第二十六話
壁の隙間から入ってくる冷えの向きが、さっきと変わった。
峠の下の宿の二階だ。
夜明けまでにはまだ間がある。窓の油紙は暗いままだ。
下の閂は一度鳴ったきり、落ちる音がしなかった。
誰かが上げて、そのままにしてある。
父はもう階段の降り口にいない。
敷いてあった外套だけが床に残っていた。
ゆうべ、五人は誰も靴を脱がなかった。
賊はこちらの着く日を、ギルドに貼り出された依頼書で知っている。その依頼書はこちらも読める。
三日目は今日だと土間で決まって、そのあと父は横になったが眠らなかった。
アシュは掛け布を押しのけて、壁際まで下がった。
背中を壁につけると階段の下の土間が斜めに見える。
塔を出る前に、魔法を使うか使わないかを先に決めておけと言われた。
決めたのは川を渡った日の夜だ。三つ並べて、それきり動かしていない。
一つ。父が使えと言うまで出さない。
二つ。人には向けない。足と、足の下に向ける。
三つ。一度に一つだけ。
一階で腰掛けが倒れた。
倒れた音のあとに息を強く吐く音が二つ重なった。
ライナの声が短く何か言って、それきり声はなくなった。
鉄と鉄の音は思っていたより低い。
庭で父が振る音とも、詰所で聞く音とも違う。
当たっているのは刃ではない。刃を持った腕ごとぶつかっている音だ。
悲鳴がした。
大人の男の声で、途中で切れた。
宿の主の声だ。ゆうべ、峠の話をしてくれた人の声だった。
あの人だけが本当に寝ていた。
自分の宿で、自分の炉の横で寝ていた人を、誰も起こしていない。
アシュは階段を三段下りた。
下りるなとは言われていない。
言われていないことを勝手にやっているのは分かっている。
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土間は暗い。
炉の火は芯だけ残って、赤いところが拳ひとつぶんしかない。
人が七人いた。
父と、ライナと、オルト。
知らない男が三人。
宿の主が炉の横で横になっている。動いていない。
オルトは壁を背にして、両手を胸の高さで開いていた。
降参の形ではない。詠唱の形だ。
「フォイグニス、イグニラ――ブレン・マール、エルドルスコット」
手の先から赤い点が一つ出た。
点は飛びながら伸びて、土間の端に立っていた男の肩に当たる。
布の焦げる匂いが、薬草の匂いより先に鼻へ来た。
アシュの目には、それより前のものが見えている。
詠唱のあいだ、アニマの白い流れがオルトの手の甲の上で一度ふくらんだ。
ふくらんでから細くなって、細くなった分だけが前へ出ていく。
残りは出ていかずにそのあたりで散った。
余った分を捨てる、という言い方はオルトのものだ。
捨てているところを、初めて外で見た。
肩を焼かれた男が下がって、ライナが前へ出た。
小柄な人が大きい相手の内側へ入るのを、アシュは初めて近くで見た。
入り方が父と違う。父は正面から押す。この人は相手の腕の下をくぐって、くぐったところで肘を上げる。
父は戸口を塞いでいた。
外へ出したくないのだと分かる。
塞いだまま前へ出ない。踏み込めば、その分だけ戸口が空く。
男の一人が父の左へ回ろうとした。
父は追わない。左へ回られた分だけ、戸口の枠へ肩を寄せる。
回った男は、回りきったところで壁に行き当たった。
庭で見る父は前へ出る人だ。
ここでは一歩も出ていない。
出ないでいるほうが、たぶん難しい。
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三人のうち一人が奥へ回った。
居間の方だ。
その先にバルトがいる。
炉の横に倒れていた宿の主を、居間へ引き上げたのだ。
宿の主のそばに膝をついて、腹のあたりへ布を押し当てていた。
バルトは顔を上げない。
手を離せば血が増える。この人は離さない。
男は居間へ上がろうとして、土間で足を止めた。
止めたのは、そこに水があったからだ。
アシュが出した。
「ヴァッサークア、フルーミア――ヴァクナ・リンド・ヘンドル」
上がり口の床に水が広がる。
椀より易しい。へりがないので回して整える手間が要らない。
広がる先だけを見て、送る量を細くしていく。
「ヴァッサークア、グラシア――フロスタ・ヴァトゥン・ヘンドル」
端から白くなって、真ん中で追いついた。
厚さは指の腹で押して沈まないくらい。椀の時より厚くした。
面はもういい、とゼドルは言った。中だ、底まで凍らせろ、とも言った。
ここでは面で足りる。
人は氷の上に立つだけだ。深さは要らない。
男が踏んだ。
踏んだ足が前へ滑って、上体が後ろへ落ちた。
落ちた背中を、ライナの膝が上から押さえた。
「氷、あんたね」
ライナは膝の下の男を押さえたまま、こちらを見ずに言った。
「はい」
「もう一枚張れる?」
「張れます」
「今はいい。走るのはこっちだからね」
人には向けていない。足の下だ。
決めた線の内側にいる。
――――――――――――――――――――
外で馬が鳴いた。
戸口の父が半歩だけ体を開いた。
開いた隙間へ、シアが下から滑り込んでくる。
雪を蹴った跡が、土間に三つ残った。
「外、二人」
それだけ言って、シアはまた出ていった。
オルトが舌打ちをした。
「二人じゃ足りない。馬が四頭いた」
父は答えない。
土間の残りの二人は、戸口の父と壁のあいだに詰まっている。オルトの両手がまだそちらを向いている。
父は戸口の位置を指の幅ぶんだけ変えた。
その時、バルトの後ろの板戸が開いた。
裏口だ。
昨日の昼に宿の主が薪を入れていた戸で、閂は内側にある。
開いたということは、内側から上げた者がいる。
男が一人、居間へ上がってきた。
バルトの背中まで三歩ない。
バルトは手を離さない。
離せないのだと、見ていて分かる。
「アシュ」
父の声が戸口から飛んだ。
使え、とは言わなかった。
言う間がなかった。
氷は間に合わない。
水を出して、凍らせる。詠唱が二つ要る。三歩のあいだに二つは唱えられない。
一度に一つだけ、と決めてある。
男の腕が上がった。
人には向けない、と決めてある。
人に向けなければ、バルトの背中が割れる。
どちらを取るかは、三つの中に入っていない。
決めていないことが、目の前で起きていた。
決めるのに、息を一つぶん使った。
使った一つぶんが、そのまま遅れになった。
「テンペシュトゥルム、ヴェンティラ――」
細くする方の言葉ではなく、広げる方を続けた。
遅れた分を取り返そうとして、アニマを送った。
どれだけ送ったかは覚えていない。
塔では毎回覚えている。椀に何杯ぶん送ったかを、指が先に覚える。
覚えていないのは初めてだ。
男の足が床から離れた。
開いていた裏口の枠に肩をぶつけて、そのまま外の雪へ落ちる。
落ちたきり起きてこなかった。
風は男一人ぶんで終わらなかった。
残りが横へ抜けた。
抜けた先の壁に、割った薪が肩の高さまで積んである。
昨日、宿の主が「峠が閉まる前に足しておく」と言っていた山だ。
積んである場所は、バルトのすぐ後ろだった。
崩れた。
いちばん上の一本がバルトの肩に落ちて、次の一本が頭の横に当たった。
バルトの手が布から離れた。
離れた手が、宿の主の腹の上を滑って床についた。
音は薪の方が大きかった。
人が倒れる音は小さい。
鼻の奥が熱くなった。
上唇を拭くと指が赤くなっている。
土間の音が遠い。父の声も、ライナの声も、水の向こうから聞こえる。
目の前が灰色になった。
沢で一度だけ知った色だ。
あの時も、出し過ぎたあとだった。
膝が床についた。
ついたのは分かる。いつついたのかが分からない。
誰かが肩を掴んで階段の下へ座らせた。掌が大きかったので父だと思う。
――――――――――――――――――――
そこからしばらくは、音だけがあって色がなかった。
覚えているのは、父が戸口から離れたことだ。
離れてから三つ数えるあいだに、外の音が終わった。
炉に薪が足された。
色が戻ったのは、二本目が入ってからだ。
明るくなった土間で、オルトがバルトの横に膝をついている。
バルトは崩れた薪の散らばる居間に、倒れたまま動かない。
こめかみから細く伝った血が、もう乾きかけていた。
その向こうでライナが宿の主の腹に布を押し当てていた。
押さえているのは、さっきまでバルトの手があったところだ。
「オルトさん」
声が自分の耳に遠く聞こえた。
「動くな」
オルトはこちらを見ずに言った。
「鼻を押さえてろ。上を向くな」
言われたとおりにした。
指のあいだから血が顎まで落ちて、足元の床に丸い跡を作った。
オルトはバルトの頭の横を指で押して、それから肩を押した。
押すたびにバルトの眉が動く。
目は開かない。
「こいつの頭は切れてるだけだ。肩の方が悪い」
「治せますか」
「俺は焼く方だ」
オルトは薬箱を自分で開けた。
開け方が分かっている。何度も見てきた手だ。
「塞ぐのはこいつの仕事でな」
布を裂く音がした。
「寝てるあいだは自分の肩も治せない。目が覚めてからだ」
オルトは箱の底から小さい壺を出した。
蓋を開けて匂いを嗅いで、また閉じる。
「これじゃない」
次のを出す。今度は嗅がずに指ですくった。
文句を言いながら、手はどこも迷っていない。
「宿の親父は」
アシュは聞いた。
「生きてる」
「そうですか」
「バルトがずっと傷を押さえてたからだ。手が離れてたら朝までもたない」
一度、離れた。
離れたところを、ライナが拾った。
オルトはそこで初めてこちらを見た。
「こいつが目を覚ましたらまず何を言うと思う」
「……分かりません」
「お前の鼻を見て、上を向くなと言う」
オルトは布の端を歯で切って、それから顎で壁の方を指した。
「あれを見ろ」
崩れた薪が居間の端まで転がっている。
壁の下が一枚、外れて浮いていた。
「あの男を戸の外へ出すのに要る風は、あの山の三分の一だ」
「……はい」
「お前は三倍出した」
三倍という数を、自分の手のどこで作ったのかが分からない。
多く送った覚えはある。どれだけかは覚えていない。
「なんで三倍になったか分かるか」
「遅れたからです」
「そうだ」
オルトはバルトの肩の下へ手を入れて、体の位置を少しだけ直した。
「間に合わないと思うと足す。足した分は男には当たらない。男は一人ぶんで飛ぶ。残りは横の壁へ行く」
「はい」
「俺も同じことをやった。学園の庭で、的の後ろの木を三本折った」
「……木」
「木は文句を言わない」
オルトはバルトの顔を見た。
「人は言う。こいつは言わないかもしれないがな」
――――――――――――――――――――
外はまだ暗い。
雪の上は、暗くても白い。
二階から物音は一度もしなかった。
残っていた泊まり客は数えるほどで、朝まで誰も下りてこなかった。
閉まる前に北へ抜けたい荷と、越えてきて南へ下りる途中の者だ。峠が閉まれば、この宿場に用のある者はいなくなる。
シアが戸口から入ってきて、指を二本立てた。
「馬、二頭。峠の方」
「追わんでいい」
「もう追ってない」
シアは外套の雪を払って、柱の方へ回った。
「中で四人。外で一人。逃げたのが二人」
オルトが数を足した。
「七人だ。外は縄をかけた一人と逃げた二人で三人になる」
押さえたのは五人。
そのうちの一人が、裏口から雪へ飛んだ男だ。
起き上がれずにいたのを、シアが縄で括って引きずってきた。首が斜めのまま動かないらしい。
追わないと決めたのは父だ。
「追えばここが空く。縄をかけたのが五人。こっちは動けんのが二人だ」
父は柱の方を見た。
「峠へ上がった二人は、閉まれば下りてこられん」
頭らしい男は、土間の柱に縄で括られていた。
雪へ飛んだ男ではない。土間で押さえた方の一人だ。
残りの四人は手足を縛って、壁際に並べて転がしてある。声を出す者はいない。
柱に括ってあるのは、この男一人だけだ。
顔を見て、アシュは指を止めた。
昨日の昼、馬に水をやっていた人だ。
繋がれていた一頭は、この人の馬だった。
宿の主が名前で呼んでいる。三日前から泊まっているとも言っていた。
二階の客のまま夜を待って、表と裏の閂を内側から上げたのは、この人だということになる。裏の閂は昼のうちに上げておいて、夜に表を上げた。
戦いのあいだは、居間へ回ってアシュの氷で転んだ男だ。ライナの膝が背中を押さえていた。
父が男の前に立った。
「五人だと聞いてたか」
男は答えない。
「腕のことは聞いてなかったな」
やはり答えない。
答えないまま、目だけが一度ライナの方へ動いた。動いてから父へ戻る。
「誰に聞いた」
「言うわけねえだろ」
今夜この男が出した言葉の中で、それがいちばん長かった。
父は重ねなかった。
二つ目を聞けば、こちらが何を知りたいかを向こうに知られる。家でもそうしている。
「荷はどこだ」
「売った」
「二年ぶんか」
男は答えなかった。
父は男の前から離れた。
柱の方から、頭の声だけが追ってきた。
「子どもは聞いてねえぞ」
依頼書には五人としか書いていなかったはずだ。
さっき父が聞いた「五人だと聞いてたか」に、男は答えなかった。いま、自分で答えてしまっている。
アシュは顔を上げた。
男はこちらを見ている。
見る時の目の動きが、宿の前で馬に水をやっていた時と同じだった。
こちらを覚えていない目ではない。覚えているのに、昨日と同じ顔で見ている。
男はアシュを見たまま、父の背中に聞いた。
「そいつが何かしたのか」
父は振り返らずに答えた。
「したのは俺たちだ」
――――――――――――――――――――
「ねえ」
ライナが壁から背を離した。
「二年逃げ回ってきた連中でしょ。なんで今夜、逃げなかったの」
「逃げる先がない」
父は炉の方へ歩きながら言った。
「峠は今日か明日で閉まる。南へ下りればギルドと館のある町だ」
「冬のあいだ、この街道から出られない」
オルトが布を裂く手を止めずに足した。
「出られんところへ、自分たちを探しに来た五人が泊まった」
「……寝てるうちなら勝てると踏んだのね」
「七人にしてる」
父は炉へ薪を入れた。
「オルト。襲われた十一回、出てきたのは何人だ」
「四人だ。十一回とも四人と書いてある」
「三日ここで見て、三人足した」
ライナが息を吐いた。
「見た上で来たんだ」
「来るしかない」
薪が赤いところへ落ちて、火が一度低くなった。
三日目に着く、と依頼書に書いてあった。
書いてあったから、この人たちは今夜まで待てた。
同じ依頼書を父も見ている。父が帳場で自分で書かせた物だ。
だから昨日、誰も靴を脱がなかった。
向こうに読める依頼書は、こっちにも読める。
父は柱の男の方を振り返らずに言った。
「町で聞く」
「誰に」
「書いた人にだ」
――――――――――――――――――――
夜が薄くなってきた。
アシュは階段の下に座って、鼻を押さえたままでいた。
血は止まった。指の腹に乾いた分だけが残っている。
考えていたのは薪の山のことだ。
あの男は三日前から宿にいた。
馬を一頭繋いで、宿の主に名前を覚えられて、朝は井戸の水を汲んでいた。
昨日の昼、アシュの横を通って馬のいる方へ行った。
外から戸を叩けば音がする。
中にいる者が閂を上げれば、音は一度きりだ。
町に来て二十日で、町のどこにでも入れるようになった人がいた。
配ったのは誰にも断られない物だけだ。
この人は三日で閂に手が届くところまで来ている。
やり方が同じだ。
持って入る物が違うだけだ。
片方は帳面を持って入った。
片方は馬を一頭連れて入った。
――――――――――――――――――――
父が隣に座った。
階段がきしんで、こちらの体が少しだけ持ち上がった。
「決めてなかったな」
「はい」
「どれをだ」
「人に向けるかどうかです」
父は何も足さなかった。
「先に決めておけと言われていました。三つ決めました。起きたのは三つのどれでもありませんでした」
「そうか」
炉の火が薪を一本ぶん食う音がした。
「バルトを庇ったのはお前だ」
「はい」
「バルトを打ったのもお前だ」
「……はい」
「両方だ。片方だけ覚えるな」
アシュは膝の上で手を握った。
握った指の先に、まだ血の乾いた匂いがある。
「あの人は、目を覚ましますか」
「覚ます」
言い方が速かった。
速い返事は本当のことだと兄が言っていた。
この人の場合はどうなのか、まだ確かめたことがない。
「父さん」
「なんだ」
「見た人が増えました」
父はすぐには答えなかった。
縄で括られた男は柱にもたれて目を閉じている。
起きているのか寝ているのかは、こちらからは分からない。
「増えた」
「あの人たちは、話しますか」
「話す。牢に入れば必ず話す」
「じゃあ」
「そこは俺が引き受ける」
父は膝に手を置いて立ち上がった。
「お前が考えるのは今日打った方だ。そっちだけでいい」
――――――――――――――――――――
外へ出ると空の東の端だけが白かった。
バルトは戸板の上に寝かせて、外套を三枚重ねてかけてある。
息は見える。吐くたびに白いものが顎の上を通っていく。
戸板に乗せる前に、アシュはバルトの手のところまで行った。
指が開いたままになっている。
布を押さえていた形のまま開いている。
握ってやろうとして、やめた。
握れば、この人が握り返さないことが分かってしまう。
宿の主はもう一枚の戸板に乗せた。
夜のうちにオルトが刃を焼いて腹に当てている。血はそれで止まった。
塞ぐのはバルトの仕事で、そのバルトが起きない。
置いていけば、峠が閉まったあとの宿場に腹を塞げる者が一人もいなくなる。
宿は戸を閉めて、鍵は二階の客に預けた。
ライナと父が戸板の両端を持った。
宿の主の方は、縄をつけた男のうちの二人に持たせた。両手を前で括り直させたのは父だ。
シアが縄の端を持って、後ろから歩かせている。
薬箱が居間に残っていた。
誰も持てとは言わなかった。
アシュは箱の横に膝をついて、紐を肩へ回した。
膝をついた床が黒く濡れていた。
ライナが宿の主の腹を押さえていたところだ。
立つと、靴の先まで同じ色になっている。
背が足りなくて、箱の角が雪をこすった。
こすった跡が、宿場の前から街道の方へ、細く一本ついていく。




