第十五話
戸を開けると、通りの音がいつもより近かった。
人の数はそう変わらない。
変わったのは、その人たちがどこを見ているかだ。
「まっすぐ行って、まっすぐ帰るのよ」
母が後ろから言った。
昨日までは「気をつけて」だった。
「うん」
父は先に出ていった。
どこへ行くとは言わない。
言わない日は町だ。
昨日の紙は棚にない。
父の腹の帯に入ったまま、家の外へ出ていった。
井戸のところでハンナに捕まった。
「アシュちゃん。ねえ、昨日、館の人が来たんだって?」
声が大きい。
この人はいつも大きいので、悪意があるかどうかは声では分からない。
「うちの人がね、通りで見たって言うのよ。外套がきれいだったって」
「そうですか」
「そうですか、って。あんたのうちの話でしょ」
ハンナは笑っている。
心配している顔ではない。
「いいことじゃないの。館から使いが来る家なんて、この通りにないもの」
いいこと。
アシュはその言葉を口の中で一度置いた。
昨日、家の中の空気は変わった。
父は紙を棚に置かず、腹の帯に入れた。
妹の手を止めた止め方は、いつもの止め方ではなかった。
その同じ紙が、通りではいいことになっている。
「何の用だったの」
ハンナは桶を置いて、こちらへ体を向けた。
「税の話じゃないのよね。それなら夏に来るもの。てことは、お仕事の話でしょう。館のお仕事なんて、うちの人が聞いたら羨ましがるわ」
この人は答えを待っていない。
自分で二つ並べて、片方を選んで、それで話を終わらせてしまう。
家では、その紙のことを誰も口に出していない。
出していないのに、通りではもう仕事の話になっている。
「よく分かりません」
そう言った。
本当のことだが、ハンナが聞きたい答えでもない。
「あら、そう」
ハンナは少し拍子抜けした顔をして、それから桶を上げた。
上げながらもう一度、いいことよ、と言った。
歩き出してから、父の作法を思い出した。
誰かがお前のことを聞いていたと分かったら、その日のうちに言え。
今のは、あの作法に当たるのだろうか。
聞かれたのは家に来た使いのことで、アシュのことではない。
ではない、と言い切れる自信もない。
言おう、と決めた。
決めてから、明日この家に来る人のことで頭がいっぱいの父に、井戸端の話をいつ言えばいいのかを考えた。
――――――――――――――――――――
市場のヨナスは何も聞かなかった。
いつもなら真っ先に何か言う人だ。
昨日の噂も、この人のところには回っているはずだった。
「青菜、ください」
「おう」
ヨナスは束をもう一つ足した。
「お金」
「いいから持ってけ」
「でも」
「今日は多く仕入れたんだよ」
台の上の青菜は、昨日と同じ高さに積んである。
「ヨナスさん」
「なんだ」
「昨日のこと、聞かないんですね」
ヨナスは束を縛る手を止めなかった。
「聞いてどうすんだ」
「みんなは聞きます」
「聞いて、それで何かしてやれるならな」
紐を切って、端を結ぶ。
「俺は青菜屋だ」
アシュは礼を言って受け取った。
受け取ってから、この人は何か言おうとして飲み込んだのだと分かった。
二度目だ。
一度目はヤンを見送った朝だった。
通りを歩きながら、頭の中で整理した。
町が知っているのは、館の使いが来たということだけだ。
紙の中身は誰も知らない。
中身を知らないから、みんな好きな形に膨らませられる。
いい話にする人がほとんどで、黙る人が一人。
中身のない話ほど速く回る。
前世でもそうだった。
中身があると、人は確かめてから喋る。
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扉の脇で来訪者術式の石が短く光った。
塔の中は今日も暗かった。
床の四角い光の中に椀が並んでいて、上から筵がかかっている。
昨日と同じ置き方だ。
「始めろ」
一つめの膜は薄くならなかった。
氷結のへりを細く回してから内へ倒す。
二つめも同じ厚さで入った。
三つめで手が速くなった。
自分で分かった。
分かった時にはもう速くなっている。
四つめを張ったところで声が来た。
「止め」
ゼドルは筵を持ち上げなかった。
「数えたな」
「……はい」
「何個だと思った」
「八つです」
「昨日は八つだった」
老人は杖を床に置いた。
「今日も八つだとは言っとらん」
アシュは自分の指を見た。
昨日、覚えないでおこうと決めた数を、指の方が覚えていた。
「覚えるのが悪いんじゃない」
ゼドルは言った。
「覚えた物を確かめずに使うのが悪い」
筵をめくると、椀は六つだった。
六つのうち、膜が残っているのは四つ。
三つめだけが薄い。
「昨日より一つ多い」
ゼドルは言った。
褒める言い方ではない。
「一つ多いのは、今日の数を知らんまま張ったからだ。だが八つだと思って手を配れば、手は八つに合わせにいく。合わせにいったところで速くなる。どこだ」
「三つめです」
「そうだ」
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稽古が終わってから、アシュは言った。
「明日は休ませてください」
ゼドルは椀を集める手を止めない。
「なぜだ」
「父の言いつけです」
「ガルドが休めと言ったか」
「はい」
「理由は聞いたか」
「聞いていません」
老人は椀を伏せ終えて、そこでこちらを向いた。
「聞かんかったのか。聞けんかったのか」
アシュは答えなかった。
答えなかったこと自体が答えになる。
それも分かっていた。
「儂は、聞いて回るなと言った」
ゼドルの声は大きくならない。
「お前がここで口を閉じとるのは、それを守っとるからか」
「違います」
「では何だ」
言わないと決めたのは昨日の夜だ。
決めた時は、言わないでいるのは黙っていればいいことだと思っていた。
黙っていればいい、というのは、聞かれない場合の話だった。
この老人は、聞けば必ず何かをする。
三日前、紹介状の話を一つ聞いただけで、その紙を誰が書いたかまで手を伸ばした。
だから言えない。
言えないというのは、言いたくないのとは違う。
言えば、この人が持っている「用がない」という札を、こちらから取り上げることになる。
「言うと、ゼドルさんが動くからです」
塔の中が静かになった。
老人はしばらく何も言わなかった。
棚の縁に指を置いて、そこにある埃を見ている。
「動かんよ」
それから、少し間を置いて足した。
「動かんというのは、動く先がないという意味だ。先ができれば話は別だ」
嘘をつかない言い方だった。
昨日の夜、アシュが避けようとしたのは、まさにこの人のこの部分だ。
「すみません」
「詫びる話ではない」
ゼドルは肩を一度だけ動かした。
「お前は今、儂に嘘をつかんかった。嘘をつかずに黙る道を探して、うまくいかんかっただけだ」
うまくいかなかった、と自分でも思う。
黙るというのは、何も渡さないことだと思っていた。
実際は、どこで黙ったかが相手に伝わっている。
ゼドルは棚から手を離した。
「儂は年寄りだ。年寄りは、待つのだけは上手い」
待つ。
昨日から、家の周りで待っている人が増えている。
男は町にいて、返事を待っている。
父は明日を待っている。
この老人は、坂の上で用ができるのを待つと言った。
待っている人は動かない。
動かないから、こちらの手つきだけが見える。
「明日は休め」
「はい」
「明後日は来い」
「はい」
塔の扉のところまで来て、老人がもう一つ言った。
「明日、お前は家におるんだな」
「はい」
「なら家におれ」
振り返ると、ゼドルは椀の並んだ床の方を見ていた。
「塔のことは考えるな。半分だけ考えると、半分だけ間違える」
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塔の外で兄が待っていた。
いつもの塀の切れ目に座って、木剣の先で地面に線を引いている。
引いた線は途中で曲がっていた。
「終わったか」
「うん」
「なんて言われた」
「明後日、来いって」
兄は立ち上がって、土を払った。
明日は、と聞かなかった。
聞かないということは知っているということだ。
昨日、父が卓で紙を読んだ時、兄もそこにいた。
「あの爺さん、どんな顔してた」
「いつもの顔」
「いつもの顔って何だよ」
「怒ってはいない顔」
兄は笑わなかった。
笑うところだと思ったので、少し外したらしい。
二人で坂を下り始めてから、兄が一度だけ振り返った。
「俺、あの塔の中に入ったことねえな」
「入る?」
「いい」
即答だった。
この人はいつもここで止まる。
止まるところが毎回同じなので、たぶん決めている。
「ガイは」
アシュが聞くと、兄は肩をすくめた。
「今日は広場に来てなかった。親父さんが忙しいらしい」
「見回り?」
「たぶんな。あいつ、この頃うちの親父が広場に来る回数が増えたって言ってた」
フェイが広場を歩いている。
団の長が自分で歩くのは、人が足りない時か、人に任せられない時だ。
それをアシュは詰所で一度聞いたことがある。
言ったのはガイだった。
途中で兄が言った。
「明日、俺も家にいる」
「父さんに言われたの」
「言われてねえ」
言われていないのに決めている。
昨日の夜、父は「家にいろ」とアシュにしか言っていない。
「言われる前に言っといた方が、断られねえだろ」
それは剣の話に聞こえた。
先に踏み込んだ方が相手の間合いを潰す。
兄はそれを人の話でやっている。
「兄さん」
「なんだよ」
「明日、何が来るか知ってる?」
兄は前を向いたまま少し歩いた。
「知らねえ」
「知らないのに家にいるの」
「知らねえから家にいるんだろ」
答えになっていない。
なっていないのに、返す言葉が出てこない。
この人は理由がなくても場所を決められる。
アシュは理由がないと足が動かない。
――――――――――――――――――――
家に戻ると、母が繕い物をしていなかった。
いつもなら夕方はそれだ。
膝の上に籠を置いて、破れた袖や靴下を並べている時間だった。
今日は床を拭いている。
「母さん」
「なあに」
「昨日も拭いてた」
「拭いたわよ」
母は手を止めない。
「拭いてないところがまだあるの」
どこが拭いていないところなのかは聞かなかった。
この人は手を動かしていないと困る時に手を動かす。
父は日が落ちる前に戻ってきた。
いつもより早い。
卓に椀が並んで、五つになった。
誰も明日の話をしない。
リアがパンを半分にして、椀のふちに置いた。
置いた先はアシュの方ではなく、今日は兄の方だった。
「お」
兄が声を出した。
出してから、そのパンを取らずにしばらく見ていた。
「食えよ」
父が言った。
「食う」
兄はそれを二口で食べた。
二口目のあとで、鼻から一度息を吐いた。
卓が少しだけゆるんだ。
ゆるんだところで、父が言った。
「明日は昼から家にいる」
それだけだった。
誰も、なぜ、とは聞かない。
母が立って、鍋を火から下ろした。
下ろす時の音が、いつもと同じ大きさだった。
この人はそこだけは変えない。
卓を離れるとき、アシュは父の横で足を止めた。
「父さん。今日、井戸でハンナさんに聞かれた」
「何をだ」
「昨日の使いのこと」
「なんて答えた」
「よく分かりませんって」
父は椀の底を見たまま、少し黙った。
「それでいい」
それから、一度だけこちらを見た。
「言いに来たのは、よくやった」
褒められたのだと分かるまでに一拍かかった。
この人の褒め方はいつも短いので、通り過ぎてから届く。
片づけのあいだに、母が小さい声で聞いた。
「アシュ。あんた、怖い?」
アシュは布巾を持ったまま少し考えた。
「分からない」
「分からないの」
「怖いっていうのは、何が来るか分かってる時の言葉だと思う」
母は笑わなかった。
笑わずに、濡れた手をこちらの頭に一度置いた。
髪が濡れた。
「そういうことを言うから、あたしは寝られないのよ」
――――――――――――――――――――
寝床に入ってから、アシュは今日聞いた言葉を並べ直した。
いいことじゃないの、とハンナが言った。
今日は多く仕入れたんだよ、とヨナスが言った。
半分だけ考えると半分だけ間違える、とゼドルが言った。
三つとも、明日のことを何も知らない人の言葉だ。
知らないのに、いちばん最後のだけが明日に効く。
家におれ、と言われた。
家にいるのと、その場にいるのは違う。
父は昨日「家にいろ」としか言わなかった。
どこにいろとは言わなかった。
言わなかったのは、まだ決めていないからだ。
決めていないなら、明日の朝に決まる。
決めるのは父だ。
アシュが決められるのは、決まったあとにどうするかだけだ。
塔のことは考えるな、と言われた。
考えないでいるのは難しい。
難しいのは、明日のことを考える材料が、今日もらった三つしかないからだ。
用がない、とゼドルは言った。
用ができれば動く、とも言った。
明日、この家に用のある人が来る。
来る人には用があって、迎える側にはない。
用のある方が日を決めて、ない方がその日に合わせて家の中を片づける。
母は今日、拭かなくていい床を拭いていた。
外で戸板が一度鳴った。
風だ。
明日は坂を上らない。
毎日上っている道を上らない日が、どれくらいの長さなのかをアシュはまだ知らない。




