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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
客人は笑う

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第二十七話

 昼を過ぎても雪はやまなかった。


 バルトは宿場を出た時から戸板の上だ。

 肩と頭をやられて目を開けない。


 縄をつけた男が五人と、腹を刺された宿の主がいる。どちらも南の町まで下ろす。

 宿場に牢はない。腹を塞げるのはバルトで、そのバルトが起きない。

 峠が閉まれば宿場から人が引く。残していけば看る者がいなくなる。

 賊の馬は二頭残ったが、目を覚まさない者は鞍に据えられない。二人とも戸板だ。

 宿の主を乗せた戸板は、縄をつけた男のうちの二人が持っている。


 戸板の両端を持って歩くと腕より先に腰が痛くなる。

 ライナは半刻ごとにオルトと持ち手を替えた。替えるたびにバルトの体が少しだけ揺れる。

 揺れても目は開かない。


 二日目の朝に開いた。


 開いて、天井の代わりに雪の降ってくる空を見て、それから首を横に倒した。

 いちばん先に出たのは、こういう言葉だった。


「宿の親父は」


 ライナは戸板を下ろした。


「生きてるよ。ライナが押さえてた」


 オルトが答えた。


 そのあと腹の血はオルトが刃を焼いて止めた。今は後ろの戸板に乗って、同じ道を下りている。


「そうですか」


「起きて最初に聞くのがそれか」


「聞くでしょう」


 バルトは目を閉じて、それきりしばらく黙っていた。

 肩の方は動かない。動かそうとして、途中でやめたのが布の下で分かる。


「外したね」


 ライナは言った。


「何をだ」


「あんた、バルトが起きたらまずあの子の鼻を見て上を向くなって言う、って言ってたじゃない」


「外した」


 オルトは戸板を持ち直した。


「腹が立つ。こいつのことは俺がいちばん当てられるはずだ」


 バルトの目が薄く開いて、また閉じた。

 笑ったのかもしれない。顔の下半分が布で見えないので分からない。


 いちばん後ろであの子が薬箱を担いで歩いている。

 背負い袋と薬箱で肩が二重になって、歩幅が半分になっている。

 誰も代わらない。

 一度、シアが手を出しかけて引っ込めた。引っ込めたのを見たのはライナだけだと思う。


 三日のあいだ、あの子は薬箱を一度も下ろさなかった。

 休む時も膝の上に乗せている。


 ライナは、その子の顔を正面から見た。


 青い目だ。

 いつもは見た瞬間に体のどこかが止まる。何が止まるのかは自分でも分からない。子どもの頃から、村の年寄りが青は良くないと言うのを聞いて育った。

 今は止まらなかった。

 止まっている場合ではない。


「アシュ」


「はい」


「重かったら言いな」


「重いです」


「渡しな」


「まだ持てます」


 それきり黙って歩いた。

 こういう返し方をする七つの子どもを、ライナは他に知らない。


――――――――――――――――――――


 町に入ったのは四日目の昼だった。


 雪は町の手前でやんで、屋根の上だけが白い。

 街道から北の坂を下りていくと竈(かまど)の煙が何本も見える。何もなかった顔をしている町だ。


 賊は領主館の兵に渡した。

 門のところで数を数えて、縄を数えて、紙に書いて、それで終わりだった。

 書いたのは館の書記で、五人ぶんの人相を書き取るのに半刻かかった。


 ガルドは「明日また来る」とだけ言って門を離れた。


 細い通りの奥まで来ると、戸口の前に三人立っていた。

 ミラと、レインと、母親の腰にしがみついている小さいのだ。

 誰かが坂の上から知らせに走ったのだと思う。


 レインが戸板の上を見た。見てから、弟を見た。


「バルトさん、どうしたんだよ」


 アシュが口を開いた。

 開いて、息を吸ったところでガルドの手が肩に乗った。


「家で話す」


「でも」


「順に話す。今は運ぶ」


 アシュは頷いて、薬箱を担ぎ直した。

 担ぎ直す時に、レインがその紐へ手を伸ばしかけて、途中で引いた。

 弟が渡さないと分かる伸ばし方だった。


 ミラは何も聞かなかった。

 戸板の上のバルトの顔を見て、それからアシュの靴を見た。

 靴は雪と血で二色になっている。血の方は本人のではない。


 バルトと宿の主は、二人ともオルトの借家へ運んだ。

 土間へ入れて、竈(かまど)に火を入れて、バルトの肩の布を解いた。


「自分でやる」


 バルトが言った。


「明日にしろ」


「今日です。腫れが引く前の方が寄りやすい」


 宿の主の腹を塞ぐのは、そのあとになる。

 オルトが刃を焼いて当てたのは血を止めるためで、傷はまだ開いたままだ。


 ライナは外へ出た。

 自分の肩を自分で治す男を見ていられる性分ではない。


 戸の外でアシュが立っていた。

 薬箱をようやく下ろして、両手を空にして立っている。

 中から低い声が聞こえてくる。何を言っているかは戸の厚みで消えている。


「入らないの」


「入りません」


「なんで」


「集中が要ると聞きました」


 ライナはその横に並んで、壁に背をつけた。


「あんた、あの薪を落としたのが自分だと思ってるでしょ」


 返事がない。

 アシュは戸の方を見たまま、少ししてから言った。


「僕が落としました」


 ライナは何も言わなかった。

 言うことが見つからなかったので髪の束を結び直した。


 中の声が止まった。

 しばらくして、また始まった。


――――――――――――――――――――


 ギルドの支部へ行ったのは夕方だ。


 板の右端の紙を剥がしてもらわないといけない。

 二年貼りっぱなしだった紙だ。剥がすと下の板だけ日に焼けていない四角が残る。


 帳場にはイルザがいた。

 薄い茶の髪を編んで巻き上げた頭が、帳面の上に傾いている。


「おかえり」


 いつもの声だった。明るくて、少し高い。


「ただいま」


「五人とも」


「四人は歩いて帰ってきた。一人は戸板に乗せて」


 イルザの手が止まった。

 止まってからペンを置いた。


「誰」


「バルト」


「命は」


「ある」


「……よかった」


 よかった、の言い方に嘘がなかった。

 十五年近くこの帳場を見てきて、この人が嘘を言うのを聞いたことがない。


 イルザは新しい紙を引き寄せて、書き始めた。

 書き取るのが速い。日付、パーティの名前、人数、負傷一名。指が迷わない。

 途中で一度だけ止まった。


「報酬の欄」


「空いたままでいい」


「達成で閉じるのよ。空いたままだと、こっちが取ったみたいに見えるじゃないの」


「館と直に決めた分がある。金では受け取らない」


 イルザはペンを持ったまま少し考えて、それから欄に短い線を引いた。


「受取なし、で書くわ。書いておかないと、あとで誰かが埋めるから」


 この人は空欄を嫌う。

 十五年近く見ているが、埋めずに閉じた紙を一枚も見たことがない。


 ライナはその手を見ていた。


 見ていたのは指ではなく字の方だ。


 この人の字は横棒の終わりが小さく上がる。癖のある上がり方で、町でこう書く人を他に知らない。

 板に貼ってある紙も、受付の控えも、宿場の帳場へ回る写しも、全部この癖がついている。


「どうしたの」


「なんでもない」


 ライナはそれだけ言って、支部を出た。


 出てから腹の底が冷たくなっているのに気づいた。

 街道の三日でも冷えなかったところだった。


――――――――――――――――――――


 その夜、ライナはイルザの家の戸を叩いた。


 ガルドには言わなかった。

 言えばあの男は自分で行く。行けば話が終わる。

 終わる前に一つだけ確かめたいことがあった。


 戸はすぐ開いた。

 開けたイルザは、夕餉(ゆうげ)の片づけの途中らしく、まだ前掛けを着けたままだった。


「ライナ。どうしたの、こんな時間に」


「入っていい」


「入りなさいよ。寒いでしょ」


 狭い土間だ。

 竈(かまど)の横に薪が七、八本しか積んでいない。冬のはじめにこれだけしかない家は、一人で暮らしている家だ。

 卓に椀が一つ。洗って伏せてある。


 ライナは腰掛けに座らなかった。


「聞きたいことがある」


「座って聞きなさいよ」


「立ってていい」


 イルザは前掛けの紐に手をかけて、それをほどかなかった。


「あの街道の賊さ。二年で十一回、荷が消えてる」


「知ってる。板に貼ってあるもの」


「襲われた十一回は、全部護衛のついた荷だった。護衛のつかない荷は三回通って三回とも無事だった」


 イルザは何も言わない。


「護衛のつく荷は、出る日と道と人数がギルドの紙に載る」


「載るわね」


「その紙を書いてるのは、あんただ」


 竈(かまど)の火が細くなって、土間の隅が暗くなった。

 イルザは薪を足さなかった。


「違うって言ってよ」


 ライナは言った。


「言えないの」


 イルザは前掛けの紐から手を離した。


「そうよ」


 それだけだった。


 言い訳の前に来る間がなかった。

 顔も変えない。二年、同じ顔でこの人は紙を書いてきた。今も同じ顔だ。


「……なんで」


「頼まれたから」


「誰に」


「知らない」


「知らないって、あんた」


「本当に知らないの」


 イルザは卓の椀を裏返して、また伏せた。


「二年前の秋にね、うちの戸の下に紙が挟まってたの。読んだら、街道でうちの荷がよく遅れる、って書いてあった。同じ日に護衛のついた荷が何本出るか知りたい、って」


「それだけ」


「それだけ。荷主が調べたがってるんだと思ったのよ。うちの隊とぶつかると宿が取れないから、って書いてあったし」


 ライナは口を開いて、閉じた。


「あたしが頼まれたのはね、板に貼る紙を、貼る前に写して置いておくことだけ」


 イルザは指で卓の木目をなぞった。


「貼ったら誰でも読めるの。門の横に貼るんだから通りがかりの誰でも読める。あたしがやったのは、それを一日早くしただけ」


「一日早いだけで、待ち伏せができる」


「今はそう思う」


 イルザは顔を上げた。


「当時は思わなかった」


 ライナは戸の方を見た。見てから、また卓へ目を戻した。


「この町でね」


 イルザが言った。


「字を読める人は数えるほどしかいないの。だから板の前に人が集まると、あたしが出ていって読んでやるのよ。誰が何日にどこへ行くか、声に出して」


「知ってる」


「二年、毎日そうしてた」


 イルザは自分の指を見た。


「読んでやってる紙を、読んでやる前に写して置いてた」


――――――――――――――――――――


 風が戸を鳴らした。

 イルザは戸の方を見て、それから土間の隅の棚へ歩いた。


 小さい壺を持ってきて、卓に置いた。

 蓋を取って、こちらへ向ける。


 金貨だ。


「月に一度、金貨で一枚」


 ライナは中を覗いた。

 小さい壺の底に、金の色が寄せてある。数えられる数だ。数えられる数なのに、この人は一度も数えなかったのだと分かる。


「二年で二十四回。二十四枚あるわ」


「使ってないの」


「使ってない」


 イルザは蓋を戻した。


「使ったらもらったことになるでしょう」


 ライナは卓の縁に手を置いた。置いてから、置いたことに気づいた。


 分かっていたのだ。

 最初の一枚から、この人は分かっていた。


「やめようとした」


「したわよ」


 イルザは壺を棚へ戻しに行った。戻す時に音を立てないように置く手つきが、帳場で紙を重ねる時と同じだった。


「三度目か四度目に、また街道で荷が消えたって聞いたの。それで、次の月は写しを置かなかった」


「そしたら」


「金貨は来たの。いつもの場所に。置かなかった月も来たのよ。もう一つ入ってた」


 イルザは棚の方を向いたまま言った。


「あたしが写した紙の、写し」


 ライナは動かなかった。


「あたしの字よ」


 イルザが振り返った。


「横棒の終わりが上がるの。町でこう書くのはあたしだけ。誰が見ても分かる」


「……それで」


「置くのをやめても、あたしの字は向こうに残るの。館へ持っていかれたら、二年ぶんの写しが一度に卓へ載る」


「やめてたって、どのみち持っていかれたかもしれないよ」


「持っていかれたでしょうね」


 イルザは笑った。

 笑い方が明るい。帳場で「おかえり」と言う時の顔と同じだった。


「でも、やめたその日からあたしは何ももらわずに待つことになるの。もらってる間は、まだ何か言えると思ってた」


「何が言えるのよ」


「知らないわよ、そんなの」


 初めて声が乱れた。乱れたのは半分だけで、あとは元に戻った。


「言えることなんか、二年考えて一つも出なかった」


――――――――――――――――――――


「置き場所はどこ」


「乗合の馬車が着く広場の、水飲み桶の脚の下。石が一つ浮いてるのよ」


「持っていくのは」


「乗合の御者。誰かは決まってない。その月に走る人が持っていくだけ。中身は知らないと思う」


「思う、じゃなくて」


「知らない。あたしは相手の顔を一度も見てないの」


 ライナは卓に手をついた。


「十一回よ」


「うん」


「人が死んだ年もある」


「うん」


「あんたが書いた紙で」


「あたしが渡したのは紙だわ」


 言ってからイルザは自分の口を手で押さえた。

 押さえた手を、そのまま下ろす。


「……今、言って分かった」


 声が低くなった。


「二年、同じことを自分に言ってた」


 卓の上には何も載っていない。壺は棚に戻してある。

 ライナはそこを見ていた。


「あたしね」


 イルザが言った。


「一度も嘘は書いてないのよ」


 ライナは息を吸った。

 吸った分を吐くのに、思ったより時間がかかった。


 この町でいちばん字の上手い人が、二年かけて、嘘を一つも書かずにこれをやった。


――――――――――――――――――――


 オルトの借家へ戻ったのは、町の犬が鳴きやんでからだ。


 土間にガルドが座っていた。

 バルトは奥で寝ている。塞いでもらった宿の主が、その横に寝かせてある。

 アシュはガルドの隣で壁にもたれたまま寝落ちしていて、外套(がいとう)がかけてある。


「行ってきたか」


 ライナは戸を閉めた。


「なんで分かるの」


「支部から出たあと家に帰らんかったろう」


「見てたわけ」


「シアが見てた。追わせてはいない」


 ライナは腰掛けを引いて座った。

 座ってから街道の三日で一度も座らなかったことを思い出した。


「認めた」


「そうか」


「全部よ。一つも言い逃れしない」


 ガルドは頷いた。頷いただけで、詳しくは聞かない。


「あんた、館に名前を出すつもりでしょ」


「出す」


 返事が速い。


「賊の頭だけじゃ足りん。あの領主は釣り合いで動く人だ」


「釣り合いって」


「うちの子の紙は、あの人がベルツ家の顔を潰して書く紙だ。二年ぶんの賊一つでは軽い」


「そこに人を一人足すの」


「足す」


 ライナは卓の縁を指で押した。

 押しても卓は動かない。


「じゃあ、あたしが言う」


「言わん」


「なんでよ。あたしの知り合いだよ」


「知り合いだから言わせん」


 ガルドは膝の上で手を組んだ。


「言った者の名前が館の紙に残る。お前は明日もあの帳場で仕事をもらうんだ」


「あんただってもらうでしょ」


「俺はもう名前を出してる」


 言ったとは、初めて聞いた。


「三日かけて館に入った日にな。町の内側に手引きがいる、と言った。ギルドの三組は誰も言わなかったことだ」


 ガルドは奥の方を一度見た。

 寝ている子どもの方だ。


「あの時点で、俺は町の誰かを差し出すと決めてる。名前が分かってなかっただけだ」


「……ずるいよ、それ」


「ずるい」


 ガルドは否定しなかった。


「先に決めてからあとで誰かが埋まる。決め方としては最低だ」


 竈(かまど)の火が薪の端を舐めて、そこだけ明るくなった。


「止めるか」


 ガルドが聞いた。


「止めていい。俺は止められたら考える」


 ライナは考えた。

 考えているあいだ、壁の方でアシュの寝息が一度だけ深くなった。


 この子は三日、薬箱を下ろさなかった。

 自分で打った相手の薬箱を、自分で担いで帰ってきた。


 あの家にはこの子のほかにあと二人いる。


「止めない」


 ライナは言った。


「止めないけど、あたしは行かない。門の外で待ってる」


「そうしろ」


「あんた一人で入りな。あたしが門の中に入ったら領主はあたしを見るから」


 ガルドは何も言わずに頷いた。


――――――――――――――――――――


 翌朝、ライナは支部の前を通った。


 板には新しい紙が三枚貼ってある。

 右端の四角は日に焼けていない。二年ぶんの紙を剥がした跡だ。


 三枚とも、横棒の終わりが小さく上がっている。


 この町の仕事は、全部この字で回っている。

 冬の薪運びも、屋根の雪下ろしも、隣の村への使いも、貼り出されるまでは全部この人の手の中を通る。


 板の前で、若い連中が二人、紙を読んでいた。

 読めないほうが指で字をなぞって、読めるほうがそれを声に出して読んでやっている。


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