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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
客人は笑う

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第十二話

 兄が塔まで来るようになって三日になる。


 初日は詰所の帰りに寄っただけだという顔をしていた。

 二日目は最初から木剣を担いできた。

 今日は家を出る刻を自分で決めて、土間で先に立っていた。


 言い出したのは兄で、父はあとから頼んだ。

 卓でそう決まったところを見ている。

 見ているのに、三日たっても理由の方は渡していない。


 坂を上りきったところに低い石塀があって、切れ目が一つだけある。

 兄はいつもそこで足を止める。


「ここでいい」


「入っていいよ」


「入っていいって言われたら入るってもんでもねえだろ」


 兄は石塀に背を預けて、木剣を肩から下ろした。

 この兄は塔で何を習っているのかを一度も聞かない。

 聞かないのは興味がないからではない。

 聞けば答えなければならなくなることを、たぶんどこかで知っている。


 剣のことなら際限なく聞いてくる兄だ。

 今朝も庭で、鉄剣の受けを十本のうち何本まで見ていられるかを勝手に数えていた。

 塔のことだけは境目の手前で足を止める。


「終わったら出てこい」


「うん」


 塀の切れ目を抜けて、石段を三つ上がる。

 薬草の筵(むしろ)はもう片づけてあった。

 あの日に零《こぼ》れた葉が、まだ段の隅に一枚だけ残っている。


――――――――――――――――――――


 卓に椀が三つ並んでいた。


 三日とも同じ数だ。

 三日とも同じところで崩れた。


 一日目は三つめが三度とも端から裂けた。

 二日目は一度だけ張ったが、押すと真ん中に穴が残った。

 昨日ゼドルは何も言わずに椀を伏せて、今日もまた同じ三つを出している。

 同じ物を出し続ける人は、こちらが同じ物を出し続けているのを見ている。


「張れ」


 水を張って、一つめの前に立つ。


「ヴァッサークア、グラシア――フロスタ・ヴァトゥン・ヘンドル」


 沈む流れが降りてくる。

 へりを細く回して、内へ倒す。

 輪が閉じて、内側が同じ速さで白くなった。


 二つめも同じ形で張った。


 三つめに手をかけたところでもう分かる。

 速い。

 自分で遅くしようとすると今度は流れが途中でほどける。

 遅くしたのではなく、遅くしようと考えた分だけ手が別のことをしている。


 膜は端が厚くなって、押すと端から裂けた。


 ゼドルは割れ口を指でなぞってからアシュの手を見た。

 指ではなく、手首から先の力の抜け方を見ている。

 剣を見るときのフェイの目に少しだけ似ていた。


「三日だ」


 ゼドルは椀の水を窓の外へ零《こぼ》した。


「三日とも三つめだ。理由は」


「二つめが終わった時点で、終いが見えるからだと思います」


 老人の手が止まった。


「続けろ」


「三つで終わりだと分かっていると三つめは終わらせる手つきになります。張る手ではなくて、片づける手です」


 ゼドルは何も言わずに棚へ行って、椀を二つ持って戻ってきた。


 卓の上が五つになった。


「張れ」


 一つめ。

 二つめ。

 三つめが張った。


 張ったことに驚いて、四つめのへりを回すのが遅れた。

 輪が閉じきる前に内側へ倒してしまって、真ん中に穴が残る。


 息を整えて、五つめは張った。

 張ったが、そこはもう終いではない。

 終いはさっき四つめで来て、通り過ぎている。


「四つめだ」


「はい」


「終いは動いたな」


「動きました」


「消えたか」


「……いいえ」


 終いの場所が三つめから四つめへ移っただけだ。

 椀を十並べれば十のところで同じことが起きる。

 数を増やしても数え終わる場所は必ずある。


「均《なら》すのは覚えた」


 ゼドルは五つの椀を伏せながら言った。


「速さも覚えた。あとは終いの扱いだ。それは椀では教えられん」


「椀を百並べても駄目ですか」


「百のところで同じ顔をする。数の話ではない」


 ゼドルは五つめの椀だけを手に取って、光に透かした。


「終いというのはな。手の話ではなく、刻の話だ。あと少しで終わると分かった時に、人の手は先に片づけを始める。魔法だけの話でもない。飯も、稽古も、話も同じだ」


「終いを見ないようにするのは」


「できん。見えるものを見ないふりをする稽古は、別のところが歪む」


 前に見たことのある形だった。


 終わる刻の決まっている仕事場では終いの前から人の手つきが変わる。

 誰も怠けていない。

 怠けていないのに、最後にできあがる物だけが違う。

 あれは気持ちの話ではなく刻の話だったのだと、今ごろになって分かる。

 仕組みが同じなら水も人も同じところで崩れる。


「教えられないんですか」


「儂《わし》が教えられるのは形だけだ。終いは形じゃない」


 言い方が今までと違った。

 この老人は「できていない」とは何度も言うが、「教えられん」と言ったのは初めてだ。

 その言葉は聞き流せなかった。


「明日から数えるのは儂《わし》だ」


 ゼドルは棚の椀をまとめて抱えた。


「何個で終いかは言わん。止めと言うまで張れ」


「三つのときも五つのときもあるということですか」


「二つで止めるかもしれん。十まで数えるかもしれん」


 終いを消すことはできない。

 消せないなら終いを持つ人をこちらから外に出せばいい。

 自分の手に終いを持たせないための形だ。

 終いを持っている方が、持っていない方の手つきを決める。


――――――――――――――――――――


 手を拭いているとゼドルが背中を向けたまま言った。


「昨日の話の続きだ」


 三日前の話だと思った。

 訂正はしなかった。

 この老人にとって、あの日と今日のあいだの三日はたぶん数のうちに入っていない。


「あれは何をしに来たと聞いた。答えは出たか」


「いいえ」


「ではこちらから聞く」


 ゼドルは椅子に座り直した。

 書き物には戻らない。


「あの男は何を持ってこの町に入った」


「紹介状だと聞いています。侯爵家の紹介状で、領主館に挨拶に行ったと」


 聞いたというだけだ。

 見た人から聞いたのでもない。

 市場で誰かが言ったのを、そのまま覚えている。


「あの男はこの町で何を売った」


「何も売っていません」


「では町は何を渡した」


 答えるのに少しかかった。


「名前と、暮らし方です」


「安いな」


 ゼドルは笑わなかった。


「安い物は、渡した側に渡した覚えが残らん」


「紹介状は誰宛てだ」


「領主館だと思います」


「宛て先はいい。誰が書いた」


 答えられなかった。


 町で聞いたのは「侯爵家の紹介状を持っている」というところまでだ。

 どこの侯爵家かを、アシュは一度も聞いていない。

 ヨナスも言わなかった。

 ハンナも言わなかった。

 二人が言わなかったのではなく、二人とも知らないのだと今になって分かる。


「知りません」


「町の誰が知っとる」


「書記の人は知っていると思います」


「ほかには」


「たぶん、誰も」


「では逆を聞く」


 ゼドルは指を一本立てた。


「あの男は、この町で誰に会っとらん」


 考えたことのない向きの問いだった。


 会った人なら数えられる。

 門番、ランド、ソフィ、母、市場の店主、井戸端の女たち、領主館の書記、揉め事の当事者、孤児と、その伯母。

 子どもたち。

 父。


「……ゼドルさんです」


「昨日まではな」


 老人はそれ以上言わなかった。

 言われなかった分を、アシュは自分で並べ直した。

 町でいちばん最後に残っていた一人のところへ、あの人は三日前に上がってきた。


 ゼドルは指の背で卓を二度叩いた。


「紹介状というのはな。持って歩く者より、書いた者の方が重い」


「重い」


「持っとる方は、なくせばただの行商に戻る。書いた方はそうはいかん。その紙を持った男が何をやっても書いた家の名前が一緒に出る」


「名前を貸しているのと同じですか」


「そうだ。軽く貸す家はない」


「書いた人が誰か分からないと何が分からないんですか」


「あの男が誰に断りなく動けるかだ」


 言われて、頭の中の並びが変わった。


 あの人は町でずっと一人で動いている。

 一人で動ける人は、一人で決めていい人か、決めた人が別にいて許されている人かのどちらかだ。

 紹介状を書いた家がどこかを知れば後ろがどこまでかが分かる。

 後ろの長さが分かればどこまでなら町の側の話で済むのかも分かる。


 塔でこの話が出たことにアシュは少しだけ驚いていた。

 この老人が町の話をしたのは覚えているかぎり初めてだ。


「儂《わし》は町へ降りん」


 ゼドルが先に言った。


「降りる用がない。用のない年寄りが降りるとそれだけで用があることになる」


「はい」


「お前も聞いて回るな。子どもが名前を集めると、集めた側が覚えられる」


 それは、父が毎回確かめる「近づいたか」と同じ向きだった。

 父とゼドルが会ったという話は聞いていない。

 それでも二人は同じことを言っている。


 言おうとして、口の手前で止めたことが一つある。


 注文だ、青い目の子供を。


 去年の夏、攫われた先の納屋で聞いた言葉と、今この町にいる男は、つなごうと思えばつなげる。

 つなげるが、今日でなくていい。

 言えばこの老人は動く。

 降りる用がないと言った人が、用を作って降りることになる。

 そうなれば塔が家と同じ列に並ぶ。

 並んだものはまとめて数えられる。


 黙っていても嘘にはならない。

 ただ、父に全部言わせておいて自分は言わない形にはなる。

 その居心地の悪さを、今日は持って帰ることにした。


「一つ聞いてもいいですか」


「言え」


「ゼドルさんは僕の目を初めて見たとき、なんて思いましたか」


 老人は少しのあいだ黙った。

 それから、めずらしく笑わない顔で答えた。


「珍しい目だと思った」


「あの人は」


「珍しいとは思っとらん」


 ゼドルは立ち上がって、伏せた椀を棚へ戻し始めた。


「儂《わし》は驚いた顔をしたはずだ。あの男は驚いとらん。探しとった物を見つけた顔だ」


 その言い方には力が入っていなかった。

 力が入っていないぶん、動かしようがない。


 驚いた顔と、驚かない顔。

 違いは一つだけだ。

 驚く人はその時に初めて知る。

 驚かない人は、来る前から知っている。


 あの日、アシュが気づいたのは順番だった。

 先に笑う人が、あの一度だけ見てから笑った。

 ゼドルが見たのは顔の中身だ。

 見たものは違うのに、二人とも同じことに気づいている。


「怖がるな」


 棚に向かったままゼドルが言った。


「怖がると足が速くなる。速い足はよく見える」


「見えるとどうなりますか」


「数えやすい」


 速くなった手は端を厚くする。

 速くなった足は人に数を渡す。

 あの日の坂の話と今日の椀の話が、その一言でつながった。


「はい」


「明日も来い。刻は変えんでいい」


 いつもは「もう帰れ」で終わる。

 今日は来る日の話を先にされた。


 扉を出るとき、老人はもう書き物に向かっていた。

 背中の形は昨日と同じだ。

 同じ形をしているのに、出るまでのあいだ筆の音が一度もしなかった。


 石段の隅の葉は、昨日より端が丸まっている。

 誰も拾わないまま、まだ飛んでいかずにそこにある。


――――――――――――――――――――


 塀の切れ目を出ると兄が同じ場所に座っていた。


 木剣は膝の上に横に置いてある。

 顔だけ坂の下へ向いていた。


「七人」


「え」


「今日、下から上がってきたの。七人」


 兄は指を折って数え直した。


「薪屋の爺さんが二回来たから六人かもしんねえ。同じ人を二回数えるのは反則だろ」


「反則」


「数えるならそういうのはちゃんとしねえと」


 誰に教わったわけでもない理屈だ。

 この兄は数え方の作法を、暇の中で自分で作っている。


 その言い方が誰かに似ていた。

 似ている相手のことは言わないでおいた。


 この兄は理由を知らない。

 知らないまま、坂の下を三日見ている。


「暇だっただろ」


「暇だよ。だから数えた」


 兄は指を折ったまま続けた。


「薪屋と、水売りと、女の人が三人。あと知らねえ男が一人。荷は持ってなかった」


「顔は」


「見えねえよ。遠いもん」


 顔は見えなくていい。

 上がってきた人の数と、荷の有無だけで足りる。

 足りると気づいてしまったことの方が、今は落ち着かない。


 兄は立ち上がって、木剣を肩に担いだ。


「別に、見張ってるとかじゃねえからな」


「うん」


「見張ってねえけど、七人だ」


「明日も数える?」


「数えねえよ。暇じゃなかったら」


 明日も暇にする気だ、ということだった。


「なあ」


「うん」


「俺、あの商人の顔、知らねえんだよな」


 兄は木剣の柄で自分の肩を叩いた。


「母さんもガルドも見てんのに、俺だけ見てねえ。広場も通ってんのに」


「背は父さんより低い。外套(がいとう)は灰色。手の甲にインクの染みが二つある」


「そんだけ?」


「それだけで足りると思う」


 兄は何か言いかけて、やめた。

 この兄がやめるのは珍しい。


 坂を下り始めてすぐに気づいた。


 兄の足が遅い。


 いつもの兄は先に行って、道の途中で振り返って待つ。

 今日は隣にいる。

 隣にいるまま、こちらの歩幅で下りている。


「歩くの遅くない?」


「そうか?」


「うん」


「じゃあお前が速くなれ」


 兄は前を向いたまま言って、それから足を速めなかった。


「あ、そうだ。この頃リアがさ」


「うん」


「れ、って言うんだ」


「れ」


「れ、だけだけどな。母さんは咳だって言うんだよ。咳じゃねえって。れ、だよ」


 兄は言いながら少し笑った。

 その話をしている間だけ、足がいつもの速さに戻る。

 戻って、すぐにまた遅くなった。


 西日が坂の石を橙色(だいだいいろ)に染めている。

 二人ぶんの影が同じ長さで前に伸びた。


 坂を下りきるまでその歩幅は一度も戻らなかった。


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