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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
客人は笑う

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第二十一話

 夜の土間は薬草の匂いで満ちていた。

 竈(かまど)の上に干した束が三つ吊るしてあって、火の気が揺れるたびに匂いが濃くなる。

 バルトとオルトが借りている家だ。

 窓は一つきりで通りに背を向けて開いている。

 シアは壁際の空き樽に腰を下ろした。

 座る前に戸と窓と裏口を順に見る。

 入る道が一つ。出る道が二つ。

 癖だ。もう直らない。


「仕事の話じゃない」


 ガルドは戸口に立ったまま言った。

 敷居を跨いでいない。

 跨げば頼みになると決めているような立ち方だ。


「依頼書はない。組合も通さん。金はうちから出す」


「まず座んなって」


 ライナが自分の隣の長椅子を叩いた。

 赤茶の髪を首の後ろで束ねた小柄な前衛は、卓のいちばん明るいところに座っている。


「あんたの立ち話は長いんだ」


 ガルドは座らなかった。

 座らないまま話した。

 町に商人が来ている。名はロートス。ランドの店の二階に長く泊まっている。


「知ってる」


 ライナが言った。


「井戸の縄の人だろ。隣町でも名前を聞いたよ」


「その男がうちの下の子に後見の話を持ってきた。都へ出せという話だ。断った」


 卓の灯りが短く揺れた。


「断って終わる相手ならここへは来ん」


 オルトが薬草を刻む手を止めた。

 細身で背の高い方の双子だ。緑の髪を無造作に後ろで結んでいる。


「穏やかじゃないね。何者だ」


「分からん。男には頼み主がいる。名は言わん。金の出所も言わん。俺に見えるのはそこまでだ」


「詰所には言わないのかい」


「詰所には詰所の目がある。頼むのはうちの目だ」


 オルトは刻みかけの葉を鉢に落とした。


「で、その男は」


「雪の前に町を出て、春に戻ると言った」


「春に何しに」


「挨拶だとよ」


「断った家に春の挨拶か。ご立派なことだ」


「頼みは三つだ」


 ガルドは指を折らずに言った。


「男が町を出るまで目を離さんでくれ。出した物と出した先を見ててくれ。それからもう一つ。去年、下の子を攫った四人だ」


 ライナの顔から笑いが引いた。


「牢の連中か」


「領主に渡してそれきりだ。今どうなってるかが知りたい」


「商人と関わりがあるのか」


「分からん」


 一拍あった。


「分からんから頼む」


 オルトが鉢を脇へ押しやった。


「その男が手紙を出すなら中身は見たいのかい」


「見んでいい」


 ガルドは即座に言った。


「盗んだ紙は表で使えん。盗めば裏へ回るのはこっちだ」


「ご説ごもっとも」


「数と行き先だけでいい。何を、いくつ、どこへ出したか。それだけ分かれば決まった先に決まって出しているかどうかが分かる」


「決まっていたら」


「その先に、あの男に頼んだ者が座ってる」


 バルトが奥から出てきた。

 青い髪の、がっしりした方の双子だ。手にした薬の包みを卓に置かずそのまま自分の荷袋へ入れた。


「その男が世話をした子は」


 低い声で聞いた。


「どうしてる」


「都へ出た子が一人いる。着いたと言ったのはあの男だけだ」


 バルトは頷いた。

 頷いて、壁の外套(がいとう)を取った。


「隣の町から回る」


 誰かのためにしか動かない男が動く時はこうだ。

 返事より先に体が支度を始める。

 バルトは戸口でガルドの肩を一度叩いて夜へ出ていった。

 今夜のうちに発つ気だ。


「金の話だが」


 ガルドがもう一度言いかけた。


「相場が分からん。言い値で――」


「やめなって」


 ライナが遮った。


「あんた、こっちに頼み事をするの初めてなんだよ。分かってる?」


「だから金の話をしてる」


「だからやめろって言ってんの。絹の隊は断っといたよ。あんたが行かないなら同じ話じゃないからね。体は空いてるんだ」


 シアは樽から立った。

 壁の外套(がいとう)を取って袖を通す。

 卓の話はまだ続いている。


「おい、シア。話の途中――」


「聞いた」


 戸を開けると夜気が土間へ流れ込んで、薬草の匂いを外へ引いた。

 ライナの声の残りは戸で切れた。


 通りは暗い。

 ランドの店までの道は足が覚えている。

 夜のうちに見ておくものが三つある。

 男の部屋の窓がどちらを向いているか。

 店の裏口がどこへ抜けるか。

 それから、灯りの落ちる刻限だ。


 裏口は一つだった。

 抜けた先は袋の路地で、井戸に突き当たる。

 逃げるために選んだ宿ではない。


 二階の角の窓に灯りがあった。

 蝋《ろう》一本ぶんの細い明るさで影が時々動く。

 肩から上だけの影だ。

 俯いて、手だけが動いている。

 書いている。


 シアは向かいの軒下に立った。

 風は峠の方から通りへ抜けていく。風下だ。

 灯りは長かった。

 落ちたのは町の犬が鳴きやんだ後だ。


――――――――――――――――――――


 一日目の朝から、男の一日は同じ形をしていた。


 同じ刻限に一階へ下りて、店の前の道を東へ歩く。

 広場。井戸の横。領主館の前。門。

 同じ順で回って、同じ順で帰る。

 シアの立つ場所は三つ決めて日で回した。

 軒下。辻の樽の陰。水場の石段。

 同じ場所に二日続けて立てば見られているのはこちらになる。

 歩幅が変わらない。

 速くも遅くもならない。

 尾ける側にとって、これほど楽な相手はいない。


 二日目、男は市場で何も買わなかった。

 買わないのにどの店の前でも足がわずかに緩む。

 緩んだ分だけ店の者が顔を上げて、男に挨拶をする。

 挨拶だけを受け取って、金は一枚も落とさない。


 三日目には先回りができるようになった。

 来る前から立って待てる。

 待ちながらシアは男の後ろ姿を見ていた。

 道を変えない。

 振り返らない。

 急がない。

 荷を持って旅をする者は、どこかで必ず一度は後ろを見る。

 後ろを見ない旅の者を、シアは初めて見た。


 四日目に気づいた。

 男の道順は町をひと回りするのに、あの家のある細い通りだけを踏まない。

 避ける足ではない。

 初めからそういう道順だという顔で通らない。

 断られた家に、もう用の足はない。

 用があるのは館の方だ。


 広場では相談の列がまだできる。

 前より短い。冬支度で町の手がふさがっているせいだ。

 男は一人ずつに同じ長さで応じて、決まった刻限に切り上げる。

 切り上げ方に角がない。

 切られた側が、切られたことに気づいていない。


 昼を過ぎると男の帰り道は南の路地の口と近くなる。

 塔から戻る子どもらは、その路地を抜けて帰ってくる。

 シアは男の道筋と路地の口とのあいだに立って、荷紐を直すふりで男を先に通す。

 その日、男と子どもらの道は交わらなかった。

 次の日から昼過ぎはそこに立つと決めた。

 誰に頼まれたのでもない。

 立つ場所を選べるなら、子どもの通る道の側に立つ。


 下りてくる二人のうち、下の子の方は遠くからでも分かる。

 目の色が見える距離ではない。

 それでも分かる。

 分かることに理由をつけたことはない。


 一度だけ、下の子の目がこちらの立つ辻を掠《かす》めた日がある。

 子どもの目は素通りしなかった。

 知っている顔だと分かる目の動きをして、それきり何も言わずに兄と通りの奥へ歩いていった。

 誰にも聞かず、誰にも言わない。

 あの家の子はそういう覚え方をする。


 五日目、南へ下る定期の便が出た。

 朝、男は御者に紙を一枚渡した。

 封のある紙だ。

 蝋《ろう》の色は暗い赤で、封の形までは遠くて取れない。

 厚みは指一本ぶんもない。

 御者は紙を胸の革袋へ入れて、金を受け取らずに頷いた。

 払いは済んでいる。それも、ずっと前から。

 紙が革袋に収まるのを見ていたのは通りでシア一人だった。


 六日目、男は領主館に半刻いた。

 入る手にも出る手にも何もない。

 用は館の中で済ませている。

 何を済ませたかは外からは見えない。


 七日目と八日目、男は世話をした家々を回った。

 戸口ごとに頭を下げて、長居はしない。

 戸口ごとに何か置いていく声がした。

 中身までは拾わない。

 拾わなくても置かれた側の顔で春の約束だと分かる。

 どの戸口でも見送る顔が笑っていた。


 八日目の夕、もう一便が南へ出た。

 また一枚。

 同じ厚さ。同じ封。

 五日目の一枚と、どこも変わらない。


 九日目の朝は霜が降りた。

 人のよく踏む道から先に霜が解ける。

 男の道順は、どこも解けるのが早い道ばかりだ。


 夜は毎晩、角の窓に細い灯りが点いた。

 書く影が動いて、遅くに落ちる。

 夜明け前、まだ誰も通りにいない刻限に、男は一度だけ戸口へ出て空を見る。

 誰も見ていない時の顔だ。

 その顔が、広場で列に応じている顔と同じ作りをしていた。

 人は見られていない時に顔を仕舞う。

 仕舞った方の顔が、その人の顔だ。

 この男には、仕舞う方の顔がない。


 峠の白が下りてきた。

 三日でこぶし一つぶん。

 軒下の息が白くなった。


――――――――――――――――――――


 九日目の夜、ライナが戻った。


 外の冷えをまとったまま卓に着くなり、水を一杯飲んだ。


「出てたよ、移送。ひと月あまり前だ。四人まとめて南へ」


「着いたか」


 ガルドが聞いた。


「着いてない」


 卓の灯りは一つきりだ。


「宿場を三つ辿ったけどね。泊まった帳面がどこにもない。移送の列は夜に町を出て、次の宿場に着いていないんだ。それでいて、着かなかった騒ぎもない」


「逃げたか」


「逃げたなら手配が回る。回ってない。どこにも」


 ライナは杯を置いた。


「牢が空いたのに、探してる者が一人もいないんだ」


 オルトが指の腹で卓を一度叩いた。


「四人消えて、町は静かなままか」


「静かなもんだよ。隣町じゃ移送があったことも知られてない」


「消え方が上等すぎるね」


 オルトの声から皮肉が抜けていた。


「上等な消え方には金がかかる。誰かが払ってる」


「気味が悪いのはさ」


 ライナが杯の縁を指でなぞった。


「四人が消えて得をする者の見当が、こっちには一人もつかないことだよ」


「つかないんじゃない。見えないところにいるんだ」


 オルトが言った。


 ガルドは長く黙っていた。

 黙って、それから一つだけ言った。


「そうか」


 立ち上がる時、ガルドはシアの方を見た。


「男は」


「変わらない」


 ガルドは頷いて戸口へ向かった。

 戸を開ける前に背中が一度止まって、何も言わずにまた動いた。


 オルトが黙って椀をこちらへ寄こした。

 湯気の立つ豆の汁だ。

 シアは受け取って飲んだ。

 バルトはまだ戻らない。

 隣町を回ると言って出たきりだ。


――――――――――――――――――――


 十日目の夜、角の窓の灯りはいつもより早く落ちた。

 落ちる前に、窓の内で箱を縛る影が見えた。

 荷造りだ。

 シアは宿の表と裏の両方が見える辻へ立ち位置を移した。

 裏から出る理由のある男ではない。

 それでも両方見える場所に立つ。

 読みが外れた時に困るのはこちらだ。


 十一日目の朝、男が町を出た。


 冬の前の、南へ下る最後の便だ。

 荷馬車は三台で、荷には油布がかけてある。

 男の荷は木箱が二つと鞄が一つ。

 来た時と同じだけらしい、と見送りの誰かが言っていた。


 見送りは出た。

 井戸端の女たちと、菓子をもらっていた子どもらだ。

 女の一人が布の包みを渡そうとして、男は受け取らなかった。

 受け取らないまま短く何か言って、深く頭を下げた。

 女は包みを抱えたまま笑っている。

 断られた側が、礼を言われた顔をしていた。


 子どもの一人が前へ出て何か聞いた。

 男は腰を折って目の高さを合わせ、頷いた。

 子どもは満足して列へ戻っていく。

 春の約束がまた一つ増えた。


 来ていない顔もある。

 青菜売りも、魔道具屋も列にいない。

 来ない側の顔は数えるほどしかいない。

 シアはその顔ぶれを覚えた。


 列の外れに詰所の男が二人立っていた。

 剣を提げた背の高い方は、見送りの列ではなく男だけを見ている。

 その目が一度、こちらの軒を掠《かす》めた。

 同じ仕事をしている者の目だ。

 どちらも会釈はしなかった。

 しない方が互いのためだ。


 男は荷台に上がる前に町へ向き直った。

 外套(がいとう)の裾を払って、深く頭を下げる。

 上げた顔は笑っていた。

 その目が通りをひと渡りして、こちらの軒下を通る。

 止まったかどうかは取れなかった。

 止まったとしても瞬き半分より短い。


 馬車が動いた。

 男は荷台の奥に座って前を向いている。

 道が曲がって見えなくなるまで、その背中は一度もこちらへ回らなかった。

 尾けて十一日。

 いちばん長く見た背中が、いちばん最後の背中になった。


 峠道の先は白い。

 白の下の道を、油布の列が小さくなっていく。


――――――――――――――――――――


 細い通りの奥の家の庭で、薪を割る音がしていた。

 斧の主はガルドではない。上の子の方だ。

 ガルドは井戸の横で桶に手をかけていて、道のシアに気づくと手を止めた。


 シアは道に立ったまま口を開いた。


「出た」


 ガルドは何も言わずに続きを待っている。


「手紙、二枚。どっちも南」


「館へは」


「一度」


「何か持って入ったか」


「何も」


「持って出たか」


「何も」


 ガルドは井戸の縁に手を置いて、しばらく峠の方を見ていた。

 手ぶらで入って手ぶらで出る。

 それでも用は済ませている。

 そういう男だと、この人はもう知っている顔だ。


 ガルドは薪の音のする庭を一度だけ振り返って、それから頭を下げた。

 浅くない下げ方だった。


「春までだな」


 シアは頷いた。


 家の中で椀の鳴る音がした。

 小さい子の声が短く笑って、女の人の声がそれに答える。

 戸の内の音だ。

 道までは届いても、意味までは届かない。

 それでいい音だ。


 シアは通りの口が見える場所まで歩いて、風を確かめた。

 雲は峠から下りてくる。

 夜には初雪になる。

 匂いで分かった。


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