第十九話
塔の床に筵がかけてあった。
昼の光が高い窓から斜めに落ちて、筵の端だけを白くしている。
布は昨日より長い。
長いというだけで下に何個あるかは見えない。
「九つにすると言った」
ゼドルは壁際の腰掛けに座ったまま言った。
「言ったが、九つあるとは言っとらん」
アシュは筵へ伸ばしかけた手を膝に戻した。
昨日、坂を下りながら口の中で二度、九つ、と言った。
言ったのは指ではない。
それでも頭で数えた数は、たいてい指の方へ落ちてくる。
「張れ。止めと言うまでだ」
「はい」
筵はめくらない。
端をつまんで持ち上げ、隙間から手を入れる。
中は暗い。
水はもう張ってある。
いつ張ったのかは知らない。この老人は稽古の支度をしているところを一度も見せない。
椀のふちが指の腹に当たるところから水面の位置を測る。
「ヴァッサークア、グラシア――フロスタ・ヴァトゥン・ヘンドル」
一つめ。
端を細く回してから内側へ倒す。
厚みは押した時に少し沈むくらい。
二つめは椀が小さかった。
小さい椀は水面も小さいので、回す距離が短くなる。
短くなった分だけ送る量を減らす。
三つめ。
四つめ。
五つめの手前で、そろそろではないかという考えが頭の上の方に浮かんだ。
浮かんだままにしておいた。
浮かんでいるだけなら指には届かない。
六つめ。
七つめ。
八つめ。
九つめの縁が指に当たった時、手はもう次の形になっていた。
「止め」
筵をめくる。
椀は九つあった。
膜が張れていたのは七つ。
届かなかった二つはどちらも列の真ん中だ。
「何個だと思って置いた」
「思いませんでした」
「一度もか」
「五つめのあたりでそろそろかと思いました」
ゼドルは椀を一つ持ち上げて、指の腹で膜を押した。
押して、また戻す。
「思ったあとで手を変えたか」
「変えていません」
「なら思っていい」
老人は椀を床に戻した。
「思うのを止めるのは無理だ。思ったとおりに手が動くのを止めれば済む」
張れた七つは、押せば指が乗って少しだけ沈む。
真ん中の二つは水のままだ。
指を入れると底に着く。
「この二つはどこが違ったんですか」
「違っとらん。同じにやって、届かんかっただけだ」
「じゃあ直しようがありません」
「ない」
老人は九つを重ねていった。
重ねる音が九回する。
「直しようのないものが二つで済んどるなら上等だ」
アシュは筵を畳もうとして、手が空を掴んだ。
ゼドルが先に畳んでいた。
畳み方が丁寧だった。
いつもは自分が畳んで棚の下へ押し込む。
「明日から水は張らん」
「やめるんですか」
「寝かせる」
「どれくらいですか」
「言わん」
また終いを持たせてもらえない稽古だと思ってから少し違うと気づいた。
水の時は、終いが見えないだけで張ってはいた。
今度は張らない。
「明日は石板だ。写せ」
「写すだけですか」
「写すだけだ」
老人は棚の石板の列に手を置いた。
「写した物は写した者の中に残る。石に残るのはついでだ」
――――――――――――――――――――
九つを張った日の前の晩に、済ませたことが二つあった。
一つは壺だ。
銀で三枚だと店から帰った晩に伝えた。
そう、とだけ返ってきた。
母は直さなかった。
次の日も同じ壺に湯を入れている。
朝までもたないのは母がいちばん知っている。
知っていて入れて、朝には冷めた湯を庭へ零している。
もう一つはガイだ。
約束どおり夕方に来て、庭で半刻だけ打ち合った。
鉄剣は使わない。木剣だけだ。
うちの卓に何が置かれたかは一つも言わなかった。
ガイも聞かない。
聞かないのがいつもどおりなのか、それとも聞かないでいてくれているのか、こちらからは見分けがつかない。
九つを張った日の翌日から、水を張らない日が五日続いた。
塔では五日とも石板を写した。
字と印が半分ずつ彫ってある板だ。
字は写せば読める。
この世界の字は音を表すので、なぞった順に音を出せば言葉になる。
ヤンの名前なら三つで足りる。
今ごろ都で、あの子も同じくらいの数の字を並べているはずだった。
印はそうならない。
形はそのままなぞれるのに、なぞり終わっても、それが何をする形なのかは出てこない。
どう写せばいいのかと聞いたら、形だけ写せと返ってきた。
中身は写しているうちに向こうから来る、とも言われた。
まだ来ていない。
ゼドルは五日のあいだ、町のことを一度も聞かなかった。
こちらから言わない限り、あの人はうちの卓に何が出たのかを知らないままでいる。
坂を下りてからのことは、一日ずつ違った。
一日目。
ヨナスの店で青菜を買った。
「雪は早いってよ」
「誰が言ってたんですか」
「峠から降りてきた奴だ。もう上の方が白いとよ。白くなるのが早い年は、閉まるのも早い」
二日目は霜が降りた。
井戸の釣瓶の縄が朝のうちだけ白い。
ハンナが、あの人は宿をまた延ばしたらしいと言った。
言い方は、いいことを知らせる時の言い方だった。
三日目、兄が何か言いかけてやめた。
夕飯のあと、木剣の柄を布で拭きながら口を開いて、それから閉じた。
こういう時のこの兄は二度目を言わない。
四日目は見回りが二度うちの通りを通った。
朝に一度、日が傾いてから一度。
ニコが後ろについていた。
五日目は何も起きなかった。
父はこの五日、一度も詰所へ行っていない。
仕事の口は来ている。断ってもいない。
近い日の分だけ受けて、日数のかかるものは返事を延ばしている。
リアは椀を並べて崩している。
まだ「れ」のままだ。
五日のあいだ、あの人はうちの通りに一度も入ってこなかった。
入ってこないことを、こちらは五日ぶん数えていた。
――――――――――――――――――――
水を張らない六日目は、風がなかった。
昼前にニコが誘いに来て、兄は薪の荷車の手伝いに出ていった。
「レイン、手が足りねえんだ」
「行く」
兄は返事だけして外套を掴んだ。
誘われて断ったところを見たことがない。
母は奥でリアを寝かしつけていた。
父は庭で剣の手入れをしていた。
アシュは土間で豆を選っていた。
足音がした。
通りの向こうから速さの変わらない足音が近づいてくる。
途中で速くならない。
途中で遅くもならない。
父が庭から上がってきた。
布を手に持ったままだ。
「アシュ」
「はい」
「ここにいろ」
「奥じゃないんですか」
「今日は座ってろ」
父は布を棚へ放って、卓の向こう側の腰掛けを引いた。
引く時に脚が床を擦る音がした。
「聞かれたことだけ答えろ。こっちからは何も聞くな」
「はい」
「返事は俺がする」
戸が叩かれた。
二度。
前と同じ数だ。
父が戸を開けた。
「ヴァルドさん。突然に失礼いたします」
男は笑っていた。
戸が開いた時にはもう笑っている。
笑ってから父を見た。
坂の下から上がってきたあの日は逆だった。
見てから、笑った。
順番が違ったのはあの一度きりだ。
「入れ」
「失礼いたします」
男は敷居で足を止めて、外套の裾の土を払った。
払う手つきが短い。
土は初めからほとんど付いていない。
居間へ上がる時、上がる前の床を一度だけ見た。
腰掛けを引く音がしなかった。
「息子だ」
父が言った。
「はい」
男はそれだけ言って座った。
名前は出てこない。
この人は父を名前で呼ぶ。ヴァルドさん、と戸口で言った。
母のことも市場で名前を呼ぶらしい。母がそう言っていた。
呼ばなかったのはあの子のだけよ、と母がこの卓で言ったのは夕飯の時だ。
あの人が来ていたあいだ、アシュは板戸の内側にいた。
今日は同じ卓に座っている。同じことが目の前で起きた。
母が奥から出てきて、茶の支度をしようとした。
「今日はどうぞお構いなく」
母は手を止めて、前掛けの紐を結び直した。
「先だって申し上げたことを、もう一度申し上げます」
「同じ話か」
「同じ話でございます」
男は話した。
都に家名を貸してくださる家がある。
後見という形になる。
その家の名の下で都へ出し、読み書きから学ばせる。
学びの場には推薦が要る。腕があっても名がないと門が開かない。私が扱っているのは順番でございます。家名はお受けいただいてから申し上げます。
支度金は金貨で五百枚。
出すのは春。雪の峠を子どもに越えさせるものではない。
後見の家の離れに部屋を用意する。世話をする者は女を一人。
アシュは膝の上の指を折らずに聞いていた。
板戸の内側で聞いた時と一つも違わない。
五百枚も、春も、離れの部屋も、女が一人というところまで同じだ。
増えていない。
減ってもいない。
父が言っていた。
行かんと言えば向こうは足してくる、行くと言えばどこかを引く、言わなければ足すことも引くこともできん。
父は言わなかった。
だから何も動いていない。
「なぜ同じ話をもう一度する」
「前と違うことを申し上げますと、どちらが本当か分からなくなりますので」
男は膝の上で手を組んでいる。
組んだ指は最初から一度も動いていない。
「一つだけ、伺ってもよろしいですか」
「なんだ」
男の顔がこちらへ向いた。
初めて正面から見た。
膝の上で組んだ手の甲に乾いたインクの染みが二つある。
どちらも指の付け根に近いところにあって、洗って落ちる色ではない。
刈り入れのあと、狭い通りですれ違った時に鼻の先を通っていった匂いはここから出ていたのだと分かった。
「塔へはまだ通っておいでですか」
父の指が卓の上で一度止まった。
聞かれたことだけ答えろ、と言われている。
「はい」
「よいことでございます」
男は頷いた。
「字は、どこで覚えても字でございますから」
アシュは膝の上の手を握った。
答えたのは一言だ。
その一言で、まだ塔へ通っているということがあの人の手に入った。
母が言っていた。あの人は帳面を持ち歩いている。
あたし、何も聞かれてないのに家のことを話してた、と母が父に言っていたのを板戸の向こうで聞いたことがある。
今のは聞かれた。
聞かれて、はい、と答えただけだ。
聞かれても聞かれなくても、渡ったものは変わらない。
男は外套の内側から紙を一枚出した。
卓には置かない。
指の間に持ったまま、書いてある面を父の側へ向けた。
「覚え書きでございます。先だって申し上げたことを、そのまま書き取ってございます」
父は手を出さなかった。
「受け取らん」
「けっこうでございます」
男は紙を外套へ戻した。
「なら何のために出した」
「お目に入れておくためでございます。書いた物があるとご存じでいらっしゃるのと、そうでないのとでは、この先の話が変わりますので」
「写しはどこだ」
「館にお預けしてございます」
父の顔は動かない。
「私は、書いた物は書いた日に写しを一枚お預けすることにしております。荷車の車軸の時も、そのようにいたしました」
荷車の話は町の誰でも知っている。
あの時の紙は二枚。
揉めた二人が一枚ずつ持って、三枚目は書いた本人が覚えている、と父は言った。
町はそれをよくやってくれたと言った。
今の言い方だと、あの時も館にもう一枚あったことになる。
「あんたはいつまでこの町にいる」
「雪の前には出ます」
「出たあとは」
「春に戻ります」
「戻らんかったら」
男は笑ったままだった。
「戻れないこともございます。峠は毎年、誰かを通しません」
「じゃあこの話は流れるな」
「流れません」
父は返さない。
卓の上には紙も椀も何もない。
「私が消えても、この話は消えません」
男は言った。
「私は運ぶ者でございます。運ぶ者が倒れれば荷は別の者が運びます。荷の中身は変わりません」
アシュは自分の膝を見た。
消えても、と男は言った。
死んでも、とは言っていない。
町を出ても、とも言っていない。
どちらであっても同じ返事になる言い方を選んでいる。
「返事はまだしない」
父が言った。
「けっこうでございます」
「雪までだと言ったな」
「申しました」
「雪が来たらどうする」
「雪は毎年やみます」
男が立ち上がった。
腰掛けは動いていない。
引く時も音がしなかったし、立つ時も音がしない。
床に脚の跡が残るほどの重さが初めからかかっていない。
戸口で外套を直して、男はこちらへ体を向けた。
それから頭を下げた。
「失礼いたしました」
名前は最後まで出てこなかった。
――――――――――――――――――――
男は通りへ出て、そのまま歩いていった。
角で止まらない。
振り返らない。
三つも二つも数えない。
いつだったか、この人はうちの通りの角で三つ数えた。
今日は何も数えなかった。
数える物が残っていないからだ。
父が戸を閉めて閂を落とした。
母が卓を拭いた。
何も載っていない卓を端から端まで拭いた。
拭き終わってから同じところをもう一度拭いた。
「父さん」
「なんだ」
「僕が答えたのは一言です」
「そうだ」
「はい、しか言っていません。それでも、僕がまだ塔へ通ってることをあの人は持って帰りました」
「持って帰った」
父は閂に手をかけたままだった。
「あの男は、荷を運ぶのが仕事だと自分で言ったな」
「はい」
「今日の荷は、それだ」
「じゃあ、どうして座らせたんですか」
父はしばらく答えなかった。
「お前のおらん場所でお前のことが決まるのが、俺は嫌だ」
「聞いても僕は何も決められません」
「決めなくていい。聞いてろ」
父は閂から手を離した。
「決めるのは俺がやる」
母が布を竈の脇へ掛けた。
掛けてからこちらを見て何か言おうとして、やめた。
やめたのが分かる顔だった。
「父さん」
「なんだ」
「兄さんがいない日でした」
父がこちらを見た。
暗くはないのに、目のあたりだけ影になっている。
「そうだな」
それだけだった。
土間の隅まで届いていた明るさが、今は敷居の内側で止まっている。
戸が開いた。
「重てえ」
兄が薪を抱えて入ってくる。
外の冷たさが、薪の匂いと一緒に土間へ入ってきた。
兄は卓の横を通って、竈の脇へ薪を下ろした。
卓の上には何も載っていない。




