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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
客人は笑う

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第十一話

 詰所の裏の土は、昼前の日で白く乾いていた。


 フェイは樽を一つ横へ転がして、あいた場所を足の裏で均《なら》した。

 木剣を振るには狭い。

 人が二人向き合うには広すぎる。


 裏口から出てきた男が、こちらを見て足を止めた。

 団の副長だ。

 ディルクさん、と呼ぶ人と、副長、と呼ぶ人がいる。


「団長。荷の割りは」


「あとでいい」


「わかった」


 それだけ言って、ディルクは戻っていった。

 何をしているのかは聞かなかった。

 裏へ人が来ないように戸を閉めていったのは、頼まれたからではないはずだ。


「十日か」


「はい」


「雨は」


「三日抜きました。受けなかった日はありません」


 フェイは頷いて、布の包みを目で指した。

 アシュは肩から下ろして結び目を解く。

 鉄剣は今日も曇っていない。

 毎晩拭いている。

 拭くのは剣のためだが、拭いている間だけ手が剣の形を覚え直す。


「振る前に一つ言え」


「はい」


「どこで止める」


 アシュは土を見た。

 爪先から剣の長さぶん先に小さな窪《くぼ》みがある。

 樽の脚が立っていた跡だ。


「この窪《くぼ》みです」


「よし」


 フェイは半歩だけ下がって、あとは動かなかった。

 腕を組みもしない。

 見る人が動くと振る側の目が動く。

 この人はそういうことを全部知っている。


 息を吸う。

 止めない。

 鉄剣を上げるところまでは受けと同じだ。

 肩ではなく背中で持ち上げる。

 剣先が空に立った瞬間、重さが柄から手のひらへ下りてくる。


 落とした。


 速い。

 速いのではなく、下へ行きたがるものを邪魔しなかっただけだ。

 その違いが振っている途中で分かる。

 窪《くぼ》みが近づく。

 近づいてから遠ざかった。


 剣先は窪《くぼ》みを越えて、その先の土を薄く削って止まった。


 肘の内側が痺れている。

 手首ではない。

 持ち方は最後まで崩れなかった。

 崩れなかったのに、場所だけがずれた。


「止まらなかったな」


「はい」


「なぜだ」


 アシュは削れた土の筋を見た。

 指一本ぶん。

 自分で決めた場所から、指一本ぶん先。


「腕が足りませんでした。落とすところまでは背中で運べます。止めるのは腕だけです」


「違う」


 フェイは剣を受け取って、刃のない縁を親指でなぞった。


「力なら足りとる。お前は十本受けて手が笑わん。受けは止める仕事だ。止める力のない奴は五本目で剣が落ちる」


 言われてみればそうだった。

 受けと振りで使う場所は違うが、止めるという一点だけは同じだ。

 なら足りないのは力ではない。

 何が足りなかったのかを数え直そうとして、数え終わる前にフェイが先に言った。


「振る前に窪《くぼ》みを見ただろう。見たとき、当たったら気持ちがいいと思ったな」


 図星だった。


「……はい」


「それが欲だ」


 フェイは剣を返してよこす。


「剣は勝手に行かん。行かせたのはお前だ。受けは向こうが場所を決める。お前は来たものを止めるだけでいい。振るのは自分で場所を決める。決めた場所を、決めた時の気持ちのまま守れる奴はおらん。俺も守れん」


「守れないのに、どうするんですか」


「決める場所を先に手前へ寄せる。半歩ぶんだ。欲が出ても届く範囲で済む」


 欲を消す話ではなかった。

 出る前提で、出る分を先に引いておく。


 塔で言われたことと同じだ。

 水の面を均《なら》すのは低いところを足す作業ではなく、高いところを削る作業だった。

 厚く乗った分を先に落としておけば突かれても面は薄いところから裂けない。

 剣も同じだ。

 振れば剣先は決めた場所より先へ行く。

 行く分を見込んで、決める場所を手前へ置く。

 どちらも足りない側には触っていない。

 多すぎる側を出る前に削っている。


 家の外の人に同じことを言われたのは、これで二人目だ。


「もう一本は」


「一本だ」


「はい」


「明日も十本受けろ。数はもう数えんでいい」


 フェイは樽を元の場所へ戻して、それで話は終わりになった。

 褒め言葉はない。

 次の条件も出ない。

 次を出さないのはたぶん、出せば今日の一本が次のための一本になるからだ。


 十日の数えが今日で終わった。

 終わったことに気づくのに一拍かかった。

 昨日までは寝る前に指を折っていた。

 今夜からは折らなくていい。

 折らなくていいと分かっているのに、指の腹はもう数え方を覚えている。


 門の外でガイが木剣の先で地面をつついていた。


「見るなってさ。うちの親父」


「うん」


「一本見たって減るもんじゃねえだろ」


「フェイさんの前でだけ振る、って約束なんだ」


「俺だって前にいたぞ。門の前」


 言い返さないでおいた。

 ガイは言葉の隙間を見つけるのだけは速い。


 文句を言いながらも、門の内側へは一歩も入っていない。

 入るなと言われたら入らない。

 この友達はそういうところが素直だった。


「どうだった」


「止まらなかった」


「そりゃそうだろ。鉄だぞ」


 ガイは自分の木剣を持ち上げて、途中で止めてみせた。


「な。木ならできる」


 できていない。

 剣先が止まった場所は、ガイが最初に見た場所より少し先にある。


 言わないでおいた。

 アシュの一本も同じように先へ行った。

 言われて分かったのはついさっきだ。

 言われた側がその足で人に言う話ではない。

 それにガイは見せに来た。


――――――――――――――――――――


 塔の扉を押すと苦い匂いが先に出てきた。


 棚の石板に刻まれた魔法式が、アシュの目には今日も光って見える。

 強さは一枚ずつ違う。

 天井の付与石は白く、竈(かまど)の横の壺は薄い。

 見えることには慣れた。

 慣れても目に入る光の数は減らない。


 卓の上に椀が三つ。


「水を張れ」


 ゼドルは書き物から顔を上げずに言って、それから上げた。

 顔ではなく、アシュが壁に立てかけた包みを見ている。


「剣か」


「借り物です」


「儂《わし》の弟子が鉄を担いで歩いとるとは知らなんだ」


「今日だけです。振る日なので」


「振ったのか」


「一本だけ、と言われています」


 もう振ったとは言わなかった。

 順番どおりに聞かれた順番どおりに答えると話が先へ行きすぎる。


 水を三つとも張って、一つめの前に立った。


「ヴァッサークア、グラシア――フロスタ・ヴァトゥン・ヘンドル」


 沈む流れが降りてくる。

 先にへりを細く回して、それから内へ倒す。

 輪が閉じて、内側が同じ速さで白くなる。


「一つ」


 ゼドルが数える。


「二つ」


 白さが真ん中で合わさる。


「三つ」


 膜が張った。

 ゼドルの指が中央を押して、際を押す。

 沈まない。


「次だ」


 二つめも張った。

 二つ続けて同じ厚さで揃うのはもう驚くことではない。

 驚かなくなった手が三つめに行く。


 三つめは端が厚くなった。


 押された膜は端から先に裂けて、真ん中に白い島が残る。

 三日月ではないが一枚でもない。


「二つまではな」


 ゼドルは椀の水を窓の外へ零《こぼ》した。


「三つめは何が違う」


「速いです。二つ目より速く終わろうとしています」


「なぜ速い」


「手が覚えたからだと思います」


「覚えた手は同じことをやらん。前より上手にやろうとする」


 老人は空になった椀を伏せて、二つめと三つめを入れ替えた。

 順番を変えても三つめになった椀で同じことが起きた。

 椀の問題ではない。

 三番目という場所の問題だ。


 その日は椀を替えながら十回やって、膜が張ったのは七回。

 同じ厚さで揃ったのは四回。

 三つ続けては一度もない。


 三つめに立つときだけ、指先の冷たさが先に来る。

 まだ流れを下ろしてもいないのに手が張る用意をしている。

 用意のできた手は待てない。

 待てない手が、へりを回す前に内側へ倒れる。


「今日、剣を一本振りました」


 言ってから気づいた。

 先へ行かせまいとしていた話に、自分から行った。


「止まったか」


「止まりませんでした。決めた場所より先に行きました」


「同じだ」


「先に減らす」


 ゼドルは書き物に戻る手を止めて、指で卓を一度叩いた。


「そうだ」


 それきり老人は何も言わなかった。

 今日はここまでだという合図が、いつもの言葉ではなく手の動きで出た。


 町の話をしようかと思って、やめた。

 ひと月ほど前から商人が一人いて、何も売らずに配っている。

 それだけでは話にならない。

 持ってきていないものは今日も持って帰る。


――――――――――――――――――――


 帰り支度をしているとゼドルが反古紙(ほごし)の束を寄越した。


「持って帰れ。字は使わんと落ちる」


「ありがとうございます」


 塔の扉の前には石が三段ある。

 脇の日向に筵(むしろ)が広げてあって、薬草が薄く並べてあった。

 風が変わる前に取り込むのだとゼドルが言う。

 この老人が日の下に立つのを見るのは数えるほどだ。

 アシュは筵《むしろ》の反対の端を持った。


 道の下から足音が上がってきた。


 間が変わらない。

 坂で速さの変わらない足を、アシュは初めて聞いた。

 人は登りで一度遅くなる。

 遅くならない足は、登ることを先に勘定へ入れて歩き出している。


 低い石塀の手前で足音が止まった。


「こちらにご高名な方がおいでと伺いました」


 男は帽子を取って胸の前へ下ろした。

 外套(がいとう)の色は町で見たときと同じだ。


「ロートス・ヴェーバーと申します」


「高名はとうに落ちとる」


「町では今も塔の先生と呼んでおられます」


 男は笑った。

 いつもの順番だった。


「南のインクを一壺、お納めいただければと」


「要らん」


「では引き取ります。押し売りは私の仕事ではございません」


 断られたのに男の背は低くならない。

 引くのが早い。

 早く引く人は、その一往復で何かを済ませている。


「町の方々が、困りごとを先生のところへ持って上がると伺いました」


「昔の話だ」


「昔の話をいちばん高く買うのが商人でございます」


「買われる覚えはない」


「買うと申し上げた覚えもございません」


 言い方は柔らかいのに、押し返した分がそのまま戻ってくる。

 こちらが強く言うほど向こうの言葉が正しくなる。


「一つだけ伺ってもよろしいですか」


「断る」


「では伺いません」


 男は本当に伺わなかった。

 聞かずに済ませたことを、聞いたのと同じ顔で終わらせている。


「用は」


「ご挨拶だけでございます」


「挨拶に手土産が要る用か」


「要らぬ用でございました。失礼をいたしました」


 男の顔が上がった。


 アシュは筵《むしろ》の端を持ったままだった。


 桶屋の前ですれ違った日は横だった。

 目を落として、足だけ見ていればよかった。

 今日は上にいる。

 下から来る目に上から目を伏せるには、伏せるという動作が要る。

 動作は残る。


 顔を上げていた時間は一拍もない。

 ないのに、間に合わなかった。


 男が見た。

 それから笑った。


 順番が逆だ。


 この人は先に笑う。

 市場でも広場でも、飴を渡すときも名前を聞くときも変わらなかった。


 今日は逆だった。

 見てきたかぎりでは、初めてだ。


 声はかからなかった。

 名前も呼ばれない。

 男は帽子をかぶり直して、ゼドルに頭を下げただけだった。


「お邪魔をいたしました」


 背中は急がない。

 坂を下りる足も、上ってきたときと同じ間で鳴っている。


 下りる前に一度だけ、男は塔の扉と道のあいだを見た。


 扉ではない。

 道でもない。

 その間の、人が歩く分だけの幅を見ていた。


 足音が聞こえなくなってからゼドルが筵《むしろ》を放した。

 薬草が半分ほど石段に零《こぼ》れる。

 老人は拾わない。


「あれは何をしに来た」


「何も売っていません」


「知っとる。何をしに来たと聞いた」


 答えを持っていなかった。

 持っていないと言う代わりにアシュは首を振った。


「帰れ」


「はい」


「まっすぐだ。日のあるうちに家へ入れ」


 石段を下りて、道の角で振り返った。

 老人はまだ外に立っている。

 筵《むしろ》を持ったまま坂の下を見ていた。


――――――――――――――――――――


 坂を下りきると町の音が戻ってきた。


 井戸端に人はもういない。

 男がどの道へ折れたのかも分からない。

 分からないのに足が速くなる。

 速くなった足を、途中で一度だけゆるめた。

 走って帰れば見ている人には理由があるように見える。


 家に着いたとき、庭では父が薪を割っていた。


「父さん」


「どうした」


「今日、あの人に見られました」


 斧が止まった。


「塔の前です。ゼドルさんに挨拶に来て、それで」


「話しかけられたか」


「いいえ。一言も」


「顔は」


「見られました。目も」


 父は薪を台から下ろして、それから何も割らずに斧を置いた。

 何か言いかけて、やめる。

 言いかけた形だけが口の端に残った。


 この人がその形をするのを見たのは二度目だ。

 一度目は誘拐のあとの夜だった。


「その日のうちだな」


「はい」


「塔はやめん。行く時刻を早くしろ。帰りは日のあるうちだ」


「はい」


「今日はよく歩いた。飯だ」


 庭を出ていく背中は、いつもと同じ歩幅だった。

 同じ歩幅にしているのだと思う。


 台所では母が鍋の柄を持ったまま立っていた。

 長くはない。

 それから椀を並べ始めた。

 並べる音がいつもより静かで、静かなぶん一つ一つが長く聞こえる。


 卓についてから兄が箸を止めた。


「明日、俺が迎えに行く」


「塔まで?」


「塔まで」


「遠回りになるよ」


「遠回りしたい日なんだよ」


 兄は魚の身をほぐしながら言った。

 こちらを見ない。

 見ないで言うときのこの兄は、たいてい前の晩から考えている。


「頼む」


 父が短く言った。


「頼まれなくても行く」


 兄は口を尖らせて、それから急に困った顔になった。

 困った顔のまま椀を持ち上げる。

 理由を知らないまま、この兄は明日から坂を上る。


 リアがパンをちぎった。


 半分にして、アシュの椀のへりに置く。

 毎晩アシュがやっていることだ。


「あしゅ」


「まねっこ」


 母が言って笑った。

 卓が少し軽くなる。

 軽くなったところへ、父が自分の椀を黙って前へ出した。

 リアはそちらにはパンを置かない。


「置いてくれんのか」


「まだ、あなたの番じゃないみたい」


 母は笑いながら、リアの手についたパンの屑を払った。

 払う手が一度も止まらない。

 この人は心配していない顔をするのがうまいのではなく、手を動かしていれば心配が顔まで上がってこないだけだ。


 兄が吹き出して、それで飯の話に戻った。


――――――――――――――――――――


 家が寝静まってからアシュは台所へ行った。


 水瓶の蓋を開ける。

 夜の水は黒い。

 顔の形は分かる。

 目のあるところだけが、ただ暗い。


 灯りを近づけると映ったものは揺れて崩れた。

 離すと戻る。

 戻っても色は出ない。


 ハンナは知っている。

 ヨナスも知っている。

 母も父も兄も、塔の老人も知っている。

 今日、あの人も見た。


 町じゅうが知っている色を、アシュは一度も見たことがない。


 蓋を戻すと瓶の中で水の音が一度だけ鳴った。

 濡れた指を袖で拭く。

 灯りを吹き消して、暗くなった台所にそのまま少し立っていた。


 暗いところでは水も顔も同じ色をしている。


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