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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
客人は笑う

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第十七話

 板戸を閉めたあとも兄はしばらく戸の前から動かなかった。


 昼過ぎの光が戸の隙間から細く入っている。

 その線が兄の腕の上を横切っていた。


「行ったな」


「うん」


 兄は膝を崩して座り直した。

 木剣は膝の横に置いたままだ。

 さっき床を突いた時のまま、石突(いしづき)の先に土がついている。


「お前、聞こえたか」


「聞こえた」


「全部か」


「全部」


 兄は少し黙った。


「俺は半分だ」


 奥の部屋のどこにいたかで聞こえる量が違う。

 兄は戸のいちばん近くにいた。

 いたのに聞こえていない。


 聞こえていないのは聞き取ろうとして構えていたからだと思う。

 構えると音は近くの音だけになる。


「いくらって言ってた」


 声が急に低くなった。


「金貨で五百枚」


 兄の喉が一度動いた。


「五百」


「うん」


「……それ、どんくらいだ」


「分からない」


 本当に分からなかった。

 銅貨なら分かる。

 パンが二枚で、青菜の束がいくつで、というところまでは体で知っている。


 金貨は見たことがない。

 見たことのない物の五百枚は、大きいという以外に形がない。


 ただ、あの数を聞いたあとで父が黙ったのは分かった。

 板戸の向こうで椀の音がしなくなった。


 あの人は数を言って、それきり何も足さなかった。

 足さなかったのは、足す必要がなかったからだ。


「なんか言ってたのは分かる」


 兄は自分の耳の後ろを掻いた。


「声、ずっと同じだった」


 兄が言っているのは声の大きさのことだ。


 人は話が進むと声が変わる。

 大事なところで低くなるか、大きくなるか、どちらかになる。

 あの人はどちらもしなかった。


「俺の話は出たか」


 兄が聞いた。

 聞き方が、さっきまでと違って早口だった。


「出た」


「なんて」


 アシュは少し迷った。


 迷ったのは、伝えるかどうかではない。

 どう伝えてもこの兄の顔が変わるのが先に見えたからだ。


「剣を続けるんでしょう、って」


「それだけか」


「立派なことだって。父親と同じ道を選べる子は多くないって」


 兄は何も言わなかった。


 褒められている。

 褒められているのに、兄の口の端が下がっていく。


「褒めるとこじゃねえだろ、そこ」


 言い方が低い。


「あいつ、俺のこと勘定に入れてねえんだよ」


 その通りだった。


 入れていない相手のことを、わざわざ褒める。

 褒めておけば、外したのが外したようには聞こえない。


 それを兄は、聞いた瞬間に体で分かった。

 アシュは板戸の内側で三十も数えてから分かった。


「あれ、気味わりいな」


「うん」


「怒鳴られる方がまだましだ」


 兄は膝の上で拳を握って、開いた。


「怒鳴る奴は、こっちが何言ったら怒るか分かるだろ。あれは分かんねえ」


「うん」


「顔は見てねえけどな。俺、あいつ嫌いだわ」


 兄は顔を見ていない。

 広場で遠くから一度見ただけで、今日は板戸の内側にいた。


 それでも決めている。


――――――――――――――――――――


 夕方になってから父が奥の戸を開けた。


 開けて、すぐには何も言わなかった。

 アシュを見て、それから兄を見て、また戻ってきた。


「アシュ」


「はい」


「聞こえたな」


 言い方が、聞く言い方ではなかった。


「聞こえました」


「どこまでだ」


「全部」


「そうか」


 父は怒らなかった。

 叱られると思って身構えていたぶん、体の力の抜き方が分からなくなった。


「戸は閉めろと言った」


「閉めました」


「開いてたぞ」


「……開けてません」


 本当だ。

 閉めて、そのまま座っていた。

 途中で開いたのを、開いたと気づいた時にはもう聞こえていた。


 父は板戸の縁を指で弾いた。

 乾いた音がして、戸が少し動いた。


「戸が歪んでる」


 叱る言葉に言い換えるつもりはないらしい。


「直しとく」


 それだけ言って、父は戸を閉めて手を離した。


「今日聞いた話は、外で言うな」


「はい」


「ガイにもだ」


 名前が出たので、少し驚いた。


「ガイは言わないと思います」


「あいつが言うかどうかの話じゃない。聞いた者が増えれば、そのうち誰かが家で親に言う。親は井戸端で言う」


 父は言い切ってから、少しだけ言い足した。


「あの子には、あの子の家の事情がある」


 その言い方で、フェイのことを言っているのだと分かった。


「思ったことは、あとで聞く」


「今じゃなくていいんですか」


「今すぐ出るのは、腹が立ってるだけの答えだ」


 母が台所から顔を出した。


「あんた。この子に考えさせるの」


「考えるなとは言わん」


「まだ七つよ」


「七つでも、話は聞いた」


 父はそこで一度こちらを見た。


「聞いた者には聞いた分の考えがある。黙らせても消えん。一人で決めるようになるだけだ」


 母は何か言いかけて、鍋の方へ戻っていった。

 戻る前に、こちらの頭に手を伸ばして、届く前にやめた。


――――――――――――――――――――


 外はまだ明るいのに、家の中だけ先に夕方になったようだった。


 母はいつの間にか、腰掛けを二つとも壁の際まで寄せていた。

 片方だけ元の場所に戻っている。

 男が座っていた方は、そのまま壁につけてある。


 誰もそれを指摘しない。


 夕食は、いつもより早く並んだ。


 母が早く動いたからだ。

 この人は困ると手が速くなる。

 速くなった手のわりに、椀を置く音は静かだった。


 卓に五つ。

 誰も座る順番を間違えない。


 母が座って、それから思い出したように言った。


「お店にいた頃ね」


「ああ」


「あたしの名前を呼ばないお客さんっていたのよ」


「なんだそれ」


 兄が顔を上げた。


「ねえ、とか、そこの、とか言うの。何度来てもそう」


 母は椀のふちを指で拭いた。


「そういう人はね、頼むものが座る前から決まってるの。運んでくるのがあたしでも誰でも、同じなのよ」


「あいつ、母さんの名前は呼ぶだろ」


「呼ぶわよ。市場で会ったら、ミラさん、って」


 母はそこで手を止めた。


「呼ばなかったのは、あの子のだけ」


 父が椀を置いた。


「気づいてたか」


「ずっと見てたもの。手も、口も」


 母は店で育った人だ。

 勘定の合わない客のことは卓の向こう側から何年も見てきている。


 その目で今日、あの人を一日見ていた。


 見ていた人がいちばん先に、名前の話を持ち出した。


 本題を先に口にしたのは兄だった。


「行かねえよな」


 誰に聞いたのかが分からない言い方だった。

 父は椀を持ったまま何も返さない。


「ガルド」


「今日は決めん」


「なんでだよ」


「今日聞いた話が、明日も同じ話とはかぎらん」


「同じだろ。あいつがああ言ったんだろ」


「あの男は数を一つ置いて、それきり何も足さなかった」


 父は椀を置いた。


「足さなかったのは、足せるからだ」


 兄の口が止まった。


「こっちが行かんと言えば、向こうは足してくる。行くと言えば、どこかを引く」


「足すって何をだよ」


 兄が箸を置いた。


「たとえばの話だ」


 父は椀のふちに指をかけた。


「うちが要らんと言ったとする。次に来た時、五百が六百になってる」


 兄の肩が卓の方へ出た。


 六百がどれくらいかは見当がつかない。

 五百に見当がつかないのだから当たり前だ。

 それでも、六百は五百より多い。


「じゃあ、行くって言ったら」


「離れに部屋を用意すると言った。屋敷の外に別に建ってる方だ。行くと決めたあとになって、こう言われてみろ」


 父は椀のふちから指を離した。


「離れは普請(ふしん)中でございます。しばらくは母屋の隅の部屋で」


 父があの人の喋り方を真似た。

 似ていない。似ていないのに、誰の言い方かはすぐ分かった。


「しばらくがいつまでかは言わん」


「それ、嘘じゃねえのかよ」


「嘘は一つもない」


 父が兄の方を向く。


「部屋を用意すると言った。用意はする。いつから使えるとは言っていない」


「……それ、減ってんじゃねえか」


「減る。それでも向こうは何一つ破っていない」


 兄の手が卓の縁にかかる。


「文句言えばいいだろ」


「どこにもつけられん。向こうは言ったことを全部やってる。それを言われるのはこっちが行くと決めたあとだ」


 父は箸へ手を伸ばして、途中で止めた。


「決めたあとで断れるか」


 兄が箸の先で卓を一度叩いた。


「そんなの後から言われて分かるかよ」


「分からんように引く。足す時は分かるようにやる」


 母は椀に口をつけないまま聞いている。


「じゃあ、どうすんだよ」


「言わん」


 父は箸を取った。


「言わなければ、向こうは足すことも引くこともできん」


 兄は黙った。

 納得したというより、返す手がなくなった顔だった。


 アシュはその横で、今日の昼過ぎをもう一度たどっていた。


 父は最後まで返事をしなかった。

 しなかったのではなく、しないと決めていた。

 板戸の内側にいたあいだ、アシュはそれを我慢だと思っていた。


 あれが父の一手だった。


 母が漬け物の皿を回してから小さい声で言った。


「字を、習えるって言ってたわね」


 誰も返さなかった。


「読めるようになったら遠くにいても手紙が来るじゃない」


 言ってからこの人は自分で止まった。


 匙を持った手が卓の上で少し浮いて、それから下りた。

 下りたところが、置くつもりだった場所より手前だった。


「……なんでもない。今のは、なし」


 母は笑おうとして、うまくいかなかった。


 アシュはその顔を見ないようにした。

 見ないようにしたのは、見たら覚えてしまうからだ。


 遠くにいても、と母は言った。

 遠くにいる前提の話を、この人はもう一度した。

 しかも、いい方の話として。


「母さんは行かせたいのかよ」


 兄が言った。

 声が硬い。


「そんなこと言ってないでしょ」


「言ったよ」


「レイン」


 父の声は大きくならなかった。


「母さんに当たるな。当たる相手はここにいない」


 兄は箸を置いて、それから拾って、また置いた。


「じゃあ、誰に当たればいいんだよ」


 父は答えなかった。

 答えない代わりに自分の椀の飯を半分兄の椀に移した。


「食え。腹が減ってると余計に腹が立つ」


「腹は減ってねえ」


「なら残せ」


 兄は残さなかった。


 そこでリアが顔を上げた。


「あしゅ」


 誰も何も言っていない時に、妹だけが名前を呼んだ。


 アシュは自分の椀のパンを半分ちぎって、リアの椀のへりに置いた。

 いつもの順番と逆だ。


 リアはそれを両手で掴んだ。


 卓の音がひとつ増えた。

 増えただけでさっきまでの硬さが少し落ちた。


 あの人は昼過ぎのあいだ、一度もアシュの名前を呼ばなかった。

 二歳の妹は、呼ぶ理由がなくても呼ぶ。


――――――――――――――――――――


 片づけが終わってからアシュは寝床に座って今日の話を並べ直した。


 前世で、契約の紙を読む仕事の人が近くにいた。

 その人はいつも同じことを言っていた。

 紙は、書いてあるところより書いていないところを読む。


 その人は紙を一枚読むのに半日かけた。

 半日かけて、直してほしいところを三つだけ言った。

 三つより多く言うと相手は一つも直さないからだと聞いた。


 だから穴を探した。


 一つめ。

 支度金を、いつ渡すとは言っていない。

 先に渡すのか、都へ着いてから渡すのか。

 先でないなら渡す前に何かが起きたら渡さないで済む。


 二つめ。

 家族の暮らしはこの先ずっと途切れないようにする、と言った。

 その「ずっと」がいつまでかを言っていない。

 父が生きているあいだか、アシュが生きているあいだか、あの人が生きているあいだか。


 三つめ。

 後見の家の名は、受けてから言う。

 断れば名前は最後まで出ない。

 断ったうちの手元には、誰の家の話だったのかさえ残らない。

 受けた家にだけ、名前が明かされる。


 四つめ。

 世話をする者を、こちらでつけますと言った。

 その「こちら」に、この家は入っていない。


 五つめ。

 春に出す、と言った。

 雪が明けるまでは何も起きない。

 起きないあいだ、こちらは断り続けなければならない。

 断り続けるのは、断るより疲れる。


 六つめ。

 道を敷くだけだ、と言った。

 敷いた道は歩く方の物だ、とも言った。

 歩かないという選び方について、あの人は一度も触れていない。


 穴は六つ出た。


 出たところでアシュは手を止めた。


 止めたのは、七つめが浮かばなかったからではない。


 いま数えたものは全部「行った場合に困ること」だった。

 行かない場合に困ることは、一つも数えていない。


 行かないと決めている人間は、穴を探さない。

 断る理由が一つあれば足りるからだ。


 六つも探したのは、六つとも塞がっていたら行っていいと思っているからだ。


 息を吐いた。


 都には字を教える場所がある。

 数を教える場所もある。

 魔法の学びに進む道がある、とあの人は言った。


 ここには塔が一つあって、老人が一人いる。

 その人は四日前、教えられるのは形だけだと言った。


 欲しくないと思ったことは、一度もない。


 思ったことを口に出さなかっただけだ。

 出さなければ無いのと同じだと思っていた。

 今日、それが違うと分かった。


 母は、頼むものが座る前から決まっている客の話をした。


 同じことを前にも聞いた。


 俺たちは注文の品を届ける。それだけの仕事だ。


 去年の夏、アシュを攫った男たちを率いていたヴェルクが、納屋の暗がりでそう言った。

 届け先で何をされるかは知らん、とも言った。

 あの男たちも、アシュの顔を見る前に運ぶ物が決まっていた。


 母はあの晩の言葉を知らない。

 知らないまま、母も同じことに気づいている。


 アシュが何を欲しがっているかは、向こうには関係がない。

 関係がないのに、向こうが差し出した物の中に、アシュの欲しい物が全部入っている。


 偶然ではない。

 アシュが何を欲しがるかを先に調べてから、並べたのだと思う。


 誰が調べたのかを、アシュはまだ知らない。


 塔で字を習っていることを、町の何人が知っているだろう。

 ゼドル。ヤン。ガイ。兄。母。父。

 そこで手が止まった。

 数えても仕方がない。見送りの朝、ヤンに名前の紙を渡すところを、あの人は輪のいちばん外から見ていた。


 アシュが数え始めるより先に、あの人は数え終わっている。


――――――――――――――――――――


 寝る前に、兄が寝床の縁に座った。


 何か言いに来た顔ではない。

 言うことが決まっていない時、この人はとりあえず近くに来る。


「お前」


「うん」


「どう思ってんだよ」


 アシュはすぐに答えなかった。


 答えられなかった、と言う方が近い。


「行きたくないよ」


 言ってから自分の声が一拍遅れて耳に戻ってきた。


 嘘ではない。

 嘘ではないが、聞かれたことへの答えでもない。

 兄は「行きたいか」と聞いたのではなく、「どう思っているか」と聞いた。


「ならいい」


 兄はそれで立ち上がった。

 立ち上がってから一度だけ振り返った。


「お前、返事が早い時は本当のこと言ってる」


 今のは早かっただろうか。


「今のは遅かったな」


 兄は自分の寝床へ行った。


 この人は理由を言わない。

 言わないのに、当てるところだけは毎回当てる。


 兄の寝息が聞こえるまでにそう時間はかからなかった。


 怒っている人の方が先に眠る。

 怒りは体を使うからだ。


 アシュは体を使っていない。

 今日は一日、奥の部屋で座っていただけだ。


 座っていただけでいちばん疲れている。


――――――――――――――――――――


 灯りを落とす前に、居間へ出て壁を見た。


 掛け棒に二本かかっている。

 兄から受け継いだ木剣と、フェイから借りた鉄剣。


 父の剣は今朝から壁にない。

 布に巻かれて、奥の寝床の脇に寝かせてある。


 隠す物と、隠さない物を、父は朝のうちに分けていた。


 分けた側に、アシュの二本が残っている。


 あの人に見せてもいい物として、そこに掛かっていた。

 あるいは、見せなければならない物として。


 どちらなのかは聞いていない。

 聞けば父は答えるだろうが、答えを聞いたところで掛け棒の位置は変わらない。


 灯りを消した。


 暗くなってからも掛け棒のあたりだけは形が分かる。

 二本ぶんの、細くて長い影。


 二本ともアシュが誰かの手から受け取った物だ。

 自分で買った物は一つもない。


 受け取った物を掛けておく場所を、この家は作ってくれた。

 都の離れの部屋に掛け棒はあるだろうか。


 考えて、やめた。


 考えた時点で、もう半分だけ間違えている。


 布に巻かれた方は、ここからは見えなかった。


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