第七話
夕方の井戸端は女たちの時間だ。
昼のあいだは水を汲む順番でしか人が集まらないのに、日が傾くと立ったまま話す場所になる。
汲み終わった桶を足元に置いて、置いたまま長く喋る。
桶が並んでいる数で、その日の話の長さが分かる。
桶を持って家を出た。
通りの先からフェイが来た。
この時刻に見かけるのは珍しい。
珍しいと思ったが、理由の見当はつかない。
肩に何も担いでいない。
稽古ではなく仕事の途中だ。
「十本は」
「通りました。今日で一日目です」
「一日目か」
フェイはアシュの右手を一度見た。
開いた指の形を見ただけで、それ以上は聞かない。
十本受けて手が笑わない日が十日続いたら、フェイの前で一本振らせてもらえる。
昨日フェイがそう決めた。
「一つ聞いていいですか」
「言え」
「雨の日はどう数えますか」
フェイは足を止めて空を見た。
雲は薄い。
明日も降らない空だ。
「降ってる日に鉄を振る馬鹿はいない。雨の日は入れん」
「その日は」
「無かったことにする。数は減らさん」
アシュは息を吐いた。
吐いてから、吐くのが早すぎたと気づく。
「そのかわり、降ってない日に受けなかったら一日目に戻す」
「……戻るんですか」
「戻す。雨はお前が決めたことじゃない。休むのはお前が決めたことだ」
指を折って数えかけて、やめた。
折れる指はまだ一本しかない。
一本のうちに戻るのは何でもない。
九本まで折ってから戻る日のことを考えて、腹の底が少し冷えた。
「分かりました」
「数えるのは俺だ」
フェイはそれだけ言って通りの先へ歩いていった。
背は大きいのに足音が小さい。
小さい足音のまま桶屋の角を曲がって見えなくなった。
井戸に着くと桶が四つ並んでいた。
母とハンナが釣瓶の横に立っていた。
水を汲むのはアシュの役で、この時刻に来ると必ず誰かの話の途中に立つことになる。
話は聞こえるが、こちらから入る必要はない。
柄杓を借りて桶を満たしながら、アシュは順番を待った。
「刈り入れが五日早まるってさ」
ハンナの声はいつも張っている。
悪気は一つもないのに、井戸の向こう三軒まで届く声だ。
「じゃあヤンの出るのも」
「早まるよ。だからね、今のうちに決めちまおうと思って」
ハンナが言い出した見送りの話だった。
金を集めるのはやめる。
集めると出せない家が出るからだ。
代わりに、それぞれの家にあるものを一つずつ持たせる。
繕った上着、干した果物、塩をひと包み。
母は針と糸を出すことにしたらしい。
「奉公人はね、袖から先に駄目になるの。うちの人がそうだった」
「じゃあ縫い方も教えてやらないと」
「教えるわよ。あの子は覚えが早いから」
「字はどうすんだろうね。あの子、読めないんだよ」
「紹介状も見てないって言ってたわね」
「見ても分からないってさ。行ってから覚えるって。あたしはそれがいちばん心配なんだ。読めない子が紙を一枚持って、遠くへ行くなんてさ」
ハンナは自分の子のことみたいに言った。
ヤンとは血のつながりも何もない。
それでも心配の仕方が本気だ。
この人はいつもそうだった。
去年の夏、アシュが攫われた一件のあとも、家に上がり込んで三日ぶんの汁を作って帰っていった。
人の家の心配を自分の家のことのようにやる。
やりすぎる日もあるが、間違ったことは一度もしていない。
水の面が揺れて、桶の縁で音が立った。
アシュは二杯目を汲みながら、ヤンの手のひらの皮のことを思い出していた。
水汲みで厚くなった場所は、針を持つ場所とは違う。
都に着けば、あの手の厚い場所が少しずつ移っていく。
「そういえばさ」
ハンナの声の調子が変わった。
変わったというより、話を一つ横に置いて次を出す時の、あの軽い間だ。
「あの人、ミラさんとこの下の坊のこと聞いてたよ」
柄杓の水が桶の外に少し落ちた。
「あの人って」
「二階のお客さん。ロートスさん」
母の声はいつもと同じ高さだった。
同じ高さのまま、次の言葉が出るまでに半呼吸ぶん空いた。
「なんて聞かれたの」
「聞かれたっていうかね。この町に珍しい目の色の子がいるって伺いました、って言うのよ。あたし、最初なんの話かと思ったよ」
「……そう」
「そしたら、一人おられるでしょう、って。ああ下の坊だって思うじゃない。だから言ったの。青いのよって」
ハンナは笑っていた。
本人はいい話をしている顔だ。
「あの人、こう言ったのよ。そういうお子さんは、周りが大事にするものです、って。いい言い方だと思わない? 珍しいねって言う人はいるけどさ、大事にされてるでしょうねって言う人はいないもんね」
「……ええ」
「ミラさんも大変だったろうって言うから、そりゃもう、って話しちゃった。生まれた晩のこととか」
「生まれた晩の」
「大変だったって話しただけよ。産婆さんが遅れて、治癒師の人が先に来たとか、そのくらい。……あら、いけなかった?」
「いけなくないわ」
母は笑った。
店で客に向ける笑い方だった。
アシュはその笑い方を知っている。
困っている時にいちばんきれいに出るやつだ。
アシュは三杯目を汲んだ。
汲む必要はもうなかったが、手を止めると顔を上げることになる。
顔を上げれば、二人がこちらを見る。
「ハンナさん」
母の声だ。
「あの人、うちの人のことは聞いた?」
「ガルドさん? 聞かないよ。ああでも、上のお兄ちゃんが剣を習ってるって話はしたかな。あれは前の日だったかね」
「そう」
「なんかあった?」
「ないわ。何もない」
母は前掛けで手を拭いて、ハンナの腕を軽く叩いた。
「針、明日持っていくわね」
「そうしてやって。……あたしはね、あの人がもっと早く来て奉公先を世話してくれてたら、ヤンもあんなに長く待たされなかったのにって思うよ」
「そうね」
「ほんとにそう思うよ。……アシュ、背が伸びたねえ」
ハンナは桶を二つ提げて、片方だけ水を跳ねさせながら帰っていった。
去り際にアシュの頭へ手を置いていった。
この人の手はいつも温かい。
温かい手のまま、今日いちばん大事なものを外へ置いてきた。
――――――――――――――――――――
帰り道の路地は狭くて、桶が両側の壁に当たりそうになる。
母が前を歩いて、アシュが後ろについた。
「重い?」
「大丈夫」
本当は指の付け根が白くなっていた。
それ以外の言葉は出なかった。
母は一度も振り返らずに歩いた。
歩き方が速くもならず、遅くもならない。
速さを変えないというのは、この人が中で何かを抱えている時の歩き方だ。
アシュは桶の水面を見ながら並べ直していた。
ハンナに悪気はない。
嫌な相手が言ったのなら、家は正しく怒れる。
怒れる相手が一人もいない。
それに、ハンナから聞き出すのが速いのは町の誰でも知っている。
配る時も、聞く時も、行き先は同じ一人になる。
二十日前に針を配った先と、今日の話の出どころは重なっている。
もう一つあった。
あの男は、聞く前に持っていた。
珍しい目の色の子がいるって伺いました、と言ったのなら、伺った先が先にある。
ハンナが答えたのは色の名前だけだ。
いる、という事実の方は、井戸端に来る前から手の中にあった。
嘘の混じらない話が、いちばん確かに伝わる。
だからあの男は、嘘をつかない人を最初に選んだ。
水面が揺れて、自分の顔の形が崩れた。
崩れたまま、アシュはそれを見ていた。
「母さん」
「なに」
「怒ってる?」
「怒ってないわ。……怒れたら楽なんだけどね」
桶の水が路地の壁を映して、揺れるたびに色が濃くなる。
母の草履が石を踏む音だけが前にある。
路地を出るまでそれ以上どちらも喋らなかった。
――――――――――――――――――――
卓に椀が五つ並んだ。
夕食の間、母は普段どおりに喋った。
リアが落とした匙を三度拾い、兄の汁を先によそった。
兄が広場でガイと打ち合った話をして、父が一度だけ相槌を打つ。
リアはパンの耳を握って離さない。
握ったまま眠りかけて、取り上げられても泣かなかった。
落ち着いた声だ。
落ち着かせている声でもある。
卓が片づいてから母は父の前に座り直した。
「アシュ」
名前を呼ばれて、アシュは立ちかけた膝を戻した。
「あんたも聞いてたわね。井戸端で」
「うん」
「じゃあ、いっしょに聞いて」
母は井戸端の話を順に並べた。
ハンナの言葉をほとんどそのまま使った。
自分の感想を足さない並べ方だった。
この人は店で育っている。
客の言ったことをそのまま伝えるのが、いちばん間違いが少ないと知っている。
ハンナを悪く言う言葉は一つも混ざらなかった。
父は最後まで口を挟まなかった。
聞き終わってから卓の木目を一度だけ指でなぞった。
「悪気はないな」
「ないわ。一つもない」
「そうだろうな」
父はもう一つだけ聞いた。
「ハンナがあの男と最初に話したのはいつだ」
「二十日前。針をもらった日だと思うわ」
父は指を二本立てて、それから下ろした。
数えたのだと分かった。
この人は覚えるとき、先に日を置く。
父は深く息を吸って、それから吐いた。
怒っている顔ではない。
怒る場所を探して、見つからなかった顔だ。
「レイン」
「なに」
「お前が剣を習ってるって話も出てる。誰が言ったかは分かってる」
「ハンナさんだろ」
「そうだ。責めるな。挨拶も変えるな」
「変えねえよ。でも、なんで俺の剣の話まで」
父は答えなかった。
兄が黙って、それから箸置きを指で回した。
この兄は考えている時に手の中の何かを回す。
「あのさ」
回すのをやめて、兄が顔を上げた。
「あの人、俺のこと聞いてどうすんだ。俺の剣なんて誰の得にもならねえだろ」
「得になる話だけを聞く奴は素人だ」
父が言った。
「町を測る奴は、得にならん話から聞く。そっちの方に嘘が混じらん」
「じゃあ俺の剣の話は、嘘が混じってねえってことかよ」
「そうだ」
兄が眉を寄せた。
分かりたくない顔だ。
「アシュ」
「うん」
「今日から一つ増やす。誰かがお前のことを聞いていたと分かったら、その日のうちに俺に言え。人から聞いた話でもいい」
「分かった」
「聞かれた話でなくてもいい。お前が変だと思ったら、それも言え」
アシュは頷いた。
頷いてから、昨日も同じことを言われたと気づいた。
町で知らない大人に声をかけられたら、うちの誰でもいい、言え。
話しかけられただけでいい。
何もされてなくてもだ。
フェイの言葉と父の言葉は、中身がほとんど同じだった。
二人は昨日も今日も会っていない。
会っていない二人が、同じものを見ている。
「母さん」
アシュは湯気の落ちた卓の上で声を出した。
「ハンナさんには何も言わないほうがいい」
母の手が止まった。
「なんで、そう思うの」
「言えば、ハンナさんは気をつける。気をつけている人の話し方は変わる。変わったのが向こうに伝わる」
言ってから、子どもの言い方ではなかったと自分でも思った。
母は何秒か黙って、それから小さく笑った。
「同じこと考えてた」
「うん」
「あんたと同じ考えに行くのは、ちょっと嫌ね」
「僕も嫌だ」
父が鼻から短く息を出した。
笑ったのだと分かるまでに少しかかった。
リアが卓の下からアシュの膝を叩いた。
「あしゅ」
「なに」
「あしゅ」
用はないらしい。
昨日覚えた音を、覚えたから言っているだけだ。
重い話が並んだ卓の上で、それだけが軽い。
――――――――――――――――――――
夜、兄の寝息が落ちてからもアシュは目を開けていた。
今日分かったことは一つだけだ。
自分は一度も話しかけられていない。
屋台四つぶんの距離を守って、飴も断って、輪にも入らなかった。
それでも名前と目の色は町の中を歩いて、あの卓に届いた。
近づかないという約束は、近づく側の足しか縛らない。
向こうは近づかなくていい。
町の人がしゃべってくれる。
しゃべった人は、いいことをした顔で帰っていく。
塔で椀に膜を張るときのことを思った。
面が揃っていれば、どこを押しても指は沈まない。
あの男は揃った面の上を歩きながら、下の水のことだけを聞いている。
前の世界にも似た仕事があった。
名簿を作る仕事だ。
作る側は名前を集めるところまでしかやらない。
使うのは別の人間で、集めた側は最後まで手が汚れない。
続けられる仕事は、たいてい一人ではやっていない。
言うべきかどうかを考えた。
フェイの条件は「声をかけられたら」だ。
声はかけられていない。
条件には当てはまらない。
だが、あの人は何もされてなくてもだと言った。
あの一言は、たぶん今日のためにあった。
それに、あの人は条件を数で示す人だ。
遅れて言うのがいちばん悪い。
布団の中で指を組んだ。
明日は十日のうちの二日目だ。
朝に十本受けて、それから詰所へ行けばいい。
順番が決まると眠れる。
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朝の庭は昨日より土が乾いていた。
鉄剣を斜めに置いて、父の正面に立つ。
一本目は音が高かった。
二本目で音が下がって、三本目で足の位置が決まる。
決まってからの四本は同じ音がした。
同じ音が続いているあいだは何も考えなくていい。
六本目で肩が鳴った。
鳴っただけで、手は笑わない。
七本目からは息の方が先に上がった。
それでも十本とも持ち方は同じでいられた。
剣を下ろすと父が木剣を肩に担いだ。
昨日フェイに聞いた答えを、まだ家で言っていない。
「雨はどうなった」
「雨の日は数に入れないって。ただし、降ってない日に受けなかったら一日目に戻すって」
「厳しいな」
「厳しい方がいいと思う。僕が数えたら一本ずつ甘くなる」
「そうだ」
息は上がっているが、腕はまだ動く。
父が鉄剣の腹を指の背で軽く弾いた。
音を聞いて、それで何かを確かめたらしい。
「歪んでない」
「フェイさんも同じことを言ってた」
「そうだろうな」
「父さん」
「なんだ」
「今日、フェイさんに話してくる。井戸端のこと」
「行け」
それだけだった。
父は木剣を壁の掛け棒に戻して、井戸の方へ歩いていった。
背中は昨日と同じ形をしている。
庭の土に今朝の足跡だけが残っていた。
昨日の十本ぶんは、もうどこにも見えない。




