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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
客人は笑う

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第一話

 椀の水面に、塔の窓から入る朝の光が丸く浮いている。

 覗き込むと、癖のある紫の髪が映って揺れた。伸びて、耳が隠れるくらいになっている。

 アシュは卓の前に立ち、詠唱を頭の中で一度なぞった。

 フロスタ。

 ヴァトゥン。

 ヘンドル。

 音の角が鋭い言葉にも半年かけてだいぶ耳が慣れた。


「ヴァッサークア、グラシア――フロスタ・ヴァトゥン・ヘンドル」


 沈む流れが来る。

 水生成の糸より重く、ゆっくり落ちる流れだ。

 それを椀の真上で、点ではなく幅に広げる。

 広げた幅が水面に触れて、端から白さが走った。

 膜が張る。

 白さは真ん中まで届いて、水面が一枚の薄い膜で覆われた。


 指で突く。

 ぱり、と音が鳴って、膜は三日月の形に割れた。


「割れ方が軽い」


 ゼドルが書き物の手を止めずに言う。


「薄いということですか」


「厚みが端に寄っとる。真ん中は紙より薄い。同じ場所に同じ量、と言ったはずだ」


 アシュは椀の中の割れた膜を見た。

 言われたとおり、割れ口は真ん中ほど細い。

 沈む流れは糸と違って、置いた場所から外へ滑りやすい。

 滑った分は端に溜まり、真ん中が薄くなる。

 滑るところまでは見えている。

 見えているのにまだ止められない。

 見えることと止められることの間にはいつも同じ幅の溝がある。


「水生成は幅、風は線でした。これは」


「面だ。幅を広げたまま、厚みを揃える。一番地味で、一番ごまかしが利かん」


「水は零《こぼ》しても椀に戻ります。氷は」


「割れたら終いだ。だから面の魔法は性根が出る」


 次の一回は端だけが白くなりすぎた。

 その次は水面の半分で流れが尽きた。

 三度目は膜が張ったが、突くと端の薄いところから先に裂けた。

 水面いっぱいまで張れたのは十回のうち三回。

 初めて膜が張った日は十回に一回だったから進んではいる。

 進み方が遅いだけだ。

 水生成が椀一杯に届くまでも同じ速さで進んだ。

 繰り返した回数だけ形になる、という小言はここでも生きている。

 回数はごまかせないし、ごまかす理由もない。


 ゼドルが横から椀を取り、窓の光に透かした。


「厚いところと薄いところの差が、先週より狭い」


 それだけ言って椀を戻す。

 今日は膜を目で見て測る日らしい。

 承認の形は相変わらず日によって違う。


「同じ時間に、同じ厚さ。それができるまで次はない」


「はい」


「急ぐな。水面一枚の向こうに椀ごと凍らせる壁がある。壁の高さは膜の均《なら》し方で決まる」


 アシュはもう一度椀に水を張った。

 今度は流れを置く前に、椀のへりを目でなぞる。

 端に寄るなら最初から真ん中に多めに置けばいい。

 そう考えて多めに置いた回は、真ん中だけ白い島になった。

 多めではなく、逃げる分を先に読んで置く。

 狙いはたぶんそこにある。

 狙いまでは分かる。

 手はまだ届かない。


「冬が来れば桶の水は勝手に凍る。ありがたみのない魔法だと思うか」


「思いません。勝手に凍る氷は、厚さを選べないから」


「そのとおりだ。選べることに金と首がかかる日が、いつか来る」


 儂《わし》の頃はな、と続きそうな間があって、続かなかった。

 ゼドルは書き物に戻り、アシュは椀の水を捨てて手を拭く。

 指先に冷気の名残はもうない。

 息も上がっていない。

 剣は受けの数本で腕が熱くなるのに、ここでは何十回やっても汗一つ出ない。

 その非対称にも、もう驚かなくなった。


――――――――――――――――――――


 塔を出ると日は半分まで上がっていた。

 市場の通りに入ったところで音の違いに気づく。

 人の声がいつもより一箇所に固まっている。

 広場寄りの、井戸のそばだ。


 人だかりの真ん中に、旅装の男がいた。

 距離は屋台四つぶん。

 上等だが派手ではない外套(がいとう)に、旅の埃がうっすら乗っている。

 外套(がいとう)の質に比べて、荷馬車の馬がよく肥えていた。

 道中を急がず飼い葉を惜しまずに来た馬の腹だ。

 男は足元に木箱を二つ並べ、蓋を開けて、集まった相手に何かを配っていた。

 針の束。

 塩の塊。

 子どもの手には小さな包みが渡って、開けた中身は飴らしい。


 男は、配る相手を見る前からもう笑っている。

 笑ってから、相手を見る。

 順序がそうなっていることにアシュは屋台の陰から気づいた。


 誰かが都の話をせがんだ。

 男は箱の縁に腰を預けて、低いがよく通る声で応じる。

 都で今どんな布が流行っているか。

 どこの街道が直されて、どこの橋が落ちたままか。

 聞き手の欲しがる話だけを選んで、値段の話は一度もしない。

 笑い声が上がるたび、人だかりの輪がひと回り太くなった。

 輪の外から見るぶんには、いい客人が来たようにしか見えない。


 八百屋の店先で、店主のヨナスが客のおかみと首を伸ばしていた。

 市場でいちばん声の大きい親父だ。

 口は悪いが目方は甘く、母の籠には頼まなくても余分がひと山入る。

 アシュのことも赤ん坊の頃から知っていて、町の噂はたいていこの店先を通っていく。


「五日前に来たんだと。ランドの店に部屋を取って、長くいるらしいぞ」


「何の商売だって?」


「人の縁の仲立ちだとよ。奉公の口利きだの、養い先の世話だの。都じゃ堅い商売らしい。侯爵さまの紹介状を持ってて、領主の館には先に挨拶を済ませたと」


「侯爵さまって、どこの」


「知らねえよ。封を見たやつが偉そうな紋だったと言ってた」


「それで、何を売りに来たの」


「それがな、まだ何も売らねえんだ。配ってばかりだ。ランドの店じゃ夜は一階で飲んで、気持ちよく金を落としていくらしい。商売はまだかと聞いたやつには『まず町を知ってからです』だと。真っ当っちゃ真っ当だがよ」


「名前は」


「ロートス・ヴェーバー。ロートスさんと呼んでくれとよ」


 ヨナスがこちらに気づいて、片手を上げる。


「おう、坊主。塔帰りか」


「はい」


「行ってこい。飴くれるぞ、ただだ」


 アシュは首を振った。


「いらないのか。珍しいな」


「知らない人ですから」


 ヨナスが一瞬黙り、それから短く笑った。


「……そうだな。それでいい」


 ヨナスは店先の籠から青菜をひと束抜いて、アシュの腕に押し付けた。


「持ってけ。ミラさんによろしくな。しなびる前に売れ残った」


「お金は」


「しなびる前って言っただろ。金を取ったら商売になっちまう」


 押し付けられた青菜は、夕方の椀に入る顔をしている。

 ただでもらう物は、この町に前からいくらでもあった。

 ヨナスの籠、隣のおかみの繕い物、ガイの父のフェイが貸してくれている鉄剣。

 あの男の飴と何が違うのかを、アシュは腕の中の青菜を見ながら考えた。

 ヨナスは帳面を持たない。

 名前はとうに知られていて、今さら集める必要がない。

 回収の当てもたぶんない。

 しなびる前、という理由は、その場で帳尻が合って終わる理由だ。

 あの男の理由は、まだどこにも見えていない。


 去年の夏、アシュが人さらいに攫われた件を、この町の大人は忘れていない。

 知らない大人に近づかない。

 あの件のあとで家の中と外の両方から言われたことを、アシュは今も守っている。

 守ること自体は難しくない。

 難しいのは、近づかずに見ることの方だ。


 男の配り方には型があった。

 箱から出す前に相手の顔を見る。

 名を聞く。

 聞いた名を、品物を渡すときにもう一度呼ぶ。

 呼ばれた側は少し驚いて、それから笑う。

 一度口にした名前を、男はたぶん忘れない。

 前世で似た型を見たことがある。

 先に与える者は、後で回収する者だ。

 配っている品はどれも安い。

 安い品と引き換えに男は名前と顔と笑い声を集めて回っている。

 そう見えるのはたぶん、自分の目が曲がっているせいもある。

 配られた側は誰も損をしていない。

 針は使えるし、塩は舐められるし、飴は甘い。

 損の出ない取引ほど、帳尻の合う場所が遠くにある。

 前世の理屈が、そこまで言って止まった。

 その先は材料がない。


 男が腰を折って、小さい子の目の高さにしゃがんだ。

 渡して、笑って、立ち上がる。

 立ち上がりながら、視線が通りをひと撫でした。

 誰かを探す目つきではない。

 数える目だ。

 屋台の数、戸口の数、人の数。

 アシュの足は、それを見る前から日陰の側に寄っていた。

 撫でていった視線は屋台の陰まで届かず次の客の声に呼ばれて戻っていく。


 通りの反対の端に、ガレアの見回りが二人立っていた。

 人だかりを遠くから眺めて、短く何か言い交わしている。

 咎める様子はない。

 ただ、二人とも笑ってはいなかった。


 アシュは屋台四つぶんの距離を保ったまま広場を離れた。

 名前だけが耳に残っている。

 名を覚えさせる側が、先に呼び方まで揃えてくる。

 配る型と同じだ。

 そこにも段取りの匂いがした。


――――――――――――――――――――


 夕方、家に帰ると卓の隅に小さな包みが二つ載っていた。

 開けなくても分かる。

 昼に広場で見たのと同じ包みだ。


「ハンナさんが置いてったの。リアにって二つ。でもリアにはまだ早いから、あんたたちで分けなさい」


 母が竈(かまど)の前から言う。

 ハンナは隣の家のおかみで、母の井戸端仲間だ。

 世話好きで、手が足りない日にはリアを見てくれる。

 繕い物のついでに人の家の椀の数まで覚えているような人で、悪気は一つもない。

 広場から井戸端を回って、包みは半日で家の卓まで来ていた。

 アシュはヨナスの青菜を差し出した。

 母は束の根元をひと目見て、しなびる前ね、と笑う。

 八百屋の言い分は、言われる前から母に知られている。

 飴の包みは、リアの手が届かない棚の上へ移された。


「あんたは飴、もらわなかったの」


「もらってない」


「そう」


 母は理由を聞かなかった。

 代わりに通り過ぎるついでのような手つきでアシュの頭をひと撫でした。

 撫でられた理由も、聞かないことにした。


 夕食の卓で、母が井戸端の続きを話した。


「ハンナさん、えらく気に入っててね。腰が低くて、こっちの話をよく聞いてくれるって」


「広場でもその話ばっかりだ」


 兄がパンをちぎりながら言う。


「テオのやつ、飴を二回もらいに行って、二回目は断られたと。一人一つです、だとさ。ちゃんと顔を覚えてるんだ」


「あら、律儀」


「律儀っていうか……」


 兄は言いかけて、続きを魚と一緒に飲み込んだ。

 父は椀から顔を上げずに聞いている。

 聞いていないようでいて、箸の速さは聞いているときのものだ。


「アシュ、見たか」


「遠くから。屋台四つぶん」


「近づいたか」


「ううん」


「それでいい」


 短い問いが二つと、「それでいい」の一言で終わる。

 去年の夏から、この家の確かめ方はこの形に決まっていた。


「どんなやつだった」


 兄が聞いてきた。

 アシュは昼の広場を思い返す。

 外套(がいとう)の質、肥えた馬、名前を二度呼ぶ型、数える目。

 並べかけて、一番上に残ったものだけを口に出した。


「よく笑う人」


「ふうん」


 兄はそれだけで魚に戻った。

 父はそれきり商人の話を続けない。

 代わりに椀を置いてから一度だけ言った。


「売り物の見えない商人の客になるな。何を売る気か、見えてからでいい」


「気前のいい人ってだけかもよ」


 母が言うと父は首を縦にも横にも振らなかった。


「そうならそれでいい」


「ガレアの人たちは知ってるのかな」


 兄が誰にともなく言う。


「町に入った日に知ってるだろう」


 父の返事は短くて、それで話は終わりだった。

 リアがさじの先を棚の包みに向けて、いつもの音を出す。


「みら」


「あんたのじゃないの」


 母が包みをさらに奥へ押し込んだ。

 リアは椀を二度叩いて抗議して、立ちのぼる湯気に気を取られて忘れた。

 卓の上はいつもの速さに戻っていく。

 稽古の話も出て、受けが四本まで残るようになったと兄が数え、父が急ぐなと言う。

 商人の話は、それきり誰も拾わなかった。

 拾われなかった話ほどあとで戻ってくる。

 前世でもここでも同じだった。


――――――――――――――――――――


 夜、寝床に入る前に、兄が包みを一つ放ってよこした。


「食っとけ。うまかったぞ」


「もう食べたの」


「もらいものは早いほうがうまい」


 灯りが消えて、家の音が順番に落ちていく。

 アシュは寝床の中で包みを開けた。

 飴は指の先ほどの大きさで蜜の色をしている。

 ただでもらった甘さ、というものを、アシュは口に入れる前に少しだけ眺めた。

 品物は金と引き換えに塀の内へ入ってくる。

 手土産は、引き換えなしで入ってくる。

 門を通り、井戸端を通り、卓を経由して、寝床の中まで来た。

 誰も何も間違えていない。

 ハンナは親切、母は分けただけ、兄はうまいと言っただけだ。

 それでも、広場からこの寝床までの道筋を、あの安い包みは半日で歩き切っている。

 歩かせたのは笑ってから相手を見る男だ。


 隣の寝床から、兄の寝息が聞こえてくる。

 兄は飴を食べて、うまかったと言って、それで終わりだった。

 それが普通の受け取り方で、たぶん正しい大きさでもある。

 包み一つに一日分の考えを使っているのは、この家で自分だけだ。


 人さらいの手は、塀を越えるときに音を立てる。

 あの日の路地の足音を、体はまだ覚えている。

 手土産は音を立てない。

 立てないから比べる理由は今のところ何もない。

 ただ、音のしない入り方があると知ったことだけが、今日の新しい持ち物だった。


 考えてもこの先はまだ何もない。

 男は配って笑っているだけで町は少し明るくなった。

 それ以上の材料が揃うまでこの考えは先送りにするしかない。

 先送りにするのは得意になった。

 先送りにしたことを忘れないことも。


 アシュは飴を口に入れた。

 甘い。

 舌の根の方へ、ゆっくり溶けながら広がっていく。

 壁の剣二本は、暗がりの中でいつもの場所に掛かっている。

 甘さだけが、灯りのない部屋で長く残った。


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