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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
客人は笑う

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第二話

 昼下がりのランドの店は、夜とは別の顔をしている。

 戸を開けると掃き終えた床と仕込みの湯気と樽の匂い。

 ミラはこの匂いで育った。

 嫁いでずいぶん経つのに、ここに入ると体のどこかが給仕に戻る。

 戸をくぐる前に茶色の髪を後ろで結い直したのも、給仕だった頃の癖のままだ。

 卓の並びも、樽の座る場所も、床板のきしむ位置も、体の方が覚えている。

 壁の掛け金に夜用の炎のランタンが三つ、昼のいまは火を入れずに並んでいる。

 ミラが給仕だった頃からある付与の道具だ。

 風の晩でも火が細らない。


「ミラさん。あ、リアちゃんも」


 ソフィが台拭きを置いて出てきた。

 住み込みの給仕の娘だ。

 身寄りが薄いのを父が引き取って、もう四年になる。

 よく気のつく子で、ミラが口を開く前に薄い麦湯を二つ、卓に置いた。

 リアのぶんはちゃんと冷ましてある。


「前掛け、直してきた。当て布したから今度は破れる前に持ってきなさい」


「すみません。……わ、縫い目きれい」


 ソフィは前掛けを胸に当てて、大事そうに畳み直した。

 この子が店に来てから、父の店は少し明るい。

 無口な父の隣に、よく喋る娘が一人いるだけで店の形が変わる。

 裾がほつれたまま使っているのを先週見かねて預かってきたのだ。

 届けるついでに父の顔も見ていく。


 リアが卓の麦湯を指した。

 柔らかい茶色の髪が、伸ばした腕と一緒に揺れる。


「まんま」


「これはまんまじゃないの。飲むやつ」


「まんま」


「増えましたね、言葉」


「今朝なんて椀を叩いて起こされたのよ。まんま、って」


 まんま。ねんね。だっこ。

 欲しいものから順に、音が一つずつ形になっていく。

 半月前まではみら一つで足りていた。

 言葉が増え始めたのはこの十日ほどだ。

 だっこを覚えた日のことはしばらく家の語り草になった。

 両手を上げた先にいたのがミラではなくレインで、言われた本人が薪を抱えたまま立ち往生した。

 抱き方が分からず結局リアごと薪を運んだ。

 あの日から、レインはリアの前で妙に姿勢がいい。

 ねんねの方は覚えたくせに、寝るのは相変わらず嫌がる。

 言葉と中身は別々に育つものらしい。


「お名前は言えますか。ソフィ、って」


「無理よ。人の名前だけ増えないの。ガルドを指してもみら、レインを指してもみら、アシュを指してもみら」


「じゃあ、名前で呼ばれてるのはミラさんだけなんですね」


「そう言われると、まあ悪い気はしないけどね」


 世界が全部みらでできていた季節は、いつの間にか終わりかけている。

 母親として喜ぶところだ。

 喜んでいる。

 ただ、ほんの少しだけ、指の間から何かが流れていく感じもする。


 奥で父が樽を転がしていた。

 ミラを見て、顎を引く。

 それが父の「よく来た」だ。

 昔から無口な男で、白髪は増えたが腕はまだ太い。

 父はリアを勝手に抱き上げて、勝手に帳場の椅子に座らせた。

 リアも慣れたもので帳場の隅の勘定用の木の玉を触らせてもらって機嫌がいい。

 孫への甘さも言葉にはしない質だ。


「ガルドは」


「依頼よ。三日前から。戻りは明後日」


 父はそれ以上聞かなかった。

 卓の椀が四つの日は家の音が少しだけ軽くなる、という話もしない。

 薪割りの音がなく、地面の鳴る稽古もない。

 軽いのと寂しいのは別の話だが、それは言わないでおく。

 言わないでいるあいだに、父は樽をもう一つ転がしにいった。


 帳場のリアが木の玉を三つ並べて、自分で崩した。

 崩れると笑う。

 父はそれを見て、口の端だけを動かした。

 この家の男は、笑い方の小ささばかりよく似る。

 ミラの亭主も、こういう笑い方をする。


 店の中を、ミラは癖で一度見回した。

 昼の客は二組。

 隅でヨーデルの爺さまが昼から一杯やっている。

 元冒険者の古参で、ミラが給仕だった頃から同じ席に座っている生き字引だ。

 そして、階段の下の卓に、見慣れない男が一人。

 旅装ではないが、この町の仕立てでもない上着。

 卓の上には帳面と、湯気の立つ椀が一つ。

 男は椀を待つ間も帳面に何か書きつけていて、手つきに迷いがない。

 噂の長い泊まり客だと見当はすぐについた。


「二階のお客さん?」


 小声で聞くとソフィが頷いた。


「ロートスさん。もうじき二十日になります。毎晩、一階で遅くまで飲んでいかれて」


「評判いいみたいね、市場でも」


「いいお客さんですよ。払いはきれいだし、ヨーデルさんの昔話を何時間でも聞いてくれるし。この町の古い話が好きみたいで、戦の頃のことまで」


 ソフィはそこで一度言葉を切って、少しだけ首をかしげた。


「ただ……あの人、酔わないんです。杯は空くのに、目が最初のままで」


 よく気のつく子だ。

 ミラが返事をする前に、当の男がこちらへ顔を向けた。


「ソフィさん、お勘定を」


 立ち上がって、銅貨を数えて、それから初めて気づいたという間でミラに会釈した。


「失礼しました。お客様のお話し中に」


「いいえ。あたしはただの出入りよ。この店の娘だから」


「では、噂の。ヨーデルさんから伺っています。この店の看板は酒より先に娘さんだったと」


 男は笑った。

 感じのいい笑い方だった。

 商売用の笑いならミラは店で山ほど見てきた。

 値切る前の笑い、酔わせる前の笑い、つけを頼む前の笑い。

 これはそのどれとも作りが違う。

 笑いが先で、客を見るのが後だ。

 順序が逆なのに、逆だと気づかせない滑らかさがある。


「ロートスと申します。人と家の縁を結ぶ、仲立ちの商いを。……ああ、お嬢さん、こんにちは」


 帳場のリアが男を見て、木の玉を握ったまま固まっている。

 男は近づかなかった。

 その場に立ったまま、少しだけ腰を落として目の高さを合わせ、それ以上は何もしない。

 人見知りの子への正しい距離だった。

 正しすぎる、と後で思うことになる距離だ。

 リアはしばらく男を眺めてから握っていた木の玉を一つ、突き出した。

 誰にでもやる、リアなりの挨拶だ。

 男は両手を軽く上げて、受け取らなかった。


「お店の大事な物ですから。気持ちだけ、いただきます」


 断り方まで感じがいい。

 子どもの差し出す物を上手に断れる大人は、実のところあまりいない。


「言葉を覚え始めた頃とお見受けします。……いい季節だ。呼ばれる名前が、一つずつ増えていく」


「ええ。今朝もやっと椀の名前を──」


 まんまの話をした。

 ねんねの話も、人の名前だけ増えない話もした。

 男は急かさず笑うところで笑い、リアの機嫌のいい方角へ話を運んだ。

 途中で一度だけ、ミラの持ってきた包みへ目を落として言った。


「いい当て布だ。都の仕立て屋でも、ああいう丁寧さはもう売っていません」


 褒められたのは繕い物で、聞かれたことは何もない。

 都の話も少しだけ出た。

 南の絹が値を下げているらしいこと。

 橋が一本直って、荷が急に流れ始めたこと。

 ミラには縁のない話だが、聞いている間は縁のある顔になっていた。

 あとから思えばそれも腕のうちだ。

 ヨーデルの爺さまが割り込んでミラが給仕だった頃の古い話を持ち出す。

 男はそれも喜んで聞いている。

 ご亭主は冒険者だとか馴れ初めはこの店だとか、爺さまが勝手に語る半分に、ミラは笑って残り半分を埋めた。

 樽の湯気の中で、それはただの気持ちのいい世間話だった。


 男は長居をしなかった。

 銅貨の上に一枚だけ多く置いて、「ソフィさんの気配りのぶんです」と言い、帳面を小脇に二階へ上がっていった。

 ソフィが困った顔で父を見て、父は黙って頷いた。

 受け取っておけ、の頷きだった。

 父が余分な銅貨を許すのは店にとっていい客の印だ。

 ミラの知る限り、その目が外れたことはない。

 外れたことのない目が今日も同じ判定を出したのに、なぜか座りが悪かった。


――――――――――――――――――――


 帰り道、露店の煮売りの匂いにリアが手を伸ばした。


「まんま」


「さっき食べたでしょ」


 言葉が増えると断る回数も増える。

 それでもリアは満足そうだった。

 通じた、ということが嬉しい年頃だ。

 やがて眠くなって、ミラの肩へ頭を預けてくる。

 犬が通りの先を横切って、リアが顔だけ上げる。


「わんわ」


「そう、わんわん」


 前は犬もみらだった。

 言葉は日ごとに増えていく。

 ただで増えていく。

 それを聞きながら、ミラは店での小半時を頭の中で並べ直していた。


 並べ直して、気づいた。

 あの男は、何も聞かなかった。

 問いの形をした言葉が一つもなかった。

 ヨーデルの爺さまが半分を語り、男は「だとか」「と伺いました」と半分だけ差し出し、残りをミラが埋めた。

 子が三人いること。

 末の言葉が増え始めたこと。

 上の二人が剣を振ること。

 亭主が冒険者で、今は依頼で家を空けていること。


 最後の一つで、ミラの足が半歩遅れた。


 話した覚えのないことまで、話していた。

 誰に聞かれたわけでもないのに。

 店で育ったミラは、客を読むのが仕事だった。

 注ぐ前に、金を落とす客か面倒を起こす客か、だいたい見当がつく。

 あの男はどちらの棚にも入らなかった。

 読めたと思っていた。

 感じがよく、払いがきれいな、距離の正しい客。

 読めていたのは向こうだ。

 去年の夏、アシュが人さらいに攫われた一件から、知らない大人を測る癖は家じゅうについた。

 アシュには近づくなと言い、ミラ自身も物差しを一本増やしたつもりでいる。

 その物差しが、あの卓では一度も出てこなかった。

 警戒する隙がなかったのではない。

 警戒という言葉ごと、どこかへ預けて座っていた。


 悪いことは何一つされていない。

 飴をねだるでもなく、値段の話をするでもなく、リアには近づきもしなかった。

 それなのに、店の言葉で言うならあれは勘定の合わない客だ。

 何も買わずに何かを持って二階へ上がった。

 持っていかれたものの名前が、ミラにはまだ分からない。


「わんわ」


 リアがもう一度言って、今度こそ眠った。

 寝息が首筋にかかる。

 ミラは抱き直して、歩く速さを少しだけ上げた。


――――――――――――――――――――


 夕方、アシュが帰ってきた。

 手を洗う音まで静かな子だ。

 水を一杯渡しながら、ミラは迷った。

 昼の話をするか、しないか。


「今日ね、実家の店に行ったの」


「うん」


「二階に泊まってる商人さんがいてね。少し話したわ」


 アシュの手が、椀の水の途中で一拍止まった。

 止まったのは知っている。

 この子の一拍は、考えている印だ。


「……近くで見た?」


「ええ。感じのいい人だった」


「うん。遠くからでも、そう見えた」


 それだけ言って、アシュは水を飲み干した。

 感じのいい人だった、にアシュは頷かなかった。

 そう見えた、と言った。

 七つの子の言葉の選び方ではない。

 でも、この子の言葉の選び方ではある。

 ミラはそれ以上聞かなかった。

 聞かないでそばにいるのは店で覚えたあたたかさの形だ。


 夕食の卓は椀が四つ。

 レインの黒い髪が、また短くなっている。襟足が伸びると自分で切ってしまうのだ。

 レインが広場の話をして、リアが新しい言葉を披露して、まんま、と叫んで全員を笑わせた。

 リアがアシュの椀を指して、まんま、と念を押す。

 アシュは自分の椀を少しだけ妹の方へ寄せて、匙で一口ぶん取り分けてやった。

 そういうことは黙ってやる子だ。

 リアは兄の椀の中身を自分のまんまだと信じて疑わない。

 まんま、の一言で卓の椀が全部自分のものになる理屈らしい。

 酒場の商人の話をするとレインは汁を飲みながらあっさり言った。


「二階の人だろ。広場でも有名だぜ。テオなんか都の話を三回も聞きに行ってる」


「あんたは?」


「俺は別に。話のうまい大人って、なんか疲れる」


 言い方は雑だが、レインなりの物差しだ。

 この子は昔から、好き嫌いの理由を言葉にしない代わりに外さない。

 ガルドの席は空いたままだ。

 空いた席は、いつもよりよく見える。

 あの男に亭主の留守を話してしまった小半時が、椀の湯気の向こうで小さく疼いた。


――――――――――――――――――――


 夜、家じゅうが寝静まって、ミラは最後の繕い物を畳んだ。

 竈《かまど》の火を灰にしまい、種火を残す。

 いつもの手順の間じゅう、考えていた。


 明後日、ガルドが帰ったら話そう。

 何を、と聞かれたら困る。

 悪いことは何もなかったのだ。

 感じのいい商人と、店で世間話をした。

 それだけのことを、それだけのこととして話せばいい。

 ガルドはたぶん、難しいことは言わない。

 そうか、とだけ言って、覚えておく。

 あの人はそういう覚え方をする人だ。


 この家には外に出さないものがいくつかある。

 アシュの目のこと、塔のこと、去年の夏の一件の中身。

 ミラはそれを全部、台所の奥にしまっておく係だ。

 今日はそこに、外から拾ってきたものが一つ増えた。

 悪くもないのに座りの悪い、名前のつかない違和感。

 杯は空くのに目が最初のまま、というソフィの言葉も一緒にしまう。

 よく気のつく子の目は、店では帳場の次に信用できる。

 しまう棚は同じでいい。

 ガルドが帰るまでの二日、蓋をして寝かせておく。

 種火と同じでこういうものは消さずにしまっておくに限る。

 いざという時に、掘り返してすぐ使えるように。


 寝床でリアが寝返りを打って、小さな声が漏れた。


「……まんま」


 夢の中の献立まで変わったらしい。

 みら、と呼ばれない夜は初めてかもしれない。

 ミラは暗がりで少し笑って、それから目を閉じた。

 増えていく言葉と、読めなかった客。

 どちらも、ただで店に入ってくる。


 あの客の勘定は、まだ合っていない。


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