第二十三話
昼を回ると床の四角い光は扉の方へ寄っていく。
窓は高いところに一つきりで、真上を過ぎた日は壁の厚みに削られる。明るいのは短い。
その短いあいだに反古紙と炭を光の中へ置いた。
石板は棚から二枚出してある。
水は今日も張らない。
張らなくなってから何日になるかは数えていない。数えても終いが来ないと分かった日に、指の方が先にやめた。
アシュは炭を紙の横に置いて、膝を起こした。
「ゼドルさん」
「なんだ」
「ヤンのことです」
老人は壁際の腰掛けから動かない。
「都の問屋にはもういないそうです」
「どこへ行った」
「分かりません。いい所へ移ったと問屋の人が言ったそうで、そこから先は誰が聞いても同じ返事だそうです」
「誰が聞いた」
「バルトさんです。父さんのところの治癒師の人です。隣の町で便の御者から聞きました」
ゆうべ父が土間で言った。
言い方は短かった。隣の町でバルトが便の御者から聞いてきた話だ。ヤンは問屋にいない、いい所へ移ったと言われた、それだけだ。
隣の町で何を見てきたのかは言わなかった。
言わなかった分があるのは分かる。聞かなかった。
ゼドルは長いこと黙っていた。
膝の上で指が一度だけ動く。数える時の動きではない。
「儂は町へ降りん」
「はい」
「降りん者が名前を覚えとって、それで何が戻る」
戻らない。
アシュは戻りませんと言った。
嘘をつく場所ではなかった。
「そうだ」
老人は顎で床の紙を指した。
「写せ」
声はいつもの高さに戻っていた。
戻るのが速い。
――――――――――――――――――――
石板は字と印が半分ずつ彫ってある。
字の側はもう手が覚えた。
なぞった順に音が出て、音が並ぶと言葉になる。ヤンの名前は三つの字で足りた。見送りの朝に渡した紙も、真ん中に三つ書いただけだ。
印の側はそうならない。
形はそのままなぞれる。なぞり終わってもそれが何をする形なのかは出てこない。
中身は写しているうちに向こうから来ると言われた。
まだ来ていない。
六つの印を順に写した。
ヴァッサークアの印は内側へ巻き込んで戻る。
テンペシュトゥルムは外へ広がるが、広がりきったところで折れて起点へ帰ってくる。
エルデラは四角い。四角の角がどれも一度も途切れていない。
どの形も最後は始めたところへ戻ってくる。
炭を持つ指が同じ場所で二度止まった。
「ゼドルさん」
「なんだ」
「印は、必ず閉じますか」
音のない部屋に老人の返事だけが落ちてくる。
「閉じる」
「閉じないものは印ではないんですか」
「印じゃない」
アシュは炭を紙から離した。
離してから、離したことに気づかれていると分かった。
「どこで見た」
問いは一つだけ来た。
二つめは来ない。この人は答えるまで足さない。
言えばこの人は動く。
動けば、あの人はこの塔もうちと一緒に数える。
そう思って、休みの理由をこの人に言わなかった日がある。
あの日から、掛け棒の剣は二本ではなく三本になった。
こちらが黙っているあいだ、向こうは紙を増やしている。
「うちに来た紙に、押してありました」
アシュは白い紙を一枚引き寄せて、覚えている形を書いた。
線は真ん中で組んでいる。
組んだところから四方へ出て、二本だけが外へ伸びたまま終わる。
戻らない。折れもしない。
途中でやめたようにしか見えないのに、彫った側はそれで終いにしている。
ゼドルは腰掛けから立った。
立って、紙を拾いもせずに上から見た。
「ベルツだ」
声の高さが変わらない。
「第五地区の実務を回しとる侯爵家だ。揉め事も、税の割りも、傭兵への依頼も、あそこから出る」
「父さんの仕事も」
「出る」
窓の外で雪の塊が屋根から落ちた。
落ちた音は塔の壁の外側を伝って、下の方で消えた。
「印は精霊の形だ。人が使う紋は人が決める。閉じんでいいのは、閉じる相手が精霊じゃないからだ」
老人は自分の指で空に二本の線を引いた。
「儂は依頼を受けて生きとった。封のしてある紙が来る。誰の家の紋か分からんと返事をどこへ出せばいいかも分からん」
――――――――――――――――――――
アシュは紙の上の形を見ていた。
あの晩、卓の上でこれを見た。
読めない字が三行あって、その下にこの形があった。
家の名前は載っているのに読めないのだとその時は思った。
読めていなかったのは字ではない。
「紹介状を書くのは侯爵家だ」
ゼドルが言った。
「商人が知らん町へ入る時に要る」
持って歩く者より書いた者の方が重い。あの男が誰に断りなく動けるか。どちらも前に聞いた。
「一つ出た」
老人は腰掛けに戻らずに立ったままでいる。
「紋を書いた家と、頼んだ者が同じとは限らん。請け合っただけかもしれん。だが請け合った家の名前は、これで一つになった」
アシュは膝の上で指を折った。
折ってから、折る意味がないことに気づいて開いた。
「ゼドルさん」
「なんだ」
「紙の話を、全部します」
老人は座らない。
座らないままで、聞くと言った。
――――――――――――――――――――
三つある。
一つめは荷車の車軸の紙だ。
夏の終わりに広場で揉め事があって、あの人が両方の言い分を帳面に書き取り、二枚に写して渡した。代は半分ずつ、次は貸す前に二人で車軸を見ること。下の欄に立会人としてあの人の名前が書き添えてある。町はいいやり方だと言い、アシュもそう思った。
二つめは先触れの紙だ。
訪ねてくる二日前に領主館の使いが持ってきた。用件は書いていない。日と名前だけだ。封にさっきの形が押してあった。
三つめは断りの紙だ。
父が断った日に、あの人はその場で断られた旨を書いた。日付と、伺った次第、と書いてあると父が言った。
順に言った。
ゼドルは一度も口を挟まない。
「三枚とも写しは館だ」
ゼドルが先に言った。
「はい」
「なぜ知っとる」
「二枚目まではあの人が卓で言いました。荷車の車軸の時もそのようにいたしました、と。三枚目はゆうべ父さんに聞きました」
老人は床の反古紙を三枚取って、間を空けて並べた。
白い紙が三枚、光の四角の中に並ぶ。
それから棚の方へ手を伸ばして、四枚目を左の端に置いた。
「これが鑑札と紹介状だ。館にある」
四枚になった。
「子どもの先を余所へ預ける話には決まった紙が要る」
ゼドルは左端に指を置いた。
「一つ。誰が請け合ったか」
「鑑札と紹介状ですか」
「素性の知れん者に子どもは預けられん。だから先に侯爵家が、この者は怪しい者ではないと書く。書いた家が重ければ重いほど、後の話は通りやすい」
指が二枚目へ動いた。
「二つ。この者に人の間を任せていいという裏づけだ」
「車軸の紙です」
「揉め事に呼ばれて、両方の言い分を書き取って、双方が納得して収まっとる。人と人のあいだに立って話をまとめた覚えが、町の紙で一枚残っとる。人の先を口利きする者にはこれが要る」
「あれは、ただの親切です」
「親切だ」
老人は否定しなかった。
「親切でやった仕事は、親切の記録にしかならんと思うか」
思っていた。
今は思っていない。
「三つ。家へ申し入れたという記録だ」
指が先触れの紙で止まった。
「日と名前しか書いていませんでした」
「それでいい。要るのは中身じゃない。この日にこの家へ正式に申し入れた、という事実だけだ。館の使いを一人挟んだのは、館に日付を覚えさせるためだ」
挟むと断る先が変わる、と思ったのはあの晩だ。
変わったのは断る先ではない。その日付を、館が覚えたことだ。
「四つ。家と話をしたという記録だ」
指は最後の一枚の上で止まった。
「揃っとる」
アシュは四枚の白い紙を見ていた。
紙には何も書いていない。書いていないのに並びの意味だけが分かる。
「断ったのに、ですか」
「断ったと書いてある」
老人は指を離した。
「断ったと書いてある紙は、話をしたという紙だ。話をしていない家の子は動かせん。話をして、まとまらんかった家の子は動かせる」
「どうやって動かすんですか」
「後見の申し立てだ。字の読めん家の子を、都の家が預かって育てる。悪い話に聞こえるか」
「聞こえません」
「聞こえんように作ってある」
窓の光の四角が、さっきより扉の方へ寄っていた。
「うちが断ったことは、うちに何か残りますか」
「残らん」
「どうしてですか」
「お前の父親が断ったのは声だ。声はその場でしまいになる」
アシュは口の中の音を一度飲んだ。
向こうの紙には残っている。うちには何もない。
同じ日の同じ話が、片方にだけ字になって残る。
「うちでも紙にすればよかったんですか」
「うちで書いても、置く場所がない」
老人は棚の方を向いた。
「あの男の写しは館にある。館が預かる紙には格がある。町の者が一枚書いて持っていっても、館は預からん」
「じゃあ、どうすれば止まりますか」
老人はそこで一度言葉を切った。
「紙は、上の紙でしか止まらん」
塔の中は静かで、その一言だけが床に落ちた。
拾い上げる言葉が出てこない。
「上って、なんですか」
「侯爵家の紙を止められるのは、侯爵家より上の家の紙だけだ」
この町で侯爵家より上にいる人は一人しかいない。
領主だ。町の子どもでも呼び名は知っている。
「……公爵様ですか」
「そうだ」
ゼドルは四枚目を棚へ戻した。
「だが、それを儂に言うな。父親に言え」
「はい」
「儂はここまでだ。ここから先は父親の仕事だ」
前に一度、この人は動かないと言った。
動く先がないという意味だ、とも言った。先ができれば話は別だ、とも。
先はできた。
できた先を渡す相手が、坂を下りたところにいる人になっただけだ。
――――――――――――――――――――
老人は棚の下から椀を一つだけ出した。
筵はかけない。数も隠さない。
水は柄杓で一杯だけ入った。
「面はもういい」
「はい」
「中だ。底まで凍らせろ」
アシュは椀の前に座った。
水面の位置を指の腹で測る。深さは指の関節二つぶんある。
「ヴァッサークア、グラシア――フロスタ・ヴァトゥン・ヘンドル」
端を細く回してから内側へ倒す。
膜は張った。押せば指が乗って少しだけ沈む。
張った膜の下で水がまだ動いている。
膜を割らずに下へ送ろうとすると、送った先で流れが横へ逃げた。上に置いた分だけ下が痩せる。
二度目は下から先に始めた。
底の方が一度だけ白くなりかけた。
白くなりかけたところで上の膜が薄くなって、指を入れたら底に着いた。
三度目は上と下を同じだけにしようとした。
同じだけにした分、どちらも薄い。
椀を持ち上げて傾けると中で水がまだ動く音がする。
膜は音を止めない。上に蓋をしただけの水は、蓋の下で行き先を変えずに揺れている。
濡れた指を膝で拭く。
「上を張ると下が空になります」
「そうだろうな」
「面は、上から見えるところだけでした」
ゼドルは何も言わずに椀へ指を入れた。
入れて、抜いて、その指を見た。
「濡れとる」
「はい」
老人は椀を棚へ戻さなかった。
床の同じところへ置き直して、片づけんでいい、とだけ言った。
褒め言葉は出ない。次にどうしろとも言わない。
アシュは筵を畳もうとして、今日は筵を使っていないことを思い出した。
手だけが稽古の終わりの動きをしている。
「ゼドルさん」
「なんだ」
「話して、よかったですか」
「知らん」
老人は床の椀を跨いで棚の方へ歩いていった。
「よかったかどうかは、あとで決まる。今日決まるのは、儂の中に紙が四枚並んだことだけだ」
――――――――――――――――――――
坂の下の曲がり角に兄が立っていた。
雪は道の端に寄せてある。真ん中は昼のあいだに人の足で潰れて、茶色くなっていた。
「遅い」
「ごめん」
「別にいいけどよ」
兄は外套の前を掻き合わせて歩き出した。歩幅はいつもどおりアシュに合っている。
「爺さん、なんか言ったか」
「うん」
それ以上は言わなかった。
兄も二度は聞かない。
坂の途中で兄が足を止めて、道の端の雪を靴の先で崩した。
「父さん、朝から出てる。仕事の話だってよ」
「そう」
「長えのが一つ来てるらしい。ふた月とか、そういうやつ」
兄は言い方を選んでいる。
選んだ言い方の中身までは分からない。
「爺さんとこ、寒くねえのか」
「寒い」
「火は」
「焚くよ。窓が高いから、上の方から逃げていく」
「そりゃ寒いわ」
兄は笑って、笑ったところで前を向いた。
塔の中のことを聞かれるのは珍しい。
聞いたのは火のことだけで、それより先へは来ない。
来ないでいてくれているのか、興味がないだけなのかはいつもどおり分からない。
――――――――――――――――――――
夕方の土間は暗かった。
母は竈の前でリアに湯を冷ましてやっている。灯りの石にはまだ布がかかったままだ。日の残っているうちに火を大きくしない家の癖だ。
父は戸口で外套の雪を落としていた。
入ってきたばかりで、まだ閂に手をかけていない。
「父さん」
「なんだ」
「塔で話しました」
父の手が閂の上で止まった。
「何をだ」
「うちに来た紙のことを全部です。車軸の紙と、先触れと、断った日の紙と」
母が湯呑みを置いた。置く音がいつもより高い。
「言うなと言われたのに、言いました」
父は閂を落とした。
落としてから振り向いた。
「怒りますか」
「怒らん」
「どうしてですか」
「先に用のあることを言え」
アシュは炭の粉のついた指を握った。
「先触れの封の形が、ベルツ家の紋だそうです」
土間の空気が動かなくなった。
母は竈の方を向いたままで、火の音だけがしている。
「……ゼドルが言ったのか」
「はい。ゼドルさんは依頼の封で紋を覚えたそうです」
父は上がり口に腰を下ろした。
剣を外して膝の横へ置く。置き方がいつもより静かだった。
「もう一つあります」
「言え」
「館にある写しが、揃っているそうです」
アシュは指を四本立てた。
「請け合いの紙と、人の間を任せていいという紙と、申し入れた紙と、話をしたという紙です。断った日の紙は、断ったと書いてあるから話をしたという紙になります」
父は指の四本を見ていた。
母が竈の前から動かないまま口を開いた。
「四枚で、うちの子が一人ね」
言ってから母は前掛けの端を握った。
「今のは、店の数え方だわ」
「断ると、断ったと書いてある紙が一枚増える。増えた紙で、うちの同意は要らなくなるそうです」
父が聞いた。
「うちの代わりに誰が決める」
「分かりません。ゼドルさんは、紙は上の紙でしか止まらないと言いました」
父は長いこと黙っていた。
黙っているあいだ、膝の横の剣に手を置いたまま動かさない。
「よく言った」
褒める言い方ではなかった。
「明日、あの家から回ってきた仕事を受けるところだった」
父は立ち上がって、壁の掛け棒を見た。
木剣が一本、鉄剣が一本、長いのが一本。
見ただけで何も外さない。
「飯にしろ」
母が竈から鍋を下ろした。
竈の火が薪を一本ぶん食って、壁の三本の影が短くなった。




