第三話
塔の卓に、椀が三つ並んでいた。
アシュが来る前からゼドルが並べていたものだ。
水を張れと言われたので三つとも張った。
「一つを三つ数える間に張れ。次も同じ。三つとも同じ厚さで張れたら今日は終いにしてやる」
「三つ数える間ですか」
「儂が数える。お前の数ではない」
自分で数えれば都合のいい速さになる。
ゼドルはそこまで見たうえで椀を並べている。
アシュは一つめの前に立って、詠唱を頭の中で一度なぞった。
「ヴァッサークア、グラシア――フロスタ・ヴァトゥン・ヘンドル」
沈む流れが降りてくる。
水生成の糸より重く、落ちる速さが遅い。
それを点ではなく幅に広げて、水面の真上に置く。
「一つ」
端から白さが走る。
「二つ」
白さが真ん中へ寄っていく。
「三つ」
声と同じ拍で、水面が一枚になった。
ゼドルの指が膜を押す。
押されたところが浅くへこんで、そのまま指が沈んだ。
「間には入った。厚さが足りん」
「真ん中が薄いままです」
「分かっとるなら次だ」
二つめの椀は逆になった。
滑る分を見込んで真ん中に多めに置いたら真ん中だけが白い島になって端まで届かない。
三つ数える間に届かせようとすると流れが急になる。
急になった流れは置いた場所から外へ逃げる。
速さと均しは同じ手のうちで喧嘩する。
三つめの水を捨てて張り直しながら、アシュは椀のへりを目でなぞった。
これまでは真ん中から埋めていた。
中から外へ広げれば外へ逃げる分だけ端に溜まる。
なら順序を変えればいい。
先に端を決めて、内側をあとから満たす。
「ヴァッサークア、グラシア――フロスタ・ヴァトゥン・ヘンドル」
流れをへりの上に細く回してから内へ倒す。
「一つ。……二つ」
白さが輪になって、輪の内側が同じ速さで埋まっていく。
「三つ」
膜が張った。
ゼドルの指が中央を押して、端の際を押して、それから止まった。
「ほう」
突く許しをもらって指で押すと膜は真ん中から放射に割れた。
割れ口はどこも同じ細さだ。
三日月の形にはならない。
「もう一度」
もう一度で同じ膜が張った。
二回続いたのは初めてだ。
三回めは端が厚くなり、四回めは三つ数える間に間に合わなかった。
十のうち膜が張ったのは五回。
そのうち同じ厚さで揃ったのは二回だけ。
氷結を初めて水面いっぱいに張れた日から数えるとその二回はずいぶん遠くまで来ている。
「均すというのはな」
ゼドルが椀を寄せながら言った。
「低い方を上げることではない。高い方を削ることだ」
「厚いところを、先に減らす」
「そうだ。足すのは誰でもやる。減らす方は覚えがいる」
アシュは割れた膜を椀ごと目の高さへ持ち上げた。
厚いところを削れば水面のどこにも高い場所がなくなる。
高い場所がなければ突かれた時にどこから割れるかを選べない。
選べないのは弱いことのはずだった。
なのに割れ口は今日の方が揃っている。
「どこから割れるか分からない方が、割れにくいんですか」
「均した面は、割れる時に一枚で割れる。薄いところから先に割れるのは面ではなく穴だ」
言い終わってゼドルは書き物に戻った。
承認の言葉はもうない。
三つの椀は伏せられて、卓の端に片づけられている。
今日はそれが終いの合図だった。
アシュは手を拭きながら、町のことを言うかどうかを考えた。
二十日いる商人がいて、何も売らず配っている。
それだけでは話にならない。
棚に置いたものは、置いたままにしておく。
指先の冷気はもう消えていた。
――――――――――――――――――――
塔を出ると日は高く、井戸のそばに人が集まっていた。
昨日までと集まり方が違う。
笑い声がない。
男の声が二つ、上からかぶせ合っている。
荷車が一台、車輪を外して傾いていた。
折れた車軸が地面に転がっている。
片方は粉屋の主で、もう片方は馬と荷車を貸して回っている男だ。
貸した時は無事だったと片方が言い、もとからひびが入っていたと片方が言う。
修理の代は銅貨で足りる額らしい。
額が小さいのに、二人とも半歩も引かない。
人の輪の外から、ロートスが入っていった。
急がない足取りだった。
止めに入る大人はふつう声を大きくする。
この男は声を落とした。
「先に伺います。どちらからでも」
粉屋が喋り、貸した男が喋る。
途中で相手が口を挟むたび、ロートスは軽く手を上げてその口を閉じさせた。
閉じさせておいて、閉じた側の言い分をあとで最後まで聞く。
二人ぶんを聞き終えるまで男は自分の考えを一つも言わなかった。
「では、こう書きます」
小脇の帳面が開かれる。
書きつける手が速い。
いつ、どの荷を、どこまで運ぶために借りたか。
車軸のどこが折れたか。
二人がたったいま口にした言葉を、そのままの形で並べていく。
書き終わると同じものを二枚に写した。
「代は半分ずつ。次に貸すときは、貸す前に車軸を二人で見る。それだけを決めました。ここに書いてあるのはお二人が言ったことだけです。私の考えは一つも入っておりません」
ロートスは二枚の紙をそれぞれの前に置いて、書いた通りに一度ずつ読み上げた。
読み上げられたのは、二人が自分で口にした言葉だ。
自分の言い分が紙に移ったのを聞いてしまえば、もう続きの言葉が出てこない。
粉屋が先に鼻を鳴らして、貸した男が肩を回した。
「揉め事は、覚えている者が二人いれば終わります。三人目が紙で覚えていれば、もっと終わります」
ロートスは紙の隅に自分の名を書き添えた。
立会人の欄だ。
金を取る話は最後まで出なかった。
誰かが代を払うのかと聞くと男は笑って首を振った。
「私は損をしておりません。紙とインクの分は、いずれ都での仕事の役に立ちます」
嘘ではない、とアシュは思った。
この町で紙に名を書ける相手が二人増えた。
男の言った「役に立つ」は、たぶんそのことだ。
誰も何一つ間違えていないのに、あの名前を書いた紙がこの町に一枚増えている。
通りの端で、ガレアの見回りが立ち止まっていた。
若い方が紙を覗き込んで、書いてある字を目で追う。
咎める理由はどこにもない。
二人は何も言わずに歩いていった。
アシュは人の輪に入らないまま、八百屋の前まで回り込んだ。
「見たか、坊主」
ヨナスが青菜の束を積みながら顎で井戸の方を示した。
「あれを町の顔役がやるとどっちかが恨みを残すんだ。揉め事はな、ただで間に入った側が損をする。だから普通は誰も入らねえ」
「あの人は損をしないって言ってました」
「言うだけならな。……でもよ、坊主。あの人はヤンの先を決めたんだぞ」
ヤン、という名前で、アシュの手が青菜の上で止まった。
ヤンは十二歳で、広場の井戸に水を汲みに来る背の高い子だ。
二年前に父親を亡くして、去年に母親を亡くして、それからは伯母の家の土間で寝ている。
朝は水汲み、昼は誰かの畑、夕方は薪運び。
アシュが話したことは数えるほどしかない。
その数えるほどの中で、ヤンは一度も愚痴を言わなかった。
「奉公の口利きだ。都の織物問屋。帳面をつける奉公人がいるとこだから、読み書きから仕込んでくれるってよ。紹介状はあの人が書く。手間の代は取らねえ」
「町では決まらなかったんですか」
ヨナスは青菜を置いて、少し黙った。
「決まらねえよ。うちは店だ。青菜はやれる。飯も食わせられる。だが十二の子の先は用意できねえ。マレンさんもハンナさんも同じだ。みんなあの子に何かはやってる。何かはやってて、先だけがずっと空いてた」
空いていた場所に、二十日前に来た男が紙を一枚差し込んだ。
それだけのことだった。
井戸端の方でハンナの声が上がっている。
自分の子のことのように喜んでいて、途中から声が湿っていた。
その隣で誰かが言った。
うちの下の子も見てもらえるだろうか、と。
「順に伺います」
ロートスの返事は短かった。
急かさず、断らず、順という言葉だけを置く。
列ができはじめる音を、アシュは初めて聞いた。
ヤン自身は昼過ぎに通りかかった。
水桶を二つ担いだまま、聞かれる前に喋った。
都には橋が四つあるらしい。
問屋の屋根は瓦だという。
刈り入れが終わったら馬車に乗る。
「アシュ、字が書けるんだって? 塔の爺さんとこで」
「少しだけ」
「俺も書けるようになる。奉公人は帳面をつけるんだ」
言ってからヤンは水を零さないように歩いていった。
背筋がいつもより伸びている。
アシュはその背中を見送って、それから広場を振り返った。
男は木箱に腰を預けて誰かの話を聞いている。
この二十日、男が町に置いたものを順に並べてみる。
針。塩。飴。都の話。夜の一階の払い。折れた車軸の紙。十二歳の先。
どれも安い。
最後の一つだけが安くない。
配っていたのは品物ではなかった。
品物で信用を配っていた。
先に渡して、あとで使うためのものだ。
前世でそういう商いはいくらでもあった。
最初に売るものは商品ではない。
信用を先に売って、それから何を売るかを決める。
風が井戸の水面を撫でて、桶の縁で小さな音がした。
男はまだ何も売っていない。
二十日かけて売り物を一つだけ売り終えて、次の品書きを開いていない。
アシュは腕の中の青菜を持ち直して家へ向かった。
朝の椀の膜のことを、なぜか帰り道でもう一度思い出した。
――――――――――――――――――――
家の戸口に、見慣れた革の背負い袋が置いてあった。
「父さん」
「帰った」
父は井戸端で腕を洗っていた。
土と汗と革の匂い。
黒い髪に道の埃が薄く乗って、五日ぶんの髭が顎に残っている。
護衛は隣町までの荷で、道は静かだったという。
静かだったという話を、この人はいつも二言で済ませる。
台所からリアが小走りに出てきて、父を見て両手を上げた。
「だっこ」
父の動きが止まった。
濡れた手を布で拭くのが間に合わず、片手のまま抱き上げた。
「……喋るようになったな」
「五日でずいぶん増えたのよ。まんまも、ねんねも、わんわも」
母が笑いながら手拭いを渡す。
リアは父の髭を両手で掴んで、それから機嫌よく言った。
「みら」
「そこは変わらんのか」
「そこはまだ譲らないみたい」
卓に椀が五つ並ぶ。
五日ぶりの数だ。
兄が井戸端の話を先に喋った。
「今日すごかったぞ。荷車の車軸で揉めてたやつを、あの商人が紙で片づけた」
「紙で」
「二人の言ったことを書いて、二枚に写して渡すんだ。それで終わっちまった。金も取らねえ」
父は椀を持ったまま、少し間を置いた。
「その紙は、誰が持ってる」
「二人が一枚ずつ」
「三枚だ」
兄が箸を止めた。
「二枚だろ。写して渡したんだから」
「書いた本人が中身を覚えてる。紙がなくても三枚目はある」
アシュは椀の中の魚をほぐす手を止めた。
立会人の欄に名前を書いた意味が、そこでようやく形になる。
覚えている者が二人いれば揉め事は終わる。
三人目が覚えていれば終わったあとも残る。
「悪い話じゃない」
父が続けた。
「ヤンの先が決まったのは、いいことだ。あの子には誰も何もしてやれなかった」
「うん」
「いいことを、いいことだと言えなくなる方が危ない」
母が汁の椀を回しながら口を挟んだ。
「あなたが言うと妙に重いのよ、それ」
「重い言い方しか知らん」
兄が笑って、リアが真似して笑って、卓の湯気がひとしきり揺れた。
アシュは信用のことを口に出さなかった。
言葉にすればたぶん父が同じ場所を先に見ている。
同じ場所を二人で見ていると分かっていれば、今日はそれで足りる。
夕食のあと、父が背負い袋から油紙の包みを出した。
隣町の飴でも菓子でもなく、ただの研ぎ石だった。
安いのが一つ、少し上等なのが一つ。
「上等な方はレインだ。そのうち鉄を持つ」
兄が横から聞いた。
「アシュのは安いやつ?」
「木剣の角を落とすのに使うだけだ。借り物の鉄には当てるな。返す時は借りた時の形で返す」
アシュは研ぎ石を受け取って、指の腹で表面を確かめた。
ざらつきの粗さが二つで違う。
もらった物にはやはり重さがある。
重さのある物を渡す時、この家の誰も理由を説明しない。
――――――――――――――――――――
夜、灯りが落ちて、兄の寝息が先に落ちた。
板戸の向こうで低い声が続いている。
母の声だ。
昼の勢いがない声で、同じことを二度言う癖が出ている。
……酒場に泊まってる人と、話したの。
断片だけが届く。
全部は聞こえない。
聞こうとして耳を澄ますのはたぶん行儀が悪い。
行儀の悪さを承知したうえで、アシュは息を浅くした。
……感じのいい人だった。何も聞かれてないのよ。それなのに、家のことを話してた。あんたが留守だってことまで。
……ソフィが言うの。あの人、酔わないって。
……店の言い方で言うなら、勘定の合わない客なの。
父の返事は短い。
そうか。
覚えとく。
それだけであとは何も言わない。
言わない代わりに、母の声の続きを最後まで待っている。
板戸越しでも待たれている側の話し方は分かる。
母の声から少しずつ力が抜けていった。
アシュは天井を見た。
家の中に同じものを見ている人が二人になった。
母は近くで見て、自分は遠くから見た。
朝の椀のことを思い出す。
高い方を削れば面は揃う。
揃った面は、突かれた時に一枚で割れる。
あの男は町の上に同じことをした。
誰にも同じだけ渡して、飛び出た場所をならして、割れ口を作らない。
板戸の向こうで声が止んだ。
衣ずれの音が一つして、家が五日ぶりの静けさに戻る。
父が帰ってきた夜の音は、椀の数と同じように少し重い。
アシュは布団の中で指を組んだ。
朝の膜を突いた指だ。
冷たさが残るはずはないのに、指の腹だけが妙にはっきりしている。
町に張られた一枚をどこから押せばいいかは思いつかない。
思いつくまでは自分の椀の面を揃えるしかない。
掛け布の下で指の腹が動いて、朝の椀のへりをもう一度なぞっていた。




