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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
客人は笑う

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第十三話

 坂を下りて家の通りへ折れたところでレインは足を止めた。


 夕方の光が戸口の前に人の影を作っている。

 影は二つある。

 片方は母だ。

 もう片方は母よりこぶし一つぶん高い。


 知らない影のはずなのに、立ち方に見覚えがあった。

 肩が開いていて、足の幅が広い。

 前に出る人の立ち方だ。


「ライナさん」


 弟がそう言った。

 言われる前から分かっていた。


 レインは木剣を担ぎ直して、歩く速さを変えないようにした。

 変えないようにしたぶん、かえって足が硬くなる。


「おかえり。でかくなったねえ」


 ガルドと同じパーティで前衛をしているライナは、毎回それを言う。

 毎回言うということは間に何か月も空いているということだ。


「そんなに変わってない」


「変わってるよ。去年は肩がもっと薄かった」


 肩を見られたことに気づいて、レインは薪の山の方へ寄った。

 斧を取って、割る用のない薪を一つ台に載せる。

 載せてから割る用がないことに気づいた。


 斧を下ろすのも変だからそのまま一つ割った。

 割れ目が真ん中から外れる。

 昨日までは外れなかった。


「上手いじゃない」


「割れてない」


「割れてるよ」


 ライナは半分になった薪を拾って、切り口をこちらへ向けた。


「こういうのは、真ん中を狙うから外れるんだ。木が割れたがってるところに置くの」


 剣の話みたいだと思った。

 思ったが、言うと稽古の話になるので黙っておいた。


 弟がその横をすり抜けて戸口へ行く。


 ライナの顔がアシュを見た。


 笑ったままだ。

 笑ったままでまばたきが一つ遅れる。

 そのあとすぐいつもの声に戻って、リアは、と母に聞く。


 毎回だった。

 この人はアシュを嫌っていない。

 嫌っていないのに、毎回止まる。

 止まるのを見ているのはたぶん家でレインだけだ。


 弟は気づいているのかいないのか、いつもどおりの顔で中へ入っていった。


「ミラさん、レインはいつからこんなに黙るようになったの」


「前からよ」


「前はもっと喋ったよ。俺が俺がって」


「あんたが来ると黙るの」


 母は言わなくていいことを言う人だ。

 斧を振り下ろす音でごまかしたが、木は二度目も真ん中から外れた。


――――――――――――――――――――


 ガルドが戻ったのは日が落ちきる前だった。


 卓を出す前にライナが用件を言った。


「南だよ。刈り入れのあとの隊、ふた月ぶん。うちで丸ごと請けろって話」


「ふた月」


「往きと復りを入れたらね。金はいい。今年は隊が多いんだ」


「六つか」


 ライナの手が止まった。


「なんで知ってんの」


 ガルドは椀を並べる手を止めない。


「聞いた」


「誰に」


「町でだ」


「あたし、まだ数言ってないよ」


「去年は四つだったろう」


 ライナは少し笑って、それで話を先へ戻した。

 レインは戻さなかった。


 六つ、と先に言ったのはガルドだ。

 ライナはその数をまだ口に出していない。

 町でだ、とだけガルドは言った。

 町の誰だ、とは誰も聞かなかった。


「絹か」


「絹。南から上がってくるのを都まで。宿場ごとに人を入れ替えたがってるけど、うちは丸ごとでって言われてる」


「丸ごとは高くつく」


「高いのを承知で言ってきてるんだよ」


 ライナは指を三本立てて、それから一本折った。


「二年前の倍だ。ふた月で二年前の倍」


 母が立ったまま少し動かなくなった。

 その手の止まり方をレインは見ている。

 金の話で母が止まるのはいい時と悪い時の両方だ。


「オルトたちは」


「乗り気。シアは何も言わない。いつもの」


 アシュは卓の端で自分の椀の中を見ていた。

 ライナに大きくなったねと言われて、はい、とだけ返す。

 リアはライナの膝に登ろうとして、途中でやめて母のところへ戻った。

 この妹が人見知りをするのを見たのは久しぶりだ。


「そうか」


 それきり黙ったのでライナが顔を上げた。


「返事は」


「考える」


 ライナの目が少しだけ大きくなった。


「珍しいね。あんたが考えるって言うの」


「そうか」


「そうだよ。あんたは、行くか行かないかしか言わない人だ」


 ガルドは椀を最後の一つまで並べてからようやくこちらを向いた。


「明後日までに言う」


 ふた月と聞いた時、レインの頭に最初に浮かんだのは金でも留守でもなかった。

 弟が塔へ通う日が、ふた月ぶんある。

 行きと帰りで一日に二回、坂の下を通る。


 考えてから、自分がそういう数え方をしたことに驚いた。


 ライナはそれ以上聞かなかった。

 聞かないところがこの人のいいところだと、レインは前から思っている。


「まあ、うちは急がないよ」


 ライナは笑って、それから思い出したように付け足した。


「そういえば、この町にいるらしいね。都の問屋筋の人。南の相場を持ってるって」


「聞いてる」


「隣町でその話が回ってたよ。グレンツの絹は今年うるさいって」


 ガルドの返事はなかった。

 なかったことに気づいたのはたぶんこの卓でレインだけだ。


 飯を食って、ライナは暗くなりきる前に帰っていった。

 帰り際にレインの頭を一度叩いていった。

 叩き方が去年より軽かったのはたぶん自分の背が伸びたからだ。


 戸を閉めてからガルドが一度だけ外を見た。


「レイン」


「なに」


「明日、塔の迎えは昼のうちに行け」


「日が落ちる前ならいいだろ」


「昼のうちだ」


 理由は言わない。

 この人が理由を言わない時は、言うと家の誰かが困る時だ。


――――――――――――――――――――


 夜、母が鍋を洗っている横で、レインは布巾を絞っていた。


「ガルド、行かないと思う」


 母は手を止めない。


「なんで」


「分かんない。でも行かない顔だった」


「行かない顔って何よ」


「並べてる時の手」


 母が少し笑った。


「あんた、そういうとこあの人に似てきたわね」


 似ていると言われても嬉しくはない。

 嬉しくはないが、悪い気もしない。


「母さん」


「なに」


「うち、この頃なんか仕事の話が多くない?」


 布巾を絞る手が止まった。

 止めたのは自分ではなく、母の方だ。


「そうね」


「前は、断る話なんてなかっただろ」


「なかったわねえ」


「なんで増えたんだよ」


「腕がいいからでしょ」


「前から腕はいいだろ」


 母はそれだけ言って、鍋を伏せた。

 伏せる音がいつもより長く鳴る。


 腕がいいから、では今年になって増えた理由にならない。

 母もそれが分かって言っている。

 分かっていて言う時のこの人は、こちらを安心させたい時だ。


 奥でリアが寝返りを打つ音がした。

 レインは戸のところまで行って、しゃがんだ。


「れ」


 妹が寝ぼけたまま言った。


「れ、の続きは」


 続きは来ない。

 もう一度「れ」と言って、そのまま寝てしまった。


 三日前からずっとこれだ。

 あと一つで自分の名前になるところを、この妹は毎回そこで止める。


 アシュの時は一日で「あしゅ」まで行った。

 自分の時は三日かかっても「れ」のままだ。


 悔しくはない。

 悔しくはないが、毎晩ここへ来てしまう。


――――――――――――――――――――


 次の日、庭の稽古が終わってからレインは弟に聞いた。


「お前の言ってた商人、まだ見つかんねえ」


「探してるの」


「探してねえ。見てるだけだ」


 アシュは木剣を布で拭きながら、少し考える顔をした。


「灰色の外套(がいとう)の人は多いよ」


「多いんだよ。昨日だけで四人いた」


「背の低い人も多い」


「だから三つ目の、手の甲のインクの染みしか使えねえんだよ。あれ、近づかねえと見えねえだろ」


 弟は拭く手を止めた。


「そこまで考えてなかった」


「考えろよ」


 言ってから少し悪いことを言った気がした。

 弟は怒らない。

 怒らないからこっちが後で困る。


「近づかなくていいよ」


「分かってる」


「本当に分かってる?」


「近づかねえよ。母さんにも言われてる」


 弟は少しのあいだこちらを見た。

 この見方をされると嘘は言わないでおこうという気になる。


「兄さんが四つ目を見つけたらそれでいい」


 弟がこういう言い方をするのは、こっちに何かを頼む時だけだ。

 頼まれた覚えはない。

 覚えはないのに、返事だけ先に出ていた。


「おう」


 弟は木剣を戸口の内側に立てかけて、それから振り返った。


「兄さん」


「なんだよ」


「僕が見た時、あの人は下から来た」


「坂か」


「うん。下から上がってくる人は、上にいる人がよく見える」


 言われてみれば当たり前の話だ。

 当たり前の話を、弟はいつも一度自分で言い直してから渡してくる。


――――――――――――――――――――


 市場でヨナスが青菜を放ってよこした。


「兄ちゃん、おたくは景気がいいらしいな」


「そうなの」


「そうなのって、お前んちの話だろ」


 ヨナスは笑って、それから樽の水を足した。


「ヴァルドさんとこは今年、選り好みできるってよ」


「誰が言ってた」


「誰って……みんな言ってる」


「みんなって」


「みんなだよ。市場のみんなだ」


「ガルド、断ると思うか」


「断るかよ。金が来てんだぞ」


「断ると思う」


「なんでだ」


 答えられなかった。

 ヨナスは肩をすくめて、次の客の方を向いた。


 レインは黙った。

 辿れる話ではないと分かったからだ。


 辿れる噂もある。

 誰が言い出したかがはっきりしていて、聞けばその人に行き着く噂だ。

 この話は違う。

 誰に聞いてもその人の前の人がいる。


 詰所の裏ではニコが荷縄を巻き直していた。


「レイン。親父さんに話いってるか、南の」


「昨日来た」


「よかった。あれ、うちに先に来た話なんだ」


「なんで回したんだよ」


「うちの手が足りねえからな。それに」


 ニコは縄を巻く手を止めずに続けた。


「ああいう長いのはヴァルドさんが向いてる、って言われた」


「誰に」


「誰だったかな。帳場だったか、宿の人だったか」


 思い出す気がなさそうだった。

 思い出す必要のない話だからだ。

 この人にとってはただの親切の受け渡しでしかない。


 もう一つ聞いておきたいことがあった。


「その話、いつ来たんだ」


「三日前かな。四日前かも」


 四日前は、弟が塔の前で見られた日だ。

 同じ日かどうかは分からない。

 分からないのに、指が勝手に日を数えていた。


 それに、ガルドはもっと前から知っている。

 うちに話が来る前に、南の隊が六つだと知っていた。

 団に来た話より前かもしれない。


 門を出るところでガイに会った。


「よお」


「おう」


 ガイは門柱に背を預けて、木剣の先で自分の靴を叩いていた。

 叩く拍がいつもより短い。

 この友達は落ち着かない時に手が先に動く。


「うちの親父、この頃広場に来る回数が増えた」


「見回りだろ」


「見回りだけど、うちの親父が見回りするか?」


「しねえな」


「だろ」


 団の長が自分で広場を歩くのは、人が足りない時か、人に任せられない時だけだ、とガイは前に言っていた。

 ガイの家の団はこの町でいちばん人が多い。


 ガイはそれだけ言って、何か言いかけてやめた。

 やめたのが分かったのでレインも聞かなかった。


 この友達は言葉が遅い。

 遅いだけで間違えたことはあまりない。


 去年、広場で年上の三人組と揉めそうになった時も、ガイは先に半歩下がった。

 下がってからその三人が本気ではないと分かった。

 レインはその時もう拳を握っていた。


――――――――――――――――――――


 広場に着いたのは昼を回った頃だった。


 井戸のそばに人の輪ができている。

 輪の中心は見えない。

 子どもが二人、輪の外側を回っている。


 レインは石段の上に腰を下ろした。


 輪が一度崩れて、人が散って、また少し集まった。

 その隙間に、灰色の外套(がいとう)の背中が見えた。


 背は低い。

 ガルドと並べば頭一つぶん低い。


 二つ合った。


 三つ目は見えない。

 手の甲まで見える距離ではないし、近づく気もない。


 レインは膝の上で木剣の柄を握り直した。


 去年の広場で拳を握った手が、今は膝の上で柄を握っている。

 同じ手なのに、今日は使う相手がいない。


 輪の中から声が上がる。

 笑い声だ。

 男の声は聞こえない。

 聞こえないのに、笑うところがみんな同じ拍で揃っている。


 輪の外にいる子どもは入ろうとしない。

 入ろうとしないまま、離れもしない。


 荷を担いだ人と桶を提げた女が、井戸の前ですれ違った。

 女が肩を引く。

 引いた拍子に桶が揺れて、水が縁から零《こぼ》れた。

 担いだ方も足を一度止めて、荷を上げ直す。


「おっと」


「ごめんなさいね」


 二人が歩き出すまでに一拍かかった。

 人が人を避けるというのはそういうことだ。


 男が輪から出て、通りの方へ歩き出す。

 昼過ぎの広場はいちばん人が多い。


 レインは数えた。


 一人目は走ってきた子どもだ。

 まっすぐ来ていたのに、三歩手前で横へそれた。

 二人目は荷を担いだ人。

 荷が邪魔で前がよく見えていないはずなのに、肩が触れる前に体を半分開いた。

 三人目はさっきの桶の女。

 今度は肩を引いていない。

 引く前に通る場所が空いている。


 三人とも、男が来る前に行き先を変えていた。

 男は一度も肩を引かない。

 足の運びも変わらない。


 誰にもぶつからないまま、ぶつかる場所から人がいなくなる。


 レインはそれを知っている。


 ガルドと打ち合っているとたまに同じことが起きる。

 こちらの剣が行きたい場所から、ガルドの体が先にいなくなっている。

 避けられたのではない。

 行き先を先に取られている。


 流されている時の感じだ。


 ガルドはそれを稽古で教える気がない。

 俺の真似はするな、と言われている。

 だからレインは自分で覚えた。

 覚えたぶん、やられている側の感じもよく分かる。


 広場の人は誰も、自分が流されていることに気づいていない。


 流された人は転ばない。

 転ばないから流されたことも覚えていない。

 覚えていないものは後から誰かに聞かれても答えられない。


 市場のみんな、とヨナスが言った時の顔を思い出した。


 男は通りの角で立ち止まって、誰かに帽子を取った。

 相手が笑って、男も笑った。

 どちらが先に笑ったのかはこの距離では分からない。


 角を曲がる直前まで男は輪の方を一度も振り返らなかった。


 置いてきた人たちを確かめない。

 確かめなくても明日も同じところに集まると分かっているからだ。


 それから角を曲がって見えなくなった。


 町でだ、とガルドは言った。


 町の誰だとは言わなかった。

 町の誰だ、と聞かれる前に去年の数を出したのはガルドだ。

 ライナはそこで笑って、話を先へ戻した。


 レインは石段から下りた。


 通りにはまだ同じだけ人がいる。

 男が歩いたところを、同じ速さで歩いてみた。


 三歩で肩がぶつかった。

 振り向いたのは知らない顔だ。


「すまん」


 相手が言った。


 戻ってもう一度歩いた。

 今度は先に見た。

 見て、避けようとして、肩を引いた。


「わりい」


 自分の口から出た。


 二回歩いて二回だ。

 あの男は一度も言っていない。

 言う場面がなかったからだ。


 レインは木剣を担ぎ直した。


 背はガルドより低い。

 外套(がいとう)は灰色。

 手の甲の染みはここからでは見えなかった。


 見えなかったのに、もう四つ目を数えている。


 広場の音は、さっきと同じ大きさで鳴っていた。


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