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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
客人は笑う

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第五話

 灯りを一つ残して、フェイは土間の卓に古い控えを積んだ。


 倅《せがれ》はもう寝ている。

 飯の前に一つだけ言って、それきり口を閉じた。

 あの商人、なんか嫌だ。

 どこが、と聞いたら出てこなかった。

 言えるようになった日に俺に言え、と返して話は終わっている。

 終わっているのに、こっちが繰っている。


 三月ぶんの控えを上から順にめくった。

 探すものが分かっていて繰るのではない。

 分かっていないから繰る。

 指が止まる場所は一度もなかった。


 倅《せがれ》の勘は当たる方だ。

 当たるが、まだ理由を持てない。

 理由を持てない勘を大人が引き受けるのが順序というものだろう。

 フェイは控えを揃えて紐をかけ、明日の朝いちばんに言うことを決めてから灯りを落とした。


――――――――――――――――――――


 朝いちばんの報告は門から来る。

 誰が入って誰が出たか。

 荷は何か。

 二十年やっていれば紙を見る前に嫌な日は分かるが、今朝の紙にはそういう匂いがなかった。


 フェイは詰所の卓に紙を戻して、代わりに昨日の見回りの控えを引き寄せた。


「広場。商人。飴。子ども十人ばかり」


 声に出して読んでから若いのを呼んだ。


「昨日の広場、お前が見てたな」


「見てました。子どもが群れてるとこにいたんで、一応」


「一人だけ受け取らなかった子がいたと聞いた」


「ああ、はい。……団長んとこの坊ちゃんです。言いにくかったんで書きませんでした」


「次から書け」


 若いのが首をすくめて出ていった。

 フェイは控えの紙の端を指で押さえた。

 昨夜と同じ場所に指が行く。

 あの倅《せがれ》は言えないことを言えないまま持って帰ってくる。


 前にも一度あった。

 去年の夏、人さらいの前の日に詰所の前の通りから子どもらを見ていた目を、フェイは見ていながら正体を取れなかった。

 取れないまま倅《せがれ》に門の内で遊べとだけ言って、それで足りると思った。

 足りていない。

 あの時は自分が先に気づいて、それでも遅かった。

 今度は倅《せがれ》が先に気づいて、こっちはまだ何も掴んでいない。


 誰も攫われていない。

 誰も殴られていない。

 届け出は一つもない。

 動く理由がどこにもないというのは、この稼業では珍しいことではない。

 珍しくないだけで、やらない理由にはならなかった。


「四つに分けろ」


 戻ってきた若いのにフェイは指を四本立てた。


「門の記録。宿。市場。領主館。急ぐな、丁寧にやれ。相手は今のところ何もしとらん」


「何もしてない相手を洗うんですか」


「洗って何も出なけりゃそれが答えだ。行け」


 若いのが出ていってからフェイは窓枠に肘を置いた。

 ヴァルドの家のことが頭の隅から動かない。

 あの家の二番目の子は青い目で、去年の夏にその目のせいで攫われた。

 攫った側は縄と数で来た。

 分かりやすいやり方だ。

 分かりやすいものは終わらせ方も分かりやすい。

 沢で終わらせたあと、自分が助けられた側でもあるとフェイは思っている。

 子どもが起こした風が、こっちへ向いた刃を跳ね上げた。

 その勘定は、まだ帳面の上で片づいていない。


――――――――――――――――――――


 門番小屋の記録は几帳面だった。


 二十日と少し前の午後。

 連れなし。

 荷は木箱が二つと、革の鞄が一つ。

 武具なし。

 持ち込みの申告どおりで、抜き取りにも引っかかっていない。


 鑑札(かんさつ)の写しも綴じてあった。

 行商の鑑札(かんさつ)で、期限は先まである。

 判は本物だ。

 偽物は角が甘くなる。

 これは甘くない。


「覚えてるか」


「覚えてますよ。よく喋る人でした。荷を検めてる間ずっと、こっちが仕事の話をしてました」


「何を話した」


「門の閉まる刻とか。冬は雪でどのくらい人が減るかとか。……あと」


 門番が言い淀んだ。

 フェイは待った。

 待たれると人は喋る。

 そのくらいのことは自分もやる。


「塩を、ひと塊もらいました。断ったんですけど、荷の検めが丁寧だったからって」


「食ったか」


「……家で使いました」


「返せとは言わん。書いとけ」


「書くんですか」


「もらったものは全部書け。書いてありゃ、あとで困らん」


 門番が慌てて筆を探した。


「荷は何だった」


「木箱は見本でしたよ。針と、塩と、飴。あとは紙です。紙がいちばん多かった」


「紙」


「白いのと、綴じたのと。帳面ですね。あんなに帳面を担いで歩く商人は初めて見ました」


 フェイは記録の綴じ目をもう一度めくった。

 この男は門で鑑札(かんさつ)を出し、荷を全部見せ、塩を一つ置いていった。

 どこにも穴がない。

 穴がないという形だけが、指に残る。


――――――――――――――――――――


 ランドの店は昼前でも薄暗い。


 帳場の帳面をフェイの前に開いたのはランドの方だった。

 聞く前に出してきた。

 この親父は無口だが、話の早さでは町でいちばん速い。


 部屋は二階の奥。

 ひと月ぶんが前払いで、追加の飲み代はその日ごとに現金で落ちている。

 一日も溜めていない。


「いい客か」


 ランドが頷いた。

 それで終わりだった。

 この男が頷いた客が悪かったことは、フェイの知る限り一度もない。


 給仕の娘が布巾を絞りながら横から言った。


「あの人、酔わないんです」


「飲まんのか」


「飲みます。杯は空くのに、目が最初のままなんですよ。お客さんの目って、三杯目で必ず変わるでしょう。あの人だけ変わらない」


 フェイは自分の指の関節を一度鳴らした。

 酒に強い男はいくらでもいる。

 いるが、毎晩一階で飲んで二十日ものあいだ一度も崩れないのは、強いのとは違う。

 崩れない仕事をしている者の飲み方だ。


「二階を見せてくれ」


 ランドが首を横に振った。


「客の部屋だ」


「分かってる。聞いただけだ」


 断られるのは織り込んでいた。

 断る店だから客が入る。

 こっちの縄張りの話でごり押しすればこの店の看板に傷がつく。

 傷をつけてまで見るものが、今日の手元には一つもない。


 隅の卓に古い常連が座っていた。

 昼から一人で飲んでいるのは、この町ではヨーデルくらいのものだ。


「団長。あんたも聞きに来たのかい」


「何を聞きに来たと思う」


「あの人の話さ。俺はな、あの人と戦の頃の話をしたんだ」


 ヨーデルが杯を置いて指を折り始めた。

 どこの隊が通ったか。

 どの家が焼けて、どの家が建て直したか。

 誰の親父が戻らなかったか。


「若いのは誰も聞きたがらねえ話だよ。あの人だけが最後まで聞いた」


「相槌だけか」


「相槌だけだ。それがまた上手くてな」


 フェイは礼を言って卓を離れた。

 町の古い話を欲しがる商人は珍しくない。

 珍しくないが、古い話には人の名前が全部入っている。


 外に出ると日が高かった。

 断られたことより、断られる筋道が全部まっとうだったことの方が、腹の底に残っている。


――――――――――――――――――――


 領主館の書記は、フェイの顔を見ると帳面を出す前に用件を当ててきた。


「先日の商人の件でしょう」


「早いな」


「三人目です。あなたで」


 紹介状は届いた日のうちに検められて、控えが取ってある。

 封は正しく割られていて、紋も本物。

 差出は侯爵家。

 書記はそこまで言って、口を閉じた。


「どこの家だ」


「申し上げられません」


「そうか」


「団長。うちが確かめておらんとでもお思いですか」


「侯爵家の紹介状を持った商人は、年に何人来る」


「二人か、三人です」


「そいつらは何をしていった」


「絹を置いて帰られたり、麦の値を聞いて帰られたり。……皆さん、何かは売っていかれます」


「あの男は」


 書記が初めて言い淀んだ。


「まだ、何も」


 その先を書記は続けなかった。

 続けないのが答えだ。


 書記の言い方に嫌味はなかった。

 むしろ誇りの方が勝っている。

 紙は正しく届き、正しく検められ、正しく綴じられた。

 この館は仕事をしている。

 仕事をしている館の階段を、あの男は正面から上がってきた。


 フェイは礼を言って館を出た。


――――――――――――――――――――


 市場では逆に聞かれた。


「団長さん。あの人が何かしたのかい」


 ヨナスが青菜の束を持ったまま、目だけを上げてくる。


「何もしとらん。何もしとらんから聞いてる」


「そりゃまた面倒な仕事だな」


 ヨナスは笑わなかった。

 笑わない代わりに、青菜を置いて手を拭いた。


「粉屋のとこの紙、見たか」


「これから見る」


 粉屋は紙をすぐに出してきた。

 折り目がついている。

 何度も広げた紙だ。

 書いてあるのは二人が言った言葉だけで、書いた者の考えは一行もない。

 隅に立会人の名がある。


「これで済んじまったんだ」


 粉屋が言った。


「殴り合いになる話だったよ。うちも引かねえつもりだった。それが紙一枚だ」


 フェイは紙を返した。

 文字は読みやすい。

 読みやすい字を書く人間は、読ませる前提で書いている。

 立会人の欄に名を書けるのは、揉め事の外にいる者だけだ。

 外にいた者が二十日でその欄に名を書く側へ入った。


 井戸端ではハンナに捕まった。

 ヤンの奉公の話を最初から全部聞かされて、途中から声が湿る。

 フェイは最後まで聞いた。

 聞き終わってから自分が今やったことに気づく。

 黙って最後まで聞く。

 あの男が二十日やっているのと同じことだ。


 通りを戻る途中で仕立て屋のマレンにも呼び止められた。

 繕い物の代を先に払っていく客の話だった。

 値切らない。

 急がせない。

 仕上がりを褒めて帰る。

 配られた針の礼まで言われた。

 針一本で、この町は二十日ぶん機嫌がいい。

 悪い話を探して歩いているのに、出てくるのは褒め言葉ばかりだ。


「団長さん」


 ヨナスの声が背中に来た。


「あんたが疑うのは仕事だ。それは分かる。だがな、あの人はヤンの先を決めた。俺は十二年あの子を見てきて、青菜しかやれなかった。あんただって、団の若いのに薪を手伝わせるのが精一杯だったろう」


 返す言葉が出てこない。

 出てこないまま、フェイは頷いた。

 頷いた自分に腹が立った。


 町の網というのは、こういうもので出来ている。

 誰が誰に何をしてやったか。

 その積み上げで人は誰の側に立つかを決める。

 二十日で、あの男はその積み上げの上の方に自分の名を置いた。

 置かれた名を疑う者は、町の中で浮く。


――――――――――――――――――――


 日が落ちてから四つの報告が詰所に揃った。


 門の記録。

 宿の帳面。

 市場の聞き込み。

 領主館の控え。


 どれにも同じことが書いてある。

 紙は本物、鑑札(かんさつ)は期限内、勘定は溜めなし。

 宿代も飲み代も繕いの代も町の店で払われて、その分だけ町が潤っている。

 損を出した者が一人もいない。

 損の出ていない場所に届け出は立たない。

 届け出の立たない話を、フェイは仕事にできない。


「異状なし、ですね」


 若いのが言った。

 声が明るい。

 明るくて当然だった。

 悪い話が一つも出ない日は、この稼業ではいい日だ。


「そうだな」


 フェイは帳面を引き寄せて筆を取った。

 書けるのは日付と名前と、その一言だけだ。

 一言を書いてからしばらく筆を置かなかった。


 二十年やってきて、こういう形の紙は初めてだった。

 悪党は必ずどこかを削る。

 金を溜める。

 名を変える。

 人を殴る。

 削ったところから網に引っかかって、引っかかった糸をたぐれば芯に届く。

 この男は削っていない。

 どこも削らずに全部を本物で揃えてきた。


 あの男が二十日で持っていったものを並べてみる。

 門の閉まる刻。

 冬の人の減り方。

 戦の頃に焼けた家と、戻らなかった親父の名前。

 誰の子がどこで寝て、誰の家に先がないか。

 どれ一つ盗んでいない。

 全部こっちが喋った。


 本物を揃えるには金がいる。

 紹介状にも、鑑札(かんさつ)にも、二十日の宿代にも、配った針と塩と飴にもいる。

 その金がどこから出ているのかを、誰も気にしていない。

 町は、出てきた物の方だけを見ている。

 金の出どころを聞く役目は、本当なら領主館にある。

 その領主館は紙が本物であることを確かめた。

 紙が本物なら、その先は誰の仕事でもない。

 誰の仕事でもない場所を歩ける男が、いま二階で寝起きしている。


「団長。ヴァルドんとこには言っときますか」


 若いのが片づけながら聞いた。

 フェイは筆を置いた。


「言わん」


「なんでです」


「言えば動く。ガルドは動く時に手加減を知らん。町じゅうがいい人だと思ってる相手に、ヴァルドの家だけが構えて見せたらどうなる」


「……浮きますね」


「浮いた家は覚えられる。誰にだ」


 若いのが黙った。

 分かっていない顔ではない。

 分かったうえでそれを言葉にするのが怖い顔だ。


「見回りの筋を変えろ。広場を毎日通せ。子どもの群れがあったら人数と名前を控える。それだけでいい。咎めるな。挨拶しろ」


「挨拶ですか」


「向こうは笑って挨拶を返す。返す形が毎回同じかどうかを見ろ」


「子どもの名前を控えてどうするんです」


「向こうが控えてるからだ」


「……向こうも控えてるんですか」


「帳面を担いで歩く商人だぞ。中が白紙だと思うか」


 若いのが口を開きかけて、そのまま閉じた。


「それと、宿を出る日を押さえろ。前払いの切れる日を帳場に聞け。伸ばしたら伸ばした日数を書け」


「伸ばしますかね」


「伸ばす。二十日で何も売っていない商人が、ひと月で帰るわけがない」


 言ってから自分の声が確信の形をしているのに気づいた。

 確信の中身は何もない。

 紙は全部本物で、届け出は一つも立っていない。


 若いのの顔から明るさが引いた。

 引いた顔の方が、こっちとしては仕事がしやすい。


 若いのが出ていった。

 戸が閉まって、詰所が静かになる。


 フェイは帳面の〈異状なし〉をもう一度見た。

 嘘は一つも書いていない。

 嘘を一つも書いていない紙が、こんなに落ち着かないのは初めてだ。


 昨夜、倅《せがれ》は嫌だと言った。

 どこが、と聞いて出てこなかった。

 言えるようになった日に言えと返して、それで済ませた。

 済ませたつもりだったが、今日一日かけて自分が辿り着いたのも同じ場所だ。

 嫌だ。

 どこがとは言えない。

 八つの子どもと同じところに大人が立っている。


 窓の外は暗い。

 通りの先で、ランドの店の一階だけがまだ明るい。

 その明るさの中に、一日かけて何一つ引っかからなかった男が座っている。


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