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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
客人は笑う

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第十話

 縄が新しい。


 ガルドは釣瓶(つるべ)の縄を握って、上から下へ一度しごいた。

 巻きの癖が手のひらに残る。

 毛羽は一本もない。

 女たちが汲み終えたあとの朝の井戸端は静かだ。

 石畳の窪《くぼ》みに零《こぼ》れた水が空を映している。


 縄の値なら知っている。

 護衛は道具の値で暮らす稼業だ。

 革の値、油の値、研ぎ石の値。

 縄一本の代は、荷の護衛一日ぶんの飯代にもならん。

 それで町の水場が一つ買える。


 安い買い物だ。


 ガルドは縄を離した。

 誰が払ったかを、この井戸に来る女は全員知っていて、全員が知らないことになっている。


 縄が毛羽立っているという話をミラが家でしたのは四日前だ。

 あの時も笑いながら、前掛けの紐を三度結び直していた。


 あの男が町に来てから家に入ってきた話を、ガルドは道々並べた。


 一つ。ミラが二度、聞かれてもいないことを喋っている。

 二つ。ハンナが井戸端でうちの子の目の色を喋った。

 三つ。アシュがすれ違って、そのあとあの男が家の通りを三つ数えるあいだ見ていた。

 四つ。揉め事の紙が三枚あって、三枚目は書いた本人が持っている。


 四つ並べて、詰所へ持っていけるものが一つもない。

 どれも罪にならん。

 罪にならん話ばかりが四つ揃ったことはこの稼業に入ってから一度もない。


 家を出るとき、庭でアシュが受けの九つ目を止めていた。

 明日で十日になる。

 数えているのはアシュで、数を決めたのはフェイだ。

 父親が口を挟む場所ではない。


 向こうから来る、と四日前の夜にミラに言った。

 言った以上、来られる場所に立っていなければ嘘になる。

 行き先は言わずに出た。

 言えば待つ人間が一人増える。


――――――――――――――――――――


 市場は昼前がいちばん混む。


 ガルドは買う物を持たずに歩いた。

 買う物のない男が市場を歩くのは目立つ。

 目立つために来ている。


 ひと月あまりのあいだに町であの男を見た者は数え切れないほどいる。

 うちからは二人が見た。

 ミラと、アシュだ。

 あの男の側から見て、ヴァルドの家はまだ女と子どもの顔しかない。

 それは片手落ちというものだ。


「珍しいな。あんたが昼間に立ってるとは」


 ヨナスが青菜の束を並べ直しながら言った。

 もう並んでいるものを並べ直している。


「町の顔を忘れられちゃ困る」


「忘れられるほど留守にしてんのかい」


 ヨナスは笑って、それから笑いを途中で切った。

 切ってから青菜を一束、ガルドの手に押しつける。


「持ってけ。ミラんとこの籠が重そうだったからよ」


 ガルドは銅貨を置いた。

 ヨナスは受け取って、豆を一掬《すく》い足した。

 ヨナスの店は払った金ともらう物がその場で釣り合う。

 その場で終わって、終わったものは何も残らない。


「宿はまた先まで払ったとよ」


「そうか」


「気に入ったんだろうよ、この町を」


 ヨナスの声は普段どおりだった。

 普段どおりの声で、指がまた青菜へ伸びる。


「なあ、ガルド」


「なんだ」


「……いや。青菜が乾く」


 ヨナスは続けた。


「ガレアの連中、近ごろ広場をうろついてるだろ」


「そうか」


「若えのが子どもの頭を数えててよ。数えてどうすんだか」


 ガルドは頷いただけにした。

 頷けばこの話はここで終わる。


 ヨナスは日除けの布を引いた。

 ガルドは待った。

 待たれると人は喋る。

 喋らなかったのはまだ言葉になっていないからだ。

 言葉にならないものを急かすとその人間は二度と喋らなくなる。


 籠を提げたハンナが通りかかって、ガルドを見つけて足を速めた。


「ヴァルドさん。井戸の縄、見た?」


「見た」


「あんな真っ白なの、あたし嫁いできてから初めてよ」


 ハンナは自分の掌を開いて見せた。


「ここね、何年も痛くってねえ。それが今朝はつるつる。ミラさんにも言ったんだけど」


「そうか」


「言っちゃ悪いけどね、町のお偉いさんはずっと見て見ぬふりよ」


 ハンナは笑って、桶を持ち直して行ってしまった。


 ガルドはその背中を見送った。


 この場で縄の話を悪く言える言葉が、一つも見つからない。

 悪く言えば今のハンナの掌の話を否定することになる。

 あの男は町のいちばん薄いところへいちばん安い物を置いた。


 通りの向こうを見回りが二人、ゆっくり歩いていく。

 市場へ来たときにも同じ二人が同じ向きに通った。

 若い方が広場の子どもを目で数えている。

 数えて、口の中で何か言って、また歩く。


 フェイが何かを始めている。

 始めていることを、フェイはガルドに言っていない。

 言わないなら理由がある。


 去年の夏、アシュが攫われた晩、頼みがあると言いかけたところで言うなと返ってきた。

 もう俺の仕事だ、と。

 あれからこの男の黙っているものを疑ったことは一度もない。


 だからガルドも聞かない。


――――――――――――――――――――


 男は広場の反対側から来た。


 まっすぐには来ない。

 屋台を二つ挟む。

 粉屋の軒下で足を止める。

 それから通りがかりの足でこちらへ折れた。


 だが最初にこちらを見たのは広場の反対の端だ。

 人混みの向こうで一度だけ顔が上がって、下がった。

 あれを見ていない者にはこの足が偶然に見える。


「ヴァルドのお宅のご主人でいらっしゃいますか」


 男は帽子を取った。

 外套(がいとう)の裾が乾いている。

 朝から歩き回った男の裾ではない。


「ガルドだ」


「ロートス・ヴェーバーと申します。ご挨拶が遅れました」


 男が止まった場所を、ガルドは足の裏で測った。


 半歩、遠い。

 こちらが腕を伸ばして、そこからもう半歩ぶん外にいる。

 知らない男と向き合うとき、剣を使う人間はこの距離に立つ。

 商人が立つ距離ではない。

 この男は自分の間合いを知っているのではない。

 こちらの間合いを知っている。

 そういう距離は自分では覚えられん。

 剣を持つ人間のそばに長くいた者だけが身につける。


「名乗る前から、ヴァルドの主人と呼んだな」


「町でお名前を伺わない日がございません。ヴァルドのご主人は道の護衛でいちばん高くつく、と皆さんが自慢なさいます」


「高くはない」


「では皆さんが高く言いたいのでしょう」


 男は笑った。


 ガルドは若い頃から雇い主と値を決めてきた。

 値を決める場では先に喋った方が損をする。

 この男は先に喋る。

 先に喋って、それで損をしていない。

 順序が逆だという話は、家の中で二人から別々に聞いている。

 聞いていても目の前で見ると別の話だ。


 ガルドは体の重心を少し右へ移した。

 癖ではない。

 試した。


 男との距離は変わらなかった。

 足は動いていない。

 肩の向きだけが半分追ってきて、それで距離が保たれている。


「どこから来た」


「都の南、水路沿いの問屋筋におります。鑑札(かんさつ)は行商のものでございます。期限は来年の春まで。領主様のお館にも写しをお預けしてございます」


 男は指を三本、順に折って数えた。


「お疑いでしたらいつでもご覧いただけます。書記の方に私の名を仰っていただければ出てまいります」


 見ろと言われた。


 調べろと言う男を調べても出るものはない。

 出るように置いてある物しか置いていないからだ。


「刈り入れが終わりました。じきに南から絹が上がってまいります」


 男は空を見上げるようにして続けた。


「絹の隊は荷が軽くて金が重い。人手を早く決めたがります。今年は去年より二隊ばかり多いと伺いました」


 去年の南の隊は四つだ。

 二つ増えれば六つになる。

 六つぶんの人手が要る年は、この稼業には十年に一度あるかないかだ。


「都の話か」


「都と、その手前の宿場までの話です。私が申し上げても値打ちはございませんが、宿の帳場より二日は早い話かと」


 ガルドは黙って聞いた。


 値打ちはある。

 二日早ければ人数を先に押さえられる。

 押さえた側が値を決める。

 この稼業で二日は金になる。


 その金を、この男は今、道端に置いていった。

 こちらは何も渡していない。

 返す当てもない。

 護衛の勘定は借りを残さないことでできている。

 返せない形で置かれた物を、ガルドは受け取り方から知らない。


「あんた、何を売りに来た」


「今のところ、何も」


「じゃあなにをしに来た」


「伺っております」


 男は帳面を持つ手を軽く上げた。

 開かない。

 開かないまま、また下ろす。

 手の甲にインクの染みが二つ見えた。

 濃いのが一つと薄くなったのが一つ。


「土地の相場、道の具合、冬の暮らし方。都に持って帰ればそれだけで金になります。私が売り物を決めるのはそれからです」


 嘘がない。

 嘘がないから引っかからない。


「一つ、伺ってもよろしいですか」


「なんだ」


「雪はいつごろ来ますか」


「刈り入れから数えてふた月ほどだ。峠が先に閉まる」


「閉まりますと都までは」


「開くまで待つしかない」


「助かります。荷の段取りがございますので」


 男は帳面を持ち替えた。

 書かない。

 聞いた数字を書かない男を、ガルドは商人の中で初めて見た。


 ガルドは足を組み替えるふりをして、間合いをもう半歩詰めた。


「上の息子が十二だ。剣ばかり振ってる」


「そうですか」


 それきりだった。


 男は頷いて、目を細めて、話を道へ戻した。

 宿場の間にある峠の崩れが直ったこと。

 直したのが誰の金かは今年もはっきりしないこと。


 ガルドは道の話をもう一往復させてから戻した。


「ヤンの先を決めたそうだな」


「先方が人を欲しがっていただけです」


「ああいう口はそう何度もあるもんじゃないだろう」


「ヤンさんには置いていってもらえる場所がございませんでした」


 男は帽子の縁を指で撫でた。


「お宅は違います。ご家族の揃っておいでの家に、私のような者が口を出すことはございません」


 断られた。


 餌に手を出さなかったのではない。

 餌を見て、いい餌だと分かった顔で、それでも要らんと言った。

 しかも理由が正しい。

 この町のどこで喋ってもこの男が正しいことになる理由だ。


 欲しい物を聞かん人間はいない。

 聞かんのはもう持っているからだ。


「一つ言っておく」


 ガルドは声を落とさずに言った。


「うちに用があるなら俺に言え。女子供に回すな」


 男は帽子を胸の前で持ち直した。

 嫌な顔をしない。

 困った顔もしない。


「ご用ができましたらまっすぐ伺います」


 筋を通させたつもりだった。

 通したのはこちらで、受け取ったのは向こうだ。

 いつか戸口に立つ理由を、今この場で渡した。


「奥様にはヤンの報せをお運びいただきました。ご迷惑でなければよいのですが」


「迷惑なら家で言う」


「それは何よりでございます」


 男は喋りながら、一度もこちらの肩の向こうを見なかった。


 人は喋りながら周りを見る。

 通りを見て、値札を見て、人の顔を見る。

 この男は見ない。

 見る必要がないということだ。

 入ってくる前に見終えている。


「長く足を止めさせました。お仕事の邪魔をいたしました」


 男は帽子をかぶり直して、来た向きへ戻っていった。

 背中は急がない。


 ガルドは動かずにそれを見送った。

 見送ってから右手が腰の高さで止まっているのに気づいた。


 剣は提げていない。

 今日は一度も提げていない。


――――――――――――――――――――


 桶屋へ回る道で、ガルドはさっきの往復をもう一度戻した。


 あの男がこちらに聞いたのは一つだけだ。

 雪がいつ来るか。

 あとは全部、向こうが置いていった話だった。


 雪が来れば峠が閉まる。

 閉まればその冬は誰も動かせない。

 人も、荷も、決めた話も。

 閉まる前に済ませたい用がある人間は、いちばん先に雪の日を聞く。


――――――――――――――――――――


 桶屋の主は樽の底を叩いていた。


「井戸の縄な。うちの若いのが夜明けに掛けてきた」


「代は」


「先に置いてあった。前の晩に、台の上だ」


「誰がだ」


「知らねえ。布に包んであった。朝、開けたら縄一本ぴったりよ」


「紙は」


「紙?」


 主は手を止めた。


「入ってねえよ。金だけだ」


「布は」


「そこらの当て布だ。うちの婆さんが継ぎに使っちまった」


 ガルドは礼を言って外へ出た。


 あの男は紙を使う。

 揉め事の言い分も紙に書いて、立会人の欄に自分の名を書き添えた。

 書いた紙は三枚あって、三枚目は本人が持っている。


 今度は書かなかった。


 書けば残る。

 残ればいつか誰かが数えられる。

 縄の代を布に包んだ手は、それを知っている手だ。


 布は継ぎになった。

 金は縄になった。

 町に残ったのは掌が痛くなくなったという話だけだ。


――――――――――――――――――――


 西日が屋根の上まで下りてきた頃、ガルドは家の通りの角で足を止めた。


 この角だとアシュが言っていた。

 すれ違ったあとであの男は通りの真ん中に立って、この細い通りを見ていた。

 三つ数えるあいだだ。


 角の石は乾いている。

 土なら足の跡が残る場所だが、ここは石だ。

 何日立っていても残らない。


 ガルドは同じ場所に立って、同じ向きを見た。


 一つ。


 屋根が見える。

 うちの屋根と、隣の屋根と、その先の物干し。


 二つ。


 竈(かまど)の煙が上がっている。

 この時刻に煙の上がる家は、この通りでうちと隣だけだ。


 三つ。


 風の向きが変わって、庭の音が届いた。

 木が木を打つ音が二つ。

 それから子どもの声。

 高い方はリアで、あやしているのはミラだ。


 三つで足りた。


 家の人数も、飯の刻も、子どもの数も、この角から数えられる。

 塀は関係ない。

 閂(かんぬき)も関係ない。


 十八年、人と荷を守る仕事で金をもらってきた。

 守れると言ったことは一度もない。


 ガルドは息を一つ吐いて、細い通りへ折れた。

 歩きながら、足の数を数えている自分に気づく。


 自分の家の戸口まで十七歩あった。


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