第二十八話
乗合の広場は空いていた。
馬車の出る刻ではないらしい。囲いの中に馬が二頭、湯気を立てて立っているだけだ。
領主館へはこの広場を抜けて坂を上がる。
ライナはガルドの半歩後ろを、黙って歩いてくる。
広場の隅の水飲み桶の前に、女が一人立っていた。
薄い茶の髪を編んで巻き上げている。
両腕で、布に包んだ物を抱えている。
イルザ・ホフだった。
桶の水を見ているのではない。
脚の方を見ている。
脚の下の、石が一つ浮いているところをだ。
ライナの足が止まった。
「……あんた」
「おはよう」
帳場の声だった。明るくて、少し高い。
二年間この石の下へ紙を置いてきた女が、置いてきた場所を見て、帳場の声で挨拶をする。
「荷物、それだけ」
「これだけよ」
布の間から壺の口が見えている。
「忘れ物を届けに行くの」
ライナは壺を見て、それから桶の脚を見た。
どちらにも触らなかった。
「あたしたち、これから館に行くんだよ」
「知ってる」
イルザは笑った。帳場で明日の紙の話をする時と同じ顔だ。
「先に行きなさいよ。あたしは支部へ寄ってから行く。代わりの子を帳場に座らせて、引き継ぎを置いてくるの」
「引き継ぎって、あんた」
「紙に書いてあるわ。あたしの字で」
イルザはガルドを見た。
「あんた、名前を出しに行くんでしょう」
「出す」
「そう」
責める色はなかった。確かめる声ですらない。帳面の数を読み上げる時の声だ。
「先に出しておいて。あたしが言うだけだと、あたしの言い分にしかならないから」
それだけ言って、支部の方へ歩き出した。
歩き方がいつもと同じで速くも遅くもない。
ライナは動かない。
動かないまま、その背中が角を曲がるまで見ていた。
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領主館へ上がる坂は雪かきがしてあった。
脇へ寄せた雪の壁が腰の高さまである。館の兵の仕事だ。手際に文句はない。
門は名乗る前に開いた。
取次の男が先に戸を引いて、脇へ寄って待っている。
三日かかった門だ。今日は一度で通る。
変わったのはガルドではない。納めた物が変わった。
ライナは石段の下で止まった。
「ここまでよ」
「ああ」
「終わったら出てきなさいよ。あたしはここを動かないから」
外套の前を合わせて、門の脇の壁に背をつける。
腰を下ろせる石はすぐ横にある。座らない。
それきりこちらを見なかった。
石段の途中に、下りの段がある。
兵が一人立っている。下は牢だ。
五人はあそこにいる。
五人ともあの子の氷と風を見た。
縄は解いても、喋る者は残る。そこはガルドが引き受けると言った。
どう引き受けるかはまだ決めていない。決めていない荷を一つ抱えたまま、先に今日の用をやる。
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控えの間では待たされなかった。
例の書記が廊下に立っていて、部屋の戸を先に開ける。
「ヴァルド様」
「様はいらん」
「規則ですので」
同じやりとりが二度目になる。二度目は、向こうも分かっていて言っている。
「本日は書付をお持ちですか」
「ない。話しに来ただけだ」
「では、口にされた分はこちらで書き取ります。それも規則ですので」
書き取られて困る話はしないつもりで来た。
一つだけある。それは向こうが聞かなければ言わない。
部屋は前と同じ狭さだった。
卓が一つ。紙の束は三つから二つに減っている。
壁の地図は掛かったまま、街道のところだけ指の脂で黒い。
レオン・フェルディナント・グレンツは、卓の向こうで帳面を開いていた。
今日はペンを持っていない。
「ヴァルドか」
「はい」
「座れ」
「立ったままで」
「前もそう言ったか」
「言っていません。前は言われませんでした」
「今日は客だ。座れ」
卓を挟んで腰を下ろした。
座ると地図の黒ずみがちょうど目の高さに来る。
「頭が生きて牢に入った」
顔より先にそれを言った。
「二年ぶんの懸案が、人相書き五枚と、生きて喋れる頭一人になった。悪くない納め方だ」
「七人でした。二人は峠へ逃げています」
「峠の先は隣の領だ。文は出す。捕まえるかどうかは向こうの仕事で、春まで生きるかどうかは知らん」
レオンは帳面を一枚めくった。
「頭は名乗らんそうだな」
「宿では名を使っていました。本当の名かどうかは分かりません」
「名はどうでもいい。生きて喋ればいい」
めくった帳面の上へ、目だけを落とす。
「五人押さえて、一人も死んでおらん。殺さん方が難しい相手だ。……やり方は聞かん」
ガルドは黙っていた。
「聞けば書き取らせることになる。書けば紙が増える。増えた紙は、私にも止められん」
館の棚のための言葉だ。
それでも、聞かれずに済んだ分だけ息は楽になった。
「賊は納めました。もう一つあります」
「言え」
「手引きの名前です」
レオンの目が上がった。
ペンのない手が、卓の上で一度組まれる。
「取れたのか」
「取れました」
名前を出すと決めたのは館に入る前の話だ。
決めてある物を出すだけでも息は一つ要る。
さっき広場で、先に出しておいてと言われた。
言われた分だけ軽くなったかといえば、逆だ。
「イルザ・ホフ。ギルドの帳場の女です」
レオンは動かなかった。
しばらく何も言わなかった。
「……字のうまい女だな」
「ご存じでしたか」
「顔は知らん。字は毎月見ている。ギルドの写しはこの館にも回ってくる」
声に驚きは載っていない。
載せないだけか、載らないのか。載らないのだとしたらその方が怖い。
「確かめは」
「本人が認めました。言い逃れは一つもなかったと聞いています」
「誰が聞いた」
「俺の仲間です。名前は出しません」
「出さんでいい。ここに書くのはあんたの名前だ」
レオンはそこで初めてペンを取った。
「続けろ。分かっている分を全部だ」
順に言った。ゆうべのうちに、聞いてきた者から順を追って聞き直してある。
頼まれたのは板に貼る紙を貼る前に一日早く写して置くこと、それだけだったこと。
受け取りは一枚につき金貨一枚。月に一度、二年で二十四回。
金貨は一枚も使われずに壺へ残っていること。
やめようとした月に、自分の写した紙の写しが返ってきたこと。
置き場所は乗合の広場の水飲み桶の脚の下で、石が一つ浮いていること。
紙を持っていくのは乗合の御者。月ごとに人が違って、中身は知らされていないこと。
レオンのペンはガルドが話すより速く動いて、ガルドが止まると同時に止まった。
「御者から先は」
「辿れません。本人も、頼んだ相手の顔を一度も見ていません」
「だろうな」
レオンはペンを置いた。
「間に人を一枚挟めば糸はそこで切れる。切れると分かっている者が挟んでいる。手慣れたやり方だ」
「石は」
「しばらくあのままにしておく」
「使うんですか」
「使うかどうかを決めるのは私だ」
それ以上は言わない。ガルドも聞かない。
「女の沙汰は」
「私が決める。あんたに聞く話ではない」
「はい」
「ただ」
レオンは帳面の端を指で押さえた。
「使っていない金貨二十四枚は、書きようのある数字だ」
それだけ言って、先は言わなかった。
「じきに本人が来ます。壺ごと抱えて、自分の足で」
「なぜ分かる」
「広場で会いました。支部の引き継ぎを済ませてから来ると言っています」
レオンは目を細めた。
「逃げるとは考えんのだな」
「二年逃げなかった女です。壺の金貨を一枚も使わずに」
「……書記に言っておく。門で待たせるな」
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レオンは新しい紙を引き寄せた。
書くのは速い。速いが、走らない。一字ずつ置いていく書き方だ。
書き終えると紙をこちらへ回して寄越した。
「読め」
読んだ。
ヴァルド家の子の身柄は、グレンツ公爵家の預かりとする。
身柄に関わる取り決めは、養子縁組、後見、奉公の口利きのいずれであっても公爵家の許しなしには成立しない。
日付と署名。文言はそれだけだ。
声に出せば息二つで終わる長さになる。
「短いんですね」
「長い紙は読み違える者が出る。止めるための紙は短いほどいい」
「名前がありませんが」
「家の子と書けばこれから生まれる分まで効く。名前を書けば、その名前の分にしか効かん」
子、とだけ書いてある。
うちの子は三人だ。三人ともこの一行の中にいる。
レオンは立ち上がって、棚から判を持ってきた。
朱を含ませて、署名の下に紋を押す。
押した跡を確かめる目の方が、字を確かめる目より長かった。
「写しはここで取る。正本はあんたが持て」
「家に置いていいんですか」
「置くために書いた」
あの男の紙は、一枚も家に置かなかった。
この紙は家に置く。
同じ紙でも置ける物と置けん物がある。
「ベルツ家は」
「私が話す。あんたが考えることではない」
「顔を潰す話でした」
「潰し方は選べる。それを選ぶのが私の仕事だ」
レオンは座り直して、指で卓を一度だけ叩いた。
「支度金は五百と言ったな」
「はい」
「私は一枚も出さん。出したら買った側に並ぶ」
書記が呼ばれて入ってきて、卓の端で写しを取った。
迷いのない手だ。
あの男の四枚も、たぶんこの手が館に積んだ。
今日はその四枚の上へ載る一枚を写している。
「言っておく」
レオンが言った。
「この紙で止まるのは、書付で来る相手だけだ」
「はい」
「あの商人は紙で来た。だから止まる。春に戻って、手続きが紙の上で進まんことを知る。知って、たぶん笑うだろう」
「笑いますか」
「ああいう手合いは怒らん。怒った顔は帳面に載せられんからな」
窓の光が地図の黒ずみのところまで来ている。
「書付で来ん相手が来たら、この一枚では止まらん。そこから先は、あんたの領分だろう」
「はい」
「前に言ったことは変わらん。覚えているな」
「はい」
何を指しているかは分かっている。
うちの子の先を決められる者が、これで一人増えた。
分かっているから返事だけをした。
家に持って帰る話ではない。今日だけでなく、たぶんこの先もずっとだ。
「今日は返事が遅いな」
「はい」
レオンはそれ以上言わなかった。
帳面へ目を戻して、次の紙を引き寄せる。
終わりだ、と言われる前に分かる引き寄せ方だった。
廊下では書記が写しを胸に抱えて先を歩いた。
棚のどこへ入るのかは聞かなかった。
あの四枚と同じ棚なら、それでいい。
上に載る紙を持てたのはこちらが先だ。
石段を下りる途中、牢へ下りる段の前を過ぎた。
下から物音はしない。
五人とも生きている。生かして納めた分の荷は、ガルドが持って帰る。
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門を出ると雲が薄くなっていた。
ライナは壁に背をつけたまま立っていた。
立ち方が入る前と寸分変わらない。
「もらえたの」
「もらった」
「見せてとは言わないわよ」
「見せん」
「うちの子の紙だもんね」
ライナは壁から背を離した。
離して、通りの下へ目をやって、そのまま止まった。
坂を、女が一人上がってくる。
両腕の包みは広場で見た時のままだ。
イルザは二人の前で足を止めた。
「出した?」
「出した」
「そう。ありがと」
礼を言われる筋ではない。
ないが、この女の中では筋が通っているのだと思う。
自分の名前が先に館へ入っていれば、あとから自分が言うことは言い分にならずに済む。
ライナは何も言わない。
言う代わりに道の脇へ半歩よけた。
通れる幅はよけなくても最初からあった。
「あんた」
ライナの声が出た。出ただけで続かない。
「なによ」
「……ちゃんと食べてるの」
「ゆうべはちゃんと食べたわよ」
帳場で明日の紙の話をする時と同じ声だった。
「うちの板のね、右端の四角」
イルザはライナの方へ首を回した。
「日に焼けてないでしょう。あそこにはもう、二年ものは貼らせないで」
「……なんで」
「次の紙がすぐ来る町にしなさいよ。あんたたちが取ったんだから」
それだけ言って、歩き出した。
石段を上がる。兵が誰かに何かを言われていたらしく、問いもせずに脇へ寄った。
門の前で、名乗る声だけがここまで届いた。
「イルザ・ホフ。ギルドの帳場の」
門の閉まる音は一度だった。
――――――――――――――――――――
ライナは門を見たまま動かない。
「あたしね、今日ここで待ってるって言ったのよ」
「言った」
「待つ相手を間違えたわ」
ガルドは答えなかった。
答えられる筋の話ではない。
「先に帰りな」
ライナが言った。
「待つのか」
「待つ相手なら、さっき入っていったでしょ」
ライナは壁にもう一度背をつけた。
「日が暮れるまでいる。出てこなかったら帰る」
出てくるかどうかを決めるのは門の中だ。
日暮れまでと言った者を、それより先に動かす言葉は持っていない。
一人で坂を下りる。
帰ったら紙は家で読む。
ガルドが読んでもいいが、あの子に読ませようと思っている。
家の中で字が読めるのはガルドと下の息子だけだ。あの子が声に出して読んで、女房と上の子とリアが聞く。
読めない者に、読める者が声に出して読んでやる。あの帳場の前で毎日あったことが、今夜はうちの卓である。
広場を抜ける。
水飲み桶の前には誰もいない。
脚の下の石は、浮いたまま雪をかぶっている。
雪は固いまま、足は沈まない。
外套の内側で、紙の角が一歩ごとに胸へ触れる。
剣は腰でいつもの重さのままだ。
紙一枚に、重さらしい重さはない。
ないはずの重さが、家に着くまで胸から離れなかった。




