第二十二話
隣の町の朝は井戸の軋みで始まった。
宿の窓の下で誰かが水を汲んでいる。
桶が石に当たる音が二度。グレンツの井戸より少し高い音だ。
バルトは薬箱の革紐を締め直して階段を下りた。
グレンツを発って二日目の朝になる。
治癒師が来たと知れれば、患者の方から戸を叩きに来る。
動けない者の家には呼ばれて上がる。
上がった家の中のことは外へ持ち出さない。それがこの商売の作法で、だから人は治癒師の前でよく喋る。
今度は喋らせるために来た。
そう思うと薬箱がいつもより重い。
通りの並びはグレンツと似ている。井戸が真ん中にあって、市が立って、詰所がある。
名乗りは「グレンツから来た治癒師」で足りた。それ以上を聞く者はいない。
最初の日は宿の土間を借りて座った。
冬を前にした町ではそれで足りる。
咳の年寄りが三人。あかぎれの女が五人。山仕事で爪を割った男が一人。
手当てをして、薬を置いて、代は言われたぶんだけ受け取る。
魔法まで使ったのは爪の男一人だ。
たいていの傷は薬と布で足りる。足りない分にだけ魔法を使う。
次の日には呼ばれて家へ上がるようになった。
歩いて来られない者の番だ。
治した手は覚えられる。覚えられた手は疑われない。
咳で寝ついた年寄りの家では壁に古い紙が一枚貼ってあった。
隣と交わした薪置き場の取り決めの紙で、下の隅に立会人の名がある。
読めるのかと聞くと、年寄りは首を振った。
「読めんよ。だが、これがあるだけで隣と揉めん」
書いた本人はもうこの町にいない。
紙だけが残って、まだ効いている。
商人の名前は、聞く前に井戸端で出た。
「ロートスさんかい。いい人だよ」
水汲みの女が笑って言う。
二年前にひと冬いて、去年もひと月いた。針と塩を配って、揉め事を紙で収めて、子どもらに都の話をした。
どこかで聞いた並びだ。
この町が先で、グレンツが後だっただけになる。
「都へ出た子がいると聞きました」
井戸端でバルトの方から聞いたのは、この一度きりだ。
「ザントのとこのトビアスだろ。もう二年になるかね。きれいな緑の目の子でさ。あとはフークのとこの……」
女はそこで声を少しだけ落とした。
「サーラちゃんね。あの子も薄緑の、いい目をしてたっけ」
声を落とした理由は聞かなかった。
聞かなくてもじきに分かることだ。
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発って三日目の昼、ヘルガ・ザントの家の戸を叩いた。
洗い物を請け負っている家だと、井戸端で聞いていた。
旅の荷の肌着と晒し布を洗ってもらう。それだけの用だ。
洗い物は本当に要る。頼む先をこの家にした理由だけが別にある。
包みを受け取りに出た手は、指の節が水で割れていた。四十前の小柄な女だ。薄茶の髪を布で包んで、よく笑う。
「冬のたびにこれだもの。恥ずかしいね」
黙って見ていられる手ではない。
バルトは荷を上がり口に置いて、薬箱を開けた。
割れ目に塗り薬を練り込んでいく。
息子の名前はこちらから出すまでもなかった。
「トビアスも手が荒れる質でね。都の問屋は水仕事からだって言うからそこだけ心配なんですよ」
壁際に上着が一枚掛けてある。
子どもの肩幅の上着だ。肘に新しい継ぎが当たっている。
「戻った時に着るんです。あの子は伸びる頃だから少し大きめに直して」
継ぎは新しいのに、肩幅は二年前の子どものままに見えた。
バルトは手を止めない。
「便りは」
「来ませんよ」
ヘルガは声を立てて笑った。
「あの子は字が書けないもの。あたしも読めない。読めない家に手紙を出す馬鹿はいないでしょう」
「向こうで誰かに頼めば書けます」
「頼むにも金がいるでしょ。給金は三年目からなんですよ。もう二年だからあと一年。帰りの路銀くらいは持って帰るんじゃないかね」
理屈は通っている。
通っているから二年のあいだ一度も崩れずに立っている。
指の割れ目は深いが、手当てをすれば塞がる傷だ。
この家には塞がる傷しかないことになっている。
「ロートスさんはいい人だった。今でもそう思ってますよ。あんな話、この町の者じゃ誰も持って来られなかったもの」
言えることが一つもない。
傷なら触れば分かる。深いか浅いか、膿んでいるか、塞がるか。
この家の傷は触ることもできない。
バルトは塗り薬を多めに置いて、薬の代は洗いの代と差し引きにした。
ヘルガは「まけてもらったみたいだね」とまた笑っただけだった。
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五日目の夕方、メルテン・フークの家の戸を叩いた。
山仕事の男だと聞いていた。薬の材料を分けてもらいに行く。
木の皮や乾いた根は、山に入る者から買うのがいちばん早い。どの町でもやっている仕入れだ。
戸を開けたのは本人だ。四十半ばの、痩せて肩幅だけ広い男で、短い髪に灰色が混じっている。
用件を言うと、メルテンは黙って奥から干した皮の束を出してきた。
その手の甲に汚れた布が巻いてある。巻き方が悪い。縁からのぞく肌が赤い。
「その手は」
「なんでもねえ」
「なんでもない色ではない。治癒師です。見せてください」
メルテンは束を台に置いて、値段の話が終わってからようやく手を出した。
裂き傷は縁が赤く盛り上がりかけている。深いところが膿み始める手前だ。
まず洗う。
傷を洗う水が指の熱でぬるむまで、男は壁の一点を見ていた。
そのあいだ一度も顔をしかめない。
塗り薬だけで間に合う傷ではなかった。
洗った肌から血の気配が引くのを待って、傷の上に手のひらをかざす。
「レーベンヴィタ、サナリス――イフラ・ソルン・ディュプル」
低く唱えて、かざした手はそのまま動かさない。
深いところを癒すのは時間のかかる仕事だ。
手のひらの下がうっすらと温かくなって、傷の底がゆっくり内側から寄っていく。
メルテンの目が初めて壁から自分の手の甲へ下りた。
閉じたのは深いところまでだ。表には塗り薬を当てて、布を巻き直す。
魔法で塞げるのは、体の傷だけになる。
土間の奥で女房が湯を沸かし、椀を二つ置いて引っ込んだ。
棚には椀が三つ並んでいる。
この家は今、二人のはずだ。
三つめに埃はない。洗って、拭いて、また棚に戻している椀だ。
「お宅も、都に子を出したと聞きました」
手当てを終えてから言った。
膝の上でメルテンの手が一度握られた。巻いたばかりの布が軋む。
「あれは俺が決めたことだ」
問いへの答えになっていない。
「いい話だった。読み書きから仕込んで給金も出る。断る理由がどこにある」
「ないでしょうね」
「ないんだ。あれは俺が決めたことだ」
同じ言葉が二度出た。
二度目の方が小さかった。
戸口で薬の包みを渡すと、メルテンは受け取らずにバルトの顔を見た。
「……あんた、何しに来た」
怒鳴る声ではない。
確かめる声だ。確かめて、聞きたくない答えが来るのを怖がっている声だ。
「手当てです」
バルトは包みを男の手に押しつけた。
嘘ではない。全部でもない。
メルテンは包みを見て、一度だけ頷いて戸を閉めた。
通りへ出て少し歩いたところで後ろから足音が来た。
女房だ。前掛けのまま、肩に何も掛けずに出てきている。
「せんせい」
治癒師はどこの町でもそう呼ばれる。
女房は道の真ん中で立ち止まって、家の方を一度だけ見た。
「半年前に、便の人に頼んだんです。都の問屋で、サーラが達者かどうか聞いてきてくれって」
声が白い息になって切れる。
「もう問屋にはいないって。いい所へ移ったからって。それだけでした」
「移った先は」
「聞いても、番頭さんは笑って首を振るだけだったそうです」
女房は前掛けの端を握った。
「うちの人には言ってません。言えなくて。でも、知ってると思う。あたしが頼んだことも、返ってきた言葉も。あれからあの人、サーラの名前を口にしなくなったから」
夫婦とも同じことに気づいていて、互いに黙っている。
責め合った家なら傷は表にある。表にある傷には手の施しようもある。
この家は傷を家の中で見せ合わないまま、それぞれ一人で抱えて塞がらずにいる。
「冷える。戻った方がいい」
それだけ言った。
女房は頷いて、頷いたまま動かないでいて、それから来た道を戻っていった。
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七日目、乗り継ぎの帳場へ行った。
都へ上る荷はグレンツからこの町へ集まり、ここで大きい便に載る。
帳場の親父の腰を診た縁で、南便の御者と火の横に座る席を持てた。
「グレンツの子を秋に乗せませんでしたか。十二の、男の子です」
「ああ、覚えてるよ」
御者は火に手をかざしたまま即座に言った。
「字も読めねえのに、名前の書いてある紙を胸に入れてた子だろ。宿場に着くたび、落としてねえか確かめてた」
ヤンだ。
名前の紙のことはグレンツの見送りの話で町中が知っている。
「変なことを聞く子でな」
御者は少しだけ笑った。
「都から歩いて帰ったら何日かかるかって。歩く奴があるかって言ったら聞いとくだけだって」
歩いて帰る道を、あの子は初めから勘定に入れていた。
「問屋の戸口まで届けたよ。番頭が受け取った。金は先にもらってた。過分なくらいだ」
「その後は」
「この前の便のついでに問屋の前を通ったんだ」
御者は薪を一本足した。
「あの子はもういないとよ。いい所へ移ったと」
自分の手が膝の上で止まっているのに気づいた。
「どこへ」
「聞いたさ。番頭は笑って首を振った。ああいうのが商売の返事なんだろ」
同じ言葉だ。
サーラの時と一言も違わない。
移った、という言葉には行き先がない。
着いた、なら場所が要る。帰った、なら家が要る。
移った、だけはどこにも着かないまま言い切れる。
その夜、宿でバルトは指を三本立てた。
二年前にトビアス。緑の目。
去年にサーラ。薄い緑の目。
今年にヤン。
ヤンの目は金色だ。町の者のたいていと同じ色だ。
珍しい目の子を選んでいるのならまだ筋が読める。
選んでいないのなら何も読めない。
診立てのつかない病人を前にした時と同じだ。
問屋の名前は、二軒のどちらの家も覚えていない。
紙には書いてあったはずだ。読める者が家にいない。
二年待った家がまだ信じていて、一年の家がもう気づいている。
窓の外で峠の方の空が白い。
薬箱の中身は、来た時の半分になっていた。
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十日目に町を出た。
発つ朝、ヘルガが洗い上がりを宿まで届けに来て、干した豆をひと袋押しつけていった。
断りきれなかった。
受け取らずに礼だけ残すやり方を、あの男のように上手にはやれない。
帰りの街道は往きより白かった。峠の白がふもとまで下りて、二日目の昼から雪に変わった。
グレンツに入ったのは発って十二日目の夕方だ。
屋根に薄く雪が積もって、竈の煙がまっすぐ立っている。
その夜、借家の戸を叩いたのはガルドだった。
荷を解くあいだに、オルトが戻りを知らせに出ていた。
薬草の匂いの土間へ、ガルドは今度は敷居を跨いで入ってきた。
「二年前に一人。去年に一人。どっちもあの男の口利きで都の問屋へ出ています」
バルトは順番に言った。
「手紙はどちらの家にも一度も来ない。問屋に人をやって聞いた家が一つある。返ってきた言葉は、もういない、いい所へ移った。それだけです」
「移った先は」
「番頭は笑って首を振る。誰が聞いても同じです」
ガルドは黙って聞いている。
「ヤンもです」
ガルドの目が上がった。
「便の御者が問屋の戸口まで届けている。そこまでは約束どおりです。この前の便で、もういないと言われた。同じ言葉で。いい所へ移ったと」
卓の灯りが揺れて、ガルドの影が壁で一度大きくなった。
「三人です」
バルトは指を三本立てた。
「二年前と、去年と、今年。二人は珍しい目の子で、ヤンは違う。この並びは私には読めません」
「……同じ問屋か」
「分かりません。ヤンの問屋は御者が知っています。ほかの二軒には問屋の名前を読める者がいない」
ガルドは卓に目を落とした。
「二軒は、あの男を恨んでるか」
「いえ」
バルトは首を振った。
「一軒はまだ恩人だと思っています。もう一軒は、恨む先を自分にしています。あの男を悪く言う者は隣の町にも一人もいない」
ガルドの顎が一度動いた。奥歯を噛んだ動きだ。
ガルドは長いこと黙っていた。
それから頭を下げた。
「世話になった」
「まだ終わっていません」
バルトは薬箱を土間の隅へ下ろした。
「明日、伯母の所へ行きます」
「言うのか」
「言わずに済ませるやり方が、私には見つからない」
ガルドは短く息を吐いた。
「頼む」
――――――――――――――――――――
翌朝、グレーテ・ノルの家の戸を叩いた。
呼ばれてはいない。
呼ばれて上がるのが商売で、呼ばれない戸を叩くのは商売の外だ。
ヤンの伯母は五十過ぎの痩せた人で、白髪の混じった髪を後ろで小さく丸めている。
土間の隅に筵が一枚、上げて立てかけてあった。
ヤンが寝ていた場所だ。
上げたまま、次の使い道を与えられずにいる。
「治癒師さんが、うちに何の用だい」
「膝の薬を持ってきました」
帳場の親父に出したのと同じ薬だ。
冬の土間で寝起きする人の膝は、診なくても分かる。
上がって膝に薬を塗り、布を巻いた。
グレーテは巻かれるままになっていたが、目はずっとバルトの手元ではなく顔を見ていた。
膝は思ったとおり水が溜まりかけていた。土間の冷えは膝から入る。
「痛むでしょう」
「もう慣れたよ」
「慣れた頃がいちばん溜まっています。骨のあいだの水の話です」
グレーテは答えずに少しだけ笑った。
「ヤンのことで耳に入れたいことが一つあります」
前掛けの上で、グレーテの手が止まった。
「都の問屋までは、ちゃんと着いています。届けた御者から直に聞きました。そこまでは何も欠けていない」
「……そこまでは」
「今は問屋にいません。いい所へ移ったと、問屋は言っています。移った先は、誰が聞いても分からない」
言葉は選んだ。
選んでも伝わることは同じだ。
グレーテは長いこと黙っていた。
土間の水瓶で薄い氷の鳴る音がした。
「……あの子が発つ朝ね」
声は静かだった。
「あたしは最後まで前に出なかったんだよ。見送りの輪のいちばん外にいた。ほっとしてたからだ。あの子の先を、あたしじゃない誰かが決めてくれたことに」
「あなたのせいではない」
「そういうことはね、せんせい」
グレーテは笑った。笑い方だけ笑っていた。
「他人が決めるもんじゃないんだよ」
薬の包みを上がり口に置いて、外へ出た。
雪はやんでいる。
朝の道は白くて、足跡はまだ少ない。
戸の内で、筵を動かす音がした。
立てかけてあったものを、下ろしたのか。仕舞ったのか。
音だけでは分からない。
バルトは薬箱を担ぎ直して、井戸の音のする方へ白い道を歩いた。




