第十六話
朝のうちにガルドは家の中の物を三つ見て回った。
一つは自分の剣だ。
壁の掛け棒から外して布に巻き、奥の寝床の脇へ寝かせた。
置いておけば目に入る。
目に入ればこの家は剣で食っている家だと向こうが数える。
数えられて得になったことが、この稼業で一度もない。
二つめは棚の飴の包みだった。
いつだったか隣のハンナ経由で届いた物がまだ残っている。
これは竈の焚きつけと一緒に外へ出した。
三つめは下の子の二本だ。
上の息子から受け継いだ木剣と、フェイから借りた鉄剣。
掛け棒に並べて掛けてあるのを、ガルドはしばらく見ていた。
これは動かさなかった。
「動かさないの」
ミラが後ろから言った。
「動かさん」
「あんたの剣は片づけたのに」
「あれは俺の商売道具だ。これは違う」
ミラは何か言いかけて、卓を拭く手に戻った。
拭き終わってから同じところをもう一度拭いた。
昼までに家はきれいになった。
なりすぎている、とガルドは思った。
散らかったままの土間へ客を上げるわけにもいかん。
かといって朝から拭き上げた床を見れば、待っていたことは向こうに分かる。
どちらにしても向こうは何か読む。
読ませる中身が変わらんのなら、女房のやりたいようにやらせればいい。
子どもの居場所だけは自分で決めた。
「アシュ。奥にいろ」
「はい」
「戸は閉めろ。開けるな」
「はい」
返事が早い。
この子はこういう時に理由を聞かない。
聞かないからこちらが言う言葉を探さなくて済む。
済んでしまうのがよくない、といつも後から思う。
「レインも奥だ」
「なんで俺まで」
「二人でいろ」
「俺は十二だぞ」
「知ってる」
上の息子は口を開けて、閉じた。
閉じてから木剣を持って奥へ行った。
持っていくな、とは言わなかった。
リアはミラが背負った。
背負ったまま茶の支度をするつもりらしい。
降ろせと言おうとして、やめた。
この女房は手が空くと余計なことを考える。
昨日のうちに詰所へ寄ろうかと二度思った。
二度とも行かなかった。
昨日の昼、市場でディルクとすれ違った。
ガレアの副長は会釈だけして通り過ぎた。
あの男は用のない相手には何も聞かない。
聞かない男とすれ違ったのに、こちらが足を止めかけた。
フェイに言えばフェイは来る。
団の長が家の前に立てば通りの誰かが必ず見る。
見た者は、ヴァルドの家に何かあると数える。
まだ何も起きていない。
何も起きていないうちに団長を呼べば、こっちが怖がっていると向こうは読む。
怖がっている家への入り方なら、あの商人は別にいくらでも持っている。
「あんた」
ミラが手を止めずに言った。
「あたし、いていい?」
「いろ」
「何か聞かれたら」
「答えなくていい。俺が答える」
ミラはそれきり何も聞かなかった。
前掛けの紐を結び直したのは、朝から三度目だ。
――――――――――――――――――――
昼前に、見回りが二人、通りをゆっくり通っていった。
いつもより歩くのが遅い。
誰の指図かは分かる。
分かるが、こちらから手を振る筋合いはない。
井戸のあたりにハンナが立っていた。
水を汲みに来た形をしているが、桶が空のままだ。
この通りは今日、いつもより人が多い。
昼を回って少ししてから通りに足音がした。
まっすぐ来る足音だ。
途中で速さが変わらない。
家の前で止まって、それから戸が叩かれた。
二度。
ガルドは自分で開けた。
「ヴァルドさん。お約束の刻に伺いました」
男は笑っていた。
いつ笑ったのかは分からない。
戸が開いた時にはもう笑っている。
「入れ」
「失礼いたします」
敷居のところで足を止めて、外套の裾の土を払ってから入ってきた。
払う仕草が短い。
土を落とすためではなく、落としたと分かるようにやっている。
男は勧められるまで座らなかった。
勧めてから座るまでも早くない。
腰掛けを引く時に音を立てない引き方をする。
「今日は何も持って参りませんでした」
男は膝の上で手を組んだ。
「物を持って伺う話ではございませんので」
ガルドは自分の椀に手をやって、そのまま置いた。
町へ来てからひと月半、この男は町のあちこちに物を置いてきた。
針も塩も飴も、置いた先で誰も断らない高さに揃えてあった。
その男が今日は空の手で来ている。
ミラが茶を出した。
男は両手で受けて、口をつけた。
置いた椀の中身は減っていない。
「ヤンさんは、今ごろ都に着かれた頃でございます」
男は言った。
「問屋の戸口までお届けするよう、手配は済ませてございます」
「そうか」
「ハンナさんにもお伝えしましたが、ヴァルドさんにもと思いまして」
ガルドは頷かなかった。
礼を言えばこの話は続く。
続けば続けた分だけ後の話がやりやすくなる。
「用件を聞こう」
男は椀を少しだけ卓の内側へ寄せた。
「下のご子息のことでございます」
ガルドは腰掛けの上で足の位置を変えなかった。
「下の」
「はい。今年七つにおなりの」
この家には子どもが三人いる。
上は十二で、真ん中は七つで、いちばん下はまだ言葉が半分だ。
男はその真ん中を、こちらが何も言わないうちに名指しした。
「上のご子息は、剣をお続けになるのでしょう」
男は続けた。
「それはそれで立派なことでございます。父親と同じ道を選べる子は多くございません」
二人いるうちの片方を、褒めながら外した。
外された方には用がない。
用のない方をわざわざ褒めるのは、用のある方の話を先へ進めるためだ。
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話は短くなかった。
短くないのに、途中で止めるところが一度もなかった。
都に、家名を貸してくださる家がある。
後見という形になる。
その家の名の下で下の子を都へ出し、読み書きから学ばせる。
いずれ魔法の学びに進む道も、その家の名があれば開く。
「学びの場には推薦が要ります」
男は指を一本立てるでもなく、ただ言った。
「腕があっても名がないと門が開かない。逆もございます。名があれば腕を見てもらう順番が回ってくる」
「順番か」
「はい。私が扱っているのは順番でございます」
「その家の名は」
「お受けいただいてから申し上げます」
男は詫びる顔をしなかった。
「先に名だけを申し上げると名の方が独り歩きをいたします。ヴァルドさんが受けるとお決めになる前に、町の誰かがその名を口にする。そうなると、いちばん困るのはこちらではございません」
筋は通っている。
通っているから聞き返す言葉が出てこない。
この男の言うことは町でもずっとそうだった。文句をつけられた者が一人もいない。
支度金の話はそのあとに出た。
「金貨で五百枚」
卓の上には何も置かれない。
紙も出てこない。
男は数を言っただけで、言ったあと何も足さなかった。
ガルドは指を動かさなかった。
動かせば数えていることになる。
護衛一日でいくらもらうかは体で知っている。
その一日を何日積めばこの数になるかも、数える前に見当がついた。
十八年やってきて手元に残った物より、たぶん多い。
剣を置いていい額だ。
「それと」
男は続けた。
「ご家族の暮らしは、この先ずっと途切れないようにいたします」
「暮らし」
「はい。ヴァルドさんが仕事をお選びになれるように、という意味でございます。断る仕事があってもよい、という形にいたします」
「どうやってだ」
「口の利き方は幾つもございます。金を毎年お届けする形もございますし、いい仕事がヴァルドさんのところへ先に回るようにする形もございます」
後の方は、もう始まっている。
この頃うちに来る話が増えた。
増えた理由を上の息子に聞かれて、ガルドは何も答えなかった。
答えなかったのではない。
答えを持っていなかった。
今、卓の向こうの男がその答えを口にした。
悪い話ではない。
そこが厄介だった。
あの子に剣は教えられる。
教えているし、これからも教える。
だが剣はあの子の物ではない。
庭で受けを十本通す背中を見ていれば分かる。
あれは覚えの早い子が丁寧にやっているだけで、体がそこへ行きたがってはいない。
行きたがっている方は、この家の中にない。
塔にある。
塔にはあの老人しかいない。
あの老人は年寄りだ。
町には字を教える場所がない。
数を教える場所もない。
うちの子が持っている物を伸ばせる場所が、この町のどこにもない。
それを一番よく知っているのは、この十八年でろくに字も覚えなかった自分だ。
ミラは一度も喋らなかった。
背中のリアが寝てしまってからも立ったまま男の手を見ている。
組んだ手の指が最初から一度も動いていない。
「買う話ではございません」
男は言った。
「お子さんはどこへも売られません。この家のお子さんのままです。私は道を一本、先に敷いておくだけでございます」
「敷いた道は、誰の物になる」
「歩く方の物でございます」
男はそこで聞かれてもいないことを一つ足した。
「お出しいただくのは春でよろしいかと存じます。雪の峠を子どもに越えさせるものではございません。都では後見の家の離れに部屋をご用意いたします。世話をする者は女を一人、こちらでつけます」
部屋がある。
世話をする者がいる。
まだ受けてもいない話の、部屋の場所と人数まで決まっている。
ガルドは茶に手をつけないまま聞いていた。
言い方に淀みがない。
淀みのない言い方を、ガルドは十八年のあいだに何度か聞いてきた。
嘘をついている人間の言い方ではない。
本当のことしか言わないと決めている人間の言い方だ。
――――――――――――――――――――
「なぜうちの子だ」
ガルドは聞いた。
「聡明なお子さんだと伺いました」
「町の子はみんな聡明だ」
「そうかもしれません」
男はそこで引かない。
引かないが、押しもしない。
押さない相手を押し返す手が、ガルドにはない。
言わずに済ませる道もあった。
言わなければこの話は聡明な子の話のまま終わる。
終わったところで明日また同じ形で戻ってくる。
だから自分から出した。
「目の色の話か」
その一言で、家の中の音が一段減った。
台所でミラの手が止まったのが、見なくても分かる。
奥で床が一度鳴った。
木剣の石突を突いた音だ。
上の息子は落ち着かない時に手が先に動く。
ガルドは咳を一つして、その音の上にかぶせた。
男は板戸の方を見なかった。
見なかったが、聞こえていないはずがない。
男は笑ったままだった。
笑ったまま、否定も肯定もしない。
「私は、目の色で人を選んだことはございません」
ガルドはその返事を頭の中でもう一度置き直した。
選んでいない、と言った。
珍しくない、とは言っていない。
知らない、とも言っていない。
この男は嘘をつかないのではない。
嘘をつかなくて済む言い方だけを選んでいる。
選んだのが自分でないなら、選んだ誰かがいる。
それに、この男はさっきから一度も名前を出していない。
下のご子息、お子さん、この家のお子さん。
名前で呼ばれない子どもの話を、こんなに長く聞いたのは初めてだ。
聞きたいことは十ばかり浮かんだ。
浮かんだうちの九つを、ガルドは飲んだ。
二つ目を聞いた時点で、こちらが何を気にしているかを向こうに知られる。
だから目の色のあとは一つだけ聞いた。
「あんたはこの話で何をもらう」
男は初めて少し黙った。
黙ったといっても一拍だ。
「私の取り分は、私に頼んだ方がお決めになります」
頼んだ方。
ガルドは口の中でその四文字を転がして、それきり飲み込んだ。
重ねて聞けば次はこちらが答える番になる。
答えは出ていた。
出ていたが、出ていると言えば話が終わる。
終わった話は、次に別の形で戻ってくる。
この男は町のどこでもそうしてきた。
断られた先へは、断られていない道から入り直している。
終わらせずに置いておく方がいい。
返事をしないかぎり、この男はうちに用を残したままになる。
用のある人間はまた来る。来れば、こっちも顔を見られる。
「返事はしない」
ガルドは言った。
「今日は返事をしないと決めてる」
「けっこうでございます」
男は椀を置いたまま立ち上がった。
茶は出された時と同じ高さのままだ。
「急ぐ話ではございません。私はこの町におります」
戸口で外套を直しながら、男は思い出したように付け足した。
「雪が来ると峠が閉まります。閉まる前に、もう一度だけ伺わせてください」
答えを急かす言葉は一つもなかった。
ないのに、返事をする日が決まった。
「ご家族に、よろしくお伝えください」
男は頭を下げた。
下げてから、体を戻す途中で一度だけ家の奥へ目をやった。
見たのは板戸ではない。
板戸までの床だ。
土間から居間へ上がって、そこから奥へ何歩あるか。
二歩か、三歩。
その目はすぐ戻って、また笑いに変わった。
うちの戸口の高さも、土間の広さも、あの目はもう持って帰っている。
持って帰った物を、この男は紙に書く。
男は出ていった。
通りへ出てから、家の方を一度も振り返らない。
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戸を閉めて、閂を落とした。
ミラが背中のリアを降ろして、寝床へ運んでいく。
運びながら、こちらを一度も見なかった。
戻ってきて、茶の椀を下げた。
中身を流しへ空ける時に手が止まる。
「あんた」
「なんだ」
「あの子、聞いてたと思う」
「そうか」
ミラはそれ以上言わずに椀を伏せた。
ガルドは卓の前に立った。
男が座っていた腰掛けを元の場所へ戻そうとして、手を止める。
戻す必要がなかった。
座る前と立ったあとで、指の幅ひとつぶんも動いていない。
自分が座る時は必ず引きずる。
十八年、人と荷を守る仕事をしてきて、椅子を静かに引く必要のある場所に座ったことがない。
奥の板戸が細く開いていた。
いつから開いていたのかは分からない。
閉めろと言った。
返事は早かった。
ガルドはそちらへ行かなかった。
行けば、聞いていたかどうかを聞くことになる。
聞けば、あの子は正直に答える。
板戸が音もなく閉まった。
竈の火が細くなっている。
ミラはまだ薪を足していない。




