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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
客人は笑う

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第二十五話

 夕方の光が土間の床に細く残っているうちに父は話し始めた。

 話し終えたとき、光はもうどこにもない。


 ギルドの板の右端に二年貼りっぱなしになっていた依頼のこと。

 北の街道に出る賊。三組が受けて、三組とも行った先に何もなかったこと。

 報酬の欄を空けたまま受けたこと。

 館の門をくぐるのに三日かかったこと。

 領主に会って、アシュを余所へやる話は公爵家の許しがなければ決まらない、と書いた一筆を頼んだこと。

 それをもらえるのは賊を片づけたあとだということ。


 順に話す、と言ったとおりの順だった。

 アシュは一度も口を挟まなかった。挟むところがない。

 竈(かまど)の中で薪が位置を変えて、火が細くなる。母が一本足した。


「五百枚を断って、百枚を受け取らずに帰ってきたのね」


「そうだ」


「勘定は合わないわね」


「合わん」


 母は笑わない。怒ってもいない。

 母は酒場に立っていた頃から、払いの合わない客のことだけは何年でも覚えている。


「出るのは明後日の朝だ。十日、長くて半月見といてくれ」


「わかった」


「下の子を連れていく」


 母の手が止まった。薪を持ったままの形で止まっている。

 兄が竈(かまど)の横から顔を上げた。


「なんで」


 大きな声ではない。大きくないぶん低い。


「五人とも町を出る」


 父は腰掛けに座り直した。


「十日か半月だ。そのあいだ家にいるのは女房と子ども三人になる」


「俺がいる」


「いる。だからお前は家だ」


「家だって言うなよ」


 兄は卓の縁に手を掛けた。掛けただけで、体は前に出さない。


「アシュを置いてけばいいだろ。俺が見てる」


「お前一人で追い返せる相手なら、俺も置いていく」


「賊が家に来るのかよ」


「来ん」


 父は薪をもう一本竈(かまど)へ入れた。火が高くなって、壁の影が伸びる。


「来るとすれば館の使いだ。書付を一枚置いていくだけだ。怒鳴りもせんし、戸も蹴らん」


「そんなもん、突っ返せばいいだろ」


「突っ返した、と書かれて終わりだ」


 兄が黙る。


「町の連中も止めん。あの男に世話になった者ばかりだ。うちの下の子を都へ出す話を、よかったなと言う奴だっている」


「……」


「お前が悪いんじゃない。十二のお前に、隣近所を疑って歩けとは言えん」


 兄は口の形だけ動かして、音を出さなかった。


「上の子が家におらんかったら俺は女房と赤ん坊を置いて出られん。お前がいるから出られる」


「……それ、うまいこと言ってるだけだろ」


「うまいことを言った」


 父は兄を見た。


「だが、嘘は言ってない」


 兄は口を開けて、閉じた。


 嘘は一つもない。それでも聞いた方は言い返せない。

 父がこの喋り方をするのを聞くのは二度目だ。一度目は、あの人の言い方を真似た晩だった。


「あたしはね」


 母が薪を置いた。


「連れていくのも、置いていくのも、同じだけ怖いわ」


 誰も返事をしない。


「連れていったらこの子は賊のいるところにいるのよ。置いていったらあたしが夜中に閂(かんぬき)を確かめに起きるの。十日も半月も」


 母は卓の布巾を畳んで、また広げた。


「どっちを選んでもそうなるなら選ばせてあげる方がまだましだわ」


 アシュは自分の椀のへりを指の腹でなぞった。


「僕、行って何かできますか」


「できん」


 返事が速い。


「じゃあ、なんで連れていくんですか」


「目の届くところに置きたいだけだ」


 父は湯呑みに手を掛けて、口はつけなかった。


「役に立つと言えばお前は行きやすいだろう。言わん。嘘になる」


 アシュは頷いた。

 怖いか、とは今度は誰も聞かなかった。


「借りた鉄は置いていけ」


「はい」


「フェイの物だ。春に返すと決めてある。街道へ持っていって刃を欠けさせたら返しようがない」


「木剣は」


「持っていけ」


 その晩、アシュは木剣を壁から下ろして柄を布で拭いた。

 鉄剣は掛け棒に残した。

 明後日の朝から、この家に残るのは母と兄とリアと、掛け棒の鉄剣が一本だ。


――――――――――――――――――――


 翌日、坂を上った。


 石段は三段ある。三段目だけ雪がない。老人が箒(ほうき)を使うのは扉の前だけだ。


 椀は昨日と同じ場所に置いてあった。棚には戻っていない。

 片づけんでいい、と言われた日から、椀はずっと床にある。


「張れ」


 水は八分目まである。

 アシュは膝をついて、へりの内側に沿って細く回した。上の面が白くなる。白くなったところで下がすうっと痩せた。

 二度目は下から行った。今度は上が張らない。

 三度目も同じところで止まる。底には届かない。


「傾けてみろ」


 椀を指で倒すと中で水の動く音がした。


「まだ動くな」


 ゼドルは棚の方を向いたまま言った。


「今日はここまでだ」


 アシュは筵(むしろ)の端を掴んで、椀のまわりの床を拭いた。


「明日から町を出ます」


 老人は振り向かない。


「どこへ」


「北の街道です。父の仕事についていきます」


「いつ戻る」


「十日か、長くて半月です」


 問いは三つで終わった。

 この老人は聞くと決めた日なら四つでも五つでも重ねてくる。なぜ行くのか、とは聞かれなかった。


 帰り支度をして扉のところまで来たとき、後ろで声がした。


「一つ言うておく」


「はい」


「塔の外では練習するな、と言った。あれは変わらん」


「はい」


「稽古は塔でやる。外でやるのは稽古じゃない」


 アシュは扉の閂(かんぬき)に掛けた手を止めた。


「じゃあ、何ですか」


「本番だ」


 ゼドルは石板の並んだ棚に手を掛けている。


「いざという時に手が動くかどうかは、何回やったかでは決まらん。使うと先に決めてあるかどうかだ」


「はい」


「その場で決めると遅れる。遅れると慌てる。慌てた者は、要る分より多く集める」


「……多いとどうなりますか」


「余った分がどこかへ行く。行き先を決めとらんかったらいちばん近くに立っとる者のところへ行く」


 初めて水を出した日、椀から溢れた分は卓を濡らしただけだった。

 あのとき卓のそばに立っていたのはこの人だ。


「はい」


 高窓の光は扉の方まで来ていた。老人の靴の先だけが明るい。


「儂(わし)は町へも降りん。街道はもっと先だ」


「はい」


「教えた形は持っていける。どこで止めるかは持っていけん。向こうに儂(わし)はおらん。止めるのはお前だ」


 アシュは頭を下げた。


「行ってこい」


 坂の下で兄が待っていた。


「なんて言われた」


「行ってこい、って」


「それだけかよ」


 兄は鼻から息を出して、先に歩き出した。

 坂を下りる歩幅は、今日はアシュに合っていない。兄の足の方が半歩ぶん速い。


――――――――――――――――――――


 出る朝は暗いうちに起きた。


 荷は父が詰めた。アシュのぶんは背負い袋が一つで、中身は着替えと、木剣を包んだ布と、母が最後に押し込んだ保温壺だ。


「直ってないけどね。半日は持つわ」


 銀三枚と言われて、そのまま持ち帰った壺だ。刻みは減ったままで、蓋の合わせも硬い。


「湯を入れたら昼までに飲みなさい」


「うん」


 リアが土間へ下りてきた。眠そうな顔で兄の膝のあたりに手を置いて、それから言った。


「れ」


 「あしゅ」の時は一日で続きが来た。こっちは「れ」から先へ進まない。

 兄は返事をしないまま、リアの手を膝から外して土間に立たせた。立たせてから頭のてっぺんを一度だけ掌で押さえた。


 通りへ出ると詰所の前でニコが樽を立てていた。声をかけようとして、こちらの荷を見て、口を閉じる。

 戸口からフェイが出てきた。


「二年もんを取ったんだってな」


「そうだ」


 フェイはアシュを見て、それから荷を見た。


「連れていくのか」


「連れていく」


「……そうか」


 なぜ、とは聞かない。

 この人はいつも人数と日数だけは聞く。今朝はそれも聞かなかった。


「留守は見とく」


 父は頼んでいない。


「頼む」


 街道は町の北から出て、坂の途中で見えなくなる。塔の坂とは反対側だ。

 角のところで一度だけ振り返った。屋根と、竈(かまど)の煙。

 三つ数える前に坂が家を隠した。


――――――――――――――――――――


 一日目は川を渡った。


 ブライタは冬でも凍らない。膝までの浅瀬を大人たちは長靴のまま歩き、アシュはオルトの背に乗せられた。細い背中なのに肩の骨が硬くて、乗り心地はよくない。

 二日目は丘陵(きゅうりょう)を抜けた。雑木林の切れ目から、北の空の下の方だけが白く見える。峠だとライナが言った。

 轍(わだち)は途中から消える。この季節に荷車はここまで来ない。


 二日目の晩は丘の風下の窪(くぼ)みで火を焚いた。


 革袋の水は昼のうちに凍っていた。ライナが鍋に雪を掻き入れて、火の上へ吊るす。


「これ、飲めるようになるまでどれくらいだと思う」


「雪は溶けりゃ四分の一だ。三度は足すことになる」


 オルトが答えた。


「アシュ」


 父が火を見たまま言った。


「水を出せ」


 アシュは父を見た。父はこちらを見ない。

 オルトが顔を上げた。


「出せ、とは」


 父は答えなかった。


 アシュは鍋の縁に手を置いた。息を吸って、吐いて、それから唱えた。


「ヴァッサークア、フルーミア――ヴァクナ・リンド・ヘンドル」


 鍋の底に水が生まれる。

 雪の塊の隙間を下から埋めて上がってきて、縁の三分の一のところで止まった。


 ライナの手が止まった。

 シアは動かない。

 バルトは薬箱の紐を結び直していた手を、結んだ形のまま膝に置いている。

 オルトだけが前へ出た。


「もう一度、頼む」


 アシュは父を見た。父が顎を一度だけ引く。

 二度目を唱えた。


 オルトは口の中で何か数えている。数え終わる前に鍋の水が増えた。


「……ためが無い」


 オルトが見ているのはアシュの手のあたりだ。

 そこには何もない。手のひらにも鍋の縁にも、火の照り返しがあるだけだ。

 流れが見えているのはアシュだけだ。


「呼び水も細い。細いのに足りてる」


 オルトの指が空で止まった。


「余った分を捨ててもいない」


「オルト」


 バルトが低く呼んだ。オルトは聞いていない。


「学園では最初の年にためを数えさせられる。三十数えるところから始めて、十まで縮められれば上出来だ。俺は二年かかった」


 薪が鳴った。


「お前は数える前に出てる」


 皮肉屋の口が止まっている。この人が黙るのを見るのは初めてだ。


「……あの爺さんが、お前を外へ出さないわけだ」


 オルトはそこで口を閉じた。

 火の向こうでシアが顔を上げた。

 黒い髪の細い輪郭に、火の色が細く乗っている。


「知ってた」


 誰も聞き返さない。シアが二言目を足すことはない。

 ライナは今夜、アシュの目を見なかった。手の方を見ていた。


「オルト」


 バルトがもう一度呼んだ。


「なんだ」


「その子は明日も歩くんだ」


 オルトは座り直した。座り直してからまだ何か言いたそうにしている。


「一つ聞いていいか」


「聞け」


「疲れるのか」


「剣の方が疲れます」


 オルトは笑わなかった。


 父は火を見たままだ。


「先に見せた」


 薪を一本足して、それから続けた。


「賊の前で驚かれるよりましだ」


 一昨日、坂の上でも同じことを言われた。先に決めておけ、と。

 あの老人と父は、示し合わせたわけでもないのに、言うことが同じになる。

 鍋の中で雪が沈んで、湯気が上がり始めた。


――――――――――――――――――――


 三日目の昼過ぎに宿場へ着いた。


 泊まっている者は半分もいない。峠が近い。雪が来ると人が引くのだと宿の主が言った。

 馬を繋ぐ場所は六つあって、繋がっているのは一頭だけだ。


 炉のある土間で、オルトが調べてきたことを並べた。誰も奥へ行けとは言わない。アシュは炉の横の腰掛けに座って聞いていた。


「二年で十一だ」


 オルトは卓に指で線を引いた。


「襲われた荷が十一。全部この街道の、峠の下から二つめの宿場までのあいだで起きてる。多いのは秋の終わりだ」


「人は」


「殺された年と、殺されなかった年がある。荷は一度も戻っていない」


 アシュは膝の上で指を折った。十で足りなくなって、右手をもう一度開いた。


「襲われなかった荷はありますか」


 大人たちが振り向いた。


「ある」


 オルトは少し間を置いてから答えた。


「同じ月に、同じ道を、護衛なしで通った荷が三つ。どれも無事だ」


「十一は」


「全部、護衛がついていた」


「おかしいです」


「おかしくないでしょ」


 ライナが壁から背を離した。


「護衛がつく荷は中身がいいってことだもの。狙うならそっちよ」


「中身がいいのは、襲ったあとで分かることです」


 言ってから言い方が足りないと思った。アシュは炉の火の方へ体を向けた。


「護衛のつかない荷は、いつ町を出るか荷主しか知りません。待っていようがないです」


「……続けて」


「護衛のつく荷は、出る日と、通る道と、守る人数がギルドの紙に書かれます」


 炉の薪が一本崩れた。その音だけがした。


「賊が固い荷を選んでるんじゃないと思います。書かれた荷だけが襲われてます」


 オルトが卓から指を上げた。


「三組の話も同じか」


「はい。誰がいつ出るか、あれも紙になります。行った先に何もなかったのは、来るのが分かってた人が先に片づけたからです」


 オルトは天井を見た。それから短く言った。


「……帳場だ」


 ライナが外套(がいとう)の合わせを掴んだ。掴んだまましばらく動かない。


「……知り合いなの」


「誰が」


「帳場の人。イルザさん。あたしがガルドの受けた依頼を知ったのも、あの人から聞いたからよ」


 父が二年ものの依頼を受けたとき、報酬の欄を空けたまま書いてくれたのがその人だ。

 町を出る前に父がその話をしている。書き慣れていて手が速い、と言っていた。悪く言う言い方ではない。


「あの人は、悪い人じゃない」


 ライナの声が細くなる。


「あたしが冒険者になった年から帳場にいる人よ。誰の依頼も同じ顔で書くの」


「知ってる」


 父が初めて口を開いた。


「うちのも書いてある」


 卓の上には何も載っていない。それでも大人が四人とも同じところを見た。


「五人。北の街道。峠の下から二つめの宿場まで。受けた日もな」


「宿場に着く日まで読めるな」


 オルトが言った。


「町から三日だ」


 バルトが薬箱を引き寄せた。シアが土間の戸の方へ目をやる。

 三日目は、今日だ。


――――――――――――――――――――


 その晩は二階の隅で寝た。


 壁の隙間から冷えが来る。保温壺の湯はもう温くない。

 父は階段の降り口に外套(がいとう)を敷いて横になった。剣は抱えていない。腰に差したままだ。


 家のことは兄が見ている。フェイも見ると言ってくれた。

 この宿場の留守を見る人がいるかどうかは、まだ誰にも聞いていない。


 夜明けまではまだ遠い時刻に、下の土間で閂(かんぬき)が鳴った。

 一度きりだ。


「アシュ」


 父の声だった。暗いのに、目が開いているのが分かる。


「起きてろ」


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