった。両手で持ち上げて、高窓の下の棚に置く。
「今夜は冷える。続きは外の寒さがやる。明日の朝、椀ごと凍ったのを自分の目で見てこい。それが手本だ」
「昼には溶けますか」
「溶ける。だから朝に来い」
竈の火に薪を一本足してから老人は思い出したように言った。
「紙は出たか」
「出ました。僕が声に出して読みました」
「そうか」
それだけだった。
――――――――――――――――――――
坂の途中で、兄が待っていた。
迎えはもう言いつけではない。言いつけでなくなってからも兄は来る。
棒きれを持って、道の端の雪に屈んでいた。近づくと雪の上に四つの字がある。一つめが太い。朝と同じ癖だ。
まわりの雪には掌でこすって消した跡がいくつも並んでいる。待つあいだ、ずっと書いていたらしい。
「四つめ、裏返ってる」
「……どっちが表だよ」
アシュは棒を借りて、横に書き直した。
「こっち」
「分かりにくいんだよ、こいつだけ」
「僕も最初は逆に書いた。塔で三回直された」
「三回か」
「三回」
「なら俺は二回でいい」
兄はもう一度書いた。今度は表だった。
書けた字をしばらく見下ろして、それから足で消した。
「消すの」
「道の真ん中だぞ。人に踏ませるもんじゃねえだろ」
書いた物を、踏まれる前に自分で消す。
「爺さん、なんか変なこと言ってたか」
「明日の朝、椀ごと凍った氷を見てこいって」
「……相変わらず何やってんだか分かんねえな、あの塔」
「字と、あといろいろ」
「いろいろな」
兄はそれ以上聞かなかった。
保温壺の湯を分けて飲んだ。ぬるくなりかけてはいたが、まだ湯の側にいた。
壺の栓を締める兄の掌が黒い。朝の炭が、昼になってもまだ落ちていない。
――――――――――――――――――――
家に着く前から声がした。
戸を開けると、リアが土間の手前で待ち構えていた。
「あしゅ」
「ただいま」
「あしゅ」
「なに」
「あしゅ」
「聞いてる」
返事のたびに妹は満足して、満足するとまた呼ぶ。呼べば返事が来る、という遊びをいつの間にか覚えている。
覚えたのは留守のあいだかもしれない。呼べる名前が減った家で、残った名前を呼んで回っていたのだとしたら、返事はいくらでもしてやればいい。
抱き上げると今度は肩ごしに兄を指した。
「れいん」
「おう」
「れいん」
「二回目だぞ」
それでも返事はする。ひと息で言えるようになった名前は、ひと晩で連呼になっていた。
母が竈の前から振り向く。
「はいはい、次はあたしでしょ」
「みら」
「はい」
名前が三つ、順番に鳴って、家の中をひと回りする。
言葉なら、この妹はもういくらでも出る。だめ、ないない、あっち、と二つ繋げて言う日もある。詰まるのは名前の方だけだ。
外から来たあの人は、アシュの名前だけを呼ばなかった。家の中では、二歳が名前を一つずつ増やしていく。
それから妹は、戸口の脇の父を見た。
指が上がる。口が開く。
何も出ない。
家じゅうが待った。
リアはしばらく考えて、言った。
「まんま」
母が吹き出した。兄は声を上げて笑って、笑いながら飯かよ、と言った。
「まんまはあたしの方でしょ」
「みら」
母を指して、ちゃんと言い分ける。それからもう一度、父を指した。
「まんま」
二度目は自信がついていた。
母が屈んで口の形まで見せる。
「と、と、よ。言ってごらん。と、と」
リアは母の口をじっと見た。見てからまた父を指す。
「まんま」
「だめだこりゃ」
兄が笑い崩れた。
父は笑わなかった。笑わないまま屈んでリアを片腕で抱き上げる。
「……急がん」
それきり何も足さない。ただ、下ろすまでが少しだけ長かった。
卓の上に、朝の板が出ている。棚に立てかけて出たはずの板だ。
左にアシュの四つ。右に、朝より増えた四つが並び、下の列ほど形が締まっている。
下ろされたリアが卓につかまって伸び上がり、板を指した。
「れいん」
読んだのではない。朝からずっと兄が触っていた板だから兄の物だと思っているだけだ。
それでも板を見て名前を言う者が、この家にもう一人いる。
兄が板を取り上げて、炭の字を眺めた。
「明日は俺の分の板を探しとくかな」
「妹の分も」
「あいつはまだいいだろ」
「すぐだよ」
「……まあ、な」
兄が板を卓へ戻すと、リアが手を伸ばした。今度は誰も止めない。小さな指が、いちばん下の列をたたく。
「れいん」
「おう」
返事はもう板についている。
戸口から昼の雪明かりが入って、土間の敷居まで白い。
炭の四つの字が、光の中でうすく光っている。
消えてはいない。




