第二十九話
昼の日が薪の山のてっぺんまで来ていた。
レインは朝から割っている。
冬の竈は火を落とさない。割っても割っても山は伸びない。
ガルドは朝から領主館だ。
賊の件の礼を受け取りに行った。持って帰るのは金ではなく紙だと聞いている。
うちの子のことを余所の家が勝手に決められなくなる紙だそうだ。
金貨五百枚を断って、百枚を受け取らずに帰って、紙を一枚もらう。
母は勘定が合わないと言っていた。
レインにも合っているようには聞こえない。聞こえないが、ガルドが間違えたとも思っていない。
斧を台に立てて手を見た。
豆が二つ潰れている。
ガルドたちの留守のあいだ、薪と水と閂は全部レインの仕事だった。
帰ってきた今も、手が勝手に続けている。
水汲みも今朝はレインが行った。
母は代わると言ったが、桶を持つ方が先だ。
閂は夜にもう一度確かめられていた。
レインが下ろした後で、母が起きてきて手をかける。
音で分かっていたが、聞こえないふりをしていた。
ガルドが帰ってきた晩も、音は一度した。
最後の一本を割ってから木剣を取って何本か振った。
春になったら鉄を二本買う、とガルドは言った。先はレインだ。
春は、あの男が戻ってくる季節でもある。
同じ季節に二つ並んでいるのが、いいことなのかどうかは考えないことにした。
通りの雪を踏む音が来た。
拍でガルドだと分かる。
戸口の前で雪を落とす音が二度。それから庭へ回ってきた。
「おかえり」
「おう」
外套の前を片手で押さえている。
押さえている場所に紙があるのだろう。
「もらえたのかよ」
「もらった」
「見せろよ」
「夜だ」
「なんで夜なんだよ」
「全員のいる時に開ける。二度はやらん」
ガルドは薪の山をひと目見て、積み直しもせずに戸をくぐった。
くぐる前に一つだけ足した。
「読むのはアシュだ」
「だろうな」
字が読めるのは家ではガルドと弟だけだ。
悔しいと思ったことはない。
ないが、今日みたいな日は少しある。
――――――――――――――――――――
昼過ぎに母の使いで市場へ出た。
塩をひと袋と、青菜を二束。
「ついでにソフィさんの顔を見てきなさい。前掛けの繕い、頼まれてたって言うだけでいいから」
母の使いにはいつも用がもう一つ付いてくる。
リアが戸口までついてきて、だめ、と言った。行くな、ということらしい。
言えるのに、兄の名前だけは、れ、で止まる。
続きは出ないまま母に抱き取られていった。
広場の井戸の横を抜ける。
秋に人の輪ができていた場所には、今は雪玉を投げる子どもがいるだけだ。
雪玉が一つ井戸の縁に当たって割れる。
怒る大人はいない。
賊の話は市場をひと回りしていた。
「兄ちゃん。親父さん、でかいのを納めたんだって」
ヨナスが青菜を選りながら言う。
「みたいだな」
「みたいって、お前んちの話だろ」
同じ言われ方を前にもされた。
あの時は仕事が増える話で、今日は終わった話だ。
「五人縛って連れてきたって聞いたぞ」
「見てねえよ。俺は留守番だ」
「そうか」
ヨナスは束を藁で括って、手を止めずに続けた。
「峠の下っていやあ、あれだろ。あの人の出てった道だろ」
「あの人って」
「ほら、飴の。ロートスさんだ」
名前はすっと出た。
「……なあ、兄ちゃん。あの人、どこの人だったんだ」
束を括る手が止まっていた。
「都の人だろ」
隣で樽を転がしていた男が言う。
「都のどこだよ」
「どこって、都だよ」
「誰の紹介で来たんだっけな」
「館に挨拶してたじゃねえか」
「だから、誰の筋でだよ」
誰も答えない。
答えが出ないまま誰かが笑って、話は青菜の値に戻った。
いい人だったじゃないか、で終わる話にもうなっている。
ヨナスだけが束を持ったまま、こちらを見た。
「兄ちゃんとこは、ずいぶん構われてたろ。何か聞いてねえのか」
「……聞いてねえ」
外で言うな、とガルドに言われている。
言われていなくても言える中身を持っていない。
ヨナスは、そうか、とだけ言って束を渡してきた。
青菜が一束、頼んだ数より多かった。
ランドの店の勝手口でソフィに母の言付けを渡した。
「はい。……あ、それと」
ソフィは手を拭きながら二階の方へ顎をやった。
「ヨーデルさん、この頃張り合いがないみたいで。昔話の途中で寝てしまうんです」
「聞く人がいたもんな」
「いましたね。最後まで聞いてくれる人が」
それだけ言って、ソフィは中へ戻っていった。
レインは塩の袋を担ぎ直した。
名前は全員が知っている。
名前の先を誰も知らない。
どこから来て、誰の筋で、何を商う人だったのか。
秋から初雪の日まで町にいて、毎日誰かと喋っていた人のことを、誰一人言えない。
言えないことにヨナスが今日初めて気づいた。
なら自分は何が言える。
背はガルドより低い。外套は灰色。手の甲のインクの染みは、とうとう確かめなかった。
それから、人混みで誰ともぶつからない。
言えるのはそれだけだ。
それでも、どこの人、の答えにはどれもならない。
あの男の歩き方なら言える。
あの男が誰なのかは、レインにも言えない。
井戸の前でハンナに呼び止められた。
「レインちゃん、悪いね。これ上げるの手伝っとくれ」
釣瓶の縄を引く。
濡れた縄はまだ固くて新しい。
「いい縄だろう」
「ああ。……これ、いつ替えたんだっけ」
「秋だよ。町で替えたのさ」
「町で」
「みんなでさ。前のは毛羽だらけだったからね」
ハンナは桶を提げて、礼を言って帰っていった。
残った桶に一杯だけ汲んで飲んだ。
冬の水は歯に染みる。
染みるのに、縄を引く手の方は迷いなく動いた。
留守のあいだ、毎朝この縄を引いた。
新しい縄の固さを、手はもう覚えてしまっている。
縄の代を誰が払ったのか、あの頃は誰も知らなかったはずだ。
もらってます、とだけ桶屋が言った、と家の卓で聞いている。
名前のなかった金の払い主はもう、みんな、になっている。
仕事の口もそうだった。出どころを辿ると最後は、みんな、で止まる。
広場であの男の歩き方を見ていて、流された人は転ばない、と思ったことがある。
今日のはあれの続きだ。
転ばなかった人は自分を押した手を覚えていない。
――――――――――――――――――――
夕方前に弟が坂から帰ってきた。
戸の内からリアが飛び出してきて、敷居でつんのめって、弟の膝に突っ込む。
「あしゅ」
「ただいま」
呼ばれた方は当たり前の顔で妹を抱き上げた。
あしゅ、はもう当たり前になった。
レインの名前はまだ、れ、のままだ。
出発の朝もこの妹は、れ、で止まった。
あの時は返事のしようがなくて、頭を押さえてごまかした。
「兄さん、薪が増えた」
「割ったからな」
弟が名前で呼ばなくなったのは、あの商人が町にいた頃だ。
人混みで誰ともぶつからない男の話をした日から、兄さん、になった。
直せとは言っていない。こっちが慣れる方が早かった。
「紙、今夜開けるって朝に聞いた」
「読むのはお前だってよ」
「うん」
弟は妹を下ろして、それから薪の山をもう一度見た。
「兄さん、一本やる?」
「飯までだぞ」
木剣を合わせた。
弟との打ち合いは出発の前が最後だ。だいぶ間が空いた。
空いたぶんの癖を探しながら受ける。
受けて、流して、返す。
三本目を流した時、弟の打ちが手前で止まった。
止めた場所に迷いがない。
振る前から、そこで止めると決めてある止まり方だ。
「それ、フェイさんのやつか」
「うん。決める場所を先に手前へ寄せておくんだって」
「俺は逆だな。来たやつを見てから決める」
「兄さんはそれでいいと思う」
「褒めてんのか」
「褒めてる」
弟はこういう時、世辞を言わない。
言わない人の、いい、は本当に聞こえる。
五本やって、妹が戸口で騒ぎ出したのでやめた。
騒ぎ方が、あしゅ、と、れ、の二つでできている。
半分は呼ばれない名前のままだ。
夕餉のあいだ、卓はいつもより静かだった。
静かなのに、誰も急いで食っていない。
開ける物が一つ増えただけで飯の速さまで変わる。
――――――――――――――――――――
椀が下がると、母が竈の横の付与石の布を外した。
白い明かりが卓の真ん中まで届く。
ガルドが布の包みを卓に置いた。
昼に帰ってから一度も体から離さなかった包みだ。
解くと紙が一枚。
思っていたより小さい。
「アシュ。読め」
「声に出して?」
「声に出してだ」
弟は紙を両手で持った。
持ってからリアの手の届かない高さまで上げた。
妹はもう卓の縁に手をかけて伸び上がっている。
読む前に、弟はガルドを一度見た。
頷きが返る。
「――ヴァルド家の子の身柄は、グレンツ公爵家の預かりとする」
弟の声はいつもの速さだった。
「身柄に関わる取り決めは、養子縁組、後見、奉公の口利きのいずれであっても公爵家の許しなしには成立しない。……あとは日付と、名前と、判」
読み終わった。
短い。
薪を一本割る方が長い。
「……それだけかよ」
「それだけだ」
「短けえな」
「長い紙は読み違える者が出る。止めるための紙は短いほどいい。書いた人がそう言った」
レインは首を伸ばして紙を見た。
読めない。読めないなりに字の数が少ないことだけは分かる。
「この判は」
「公爵様の紋だ」
判の朱だけが、紙の中で色を持っている。
乾いて、もう動かない色だ。
「なあ。俺の名前、どこに書いてあるんだよ」
「書いてない」
弟が言った。
「リアは」
「書いてない。僕のも書いてない」
「なんだよそれ」
「家の子と書けばこれから生まれる分まで効く」
ガルドが言った。
「名前を書けば、その名前の分にしか効かん。これも書いた人の言葉だ」
母が手を拭きながら卓に着いた。
「まだいない子の分まで入ってるの」
「入ってる」
「……酒場の帳面と逆だわ。名前のないつけは取りようがないのよ。名無しの客は、次に来る時は別の顔なんだから」
「これは取り立てる紙じゃない」
「そうね」
母はそれきり紙を見ていた。
読めないのはレインと同じだ。それでも見ていた。
あの男はレインを褒めて、勘定から外した。
弟の名前は最後まで一度も呼ばなかった。
この紙は誰の名前も書いていない。
書いていないのに、レインも弟もリアも、まだいない誰かまで入っている。
名前を書かないやり方が、守る側にもあるとは知らなかった。
「なあ。あいつ、春に戻ってくるんだろ」
「戻る」
「戻ってきたら」
「手続きは進まん。紙で来る相手は、この紙で止まる」
「紙で来なかったら」
母の手が膝の上で重なった。
「そこから先は俺の仕事だ」
薪の数を言う時と同じ言い方だった。
留守のあいだ、母は夜中に一度起きて閂を確かめていた。
ガルドが帰ってきた晩も、音はした。
この紙で止まるものの中に、あの音が入っているのかどうか。
入っていない気がする。
紙は手続きを止める。夜中に起きる母を止める字は、たぶんどこにも書いていない。
「……ずっと黙ってりゃ済むんだと思ってた。外で言うな、って言ったろ」
「言った。今も変わらん。外で言う話ではない」
「じゃあ、何が変わったんだよ」
「黙って済む相手なら、館へは行かん」
母が紙の端を指の腹でひと撫でした。
「これで終わりなの」
「終わったとは言わん。止まる、とだけ言う」
「なくしたら」
レインが聞くと、ガルドはこちらを見た。
「なくさん」
「破れたら」
「破らん」
それで質問は終わりになった。
この短さはたぶん、あの紙の短さと同じ理屈だ。
長く答えると、どこかに読み違える場所ができる。
ガルドは紙を布に包み直して立った。
居間の棚のいちばん上へ置く。
前の紙を、ガルドは家に置かなかった。
あの晩は帯へ入れて、そのまま持って歩いた。
今度の紙は棚に載った。
誰の目にも入るところだ。
そして、リアの手だけが届かないところでもある。
リアが卓を回って、ガルドの脚につかまった。
棚を見上げて手を伸ばす。
届くわけのない高さへ指だけが伸びる。
「それはだめよ」
母が腰を浮かせた。
ガルドは妹の手首を掴まなかった。
屈んで、抱き上げて、棚からひと足離れた床へ下ろす。
前の紙の時は違った。
伸びた手を、手首の手前で速く止めた。
紙が違えば止め方まで違う。
「アシュ」
「なに」
「今度さ、俺の名前の形、教えろよ」
「書く方?」
「見る方でいい。……書く方も、まあ、いい」
「うん」
弟は理由を聞かなかった。
聞かないところが弟だ。
名前の形を知らないまま、今日まで困ったことはなかった。
紙に自分が入っているかどうかを、今日は人に読んでもらって知った。
次は自分の目で確かめたい。それだけの話だ。
下ろされた妹はぐずらなかった。
ぐずらないまま卓を回って、今度はレインの膝に来た。
登りたがるので抱き上げる。
膝の上から妹がこちらを見上げた。
「れ」
また、れ、だ。
続きは、と聞くのはもうやめている。
返事をしないでいると、妹はまばたきを一つした。
「れいん」
言った。
一息で言った。
卓の音が止まって、母が先に笑った。
「あら」
「言った」
弟が言う。
「一息だった」
自分の声だった。
「毎日教えてた甲斐があったじゃない」
「教えるのはやめてたよ」
「やめた頃に覚えるのよ、この子たちは」
ガルドは口を開かない。
開かないまま、口の端だけ動いた。
膝の上で妹がもう一度言う。
「れいん」
「おう」
今度は頭を押さえずに返事をした。




