↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
客人は笑う

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
57/111

第二十三話

 昼を回ると床の四角い光は扉の方へ寄っていく。

 窓は高いところに一つきりで、真上を過ぎた日は壁の厚みに削られる。明るいのは短い。

 その短いあいだに反古紙(ほごし)と炭を光の中へ置いた。

 石板は棚から二枚出してある。

 水は今日も張らない。

 張らなくなってから何日になるかは数えていない。数えても終いが来ないと分かった日に、指の方が先にやめた。


 アシュは炭を紙の横に置いて、膝を起こした。


「ゼドルさん」


「なんだ」


「ヤンのことです」


 老人は壁際の腰掛けから動かない。


「都の問屋にはもういないそうです」


「どこへ行った」


「分かりません。いい所へ移ったと問屋の人が言ったそうで、そこから先は誰が聞いても同じ返事だそうです」


「誰が聞いた」


「バルトさんです。父さんのところの治癒師の人です。隣の町で便の御者から聞きました」


 ゆうべ父が土間で言った。

 言い方は短かった。隣の町でバルトが便の御者から聞いてきた話だ。ヤンは問屋にいない、いい所へ移ったと言われた、それだけだ。

 隣の町で何を見てきたのかは言わなかった。

 言わなかった分があるのは分かる。聞かなかった。


 ゼドルは長いこと黙っていた。

 膝の上で指が一度だけ動く。数える時の動きではない。


「儂《わし》は町へ降りん」


「はい」


「降りん者が名前を覚えとって、それで何が戻る」


 戻らない。

 アシュは戻りませんと言った。

 嘘をつく場所ではなかった。


「そうだ」


 老人は顎で床の紙を指した。


「写せ」


 声はいつもの高さに戻っていた。

 戻るのが速い。


――――――――――――――――――――


 石板は字と印が半分ずつ彫ってある。


 字の側はもう手が覚えた。

 なぞった順に音が出て、音が並ぶと言葉になる。ヤンの名前は三つの字で足りた。見送りの朝に渡した紙も、真ん中に三つ書いただけだ。

 印の側はそうならない。

 形はそのままなぞれる。なぞり終わってもそれが何をする形なのかは出てこない。

 中身は写しているうちに向こうから来ると言われた。

 まだ来ていない。


 六つの印を順に写した。


 ヴァッサークアの印は内側へ巻き込んで戻る。

 テンペシュトゥルムは外へ広がるが、広がりきったところで折れて起点へ帰ってくる。

 エルデラは四角い。四角の角がどれも一度も途切れていない。


 どの形も最後は始めたところへ戻ってくる。

 炭を持つ指が同じ場所で二度止まった。


「ゼドルさん」


「なんだ」


「印は、必ず閉じますか」


 音のない部屋に老人の返事だけが落ちてくる。


「閉じる」


「閉じないものは印ではないんですか」


「印じゃない」


 アシュは炭を紙から離した。

 離してから、離したことに気づかれていると分かった。


「どこで見た」


 問いは一つだけ来た。

 二つめは来ない。この人は答えるまで足さない。


 言えばこの人は動く。

 動けば、あの人はこの塔もうちと一緒に数える。

 そう思って、休みの理由をこの人に言わなかった日がある。

 あの日から、掛け棒の剣は二本ではなく三本になった。

 こちらが黙っているあいだ、向こうは紙を増やしている。


「うちに来た紙に、押してありました」


 アシュは白い紙を一枚引き寄せて、覚えている形を書いた。


 線は真ん中で組んでいる。

 組んだところから四方へ出て、二本だけが外へ伸びたまま終わる。

 戻らない。折れもしない。

 途中でやめたようにしか見えないのに、彫った側はそれで終いにしている。


 ゼドルは腰掛けから立った。

 立って、紙を拾いもせずに上から見た。


「ベルツだ」


 声の高さが変わらない。


「第五地区の実務を回しとる侯爵家だ。揉め事も、税の割りも、傭兵への依頼も、あそこから出る」


「父さんの仕事も」


「出る」


 窓の外で雪の塊が屋根から落ちた。

 落ちた音は塔の壁の外側を伝って、下の方で消えた。


「印は精霊の形だ。人が使う紋は人が決める。閉じんでいいのは、閉じる相手が精霊じゃないからだ」


 老人は自分の指で空に二本の線を引いた。


「儂《わし》は依頼を受けて生きとった。封のしてある紙が来る。誰の家の紋か分からんと返事をどこへ出せばいいかも分からん」


――――――――――――――――――――


 アシュは紙の上の形を見ていた。


 あの晩、卓の上でこれを見た。

 読めない字が三行あって、その下にこの形があった。

 家の名前は載っているのに読めないのだとその時は思った。

 読めていなかったのは字ではない。


「紹介状を書くのは侯爵家だ」


 ゼドルが言った。


「商人が知らん町へ入る時に要る」


 持って歩く者より書いた者の方が重い。あの男が誰に断りなく動けるか。どちらも前に聞いた。


「一つ出た」


 老人は腰掛けに戻らずに立ったままでいる。


「紋を書いた家と、頼んだ者が同じとは限らん。請け合っただけかもしれん。だが請け合った家の名前は、これで一つになった」


 アシュは膝の上で指を折った。

 折ってから、折る意味がないことに気づいて開いた。


「ゼドルさん」


「なんだ」


「紙の話を、全部します」


 老人は座らない。

 座らないままで、聞くと言った。


――――――――――――――――――――


 三つある。


 一つめは荷車の車軸の紙だ。

 夏の終わりに広場で揉め事があって、あの人が両方の言い分を帳面に書き取り、二枚に写して渡した。代は半分ずつ、次は貸す前に二人で車軸を見ること。下の欄に立会人としてあの人の名前が書き添えてある。町はいいやり方だと言い、アシュもそう思った。


 二つめは先触れの紙だ。

 訪ねてくる二日前に領主館の使いが持ってきた。用件は書いていない。日と名前だけだ。封にさっきの形が押してあった。


 三つめは断りの紙だ。

 父が断った日に、あの人はその場で断られた旨を書いた。日付と、伺った次第、と書いてあると父が言った。


 順に言った。

 ゼドルは一度も口を挟まない。


「三枚とも写しは館だ」


 ゼドルが先に言った。


「はい」


「なぜ知っとる」


「二枚目まではあの人が卓で言いました。荷車の車軸の時もそのようにいたしました、と。三枚目はゆうべ父さんに聞きました」


 老人は床の反古紙(ほごし)を三枚取って、間を空けて並べた。

 白い紙が三枚、光の四角の中に並ぶ。

 それから棚の方へ手を伸ばして、四枚目を左の端に置いた。


「これが鑑札(かんさつ)と紹介状だ。館にある」


 四枚になった。


「子どもの先を余所へ預ける話には決まった紙が要る」


 ゼドルは左端に指を置いた。


「一つ。誰が請け合ったか」


「鑑札(かんさつ)と紹介状ですか」


「素性の知れん者に子どもは預けられん。だから先に侯爵家が、この者は怪しい者ではないと書く。書いた家が重ければ重いほど、後の話は通りやすい」


 指が二枚目へ動いた。


「二つ。この者に人の間を任せていいという裏づけだ」


「車軸の紙です」


「揉め事に呼ばれて、両方の言い分を書き取って、双方が納得して収まっとる。人と人のあいだに立って話をまとめた覚えが、町の紙で一枚残っとる。人の先を口利きする者にはこれが要る」


「あれは、ただの親切です」


「親切だ」


 老人は否定しなかった。


「親切でやった仕事は、親切の記録にしかならんと思うか」


 思っていた。

 今は思っていない。


「三つ。家へ申し入れたという記録だ」


 指が先触れの紙で止まった。


「日と名前しか書いていませんでした」


「それでいい。要るのは中身じゃない。この日にこの家へ正式に申し入れた、という事実だけだ。館の使いを一人挟んだのは、館に日付を覚えさせるためだ」


 挟むと断る先が変わる、と思ったのはあの晩だ。

 変わったのは断る先ではない。その日付を、館が覚えたことだ。


「四つ。家と話をしたという記録だ」


 指は最後の一枚の上で止まった。


「揃っとる」


 アシュは四枚の白い紙を見ていた。

 紙には何も書いていない。書いていないのに並びの意味だけが分かる。


「断ったのに、ですか」


「断ったと書いてある」


 老人は指を離した。


「断ったと書いてある紙は、話をしたという紙だ。話をしていない家の子は動かせん。話をして、まとまらんかった家の子は動かせる」


「どうやって動かすんですか」


「後見の申し立てだ。字の読めん家の子を、都の家が預かって育てる。悪い話に聞こえるか」


「聞こえません」


「聞こえんように作ってある」


 窓の光の四角が、さっきより扉の方へ寄っていた。


「うちが断ったことは、うちに何か残りますか」


「残らん」


「どうしてですか」


「お前の父親が断ったのは声だ。声はその場でしまいになる」


 アシュは口の中の音を一度飲んだ。


 向こうの紙には残っている。うちには何もない。

 同じ日の同じ話が、片方にだけ字になって残る。


「うちでも紙にすればよかったんですか」


「うちで書いても、置く場所がない」


 老人は棚の方を向いた。


「あの男の写しは館にある。館が預かる紙には格がある。町の者が一枚書いて持っていっても、館は預からん」


「じゃあ、どうすれば止まりますか」


 老人はそこで一度言葉を切った。


「紙は、上の紙でしか止まらん」


 塔の中は静かで、その一言だけが床に落ちた。

 拾い上げる言葉が出てこない。


「上って、なんですか」


「侯爵家の紙を止められるのは、侯爵家より上の家の紙だけだ」


 この町で侯爵家より上にいる人は一人しかいない。

 領主だ。町の子どもでも呼び名は知っている。


「……公爵様ですか」


「そうだ」


 ゼドルは四枚目を棚へ戻した。


「だが、それを儂《わし》に言うな。父親に言え」


「はい」


「儂《わし》はここまでだ。ここから先は父親の仕事だ」


 前に一度、この人は動かないと言った。

 動く先がないという意味だ、とも言った。先ができれば話は別だ、とも。

 先はできた。

 できた先を渡す相手が、坂を下りたところにいる人になっただけだ。


――――――――――――――――――――


 老人は棚の下から椀を一つだけ出した。


 筵(むしろ)はかけない。数も隠さない。

 水は柄杓(ひしゃく)で一杯だけ入った。


「面はもういい」


「はい」


「中だ。底まで凍らせろ」


 アシュは椀の前に座った。

 水面の位置を指の腹で測る。深さは指の関節二つぶんある。


「ヴァッサークア、グラシア――フロスタ・ヴァトゥン・ヘンドル」


 端を細く回してから内側へ倒す。

 膜は張った。押せば指が乗って少しだけ沈む。

 張った膜の下で水がまだ動いている。

 膜を割らずに下へ送ろうとすると、送った先で流れが横へ逃げた。上に置いた分だけ下が痩せる。


 二度目は下から先に始めた。

 底の方が一度だけ白くなりかけた。

 白くなりかけたところで上の膜が薄くなって、指を入れたら底に着いた。


 三度目は上と下を同じだけにしようとした。

 同じだけにした分、どちらも薄い。

 椀を持ち上げて傾けると中で水がまだ動く音がする。

 膜は音を止めない。上に蓋をしただけの水は、蓋の下で行き先を変えずに揺れている。


 濡れた指を膝で拭く。


「上を張ると下が空になります」


「そうだろうな」


「面は、上から見えるところだけでした」


 ゼドルは何も言わずに椀へ指を入れた。

 入れて、抜いて、その指を見た。


「濡れとる」


「はい」


 老人は椀を棚へ戻さなかった。

 床の同じところへ置き直して、片づけんでいい、とだけ言った。

 褒め言葉は出ない。次にどうしろとも言わない。


 アシュは筵(むしろ)を畳もうとして、今日は筵(むしろ)を使っていないことを思い出した。

 手だけが稽古の終わりの動きをしている。


「ゼドルさん」


「なんだ」


「話して、よかったですか」


「知らん」


 老人は床の椀を跨いで棚の方へ歩いていった。


「よかったかどうかは、あとで決まる。今日決まるのは、儂《わし》の中に紙が四枚並んだことだけだ」


――――――――――――――――――――


 坂の下の曲がり角に兄が立っていた。


 雪は道の端に寄せてある。真ん中は昼のあいだに人の足で潰れて、茶色くなっていた。


「遅い」


「ごめん」


「別にいいけどよ」


 兄は外套(がいとう)の前を掻き合わせて歩き出した。歩幅はいつもどおりアシュに合っている。


「爺さん、なんか言ったか」


「うん」


 それ以上は言わなかった。

 兄も二度は聞かない。

 坂の途中で兄が足を止めて、道の端の雪を靴の先で崩した。


「父さん、朝から出てる。仕事の話だってよ」


「そう」


「長えのが一つ来てるらしい。ふた月とか、そういうやつ」


 兄は言い方を選んでいる。

 選んだ言い方の中身までは分からない。


「爺さんとこ、寒くねえのか」


「寒い」


「火は」


「焚くよ。窓が高いから、上の方から逃げていく」


「そりゃ寒いわ」


 兄は笑って、笑ったところで前を向いた。

 塔の中のことを聞かれるのは珍しい。

 聞いたのは火のことだけで、それより先へは来ない。

 来ないでいてくれているのか、興味がないだけなのかはいつもどおり分からない。


――――――――――――――――――――


 夕方の土間は暗かった。


 母は竈(かまど)の前でリアに湯を冷ましてやっている。灯りの石にはまだ布がかかったままだ。日の残っているうちに火を大きくしない家の癖だ。

 父は戸口で外套(がいとう)の雪を落としていた。

 入ってきたばかりで、まだ閂(かんぬき)に手をかけていない。


「父さん」


「なんだ」


「塔で話しました」


 父の手が閂(かんぬき)の上で止まった。


「何をだ」


「うちに来た紙のことを全部です。車軸の紙と、先触れと、断った日の紙と」


 母が湯呑みを置いた。置く音がいつもより高い。


「言うなと言われたのに、言いました」


 父は閂(かんぬき)を落とした。

 落としてから振り向いた。


「怒りますか」


「怒らん」


「どうしてですか」


「先に用のあることを言え」


 アシュは炭の粉のついた指を握った。


「先触れの封の形が、ベルツ家の紋だそうです」


 土間の空気が動かなくなった。

 母は竈(かまど)の方を向いたままで、火の音だけがしている。


「……ゼドルが言ったのか」


「はい。ゼドルさんは依頼の封で紋を覚えたそうです」


 父は上がり口に腰を下ろした。

 剣を外して膝の横へ置く。置き方がいつもより静かだった。


「もう一つあります」


「言え」


「館にある写しが、揃っているそうです」


 アシュは指を四本立てた。


「請け合いの紙と、人の間を任せていいという紙と、申し入れた紙と、話をしたという紙です。断った日の紙は、断ったと書いてあるから話をしたという紙になります」


 父は指の四本を見ていた。

 母が竈(かまど)の前から動かないまま口を開いた。


「四枚で、うちの子が一人ね」


 言ってから母は前掛けの端を握った。


「今のは、店の数え方だわ」


「断ると、断ったと書いてある紙が一枚増える。増えた紙で、うちの同意は要らなくなるそうです」


 父が聞いた。


「うちの代わりに誰が決める」


「分かりません。ゼドルさんは、紙は上の紙でしか止まらないと言いました」


 父は長いこと黙っていた。

 黙っているあいだ、膝の横の剣に手を置いたまま動かさない。


「よく言った」


 褒める言い方ではなかった。


「明日、あの家から回ってきた仕事を受けるところだった」


 父は立ち上がって、壁の掛け棒を見た。

 木剣が一本、鉄剣が一本、長いのが一本。

 見ただけで何も外さない。


「飯にしろ」


 母が竈(かまど)から鍋を下ろした。

 竈(かまど)の火が薪を一本ぶん食って、壁の三本の影が短くなった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。