第十八話
庭で音がしていた。
風ではない。
風なら板戸が鳴る。
これは土の音だ。
アシュは掛け布から出て、寝間の戸を細く開けた。
外はまだ暗い。
空の低いところだけが、灰を薄く溶いたような色になっている。
父が庭にいた。
布に巻かれていたはずの剣が、今朝は巻かれていない。
振り下ろすたびに足の裏の下で土が短く鳴る。
鳴り方は毎回同じだった。
縁側まで出ると父はこちらを見ずに言った。
「起きたか」
「はい」
「寒い」
「はい」
それだけで父はまた振った。
昨日の夜、思ったことはあとで聞く、と言われた。
あとで、がいつなのかは聞いていない。
聞かなくても分かる。
今がそれだ。
アシュは縁側に座った。
板が冷たい。
足の裏を浮かせて、膝を抱えた。
父は振り続けている。
止めて聞く気はないらしい。
止めない方が話しやすいだろうと思っている顔だった。
「六つ、穴がありました」
剣の音が一つ入る。
「言え」
「支度金がいつ払われるか言ってません。春に出すって話だけがあります」
「うん」
「ずっとって言葉が、いつまでなのか決まってません」
「うん」
「家名は受けてから教えると言いました。受ける前には分かりません」
「うん」
「世話の女の人は向こうが選びます」
「うん」
「春まで断り続けないといけません。断り続けるあいだ、あの人はこの町にいます」
父の手が一度だけ遅れた。
遅れてからまた同じ速さに戻った。
「六つ目は」
アシュは膝を抱えた腕に力を入れた。
「歩かないっていう選び方に、一度も触れてません」
「歩かない」
「行かない、じゃなくて。あの話のどこにも、あの子は動かない、っていう案が入ってません。動かす話しか入ってません」
父は剣を下ろした。
石突が土に触れて、短い音が鳴る。
「よく気づいたな」
「気づいてません」
自分の声が思ったより低く出た。
「気づいたんじゃなくて、探しました」
父が振り返る。
暗いので目までは見えない。
見えないから言えた。
「六つも探したのは、六つとも塞がってたら行っていいと思ってるからです」
言ってしまってから膝の上の指が冷たいことに気づいた。
「欲しくないと思ったことは、一度もありません」
庭の土が鳴らない時間が続いた。
父が縁側の前まで来る。
剣を土に立てて、その上に両手を置いた。
「手を出せ」
アシュは手を出した。
父が自分の剣の柄から手を離して、掛け棒の木剣を取ってくる。
昨日と同じ場所に掛かっていたやつだ。
それを、そのままアシュの手に握らせた。
「重いか」
「重いです」
「持っていたいか」
「……はい」
「それが欲だ」
父は木剣を取り上げなかった。
握らせたまま言った。
「悪いもんじゃない。持ってたいと思うから人は毎朝振る」
剣の重さが手首の下に落ちてくる。
朝の稽古の始まりと同じ重さだ。
同じ重さなのに、今朝は稽古の話をしていない。
「困るのは、欲しい物が二つある時だ」
「二つ」
「剣と、字だ」
息が止まった。
自分でも並べたことのない二つを、父が並べて言った。
並べられて初めて、それが二つだったと分かる。
「あの男は、字の話しかしなかった」
「はい」
「お前が剣を振ることには一度も触れなかった」
言われて初めて気がついた。
離れの部屋の話があった。
世話の女の人の話も、読み書きの話も、支度金の話もあった。
剣の話だけがない。
「兄さんのことは言いました。剣をお続けになるんでしょう、って」
「そうだ。上の子には言って、お前には言わなかった」
父は木剣の先で土を一度だけ突いた。
「触れなかったのは、忘れたからじゃない」
「じゃあ何ですか」
「もう決めてあるからだ」
アシュは息を詰めた。
昨日、板戸の内側で聞いた。
私が扱っているのは順番でございます、とあの人は言った。
言い方は柔らかくて、言っている中身は柔らかくなかった。
「聞きました。順番を扱うって」
「あれが本当のことだ。あの男は嘘をつかん」
声は大きくならなかった。
「あっちへ行けば字が先だ。剣は後になる。後にすると決めたのは向こうで、こっちはまだ何も言っていない」
「言ってないのに、決まってるんですか」
「言われた話は断れる。言われなかった話は断りようがない」
父は木剣を軽く叩いて、それから手を離した。
「今日は塔か」
「はい。行けと言われました」
「行け」
父が自分の剣を担ぎ直す。
空の低いところが、灰から薄い青に変わり始めていた。
「父さん」
「なんだ」
「昨日、聞くって言ったから話しました」
「そうだ」
「怒らないんですか」
父は少し笑ったようだった。
暗くて顔は見えない。
声だけで分かる。
「欲しがらん子どもがいたら、そっちの方が心配だ」
庭の隅で、竈の煙が上がり始めた。
母が起きたのだ。
――――――――――――――――――――
朝の稽古のあと、母に壺を持たされた。
「これ、見てもらっておいで」
台所の隅に置いてある保温壺だ。
小ぶりで腹のところに細いひびが入っている。
ひびは昔からあった。
問題はそこではなく、中の湯が朝までもたなくなったことらしい。
「見てもらうだけ?」
「うん、見るだけ。値だけ聞いて帰ってきて」
母は前掛けの紐を結び直しながら言った。
「直すって言ったわけじゃないからね。聞くだけよ」
布に包んで抱えると思ったより重い。
十年以上使っていると母が言っていた。
嫁入りの時に持ってきた物だと聞いたこともある。
通りは冬支度が始まっていた。
薪を積んだ荷車が二台、朝のうちに通っていく。
どこの家も戸口の脇に薪を寄せ始めた。
ハンナの家の軒には干した根菜が縄に吊るしてある。
夏に見たときは同じ場所に葉物が下がっていた。
同じ縄に、季節ごとに別の物が下がる。
広場を横切るとき、井戸の向こうからガイが走ってきた。
「アシュ。今日は塔か」
「うん」
「昼から空いてねえの」
「たぶん夕方には帰る」
「じゃあ夕方な」
それだけ言って、ガイはもう半分向こうを向いていた。
いつもこうだ。
用件を言い終わる前に体が次へ行っている。
昨日うちに何があったかは、この友達は知らない。
外で言うな、ガイにもだ、と父が言った。
言うつもりもなかった。
それでも、言わないと決めたことがあると走っていく背中が少しだけ遠く見える。
魔道具屋は広場の東の縁にある。
店の戸口は狭くて、中は暗い。
暗いのに、棚の奥だけがぼんやり明るかった。
光の付与石をいくつか布に包んで積んであるからだ。
包んでいても漏れる。
店主は帳台の向こうで細い錐を使って何かの縁を削っていた。
ウルフ・キーンという。
六十を過ぎている。
背は高いのだと思う。
いつも帳台に前かがみになっているので、立ったところを見たことがない。
白髪を後ろで一つに結んで、結んだ先が肩まで垂れている。
痩せた手の、指の節のところだけが太い。
新しい魔道具を作れる者は町にいない、と父から聞いたことがある。
この店主にできるのは、減った式を足すのと、浅い刻みを入れ直すことまでだ。
それでも町で頼めるのはここだけになる。
「壺です」
アシュは包みを台に載せた。
ウルフは顔を上げない。
指だけがこちらへ伸びて、布の結び目を解いた。
解く手つきが速い。
壺を持ち上げて、下から見て、耳の近くで一度傾けた。
「十年もんだな」
「はい。母が嫁入りに持ってきた物だそうです」
「使い方は悪くない。中を洗いすぎてないのがいい」
褒められたのか判定されたのか分からないまま、アシュは黙っていた。
「式が減ってる。刻み直せば戻る」
「いくらですか」
「銀で三枚」
高い、と口に出さずに済んだのは、母に言われていたからだ。
聞くだけと決めておくと、値を聞いても顔に出さずに済む。
「持ち帰って相談します」
「そうしろ」
ウルフは壺を布に戻した。
戻す手つきも速い。
戸口へ向かいかけたとき、店主が錐を置いた。
「先だっての商人な」
足が止まった。
「うちにも来た」
「……何か買いましたか」
「見ただけだ。何も買わん」
棚の奥で、包まれた石がぼんやり光っている。
「一刻いた。棚を一つずつ見て、値も全部聞いた。それで何も買わずに出ていった」
ウルフは新しい錐を選びながら続けた。
「物を買わん客は、物を見に来たんじゃない」
「じゃあ、何を」
「知らん。俺は物しか見ん」
棚の石はまだ光っている。
布に包まれたまま、誰にも買われずに光っている。
それきり店主は手元に戻った。
こちらを見送りもしない。
外へ出ると朝より風が冷たくなっていた。
町じゅうがあの人の話をしている。
いい人だ、助かった、ヤンの先を決めてくれた。
その話をしない大人が、この町に二人いる。
一人は青菜を売っている。
もう一人は物しか見ない。
――――――――――――――――――――
坂は一昨日より乾いていた。
昨日は上らなかった。
毎日上っている道を一日上らないと、上る日の一歩目が少しだけ長くなる。
塔の扉は開いていた。
「来たか」
「はい」
ゼドルは床に椀を並べ終えたところだった。
その上に筵がかけてある。
いくつあるかは見えない。
「昨日、家におったか」
「いました」
「そうか」
それ以上は聞かれなかった。
聞かないと決めている人の黙り方だった。
昨日、何があったのかも、誰が来たのかも、老人は一つも聞かない。
「張れ。止めと言うまでだ」
アシュは筵の端に手をかけて、詠唱に入った。
「ヴァッサークア、グラシア――フロスタ・ヴァトゥン・ヘンドル」
一つめ。
水面の端を細く回してから内側へ倒す。
厚みは指の腹で押した時に少し沈むくらい。
二つめも同じ厚さにする。
同じだけ送っていては同じ厚さにならない。
椀の大きさも、残っている水の量も一つずつ違う。
厚さを揃えたければ、送る量の方を毎回変えることになる。
三つめでいつもなら終いが見え始める。
今日は見えない。
見えないまま四つめへ手を移した。
五つめ。
六つめの手前で、指の先が急いだのが自分で分かった。
「止め」
筵をめくる。
椀は七つあった。
膜が張れていたのは五つ。
六つめは端だけ白い。
「六つめで急いだな」
「はい」
「なぜだ」
「六つで終わりだと思いました」
「一昨日が六つだったからか」
答えられなかった。
一昨日は六つ。
その前は八つ。
覚えないでおこうと決めた数を、指はまだ覚えている。
「見えん時に何ができる」
ゼドルは椀を集めながら言った。
アシュは自分の手を見た。
六つめで急いだ。
急いだのは、終いが近いと思ったからだ。
思ったのは、数を当てにしたからだ。
「同じ厚さで置き続けます」
「それだけか」
「それだけです。何個あっても、置く厚さは変わらないので」
ゼドルは椀を積む手を止めた。
「明日は九つにする」
「増やすんですか」
「増やす」
増やされたところでやることは変わらない。
同じ厚さで置き続けるだけだ。
そう思ってからそれが答えなのだと気づいた。
数を増やされて困るのは、数を当てにしている時だけだ。
当てにしていなければ七つでも九つでも手の動きは一つで済む。
老人は増やすと言った。
増やすと言われて困らなくなったかどうかを、明日その手で確かめる。
――――――――――――――――――――
帰り支度をしていると扉の外の風が細く鳴った。
アシュは筵を畳んで棚の下に押し込んだ。
押し込んでから立ったまま言った。
「一つ、話しておきたいことがあります」
「言え」
「ヤンという子が都へ行きました」
老人は棚の石板を並べ直している。
背中を向けたままだった。
「誰だ」
「広場の井戸で水を汲んでいた子です。十二です。字が読めません」
「それで」
「都の織物問屋に奉公が決まりました。読み書きから教わるそうです」
「ほう」
石板の音が一度止まった。
「それを儂に言ってどうする」
アシュは息を吸った。
「頼まれました」
「誰に」
「その子にです。出ていく朝に、塔の爺さんに話しといてくれ、って。俺も都で字を覚えるからって」
ゼドルは振り返らない。
「会ったこともない年寄りにか」
「はい」
「なぜ儂なんだ」
「僕が字を習っていると知っていたので。教えている人がいるということも」
棚の前で、老人の手が石板を一枚だけ持ち上げた。
持ち上げて、また同じ場所に戻す。
「名前は」
「ヤンです」
「もう一度言え」
「ヤン」
石板が棚に収まる音がした。
「覚えた」
それだけだった。
感想も、意見もない。
都のことも、奉公のことも、老人は何も言わなかった。
ただ、覚えた、と言った。
アシュは扉のところで一度振り返った。
ゼドルは石板の列を指で押して、端を揃えているところだった。
この町で、あの子の名前を覚えている人が一人増えた。
会ったこともない相手の名前を、この人は一度で覚えた。
――――――――――――――――――――
坂の下に兄が立っていた。
日はまだ屋根より高い。
昼を過ぎたばかりの明るさで兄の影が短く落ちている。
「早かったな」
「うん」
「何かあったか」
「ううん」
あったことは全部、話す必要のないことだった。
兄は布の包みを見た。
「それ何だ」
「壺。母さんに見てもらってこいって言われた」
「直るのか」
「直る。銀で三枚」
「高えな」
「うん」
兄は包みを見たまま、少し歩いてから言った。
「持って帰るのかよ」
「持って帰る」
「使えんのか、それ」
「使える。朝までもたないだけ」
「もたねえなら壊れてるだろ」
「壊れてない。減ってるだけだって」
兄は少し考えてから包みの方へ手を出した。
「貸せ」
「重くないよ」
「行きより重いって顔してる」
言い当てられて、渡した。
直さない物を持って帰るのは変かもしれない。
でも預けてこいとは言われていない。
聞くだけ、と母は言った。
坂を下りる。
兄が半歩だけ先を行く。
こっちの手は空になった。
空になっても、まだ重い。




