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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
客人は笑う

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第十四話

 昼の塔は暗い。


 窓が高いところに一つあるきりだ。

 日が真上へ来る刻だけ床の中ほどに四角い光が落ちる。

 その光の中に椀が並べてある。

 いくつあるのかは分からない。

 ゼドルが上から筵(むしろ)をかけて、手前の端だけをめくっているからだ。


「始めろ」


 アシュは一つめの水に指をかざした。


 氷結(ひょうけつ)は詠唱が短い。

 言い終わるより先に面のへりが白く細くなる。

 へりを一周させてから内へ倒す。

 二つめ。

 三つめ。

 四つめまでは指が場所を覚えている。


 五つめに移ったところで一つめの端がゆるんだ。


「止め」


 振り返ると最初に張った膜の真ん中だけが水に戻っている。

 薄い。

 張った時から薄かった。


「一つめが薄い」


「はい」


「なぜ薄い」


 アシュは筵(むしろ)の下を見た。

 どこまで椀が続いているのかは、二日目の今日も見えない。


「何個あるか分からないので全部に同じだけ置こうとしました」


「置こうとして、どうした」


「減らしました。最初から」


 ゼドルは筵(むしろ)をめくらない。

 めくらないまま、杖の先で床を一度突いた。


「終いが見えとった時、お前は最後で捨てた。終いが見えんと、最初から出さん」


「逆です」


「逆に見えるだけだ」


 老人は椀の列に顎をしゃくった。


「多いのと少ないのを言うとるんじゃない。どっちの日も、終いを持っとるのは儂《わし》だ」


 アシュは指を止めた。

 指の腹がまだ冷たい。


「持っている人がいると手つきがそっちに合うということですか」


「そうだ」


 言い直すと老人は必ず短くなる。

 短くなった時が、合っている時だ。


 剣なら手前へ寄せられる。

 止める場所を自分で決めて、決めた場所を半歩ぶん前へ持ってくればいい。

 水は寄せる場所がない。

 どこが終いなのかを持っているのが自分ではないからだ。


 そこまで考えて、アシュは指をもう一度水に近づけた。

 近づけただけで何もしなかった。


「儂《わし》が止めと言わなかったらお前は張り続けるか」


「張ります」


「そうか」


 ゼドルは筵(むしろ)を全部めくった。

 椀は八つあった。

 八つのうち膜が残っているのは三つで、一つめは真ん中が水に戻り、五つめから先は手をつけないまま水だ。


「今日はここまでにする」


 承認でも駄目出しでもない言い方だった。

 アシュは椀を伏せていく。

 伏せながら、八つという数を今日は覚えないでおこうと決めた。

 覚えたら明日はその数に合わせて手が動く。


「アシュ」


「はい」


「外に兄が来とる。日のあるうちに帰れ」


 塔の扉は閉まっている。

 閉まっているのに、この老人は坂を上ってくる足の数を毎日勘定に入れている。


――――――――――――――――――――


 塀の切れ目に兄が座っていた。


 木剣を膝の上に横に置いて、石の上で足を組んでいる。

 迎えに来るようになってから兄の座る場所は変わらない。


「終わったか」


「うん」


 兄は立ち上がって、尻についた土を払った。

 払い方が雑で、半分残っている。


 坂を下りながら、アシュは兄の手元を見た。

 今日は坂を上ってくる人を指で数えていない。


「今日は数えてないの」


「数えてねえ」


「やめたの」


「やめてねえ。今日はガルドが町にいるからな」


 言い方でだいたい分かった。

 自分が数えなくてもいい日、という意味だ。


「ライナのところ?」


「たぶんな。明後日までに言うって言ったのが一昨日だ」


 だから今日が明後日にあたる。

 兄は足の速さを変えないまま続けた。


「行かねえと思うけどな」


「なんで」


「並べてる時の手だ」


 答えになっていない。

 なっていないのに、兄が言うと当たる。

 この人は理由の代わりに手つきを覚えている。


 途中で兄が何か言いかけて、やめた。

 やめたのが分かる長さの間だった。


「なに」


「なんでもねえ」


 聞き返さなかった。

 聞き返して出てくるならこの兄は最初から言っている。


――――――――――――――――――――


 家の通りへ折れたところでアシュは足を止めた。


 戸口の前に人が立っている。

 馬はいない。

 外套(がいとう)の色が町の物ではなかった。

 灰でも茶でもない、青みの入った濃い色で、裾と袖口の縁が同じ布で縫ってある。

 同じ布を二か所に使える家は町にはない。


 若い男だ。

 二十歳になっているかどうか。

 背は父より低く、母より高い。


 母が戸口に立っていた。

 前掛けを外していない。


「ヴァルド殿のお宅で相違ありませんか」


「そうですけど」


「奥方様でいらっしゃいますか」


 母の返事が一拍遅れた。


「……あたし?」


 若い男は表情を動かさない。

 持っている言葉が決まっていて、その外の言葉を持っていない人の顔だ。


「領主館からお預かりの書状です。ご当主にお渡しください」


 差し出したのは折り畳んだ紙だった。

 両手で持っている。

 母も両手で受け取った。

 受け取ってすぐ、持ち方を間違えたかどうかを気にする顔をする。


「あの、これ、どういう」


「中身は存じません」


「どちらの方から預かったんですか」


「館からです」


 母がもう一度聞こうとして、口を閉じた。

 同じ言葉が返ってくると分かったのだと思う。


 若い男は一歩下がって、それから言い足した。


「先触れです。館で預かった物をお届けするのが役目ですので」


 先触れ。

 初めて聞く言葉だった。

 意味は音のとおりだろうと思った。


「では、確かにお渡ししました」


 もう一度そう言って、若い男は通りを戻っていった。

 歩き方がまっすぐだ。

 途中で誰とも目を合わせない。

 合わせないから通りにいる人が全員こちらを見る。


 井戸の方にハンナがいた。

 桶を提げたまま止まっている。

 止まったまま、母に向かって少し笑った。

 母も笑い返した。


 明日、これは市場の話になる。

 館の使いがヴァルドの家に来た、という話だ。

 中身を誰も知らないまま、そこだけが回る。


 母は紙を持ったまま中へ入った。

 卓の上に置いて、それから置き直した。


「あんた、これ読める?」


「たぶん」


「たぶんじゃなくて」


「読めると思う」


 母は少し考えて、紙を自分の手元へ戻した。


「父さんが帰ってからにする」


 紙には蝋《ろう》が落として留めてある。

 その上に紋が押してあった。


 図形だ。

 文字ではない。

 塔で毎日見ている印とは線の引き方が違う。

 精霊の印は閉じた形をしていて、どこかで必ず線が戻ってくる。

 これは戻らない。

 外へ伸びたまま終わる線が二本あって、その二本が同じ角度で開いている。


 アシュは目を離せなくなった。


 二日前、塔で同じものを聞かれた。

 紹介状は誰宛てだ、ではない。

 誰が書いた、だった。

 持って歩く者より書いた者の方が重い、とゼドルは言った。


 その書いた家の名前が、今この卓の上にある。

 蝋《ろう》の上に確かに載っていて、読めない。


 読めないのは字を知らないからではない。

 これが字ではないからだ。

 この形が何という名前の家を指すのかは、その形を教わった人の中にしかない。


 母が布巾で卓を拭いた。

 紙を持ち上げて、下を拭いて、また戻した。


「リア、それは触らないの」


 妹はもう手を伸ばしていた。


――――――――――――――――――――


 父が戻ったのは日が沈む前だった。


 外套(がいとう)を掛ける前に手を洗う。

 夏でも冬でも先に手を洗う人だ。

 母が紙を渡すと父は手を拭き直してから受け取った。


「領主館から」


「使いが来たのか」


「若い人。名前は言わなかった」


 父は蝋《ろう》を親指で割った。

 紙を開いて、目を上から下へ動かす。

 速くない。

 指を紙の縁に当てて、その指を一行ぶんずつ下げていく。


 父は字が読める。

 全部ではない。

 依頼書と受け取りの控えを読み違えると人が死ぬ、と前に言っていた。

 だから覚えたのだと。


 三行しかなかった。

 横から見ているつもりはなかったのに、三行なら見えてしまう。


 日を改めてご挨拶に伺いたく存じます。

 明後日、昼を過ぎた頃にお伺いいたします。

 ロートス・ヴェーバー。


 父は読み終えて、紙を畳んだ。


「明後日の昼、挨拶に来るとよ」


 それだけだった。


「誰が」


「あの人だ」


 母の手が前掛けの紐に行った。

 結び直しはしなかった。


 兄が立ち上がる。


「なんでうちに」


「知らん」


「知らんって」


「書いてない」


 父の言い方は変わらない。

 変わらないのに、卓の高さが少し下がったような感じがした。


 アシュは今見えた三行を頭の中でもう一度並べた。

 日を改めて。

 明後日の昼過ぎ。

 名前。


 用件が一つも書いていない。

 書いてあるのは、いつ来るか、それだけだ。


 用件が書いてあれば断れる。

 馬を貸してくれと書いてあれば馬の話を断ればいいし、金の話なら金の話を断ればいい。

 何も書いていない紙に返せるのは、来るな、の一つきりだ。


 そして来るなとは言えない。

 言えないのは、この紙が館を通ってきたからだ。


 町の揉め事の紙は書いた本人が持ってきた。

 あの人は自分で二枚写して、自分で両方に渡した。

 この紙は自分で持ってこない。

 間に館の使いを一人挟んである。


 挟むと断る先が変わる。


「ライナんとこ、行ってきたのか」


 兄が聞いた。

 父は椀を並べる手を止めなかった。


「もう言ってきた」


「なんて」


「断った」


 母が鍋の蓋を持ったまま動かなくなった。

 止まり方が長い。


「あれ、ふた月ぶんでしょう」


「そうだ」


「二年前の倍だって」


「ああ」


 父はそれ以上言わない。

 母もそれ以上聞かなかった。


 母が布巾を畳んで、それを一度広げてまた畳んだ。


「店にいた頃ね」


「ああ」


「日を決めてから来る客っていうのは、二種類しかいなかったの」


「どっちだ」


「催促に来る人と、断られたくない人」


 父は椀の底を布で拭いた。


「そうか」


「あの人、催促するものなんてないでしょ」


 母はそこで言うのをやめて、鍋を火から下ろした。


「南、行かねえの」


「行かん」


「なんで」


「行かん」


 二度目の方が短かった。

 兄は口を開けて、閉じた。

 閉じてから自分の椀を取りに行った。


 この人は理由を言わない時がある。

 言うと家の誰かが困る時だ。

 今日は困る誰かが誰なのかアシュには見当がついている。


 ついているのに、それを言う場所がない。


 リアが卓によじ登ろうとして、畳んだ紙の方へ手を伸ばした。


 父の手が出た。

 速い。

 妹の手首の手前で止めて、そのまま卓の端まで押し戻す。


 いつもの止め方ではなかった。

 いつもは掌で受けて、そのまま持ち上げて膝に乗せる。


 リアが父を見た。

 しばらく黙っていて、それから口の端が下がった。


「ほら、こっち」


 母が抱き上げた。

 抱き上げてから父の顔を見なかった。


 父は自分の右手を見ていた。

 見てから卓の紙を取って、二つに折って、また折った。

 それを腹の帯の内側に入れる。


「棚に置かないの」


 母が言った。


「家に置かん」


 父は椀を並べ終えて、座った。

 誰も先に手をつけない。


「食え」


 その一言で全員が動いた。


 リアが母の膝の上で落ち着いてから小さい声で「れ」と言った。

 続きは来ない。


 いつもなら誰かが笑う。

 母が笑うか、兄が妹の方へ体ごと向くか、どちらかだ。

 今日はどちらも起きなかった。


 妹だけがもう一度「れ」と言って、母の前掛けの紐を掴んだ。


――――――――――――――――――――


 片づけが終わってから父がアシュを見た。


「明後日は家にいろ」


「はい」


「塔は休め」


 塔をやめろとは言わない。

 その一日だけを外す言い方だ。


「明日、僕が行って言ってきます」


「そうしろ」


 父はそこで一度、何か続けようとした。

 口の形が動いて、それだけで終わった。


 この形を見るのは三度目だ。

 一度目は誘拐のあとの夜。

 二度目は塔の前で見られた日の夜。

 三度目が今夜になる。


 三度とも何を言おうとしたのかは分からない。

 分からないが、三度とも同じ形だということは分かる。


 明日、塔へ行って休みますと言う。

 言えばゼドルは理由を聞く。

 理由を言えばあの老人は明後日の昼のことを考える。

 降りる用がない、と自分で言った人だ。

 用は、こちらが渡さなければ生まれない。


 休む理由は父の言いつけだ、で足りる。

 足りると思いたいだけかもしれない、とも思った。


 母が奥へ行って、リアを寝かしつけている。

 寝かしつける時の声だけがいつもと同じ大きさだった。

 この人はそこだけは変えない。


 兄が戸口の閂(かんぬき)を見に行った。

 見に行って、触らずに戻ってきた。


「もうかかってる」


「父さんがかけた」


「二回鳴ったの、聞いた」


 兄はそれだけ言って自分の寝床へ行った。


――――――――――――――――――――


 灯りを落としてからもアシュはしばらく起きていた。


 壁の隙間から風が入ってくる。

 昨日も入っていた。

 昨日より冷たい。


 塔の帰りに坂の上から見た山の方は、まだ白くない。

 白くないのに、風だけが先に下りてきている。


 先触れです、と若い人は言った。

 役目ですので、とも言った。

 使いは中身を知らないまま、家の戸口まで運んで帰っていった。

 運んだという覚えもたぶん明日には残らない。


 隣の部屋で父が寝返りを打った。

 布がこすれる音に、紙の音が一つ混じる。


 家に置かん、と父は言った。

 置かないと言った紙が、家の中で鳴っている。


 明後日の昼過ぎ。

 その刻がいつ終わるのかは、どこにも書いていなかった。


 終いを持っているのは、こちらではない。


 風がもう一度入ってきて、掛け布の端を持ち上げた。

 雪はまだ降らない。

 降る前に、風だけが来る。


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