第六話
布に包んだ鉄剣は、担ぐと肩の一点にだけ重さが集まる。
包み方は借りた日にフェイが目の前でやってみせたとおりにしている。
布の端を内側へ折り込めば、持ち歩く間に縁が布を切らない。
刃はなくても、鉄は鉄だ。
日が高くなる前の通りは人がまばらで歩きやすい。
アシュは今朝の庭のことを順に並べながら歩いた。
十本受けた。
十本とも同じ持ち方でいられた。
借りた最初の日は七本目で腕が笑ったから、そこは前に進んでいる。
途中で父が木剣を下ろして手を見た。
手の甲でも指でもなく、指の付け根から手首までを見る目だった。
持ち方が変わったな、と父は言った。
握るのをやめた、と答えた。
握ると腕で止めることになる。
剣を先に置いて、体を後ろに残す方が楽だった。
父は何も言わずに柄をつまんで軽く押した。
剣は沈まず、押し返しもしない。
押された分だけ体ごと後ろへ逃げる。
振ってみたいか、と聞かれて頷いた。
頷きが早すぎたと自分でも思った。
聞いてこい。
借り物だ。
貸した本人が決める。
俺が決める話じゃない。
この人は物の筋を先に立てる。
立ててから中身を話す。
研ぎ石の使い道を先に言ったのも、鉄には当てるなと言ったのも同じ人だ。
振っていいと言われる日が来ても、たぶんこの人は先に別のことを一つ決める。
――――――――――――――――――――
詰所の裏では若い男が二人、樽を転がしていた。
背の高い方がニコだ。
十八で、団ではいちばん下だと自分で言っていた。
昨日までと少しだけ動きが違う。
通りを見る回数が増えている。
樽を転がしながら、二人とも顔の向きを何度も変えた。
理由は分からないが、変わったことだけは分かる。
「よお、ヴァルドんとこの」
ニコが手を止めずに言った。
止めずに喋るのはいつものことだ。
戸口の内側で、居間に座った老人が顔も上げずに言った。
「うるさい」
「はい」
ニコの声がすぐに小さくなった。
カスパルは団でいちばん古い人だ。
痩せていて、白髪を短く刈っている。
左の眉に古い傷があって、そこだけ眉が生えていない。
膝が悪いので見回りには出ない。
いつも同じところに、同じ向きで座っている。
出ないのに、詰所で誰が何を言ったかは全部知っている。
フェイは戸口の日陰で革の手当てをしていた。
黒い髪を短く刈った頭が、手元に落ちている。
太い指が細い作業をしている。
「アシュか」
「おはようございます」
「早いな。剣か」
包んで持ってきた鉄剣を見て、フェイは手を止めた。
布を開くとガイが横から覗き込んでくる。
いつからそこにいたのか分からない。
この友達は音を立てずに現れることだけは上手い。
「それ、毎日持って歩いてんのか」
「塔の日以外は」
「重くねえの」
「重い。でも、置いていく方が落ち着かない」
「錆びてねえな」
「拭いてる」
「毎日か」
「毎日」
フェイは剣を受け取って、両手で持ち上げた。
持ち上げ方が父とは違う。
父は重さを量る。
この人は真っ直ぐかどうかを見ている。
「歪んでない。当て方が素直だ」
「振ってもいいですか」
言ってから順番を間違えたと気づいた。
フェイは笑わなかった。
笑わない代わりに、剣を返してよこした。
「何本受けた」
「今朝は十本です。全部同じ持ち方でいられました」
「手は笑ったか」
「笑いませんでした」
「なら半分だ」
半分、という言い方の意味が取れずにアシュは黙った。
フェイは指を二本立てた。
「受けは体の話だ。振るのは目の話になる。振れば当たる場所を自分で選ぶことになるからな。選ぶ側に回ると、人は必ず欲が出る」
「欲」
「もう半歩踏み込みたくなる。踏み込んだ分だけ剣は伸びん。伸びんもんを伸ばそうとして手首をやる」
フェイは革を膝に戻した。
「十本受けて手が笑わない日が十日続いたら、俺の前で一本振らせる。俺の前でだけだ。庭でも広場でも振るな」
「ガイのは」
「うちのは木剣で十分だ。こいつは背が伸びる途中で腕だけ先に強くなる。鉄を持たせたら形が崩れる」
「俺の話、勝手にすんなよ」
「本人の前でしか言わん」
ガイが口を尖らせて、それから納得のいかない顔のまま黙った。
納得がいっていないのに黙るのは、たぶん半分は当たっていると思っているからだ。
「十日」
「不満か」
「いえ」
不満ではなかった。
十日と言われたなら、十日ぶん何を直すかを決めればいい。
「アシュ」
立ち去りかけたところでフェイに呼ばれた。
振り向くとこの大男はまだ革を見ている。
「町で知らない大人に声をかけられたら、うちの誰でもいい、言え。ガイでもいい」
「はい」
「話しかけられただけでいい。何もされてなくてもだ」
それだけ言って、フェイは仕事に戻った。
声の調子はいつもと同じだった。
同じなのに、言われた中身は父の問いとよく似ている。
似た形の言葉が、家の外から出てきた。
門の外までガイがついてきた。
「十日って長すぎねえか」
「十日で決まるなら短い」
「お前、そういうとこだよな」
ガイは木剣を担ぎ直して、少し黙った。
「うちの親父、昨日ずっと出歩いてた」
「仕事?」
「たぶんな。夜に帰ってきて、飯のあと帳面をずっと見てた。うちの親父が帳面見てる日はな、大抵つまんねえ日だ」
つまらない日、という言い方をアシュは頭の隅に置いた。
置いただけで、それ以上は聞かなかった。
聞けば答える友達だが、答えられる中身を持っていないのも分かっている。
――――――――――――――――――――
市場は昼前でいちばん混む時間だった。
ヨナスの店先で青菜を受け取る。
「坊主、ヤンに会ったか」
「今日はまだです」
「刈り入れが早まりそうでな。あの子の出る日も早まるかもしれん」
ヨナスは青菜の束を紐で締めながら言った。
「行っちまう前に、みんなで何かしてやろうって話が出てる。ハンナさんが言い出した」
「何をするんですか」
「決まってねえ。決まってねえのに、みんな乗り気だ。町ってのはそういうもんだ」
「出る日が決まったら教えてください」
「なんだ、坊主も何かする気か」
「まだ決めてません」
「決まってねえのに乗り気か。お前も町の子だな」
ヨナスが笑って、青菜をもう一束籠に落とした。
金は取らない。
この店ではそれがいつものやり方だ。
籠を抱え直すと肩の剣がずれた。
剣と青菜を一緒に運ぶ日が来るとは、借りた日には思っていない。
井戸の方に人だかりが出来ている。
昨日より輪が大きい。
声は届かない。
届かない距離のまま、アシュは反対側の通りへ折れた。
近づかないと決めたことは、決めたままにしておく。
角を曲がるとき、ガレアの見回りが二人、井戸の輪の外に立っているのが見えた。
立ち止まってはいない。
通り過ぎるでもない。
同じところをゆっくり歩いて、また戻ってくる。
昨日までは通り過ぎていた。
――――――――――――――――――――
家に帰るとリアが土間の縁に座って、木の玉を並べていた。
三つ並べては崩し、また並べる。
崩れると笑う。
この妹は崩れる方が好きらしい。
「まんま」
「まだ早い」
「まんま」
「母さんが台所にいる」
「わんわ」
リアが戸口の方を指した。
犬はいない。
いない日と、本当にいる日がある。
どちらの日も、この妹の中では同じ重さらしい。
リアは玉を一つ握ってアシュの膝に押しつけてきた。
押しつけてから手を離さない。
渡したいのか渡したくないのかが自分でも決まっていない手だ。
「みら」
「僕はミラじゃない」
「みら」
毎度この勝負は負ける。
兄も負けている。
父まで負けている。
この家でいちばん強いのは、まだ二つにもならない相手だ。
アシュは木の玉を三つ、リアの前に並べ直した。
並べ終わるとリアが手を伸ばして崩した。
崩して笑う。
その笑い方が誰に似ているのかを考えてみて、途中でやめた。
似ているとか似ていないとかを数えはじめるとこの家では自分だけが別の列に並ぶことになる。
今はその列を数える気にならない。
――――――――――――――――――――
夕方の稽古は兄と二本だけやって終わった。
兄が薪の残りを気にしていたからだ。
二本のうち一本は、受けた木剣ごと押し込まれた。
朝と同じやり方で受けたせいだ。
握らずに剣を先へ置いて、体を後ろへ残す。
鉄なら置くだけで止まる。
木は軽い。
軽い分だけ押されて、自分の剣の腹が自分の肩に当たった。
兄が少し目を細くした。
「今の、鉄で受ける癖が出てる」
「木だと軽すぎる」
「木で軽いなら鉄が重いんじゃなくて、お前の腕が変わったってことだ」
言ってから兄は薪割りに戻った。
褒め言葉だと気づくのに少しかかった。
この家の褒め言葉はいつも一度素通りしてから戻ってくる。
卓に椀が五つ並ぶ。
父が今日は早く帰ってきた。
湯気の向こうで母がリアに匙を運んでいる。
リアは口を開けたり閉じたりして、半分は自分で食べるつもりでいるらしい。
「フェイのとこ、行ったか」
「行った。十日、受けだけ続けたら一本振らせてくれるって」
「十日か」
「フェイさんの前でだけ」
「妥当だ」
「朝、なんて言われたの」
母が匙を止めて聞いてくる。
「持ち方が変わったって」
「それ、この人の中ではいちばん上の褒め言葉よ」
「褒めてない。見たままだ」
「見たままを言うのがいちばん上なの」
父はそれ以上取り合わずに納得した顔をした。
兄が箸を止める。
「十日って、雨の日はどうすんの」
「言われてない」
「聞いとけよ。数えるのはあっちだぞ」
数えるのはあっち。
塔でも同じことを言われた。
自分の数はどうしても甘くなる。
母が匙を置いて、リアの口の端を拭いた。
「レインのときは、ガルドが何日って言ったんだっけ」
「言ってない。あいつは勝手に振った」
「勝手にって言うなよ」
卓が笑った。
リアも笑った。
何が起きているのか分からないまま、この妹は笑うのだけは合わせてくる。
アシュはパンを半分に割って、リアの手が届くところに置いた。
いつもの癖だ。
置いたことも忘れて汁の椀を持ち上げた。
「あしゅ」
卓の音が消えた。
匙がぶつかる音も、兄が箸を持ち直す音もなくなって、卓の上の四つの顔が同じ方を向いた。
リアはパンを両手で持っている。
持ったまま、もう一度言った。
「あしゅ」
アシュは椀を置いた。
置いた指がわずかに震えたのは、汁が熱かったからではない。
言葉が出てこない。
出てこないのでリアの顔を見ていた。
リアは自分が何をしたのか分かっていない顔をしている。
パンをかじって、また離して、それからアシュの方へ手を伸ばした。
「あしゅ」
「……うん」
返事が遅れた。
遅れたのに、リアはもう一度呼んでくれた。
「ちょっと待って。ちょっと待ってよ」
母の声が上ずっている。
前掛けで目のあたりを押さえて、押さえたまま笑っていた。
「あたし、四か月よ。四か月ずっと、みら、みらって」
「取られたな」
「取られたって言い方やめて」
兄が卓を叩いた。
「おかしいだろ。俺、毎日レインって教えてたんだぞ。毎日だぞ」
「毎日教えたのが敗因だな」
父が汁をすすりながら言った。
「教えられると子どもは覚えん。勝手に覚える。アシュのは、教えてないから残ったんだ」
「そんな理屈あるかよ」
「ある。お前もそうだった」
兄が黙った。
黙ってから椀の中を睨んで、それからアシュを見た。
「……まあ、いいけどな」
いいけどな、の言い方が拗ねている。
拗ね方が分かりやすくて、アシュは笑った。
笑ってからやっと自分がさっきから何も言っていないことに気づく。
「リア」
呼ぶと妹が顔を上げた。
「もう一回」
「あしゅ」
正しくは「あしゅ」ではない。
最後の音が少し足りなくて、鼻に抜ける。
でもそれは自分の名前だ。
母の名前でも兄の名前でもなく、自分の名前として選ばれて、この子の口から出てきた。
前の世界で名前を呼ばれた記憶は、呼ぶ側の用があるときのものばかりだった。
用のない声で名前を呼ばれるのが、どういうことなのかを知らずに終わった。
この子には用がない。
パンを半分もらっただけだ。
いちばん多く聞いた音を真似るのだと思っていた。
それなら次は兄のはずだ。
この家でいちばん声が大きいのは兄で、いちばん近くで遊んでやるのも兄だ。
なのに二番目は自分だった。
パンを半分置く手の方が、たぶん数えられていた。
父が椀を置いて、リアの頭に大きな手を乗せた。
「よく覚えたな」
「みら!」
「そっちは変わらんのか」
「みらだけは、まだあたしのものらしいわ」
「アシュ」
「なに」
「よかったな」
父はそれだけ言って汁を飲んだ。
この人は短い言葉ほど本気で言う。
母がまた鼻をすすって、卓がもう一度笑った。
湯気が上がって、椀の縁が曇る。
アシュは自分の椀を持ち直した。
汁の味が好きかどうかは、今日もはっきりとは分からない。
分からないまま、いつもより長く口の中に置いた。
――――――――――――――――――――
夜、部屋の壁に木剣と鉄剣が並んでいる。
明日から十日。
雨の日をどう数えるかは明日フェイに聞けばいい。
聞くことが決まっている夜は眠りやすい。
鉄剣は借り物で、返す時は借りた時の形で返す。
十日を数え終えて振る日が来ても振るのがこの剣とは限らない。
それも明日まとめて聞けばいい。
隣の寝床の息が先に深くなった。
深くなる直前に、暗がりの中で一度だけ声がした。
「アシュ」
「なに」
「明日、朝もやるか」
「やる」
それだけで会話は終わった。
兄が名前で呼んだのは今日が初めてではない。
初めてではないのに、今夜は数に入る。
隣の部屋でリアが寝返りを打って、寝言が一つ落ちた。
みら、ではなかった。




