第四話
詰所の裏の土は踏まれ方が違う。
雨の翌日でも足が滑らない。
ガイはそこで木剣を構えて、親父の胸のあたりを見ていた。
顔を見ると打つ場所を教えてしまう。
足を見ると足しか見えなくなる。
胸を見ろというのはいちばん最初に言われたことだ。
「来い」
行く。
踏み込みは浅い。
二歩ぶんを一歩で詰めて、右から入って途中で左へ切り替える。
切り替えは考えて出すものではない。
考えると遅れる。
体が先に決めて、あとから自分が追いつく。
木剣が届く前に親父の胸が半歩ぶんずれていた。
当たらない。
当たらないまま、肘の外側を軽く叩かれる。
「浅い」
「もう一回」
二本目は左から入った。
同じ場所を叩かれる。
三本目で切り替えを三度に増やしたら三度目の途中で肩を押されて膝が土についた。
「切り替えは二度までにしとけ。三度目は自分の足が邪魔をする」
「三度やったら親父も間に合わねえだろ」
「間に合う。お前の三度目は二度目より遅い」
ガイは立ち上がって膝の土を払った。
湿った土は払っても跡が残る。
悔しいのは叩かれたことではない。
三度目が遅いのを自分では分からないことだ。
「ガイ」
「なんだよ」
「妙だと思ったら先に半歩下がれ」
「怖がってねえよ」
「怖いの話はしていない」
親父は木剣を肩に担いで、詰所の戸の方へ顎を向けた。
「剣でも道でも同じだ。妙だと思った時に理由は出てこない。半歩下がってから考えればいい」
「理由が分かってからでいいだろ」
「分かってからでは遅い」
言い終わると親父は中へ入っていった。
ガイは木剣を担ぎ直して、土のついた膝をもう一度払った。
朝の話はいつも短い。
短いのに、なぜか昼まで頭に残る。
――――――――――――――――――――
昼前の広場は人が多かった。
井戸のまわりに子どもが十人近く集まって、輪の真ん中に大人が一人いる。
二十日前から町にいる商人だ。
名前はロートスというらしい。
親父より少し年上で、外套は上等そうに見えるのに飾りが一つもない。
ガイは井戸の反対側の石段に腰を下ろした。
輪に入る用はない。
商人は木箱に腰を預けて、油紙の包みを膝に載せている。
中身は飴だ。
配り方に順番があった。
まず顔を見る。
名前を聞く。
渡すときにもう一度その名前を呼ぶ。
「テオ君。はい、どうぞ」
「ありがと!」
テオは飴を口に放り込んで、輪のいちばん前に座り直した。
それから都の話が始まる。
都には橋が四つある。
どれも石で、そのうちの一つは橋の上に店が並んでいる。
菓子屋の窓から出る湯気は甘い。
冬に果物を売る店がある。
馬車で十日。
子どもが数を聞き返すと商人は同じ数を同じ声でもう一度言った。
声の大きさが一度も変わらない。
親父の声は近い時と遠い時で全然違う。
この人の声はどこに座っても同じ大きさで届く。
「都って雪降るの」
「降ります。屋根の瓦が白くなって、川の端だけ凍ります」
「凍ったとこ歩けるか」
「歩く子はおりますね。叱られますが」
輪が笑った。
叱られる話が出た時の笑い方だ。
商人は笑い声が収まるまで次を言わない。
収まってからまた同じ大きさの声で続ける。
「川船って、どんくらいでかいの」
「この広場が三つ入ります」
「三つ!」
輪が声を上げて、後ろの方の年下の子が立ち上がった。
テオが振り向いて誰かの肩を叩く。
「ヤンは見られるんだぞ。都行くんだから」
「いいなあ」
「なあ、おれも連れてってもらえるかな」
「順に伺いますって言ってた」
順に、という言葉が子どもの口から出ると急に大人びて聞こえる。
誰かの真似だ。
真似した本人は、自分の順番があると思っている。
水桶の音がして、ヤンが井戸のこちら側に回ってきた。
輪がほどけてヤンの方へ寄っていく。
商人は止めない。
膝の包みをそのままにして、寄っていく子どもらの背中を眺めていた。
「刈り入れの後でしたね」
「うん。終わったら馬車に乗る」
「先に文を出しておきます。着く日が分かっている方が向こうも支度をしますので」
ヤンが頷いて、水桶を地面に下ろした。
その手が桶の縁でしばらく止まっている。
嬉しいのを顔から追い出すのに時間がかかる時の手だ。
輪の外から女の声が上がった。
ハンナのそばにいる母親が、うちの子にも縫い物の口はないだろうかと聞いている。
商人は帳面を出さずに首だけ動かした。
「後ろに三人おられます。その後で伺います」
断らない。
急かさない。
並べと言われていないのに、後ろに三人という数だけで列の形ができる。
ガイは石段の上で片膝を立てた。
商人の目がこちらを向いたのはその時だ。
「そちらの君にはまだ渡していませんね」
輪の何人かが振り返る。
ガイは立たなかった。
「お名前を伺っても」
「……ガイ」
「ガイ君。クラインの――ああ、傭兵団の団長さんのご子息でしたか」
順番は正しい。
聞いてから言い当てた。
聞かれた分より多くが返ってきただけだ。
商人は笑った顔のまま、ガイの目のあたりで一度だけ視線を止めた。
油紙の包みが目の高さまで来る。
ガイの足が石段の上で半歩だけ後ろに動いた。
自分で下げた覚えはない。
稽古で間合いに入られた時に勝手に出るやつだ。
手は膝の上のまま動かない。
「いらねえ」
「では、またの折に」
包みは引かれた。
商人はガイから目を離して、次の子の名前を聞いている。
離し方が早くもなく、遅くもない。
怒られた感じは一つもなかった。
怒られた方がまだましだった。
「なんで貰わねえんだよ。うまいのに」
テオが石段の下から見上げてくる。
口の中で飴を鳴らしている音がする。
「腹減ってねえ」
「飴だぞ」
「……減ってねえ」
テオは分からない顔をして輪に戻っていった。
ガイは自分の手のひらを見た。
受け取る形に一度も開いていない。
朝に親父が言ったことを思い出しかけて、途中でやめた。
思い出したところで下がった理由は出てこない。
――――――――――――――――――――
人がばらけた後、ガイはヤンが水桶を担ぎ直すのを手伝った。
二つのうち軽い方をガイが持つ。
持ってみると軽い方でも肩に食い込む。
「毎日これ、二回か」
「三回。夕方にもう一回ある」
ヤンの手のひらは皮が厚い。
場所が全部ガイと違う。
ガイの皮が厚いのは指の付け根で、ヤンのは手のふちだ。
四つ上のぶんだけ、桶で先に厚くなった手だ。
「都はさ、飯が三度出るんだって」
ヤンが歩きながら言った。
声が少し高い。
「住み込みだから寝るところもある。字も教えてくれる。給金は三年目から」
「三年」
「三年なんてすぐだろ。伯母さんは泣いてたけど」
「泣くだろ、そりゃ」
「面倒が一つ減るんだから、笑えばいいんだよ」
言い方は軽かった。
軽く言うために少し息を吸ってから言ったのが横で分かる。
ヤンの背中はいつもより高い位置にある。
テオが後ろから追いついてきた。
「飯三度って本当か」
「本当」
「うちは二度だ」
テオはそれだけ言って、また前へ走っていった。
ガイの家は三度だ。
それを言う話ではない。
親父が団を持っていて、家に飯が三度出て、木剣を振る時間まで余っている。
余っている分がどこから来ているのかは考えたことがない。
前の方でテオが年下の子に何か喋っている。
字が書けるようになると帳面をつける仕事に回されて、帳面をつける者は座っていられるらしい。
テオはそれを自分が見てきたみたいに喋る。
座っていられる、というところで年下の子がいいなあと言った。
その子の父親は石を運ぶ仕事をしている。
いいなあ、が輪の中で何度も回る。
回るたびに都が実際より少しよくなっていく。
「伯母さんの土間はな、冬に水が張るんだ」
ヤンが桶を持ち直しながら言った。
「問屋は居間で寝られるってよ」
「板か」
「板だぞ」
居間で寝られる、が今日のヤンのいちばん嬉しい話らしい。
ガイの家には居間があって、寝床には藁を入れた敷物まである。
考えたことがない、が今日は二度目だ。
「紹介状はもう書いてもらったのか」
「まだ見てない。あの人が書くって。俺は字が読めねえから、見ても分かんねえけど」
ヤンが笑う。
笑い方に濁りがない。
この町でヤンの先を用意したのは二十日前に来た男ひとりだ。
誰も同じことをしなかった。
できなかったのだと大人は言う。
どっちでも、やったのはあの男だ。
井戸のこちらの塀まで来て、桶を下ろした。
水が縁で揺れて、ガイの足の甲に少し零れた。
「なあガイ」
「ん」
「お前は親父がいるからいいよな」
返す言葉がない。
あるはずなのに、口の中で形にならないまま消える。
ヤンは水面を見て、それから慌てた顔をした。
「悪い。今の、言い方が悪かった」
「別にいい」
「よくねえよ。……お前んちの親父、俺が薪運んでた時に一回、団の若いのに手伝わせてくれた」
「そうか」
「そういうの覚えてるんだよ、こっちは」
ヤンは桶を持ち上げて、伯母の家の方へ歩いていった。
背中が塀の角で消えるまでガイは立っていた。
あの商人は妙だと言えばヤンの顔は変わる。
変わるのが今からもう分かる。
だから言わない。
言わない代わりに、足の裏に朝の半歩がまだ残っている。
――――――――――――――――――――
夕方、ガイはヴァルドの家の庭に寄った。
アシュが庭の真ん中で鉄剣を提げて立っている。
親父の予備の剣だ。
貸してやろうと言い出したのはガイで、実際に渡したのは親父だった。
「振れるようになったか」
「まだ受けだけ」
「つまんねえな」
「うん」
アシュはつまらなそうな顔をしていない。
この友達は不便な話を不便なまま受け取る。
ガイは木剣を構えて、上から打った。
鉄が音を吸うみたいに受け止める。
木と木で当たる時の跳ね返りがない。
「重いだろ」
「重い。でも、動かないのがいい」
「動かない方がいいのか」
「押されて崩れる前に足が先に決まる」
三本、四本と続けた。
五本目でアシュの肘が下がって、ガイの木剣が肩に当たった。
当てるつもりはなかったのに当たった。
「悪い」
「僕が遅れた」
アシュは肩を回して、それから鉄剣を地面に立てた。
縁側の方でレインが素振りをしている。
こっちを見ていないふりで数えている。
「今日さ、広場であの商人が飴配ってた」
「うん」
「お前、貰ったのか」
「僕は貰ってない」
「なんで」
「知らない人だから」
アシュはそれ以上言わなかった。
理由が一つで足りている顔だ。
ガイは木剣の先で土を掘った。
「俺は理由がねえ」
「貰わなかったの」
「貰わなかった。手が出なかった。足が半歩下がった」
「じゃあ足が理由」
「足は理由じゃねえだろ」
「僕は理由だと思う」
アシュはそう言って、井戸の水を桶から柄杓で汲んだ。
言い方に力が入っていない。
慰めているのでも、面白がっているのでもない。
ただそう見えていると言っただけの声だった。
縁側からレインの声が飛んできた。
「ああいう喋るのがうまい大人はな、聞いてるだけで疲れるんだ」
「レインも貰ってねえの」
「貰ってねえ。並ぶのが面倒だっただけだ」
言い方が雑で、ガイは少し笑った。
笑ってから、笑えたことに気づいた。
朝から胸のあたりに引っかかっていたものが、少しだけ場所を変える。
「僕もまだ何も分からない」
アシュが柄杓を桶に戻して言った。
「分かったら言う」
「何が分かるんだよ」
「まだ分からない」
変な返しだ。
変なのに、いいかげんな感じがしない。
ガイは木剣を担いで戸口の方へ歩いた。
アシュの青い目がガイを見て、それから鉄剣の方に戻る。
この友達は目の色のことを人に言われるのを嫌がらない。
嫌がらないのに、目のことを話す時だけ声の間が少し空く。
――――――――――――――――――――
家に戻ると土間で親父が革の帯に油を入れていた。
布を握った手が同じ速さで往復している。
ガイは戸口の柱に背中を預けた。
「なあ親父」
「なんだ」
「あの商人、なんか嫌だ」
布の音が止まらない。
「どこが」
「分かんねえ」
言ってしまえば終わりだと思っていたのに、言った後の方が落ち着かない。
ガイは柱から背中を離した。
「今日、貰いものを断ったな」
「なんで知ってんだよ」
「見回りが広場にいた。子どもが一人だけ手を出さなかったと言っていた」
親父は帯を持ち上げて、灯りに透かして油の乗りを見た。
「理由は出たか」
「出ねえ」
「なら、忘れるな」
「忘れてどうなるんだよ。忘れねえで、どうすんだよ」
「言えるようになった日に俺に言え」
それだけだった。
親父は帯を巻いて棚に置き、布を畳んだ。
畳んだ布の角が揃っている。
この人は道具の始末だけは絶対に崩さない。
「飯だ。手を洗え」
ガイは井戸で手を洗った。
水が指の付け根の皮のあたりで冷たい。
飯の間、親父は商人の話を一度も出さなかった。
出さないのが忘れたせいではないことくらいは分かる。
飯が済んでから木剣を持って戸の外に出た。
空はもう暗くて、井戸の縁だけが白く見える。
構えて、右から入って左へ切り替える。
切り替えるたび、短い銀色の前髪が目の端で跳ねる。
昼の広場を頭の端に置いたまま振ったら切り替えの三度目でつま先が引っかかった。
もう一度やる。
二度までにする。
三度目は出さない。
振り下ろした木剣が土の上で止まった。
止まった場所は、いつもより半歩ぶん後ろだった。




