第八話
荷馬車が出るのは町の北の外れからだ。
刈り入れが五日早まって、ヤンの出る日も五日早まった。
朝のうちに人が集まると聞いていたのでアシュは受けの十本を先に済ませてから家を出た。
今日で三日目になる。
雨は降っていないから数はそのまま三つ目に進んだ。
数え違いを嫌う人に渡す数だからこちらも間違えないようにしている。
外れの空き地には思ったより人がいた。
子どもが六人、大人が十人ばかり。
荷馬車は幌のない古いやつで、麦の袋が半分ほど積んである。
御者は隣町まで行く男で、そこから先はまた別の馬車に乗り継ぐらしい。
ヤンは荷台の縁に座っていた。
いつもの服の上に、見たことのない上着を着ている。
袖の色が本体と少しだけ違う。
マレンが繕った上着だ。
「アシュ」
呼ばれて近くまで行った。
ヤンは膝の上に布の包みを二つ抱えている。
「これ、みんなから。塩と、干した果物と。あと針」
もらった物は全部で四つあった。
塩はヨナスの店の分。
干した果物はハンナが夏に干したやつで、去年のがまだ残っていたらしい。
上着はマレン、針と糸が母。
誰も金を出していない。
出さないと決めたのはハンナで、理由も本人が言い切っていた。
金を集めると出せない家が出る。
出せない家の子が肩身の狭い思いをする。
だから家にあるものを一つずつ持たせる。
「うちの母さんの」
「知ってる。昨日、縫い方も教わった。袖から駄目になるんだってな」
ヤンは笑っていた。
笑いながら、包みの結び目を何度も確かめている。
中身を確かめているのではない。
落とさないかどうかを確かめる手だ。
ハンナが荷台の横で鼻をかんでいた。
ヨナスが青菜を出そうとして、三日で腐ると誰かに笑われている。
「腐るってお前、三日だぞ。都まで十日だ」
「洗って持たせりゃいい」
「洗った青菜が十日もつかよ」
ヨナスは結局、青菜をやめて塩をもう一包み足した。
包みの結び目が固くて、ヤンが受け取るときに指を二本かけた。
足しながら、これは店の分だからなと誰にでもなく言っていた。
金を出したことにはしたくないらしい。
テオが「都に着いたら手紙書けよ」と言って、それから「あ、書けねえのか」と自分で気づいて黙った。
子どもの黙り方は早い。
誰も助けないまま、しばらく荷馬車の軋む音だけがした。
沈黙を破ったのはヤンだった。
「テオ。俺が書けるようになったら、お前に書くよ」
「読めねえよ、俺」
「じゃあ二人で誰かに読んでもらう」
それで輪が笑った。
笑わせたのが出ていく側だというのは、たぶん誰も数えていない。
アシュは懐から紙を出した。
昨日の夜に書いたものだ。
塔の反古紙を一枚もらって、真ん中に大きく三文字だけ書いた。
「これ」
「なんだ」
「ヤンの名前」
ヤンが紙を受け取って、しばらく見ていた。
上下を一度ひっくり返して、それから元に戻した。
「これ、俺か」
「うん。左から読む。帳面をつけるとき、いちばん先に書くのが自分の名前だと思う」
「……読めねえけど」
「読めなくていい。形を覚えれば書ける」
ヤンは紙を目の高さまで持ち上げて、それから畳んだ。
畳み方が丁寧すぎて、折り目が真ん中で少しずれた。
ずれたまま、上着の内側にしまった。
「塔の爺さんは、なんか言ってたか」
「ヤンのことは話してない」
「そうか。……話しといてくれよ。俺、都で字を覚えるからって」
「わかった」
「なあアシュ」
「うん」
「都って、遠いのかな」
「馬車で十日って聞いた」
「十日か。……歩いたら」
「歩いたら、もっとかかる」
「そうだよな」
ヤンはそれで納得した顔をした。
歩いて帰ってくる道のことを考えていたのだと気づいたのは、馬車が出てからだ。
「アシュ」
「うん」
「俺、字が読めるようになったら、いちばん最初に書くのはこれにする」
答える前に、御者が手綱を鳴らした。
アシュは輪の外に下がった。
下がった位置から見ると人の集まりの形がよく分かる。
ハンナが真ん中にいる。
その隣にヨナスとマレンがいて、少し離れて伯母が立っている。
伯母は最後まで前に出なかった。
一年ぶん土間を貸した人が、いちばん後ろに立っている。
ヤンが一度だけそちらを見た。
伯母は顎を引いただけで、手は上げなかった。
あの家では、そういうやり方で足りていたのかもしれない。
輪の一番外に、あの男が立っていた。
前には出ない。
手も振らない。
誰かに声をかけられれば頷いて、それだけだ。
御者のところへは一度だけ行った。
紙を一枚渡して、二言だけ話して戻ってきた。
あとで聞こえてきた話では、問屋の戸口まで届けるように書いた紙らしい。
金は御者が受け取っていた。
誰の金かは、誰も聞かなかった。
聞けば答えるだろうし、答えは嘘でもないだろう。
誰も聞かないから答えを聞いた者もいない。
荷馬車が動いた。
ヤンが荷台の縁から手を上げて、子どもたちが走ってついていく。
テオが三十歩ほど走って止まった。
止まったところで、みんなも止まった。
道に轍が二本残った。
乾いた土だから線は浅い。
浅い線が北へまっすぐ伸びて、坂の途中で見えなくなる。
馬車が坂を越えると音が先に消えて、それから形が消えた。
去年の夏、攫われて荷車で運ばれたとき、同じ形のものを追われる側から見たことがある。
あのときの轍は追う手がかりだった。
今日の轍は追う相手がいない。
同じ二本の線でも、意味が入れ替わる。
アシュは坂の上を見ていた。
見ているうちにヤンが名前の紙を上着の内側にしまった手つきを思い出した。
あの紙は、これから誰の手にも見せられずに旅をする。
紹介状も同じだ。
中身の分からない紙を二枚持って、あの子は北へ行く。
帰りがけにヨナスがそばへ来て、顎で坂の方を示した。
「あの人、御者に金を渡したぞ」
「見ました」
「あれで問屋の戸口まで送ってもらえる。ヤンが一人で乗り継ぐより安全だ。……安全なんだよな」
ヨナスは自分の言葉に自分で頷いた。
頷き方が、確かめる形をしていた。
――――――――――――――――――――
人がばらけたのは日が高くなる前だった。
アシュは籠を抱えて市場の通りへ戻った。
朝の見送りで人が出払っていた分、通りは戻り客で混んでいる。
肩と肩が触れる幅しかない場所が二箇所あって、そのうちの一つが桶屋の前だ。
通りを変えることはできた。
一本北へ回れば人の少ない道がある。
回ろうとして、やめた。
急に道を変えれば、変えたことが残る。
二十日見てきて分かったのは、あの人がいちばんよく見るのは物ではなく人の動きの変わり目だということだ。
いつもの道をいつもの速さで歩く。
それが今日いちばん安全なやり方だった。
前を行く女が籠を持ち替えて、後ろの男が舌を打った。
混んだ通りでは人の速さがそろわない。
そろわない中に、同じ速さで動くものが一つだけある。
向かいから外套が来た。
布の裾の動き方で、誰なのかがすぐに分かった。
急がない足だ。
二十日と少し前から、この町でいちばん急がない足で歩いている人間はひとりだけだ。
アシュは籠を持ち直して、目を落とした。
見なければいい。
見れば見られる。
顔を上げないというのはそれだけの話で、難しいことは何もない。
難しいのは、上げたくなるのを止めることだ。
距離が詰まった。
外套の裾が籠の縁をかすった。
匂いがした。
油と、革と、それから紙の匂い。
紙の匂いというのは正確ではない。
インクだ。
乾いたインクが束になっている時の、あの少し苦い匂いがした。
毎日書いている人間の匂いだ。
肩がすれ違う。
声はかけられなかった。
こちらを見た気配もない。
ただ、足音が一度だけ遅くなった。
半歩ぶんの遅れだった。
遅れて、それからまた元の速さに戻った。
立ち止まったわけではない。
止まっていないから何もなかったことになる。
アシュは五歩進んでから振り返った。
男は通りの真ん中で止まっていた。
こちらを見ていない。
見ているのは、アシュが歩いてきた方向だ。
桶屋の角を曲がった先の、細い通り。
その先に何があるかは、この町の人なら誰でも知っている。
井戸があって、隣家があって、その隣がヴァルドの家だ。
男は三つ数えるくらいの間そこを見て、それから歩き出した。
配る目ではなかった。
笑ってもいなかった。
二十日のあいだ、あの人が笑わないところを初めて見た。
桶屋の主が店先から出てきて、通りの真ん中に立っている外套を見た。
見てから何も思わずに桶を並べ直した。
誰も何も思わない。
それがこの二十日の結果だ。
アシュは籠を抱え直して家へ戻った。
歩く速さは変えなかった。
変えれば、変えたことが向こうに残る。
――――――――――――――――――――
夕方、父が帰るのを待って土間で話した。
「すれ違った」
「どこで」
「桶屋の前。通りが狭いところ」
「話しかけられたか」
「されてない」
「顔は」
「見てない。下を向いた」
父は腕を洗う手を止めて、それからまた洗い始めた。
「よくやった」
「でも、見られてないとは言えない」
「見られたか」
「分からない。足音が半歩ぶん遅くなった」
手の動きが止まった。
今度は長かった。
「遅くなっただけか」
「うん。それで、すれ違ったあと通りの真ん中で止まって、こっちの通りの方を見てた。三つ数えるくらい」
「こっちの通り」
「井戸のある方。その先が家」
父は布で腕を拭いて、土間の柱に背中を預けた。
その姿勢のまま、しばらく何も言わなかった。
「フェイには話したのか。一昨日の井戸端のこと」
「話した。昨日のうちに」
「なんて言われた」
「書いておく、って」
「書くだけか」
「書くだけだ、って言ってた。今は書くのが仕事だって」
父が短く息を吐いた。
笑ったのではない。
納得した時のこの人の音だ。
「あの男と同じ道具だな」
「うん。僕もそう思った」
「紙で来る相手には紙で並ぶしかない。それでいい」
「父さん」
「なんだ」
「僕が広場に行かなければ、少しは遅くなる?」
父は首を振った。
「変わらん。お前が家にいれば、家を見に来るだけだ。閉じこもるのは効かん」
「じゃあ、どうすればいい」
「今のままだ。稽古を続けて、飯を食って、塔に行け。生きてる家は崩しにくい」
崩しにくい、という言い方をアシュは頭の中で二度なぞった。
守れる、とは言わなかった。
この人は言えないことを言わない。
母が台所から顔を出して、二人を見て、それから何も聞かずに戻っていった。
聞かないのは、あとで聞くと決めている時の顔だ。
「アシュ」
少ししてから、台所の中から声がした。
「明日の朝、ハンナさんのところへ塩を届けにいくけど、あんたは来なくていいわ」
「うん」
「井戸も、しばらくは母さんが汲む」
言い方は普段と同じだった。
同じ言い方で、決めたことだけを渡してくる。
この家の守り方はいつも言葉が短い。
――――――――――――――――――――
夜、卓の椀が下げられてから、アシュは指を三本折った。
十日のうちの三日。
朝の十本は手が笑わなかった。
数だけは順番に進んでいる。
二十日と少しの間に、あの男が町のどこに触ったかを並べてみる。
門。
宿。
市場。
井戸端。
領主館。
荷車の車軸の揉め事で書いた紙。
ヤンの奉公先。
北へ出ていく荷馬車。
触っていない場所が一つだけある。
塀の内側だ。
家の中には、まだ何も入っていない。
飴の包みは寝床まで来たが、食べて終わりだったし、話は井戸端で止まっている。
二十日と少しで、町は男の側に立った。
立たせたのではない。
町が自分で立った。
何かをしてもらった人は、してくれた人の側に立つ。
簡単な仕組みほど、崩すのは難しい。
その足が今日、初めて家の通りの方を向いた。
数える目は物を数える目だ。
いくつあるか、どれが上物か、どこにあるか。
その目が広場から市場へ動いて、市場から井戸端へ動いて、今日、うちの通りの角で止まった。
止まったのは三つ数えるあいだだけだ。
三つ数えるあいだで足りるということは、もう数え終わっているということだ。
布団に入っても、インクの匂いが鼻の奥に残っていた。
匂いは記憶と同じところにしまわれるらしい。
前世でも、紙の匂いのする場所には長くいた。
あの匂いのする人間は、決めるのが仕事ではない。
決めた人に渡すのが仕事だ。
渡す相手がどこかにいる。
ヤンの上着の内側には、名前の紙と紹介状が並んで入っている。
片方は読めないが、書いた人間の顔をよく知っている。
もう片方は読めないし、書いた人間の顔しか知らない。
書いた場所と書かなかった場所を、あの男は分けて持っている。
紙に書いたものは町に渡した。
町の人に見せる紙に書かなかったことを、毎晩二階で自分の帳面に書いている。
フェイの帳面と、あの男の帳面。
片方は町を守るために、もう片方は町を測るために、同じ町のことを書いている。
どちらも嘘は書いていない。
戸の方で音がした。
閂を確かめる音だ。
昨日までは一度だった。
今夜は二度した。




