第九話
籠が重い。
ミラは持ち手を握り直して肩へ寄せた。
塩と、豆と、当て布に使う端切れが少し。
中身はいつもと変わらない。
変わったのはこの道を一人で歩いていることだ。
塔の帰りに市場を回るのも、水汲みも、アシュの仕事だった。
どちらも三日前にやめさせた。
やめさせると決めたのはミラで、翌日から籠が重い。
子どもの足は思っていたよりたくさんの物を運んでいたらしい。
閉じこもるのは効かん、稽古を続けて、飯を食って、塔に行け、とガルドは言った。
閉じこもってはいない。
稽古はやめさせていないし、塔へも今までどおり行かせている。
減らしたのは使いだけだ。
使いは、ガルドが挙げた三つに入っていない。
三日で分かったことがもう一つある。
この町であの人に、三日続けて会った。
一日目は会釈だけだった。
通りの向こうで頭が下がって、ミラも下げて、それで終わり。
二日目は道の端で足が止まった。
狭いところで、向こうが先に半歩よけて待っていた。
礼を言わないわけにいかない。
ありがとうございます、と言った。
通りで声を出したのはこれが初めてだ。
三日目は雨で、市場は屋根の下に人が寄っていた。
寄った下でも、あの人は歩いていた。
外套の肩が濡れているのに、帳面だけは懐で乾いている。
三日で、会釈が礼になった。
店で育ったミラは、こういう詰まり方をする客を知らない。
――――――――――――――――――――
四日目は晴れた。
昼を過ぎた市場は人の背の高さが揃わない。
早い時間の混みようとは別の混み方をする。
ミラが給仕をしていた頃は、この時間に店の仕込みが始まった。
嫁いでからは、この時間に家の中にいる女になった。
どちらの側にもいたことがあるので、通りの空気の変わり目だけはよく分かる。
ヨナスの店先で籠を下ろす。
「おう、ミラ。今日も一人か」
「うちの男どもは手が塞がってるのよ」
「ふん」
ヨナスは鼻を鳴らして、籠の上に青菜を一束乗せた。
金を受け取らないときの乗せ方だ。
ミラが銅貨を置くと今度は素直に受け取って、同じ手で豆を一掬い足す。
この店の勘定はいつもこうやって合う。
帳面はどこにもない。
「聞いたか、宿の払いの話」
「ソフィが何か言ってた?」
「二十日ぶん、また先に置いてったとよ。雨の日の朝だ」
隣で干し肉を選んでいた女が顔を上げた。
「今朝も並んでたのよ、粉屋の前に。三人」
「四人だ」
ヨナスが訂正した。
「うちの店の前を通って並ぶんだよ。八百屋の前で人の一生の相談してんだ、あいつら」
「気に入ったんだろうねえ、うちの町を」
「……だろうな」
ヨナスの返事は短かった。
短いだけなら普段どおりだ。
ただ、言ったあとで青菜の束を並べ直した。
もう並んでいるものを並べ直す手つきを、ミラは店で何度も見てきた。
あれは考えごとをしている手だ。
通りの向こうで人の動きが変わった。
変わり方に見覚えがある。
干し肉を選んでいた女が、前掛けの皺を伸ばした。
外套が来た。
男は歩きながら二人に頭を下げ、粉屋の前で足を止めて、待っていた女の話を聞いている。
女の声はここまで届かない。
男の声も届かない。
届かないのに、話が終わったのは分かった。
女が両手で自分の頬を挟んで、それから何度も頷いたからだ。
「三日いただけますか。先方の返事が要ります」
そこだけ聞こえた。
声を張ったのではない。
周りが静かになっただけだ。
男はこちらへ歩いてきた。
ミラの前で止まり、籠ではなく、ミラの目の高さに合わせて頭を下げる。
「ミラさん」
名前を呼ばれて、ミラは持ち手を握り直した。
さっきヨナスが通りの端まで届く声で呼んだ。
それを聞いていたのだ。
聞いたばかりの名前を、聞いたばかりだと分からない置き方で使う人だ。
「昨夜、御者が戻りました。ヤンさんは無事に乗り継がれたそうです。次の馬車の宿の名前まで、書いて寄越しました」
「そう……。よかった」
安心が先に来て、そのあとで、なぜ自分が先に聞かされているのかという疑問が来た。
疑うのが後になる。
この人と話すといつもそうなる。
「ハンナさんに、奥様からお伝えいただけませんか」
「あたしが?」
「私が申し上げると礼の話になってしまいます。礼はもう十分にいただきました」
断る理由がどこにもない。
ミラは頷いた。
頷いてから、頷くまでが早すぎたと思う。
「重そうですね。お持ちしましょうか、と申し上げたいところですが、市場の真ん中で商人が女の荷を持つとあらぬ噂の種になります」
男は笑った。
順序が逆だと実家の店で気づいたのに、気づいたところで何も変わらない。
変わらないと分かっていて、それでもミラの肩は少し下りた。
「うちは手が多いので」
言ってしまってから、ミラは自分の声を聞いた。
手の多い家の女が、四日続けて一人で市場に立っている。
荷の話に答えたつもりだった。
答えの中に、家の人数が入っている。
店にいた頃、一杯多く注がせる客の手口はいくつも覚えた。
注ぐ側に先に口を開かせるやり方だけは、見たことがない。
「では、私はここで」
男はそれ以上何も足さなかった。
都の話も、飴の話も、繕い物の褒め言葉も出ない。
子どもの話も出ない。
外套が人の間へ入っていくのを見ながら、ミラはそのことを考えていた。
町へ来てからひと月近い。
そのあいだ、この人は町じゅうで子どもの話をしてきた。
誰の子が何を欲しがるか、誰の子が字を覚えたがるか。
広場で飴を配り、名前を聞いて、聞いた名前をもう一度呼ぶ。
ミラにだけ、子どもの話をしない。
初めて会った日は違った。
実家の店で、この人はリアに目の高さを合わせて、言葉が増えるいい季節だと言った。
あれから十日あまり経つ。
今日は末の子のことも、上の二人のことも、一度も口に出さなかった。
広場では誰の子の名前も呼ぶ。
うちの子の名前だけ、一度も出さなかった。
――――――――――――――――――――
夜の卓は椀が五つ。
ガルドが帰っていると家の音の重さが変わる。
戸の閉まる音も、椅子の引かれる音も、一段低いところで鳴る。
「町で会った」
汁をよそいながら、ミラはそれだけ言った。
この家ではその日のうちに言う。
「どこでだ」
「市場。名前で呼ばれたわ」
匙の動きが止まった。
止まったのはアシュのほうだった。
ガルドは止めずに汁を一口飲んでから椀を置いた。
「何を話した」
「ヤンが無事に乗り継いだって。それをハンナさんに伝えてくれって」
「お前にか」
「あたしが言えば礼の話にならないから、って」
ガルドは箸を置いた。
置き方が静かすぎる。
「うまいやり方だ」
「褒めるところなの、そこ」
「褒めてはおらん」
レインが汁の椀から顔を上げた。
「その人、母さんに何か売ろうとしたのか」
「何も。荷が重そうですね、って言われただけよ」
「じゃあ何しに来たんだよ」
誰も答えなかった。
アシュが匙を持ち直して、それから顔を上げた。
「母さん」
「なあに」
「その人、母さんの名前、どこで聞いたの」
「ヨナスさんが呼ぶのを、そばで聞いてたんでしょ」
「……うん」
アシュはそれきり何も足さずに汁へ戻った。
聞きたいことだけ聞いて、あとは何も足さない子だ。
リアが匙を叩いて、卓の上の椀を三つ並べようとして、二つ目で崩した。
崩してから、兄の顔を見上げる。
「あしゅ」
「はいはい」
アシュが匙で汁の実を一つ取って、リアの椀に落とした。
「あんたも呼んでもらいなさいよ」
「毎日教えてんだよ。れ、い、ん、って」
リアは兄を見て、口を丸くして、それから「れ」の形のまま何も言わずに椀へ戻った。
レインの番はまだ来ない。
家の中では、名前が一つずつ増えていく。
外では、名前が一つずつ集められていく。
「アシュ。剣の十日は、今日で何日目」
「六日目。昨日は雨だったから、数に入らない」
「まだ半分ね」
「うん」
この家には今、日を数えている人間が二人いる。
――――――――――――――――――――
使いを代わって五日目の夕方、ミラは井戸へ行った。
井戸の水は夕方がいちばん冷たい。
釣瓶の縄を手繰る。
二十を数えるほど手繰ると桶が上がってくる。
思っていたより腕を使う。
毎朝これをやっていた七つの子のことを、上げ切ってから思い出した。
縄の途中が毛羽立っている。
握ると細かい繊維が掌に刺さって、離してもしばらく痒い。
「そこ、みんな痛いって言うのよ」
ハンナが桶を提げてやってきた。
声が三軒先まで届くのは相変わらずだ。
「去年から?」
「もっと前。誰の物でもないから、誰も直さないの」
ハンナは自分の桶を石の縁に置いて、当たり前のようにミラの手から縄を取った。
取ってから、ああ、と思い出した顔をする。
「ミラさん、坊やは。もう何日も見てないわ」
「しばらくあたしが来るわ」
「あら。……そう」
ハンナはそれ以上聞かなかった。
聞かないのはこの人の気の回し方で、悪気がないのは隣に住んで十五年で分かっている。
ミラは息を一つ整えてから口を開いた。
「ヤンのことだけど。昨日、市場で聞いたの。無事に乗り継いだって」
「ええっ」
「御者が戻って、次の宿の名前まで書いて寄越したそうよ」
ハンナの顔が音を立てるように変わった。
前掛けで両手を拭いて、それから両手で口を覆う。
「よかった……。あんた、それ誰から」
「市場で」
「あの人ね」
ハンナは井戸の縁に手をついた。
「わざわざ調べさせたのよ、うちの町の子だからって。ミラさん、あの人、都の商いの人よ。あたしらの子の乗り継ぎ一つに、人を使ってくれるのよ」
「そうねえ」
「口利きのときにね、あたし言ったのよ。そこまでしてもらう筋合いはありませんって。そしたらね、途中まで運んだ荷は荷じゃありませんって」
ハンナは自分で言って、自分で感心している。
人の言葉をそのまま持ち歩けるのはその言葉を信じている人だけだ。
この井戸端で、ミラはハンナの持ち歩く言葉を数え切れないほど受け取ってきた。
ハンナが自分で信じていない言葉を言ったことは、たぶん一度もない。
ありがとう、が真っ直ぐあの男へ飛んでいく。
運んだのはミラだ。
運ばせたのはあの人だ。
礼の話にしたくないと言った口が、いちばん礼の集まる形を選んでいる。
「そうね」
声はいつもどおりに出た。
いつもどおりに出すために、ミラは口を開く前に息を整えた。
井戸端でこの人と喋るのに息を整えた日は、一日もなかった。
持っていかれたものの名前が、今日は分かる。
気安さだ。
道の方で砂利の鳴る音がした。
「ロートスさん!」
ハンナが声を上げて手を振る。
男は道の真ん中で足を止めて、こちらへ頭を下げた。
井戸端までは入ってこない。
広場の井戸と違って、ここへ汲みに来るのは近所の女ばかりだ。
男は道から声をかけて済ませる。
あの人はそれを知っている。
「今ミラさんから聞きました。ヤンのこと」
「よい報せは、早いほうがようございます」
「見てちょうだいよ、この縄。ここんとこ何年も毛羽だらけ」
ハンナは笑いながら縄の途中をつまんで見せた。
男は道から目を細めて、それを見た。
「なるほど」
「桶屋に言っても井戸の縄は誰の物でもないからねえ」
「誰の物でもない物は、誰の仕事にもなりません」
男は頷いた。
頷いただけだった。
ミラは自分の足が動いたのを、動いてから知った。
半歩。
男と、井戸のあいだへ。
いや、正確には、男と、井戸の向こうの細い道のあいだへ。
その道の先に、隣家があって、その隣がうちだ。
誰に言われた足でもない。
止めようとして止まる種類の足でもなかった。
男は道の上にいて、こちらは水場にいて、間にあるのは石を敷いた三歩ぶんだ。
三歩を半歩詰めたところで、何がどうなるわけでもない。
「では、お邪魔をしました」
外套は道を戻っていった。
来たときと同じ速さだった。
ハンナが柄杓で桶の水を移しながら、機嫌よく喋っている。
ミラは相槌を打った。
打ちながら、掌の痒いところを親指で押さえていた。
――――――――――――――――――――
その夜、ガルドが土間で腕を洗いながら言った。
「近いうちに町へ出る」
「顔を見に?」
「見ておく」
「話しかけるの」
「いや」
ガルドは布で腕を拭いた。
「向こうから来る」
ミラは前掛けの紐を解きながら、その言い方について考えた。
断定だった。
この人は、分からないことを分かるとは言わない。
六日目と七日目は雨だった。
雨の日は受けの十本を数に入れない決まりだから、アシュの指は七つで止まった。
ミラの方の数は止まらない。
外に出る役に休みはなく、水は雨でも汲みにいく。
うちの数え方と町の数え方は、こうやって少しずつずれていく。
八日目は晴れて、何も起きなかった。
市場でも井戸端でも、あの人は誰にでも同じように頭を下げていた。
縄の話をしたのが三日前だということを、ミラはその日のうちに一度も思い出さなかった。
――――――――――――――――――――
九日目の朝、井戸に新しい縄が掛かっていた。
白い。
巻きの癖が残っていて、輪の形のまま少しだけ浮いている。
朝いちばんに来ていたらしいハンナが、桶を提げたまま縁に立っていた。
「桶屋が夜明けに掛けてったって」
ミラは縄に手を伸ばして、途中で止めた。
「代は」
「もらってます、って言うのよ、あの子。誰からって聞いたらもらってますって、そればっかり」
桶屋の若い衆はまだ十五、六だ。
口止めをされたのではないだろう。
口止めされた子は、もっと得意そうな顔で黙る。
あの子はたぶん、本当に知らない。
代を払った人が、名乗らずに払える形で払っただけだ。
ハンナは笑った。
笑って、それから少しだけ声を落とした。
「まあ、分かるけどねえ」
分かる、で終わる。
誰も名前を言わないのに、みんな同じ名前を思い浮かべている。
四日置いたのだと、ミラは思う。
あいだに雨が二日ある。
次の朝に掛かっていれば、町は誰の仕業かを声に出して言った。
四日置けば、みんな心の中で言うだけになる。
店の娘だった頃、名前を言わずに金を置いていく客を何人か見た。
あれは全部、酔った男の見栄だった。
見栄でない置き方をする人を、ミラは初めて見ている。
ガルドは今朝もう町へ出ていった。
行き先は言わなかった。
水を汲む順番が回ってきた。
新しい縄は掌に食い込まない。
毛羽もない。
手繰る回数はいつもと同じで、なのに腕が楽だった。
釣瓶が軽く上がってきて、水は一滴も零れずに桶へ移る。
井戸端で誰かが笑った。
今朝の縄の話で、みんな機嫌がいい。
ミラも笑った。
笑いながら、新しい縄をもう一度握り直す。
桶が上がりきるまで、掌はどこも痛くならなかった。




