第二十四話
竈の種火は生きている。
夜中に一度起きて、そのまま土間に下りた。灰を寄せてやると赤いところが少しだけ広がった。
奥で女房と下の娘が寝ている。上の息子の寝息は深い。
下の息子は寝入りが遅い。今夜も遅かった。
ガルドは腰掛けに座って、壁の掛け棒を見た。
木剣が一本。鉄剣が一本。長いのが一本。
柄の高さが三つとも違う。
剣で減らせる物なら、とうに減らしている。
紙は斬れん。
あの男に断った日、理由は言わなかった。
言えば作り直してくる。だから何も渡さないのが手だった。
今度は逆だ。
黙っていればこちらは何一つ動かない。
金なら数えられる。金貨で五百と言われた時も、指は動かさなかった。
あれだけの金を積まれても足りない物がある、という話ではない。
積んでも買えない物がある、という話だ。
紙は金では買えん。
買えるのは、紙を出せる立場にいる者の都合だけだ。
ガルドが売れる物を並べてみた。
腕と、名前と、十八年ぶんの信用。
どれも金に換えるために持っていた物だ。
私事に使ったことは一度もない。
種火が一度爆ぜた。
使う、と決めるのに一晩かかった。
決めてしまえば短い。
ゆうべ下の息子が土間で指を四本立てた。
四本ぶんの中身を順に言って、言い終わってから、言うなと言われたのに言いましたと足した。
順序が逆だ。
先に謝る子どもなら、こっちも楽に怒れた。
――――――――――――――――――――
朝いちばんでギルドの支部へ行った。
依頼の板の右の端は、古い紙を貼っておく場所になっている。
受け手のつかない依頼が上から順に日焼けしていく。
いちばん上に二年もののが一枚ある。
街道の賊。
北の街道の、峠の下から二つめの宿場までのあいだ。
荷が消える。人は殺されない年もあれば、殺される年もある。
依頼主の欄は領主館だ。
帳場の女はガルドの顔を見て、それから紙を見た。
「それ、二年です」
「知ってる」
「上がってますよ。去年また上げました。金貨で百です」
A級の相場の下の方に触るくらいだ。
二年貼りっぱなしにして、その額でまだ受け手がつかない。
金の話ではない。
「取ったのは三つのパーティだったな」
「三つです。よく覚えてますね」
「二年、目の前に貼ってある」
女は帳面をめくった。指の動きに迷いがない。
「三つとも、行った先に何もなかった、と書いてあります」
書いてあることまでは知らなかった。
何もなかった、が三度続けば、そこで分かる者には分かる。
先に知られている。
この紙は二年、同じ場所にあった。
ガルドも一度は取ろうとして、やめている。
先に知られている仕事は、行っても何も起きん。何も起きん仕事に五人を三日歩かせて、持って帰れるのは金だけだ。
金なら、ほかの依頼でも入る。
今日は違う。
「受ける」
女の手が止まった。
「お一人で?」
「五人だ。うちのパーティで取る」
女は書き始めて、途中で顔を上げた。
「ヴァルドさん、報酬の欄は」
「そこは書かんでいい」
「額の入っていない受付は通せません。決まりです」
「じゃあ、館の人に会わせてくれ。いくらで受けるかは向こうと決める」
女は困った顔のまま、言われたとおりに書いた。
欄は空けたままにして、その下へ小さく、額は依頼主と直に決める、と書き足している。
書きたくなさそうだったが、断る理由も見つからないらしい。
紙を作るのがこの人の仕事だ。
あの男も紙で仕事をする。使う物は同じで、こっちは町の頼み事を書いている。
――――――――――――――――――――
昼過ぎ、ランドの店の隅に四人を呼んだ。
オルトが先に来て、バルトが遅れて来た。シアはガルドより先に座っていた。
ライナは最後で、入ってくるなり椅子を引いた。
「板の二年もの、あんたが取ったって聞いたけど」
「早いな」
「帳場に知り合いがいるの」
ライナは外套も脱がずに座った。
「賊はいい。冬場に体が空いてるのは本当だし、絹の隊は断ったから恨まれる先もない。それで、報酬の欄はなんで空けたの」
「金では取らん」
卓が静かになった。
バルトが薬箱を床に下ろす音だけがした。
「うちの子の話だ」
ガルドは順に言った。
先触れの封の紋がベルツ家だったこと。
館にあの男の写しが揃っていること。
断った日の紙まで、話をした証として一枚に数えられること。
こちらの断りは声で、声は残らないこと。
「止められるのは、上の紙だけだ」
「……公爵様の一筆を、賊で買うのね」
「そうだ」
ライナは腕を組んで、しばらく卓の木目を見ていた。
「一つ言っていい」
「言え」
「二年捕まってないのはね、腕の問題じゃない。町の中に手引きがいるからだって、街道の人間はみんな言ってる。荷の中身と出る日を、誰かが先に流してる」
「聞いてる」
「聞いてて受けたの」
「受けた」
「あんたね」
ライナは笑わなかった。笑わずに背もたれへ体を預けた。
「その話、館でもする気」
「する」
「向こうが知らないとは限らないよ」
「知ってて二年放ってあるならそれも聞く」
オルトが細い指で卓を一度叩いた。
「兵を出せば逃げられる、というだけの話かもしれない」
「かもしれん」
「どちらでも、俺たちのやることは変わらない」
シアが頷いた。それだけだ。
バルトは膝の上で手を組んでいる。
「一つだけ、聞かせてください」
珍しく先に口を開いた。
「その紙で、あの三人は戻りますか」
二年前の子と、去年の子と、今年の子だ。
「戻らん」
言ってから言い方を足した。
足さないとこの男は自分の側に引き受けてしまう。
「戻らんものの話じゃない。これから出ていく子を止める話だ」
バルトは息を吐いて、頷いた。
「では、それでいきましょう」
「金は出す。うちから」
ライナが手を振った。
「いらない。二度目は言わせないで」
オルトが外套を取りながら言った。
「峠が閉まる前に一度入る。道と宿場を見て、人数と足を数えるのが先だ」
「頼む」
四人とも、危なくなったら引く、という話をしない。
誰も言わないから、いつ引くかはガルドが一人で決めることになる。
――――――――――――――――――――
館の門をくぐるのに三日かかった。
初日は取次で止められた。二日目は待たされて日が暮れた。
三日目に通ったのは、ギルドの書付を持っていったからだ。
依頼を受ける者として来た、という形が要る。
あの男が使った手を、こちらが使っている。
控えの間で待たされているあいだ、書記が一度だけ茶を運んできた。
四十代の痩せた男で、目のところに硝子を掛けている。
名乗らない。書記だろう。
顔は知らないが、この館のどこかにあの男の紙が四枚積んである。積んだ手は、たぶんこの男のような手だ。
「ヴァルド様」
「様はいらん」
「規則ですので」
男は湯呑みを卓に置いた。置き方が水平だった。
「一つ伺ってもよろしいですか」
「言ってくれ」
「その書付は、ご自分で読まれましたか」
「読んだ」
「では結構でございます」
「なぜ聞いた」
「読めない方には、こちらでお読みして差し上げます。それも規則ですので」
男は下がった。
読めない者が持ってくる紙を、この男は毎日見ているのだと思う。
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通されたのは思ったより狭い部屋だった。
卓が一つ。紙の束が三つ。
壁に地図が掛けてあって、街道のところだけ指の脂で黒くなっている。
レオン・フェルディナント・グレンツは、卓の向こうで帳面に何か書いていた。
四十半ば。白の混じり始めた濃い茶の髪を後ろへ撫でつけている。
肩は薄いが骨が太い。座っていても背が高いのが分かる。
目の色は薄い灰で、上げないのでよく見えない。
「ヴァルドか」
「はい」
「板の二年ものを取ったそうだな。三組が投げた仕事だ」
ペンは止まらない。
「五人で行きます」
「腕は疑っていない。疑っていれば通していない」
書き終えたらしい行の頭に、レオンは短い線を引いた。
「報酬の欄が空いている」
「金は要りません」
ペンが止まった。
目は上がらない。
「金の要らん冒険者は、たいてい別の物を欲しがる」
「欲しがっています」
「言え」
「一筆をいただきたい」
ガルドは卓の前に立ったまま言った。
「うちの子の身柄について、公爵家の許しなしには何も決まらない、と書いた紙です」
レオンはペンを置いた。
置いてから初めて顔を上げた。
「順に話せ。順が違うと、私は判断を間違える」
ガルドは順に話した。
斡旋商が町に入って二十日で信用を作ったこと。
下の子に後見の申し出が来たこと。支度金は金貨で五百。
断ったこと。理由は言わなかったこと。
男は引かず、断りも紙に書いて写しを館へ預けたこと。
その写しが、館にある他の紙と並べると後見の申し立ての形に揃うこと。
先触れの封の紋がベルツ家であること。
「誰が読んだ」
「塔の魔法使いです」
「ゼドルか」
「はい」
レオンは天井を一度見た。
考えるための動きではない。数えるための動きだ。この男は今、館の棚に何が入っているかを頭の中で数えている。
「合っているだろうな」
ガルドの背中が一度だけ冷えた。
合っているかどうかを、この人は確かめもせずに認めた。
「なぜ私に持ってくる。第五地区を見ているのはベルツ家だ。あんたに回ってくる依頼も、たいていはあそこから出ている」
「発行元があの家だからです」
「そうだ」
レオンは指で卓を一度だけ叩いた。
「私がその紙を書けば、私はベルツの顔を潰す。侯爵家が身元を請け合った商人の仕事を、公爵家が上から止める形になる。あの家は貴族会議で票を持たん。持たんが、現場の数字を出すのはあそこだ。冬に道を開けるのも、兵を出すのもあそこの手足だ」
「はい」
「私の損は何で埋める」
「賊です」
「二年ぶんの懸案が一つ片づけば、あんたの家の一枚は釣り合うと言うのか」
「釣り合わないならもう一つ足します」
「足せる物があるのか」
「あります」
ガルドは息を一つ吸った。
「二年捕まらないのは、腕の問題ではありません。荷の中身と出る日が先に流れています。町の内側からです」
レオンの目が動いた。
賊の話でも、紙の話でも、公爵家の顔の話でもない。
この一言で初めて、この人はこちらを人として見た。
「どこで聞いた」
「街道を歩く者はみんな言っています」
「みんな、か」
レオンは薄く笑った。笑いは口の端だけで終わった。
「その言葉は当てにならん。出どころが辿れない話は、たいてい誰かが流している。……だが今回は当たっている」
窓の外で鳥が飛んだ。
「二年放ってあるのは、私が無能だからではない」
「思っていません」
「兵を出せば逃げる。誰が流しているかを先に確かめようとすれば、確かめている最中に相手が消える。順序がどちらでも失敗する仕事だ」
レオンは帳面を閉じた。閉じる音が小さい。
「外の者に頼むしかなかった。外の者は町に知り合いがいないから流れが漏れない。それだけの理由で、二年ぶん額を上げてきた」
「では、俺たちで足ります」
「足りるかどうかは知らん」
言い方に容赦がない。
「だが、あんたは今、私が二年言えなかったことを先に言った。手引きの件を口に出したのはあんたが初めてだ。ギルドの三組は誰も言わなかった。言えば町での仕事がやりにくくなるからだ」
「うちは町で生きています」
「知っている。だから聞いている」
レオンは新しい紙を一枚引き寄せた。
「条件を言う。一筆は出す。賊のあとだ」
「はい」
「先に出せと言わないな」
「言いません」
「なぜだ」
「先にいただけば、俺はもう受け取った側です。受け取ったあとの仕事は、どこででも手を抜けます」
「抜くのか」
「抜かんつもりです。つもりで済ませたくないので、あとにしてください」
レオンは少しのあいだ黙っていた。
「あんた、そういう物言いはいつ覚えた」
「この冬にです」
「誰にだ」
答えなかった。
あの斡旋商だと言えば、あの男を褒めることになる。
レオンは紙に短く何か書いて、それを卓の端へ寄せた。
「もう一つ言っておく。聞いてから帰れ」
「はい」
「預かる、というのは守るという意味ではない」
窓の光が卓の端まで来ていた。
「公爵家の許しなしには何も決まらない。裏返せば、公爵家が許せば決まる」
ガルドは黙っていた。
「あんたの子の先を決められる者が、これで一人増える。今まではあんただけだった。これからは私も入る」
「はい」
「今の返事は速すぎる」
「はい」
「もう一度言う。今は私だ。私の次に誰が座るかを、私は決められん」
ガルドは、返事をしなかった。
この人は嘘を言わない。
あの男も嘘は言わなかった。
嘘を言わない人間が二人いて、片方に子どもを預ける話をしている。
あの子には掛ける場所が要る。
今日ここで頼んでいるのは掛ける場所ではない。
外から手が伸びた時に、その手が一度止まる紙だ。
止まるだけで、なくなるわけではない。
「承知しました」
「承知していないな」
レオンは初めて、ほんの少しだけ椅子の背に体を預けた。
「それでいい。承知した顔で帰る親を、私は信用せん」
――――――――――――――――――――
館を出ると昼を回っていた。
石段の上で外套を直した。
手の中には何もない。紙は一枚ももらっていない。
書付は館に置いてきた。
空は白い。峠の方はもっと白いはずだ。
雪が積もりきる前に街道へ入る。
二年で三つのパーティが投げた仕事を、五人で取った。
金貨で五百を断った家が、金貨で百を受け取らずに帰ってくる。
勘定は合っていない。
合っていないことは、家に帰ったら女房が先に言うだろう。
それでいい。
勘定の合わない客の相手を、うちで一番先に見抜いたのは女房だ。
あの男も帳面を持って歩いていた。
今日見たのは、合っている方の帳面だ。
合っている方の側に立つのに、二年ぶんの賊が要る。
帰ったら順に話す。
下の息子には全部言う。上の息子にも言う。
黙っていれば動かないと、支部へ行く前の晩に決めた。
ガルドは石段を下りた。
通りの雪は昼の陽で緩んで、足の裏が一歩ごとに沈む。
沈む音は、剣を差した右側の方が深い。




