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イテルニア黙示録  作者: SEもどき
終わりを知らない空の下で
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4/7

第二話 ヴァルドの子


 父ガルドが怪我をして帰ってきた夜のことを、アシュはよく覚えている。


 三歳になったばかりの頃だった。


 夜半過ぎ、玄関の重い音で目が覚めた。アシュは物音がするたびに目を覚ます子供だった。眠れないのではなく、単純に周囲の情報を遮断できなかった。睡眠中も頭のどこかが動き続けているような感覚があって、強い刺激があれば引っかかった。


 廊下を歩く音がいくつか。二人ではない。三人か、四人。一人の足音だけが乱れている。


 ドアの隙間から光が漏れていた。アシュは布団を抜けて廊下に出た。


 居間の戸が少し開いていた。


「子供は寝ろ」


 レインだった。廊下の陰から覗くアシュに気づいて、振り返りもせず言った。父親のガルドに似た黒髪に金色の目をした、大きな背中だった。五歳上の兄は後ろ姿だけで何かを察知する。


「父さんが怪我した」


 アシュは廊下に立ったまま言った。隙間から見えていた。ガルドが椅子に座っていて、ミラが片膝をついて脚に触れていた。


「軽い。心配すんな」


 レインがようやくこちらを向いた。その顔は大丈夫と言っていたが、声の低さはそうではなかった。


 ミラが手を止めずに言った。


「見てるなら入りなさい」


 居間に入った。


 ガルドが椅子に深く腰を落として、右脚を前に投げ出していた。背は高く、肩幅が広く、腕も脚も太い。家の中にいるだけで空気が変わるような体格で、それがいつもと違う座り方をしていた。脚に包帯が巻かれていて、ところどころ赤く滲んでいた。


 傍らに青髪の男が立っていた。がっしりとした体格で、片手をガルドの脚に翳して、低く言葉を続けていた。


「レーベンヴィタ、イフ・アルテム・ソルン……」


 呪文だとアシュは思った。意味は分からなかったが、言葉のリズムが普通の話し言葉と違う。男の手の先から、淡い光が糸のように滲み出て、包帯の上に絡みついていた。


 壁際にもう一人いた。緑髪の長身の男で、ガルドに水を渡していた。静かにそこにいる、という感じの人間だった。


 ミラは茶色の髪を後ろで束ねたまま、金色の目を傷口に向けていた。手つきが慣れていた。急いでいるのに丁寧だった。小柄な体が床に膝をついて、ガルドの膝下に集中していた。


 アシュはその光をじっと見ていた。


 光が傷口の周囲に馴染んでいく様子を見ながら、ぼんやりと考えた。あの光は何だろう。炎でも月の光でもない。人の手から出ている。あの男の中にある何かが、外に出てきているような気がした。


 この世界には、何かが満ちている。


 うまく言葉にならなかったが、アシュはずっとそれを感じていた。人にも、木にも、地面にも、何か力みたいなものが宿っている。大きいものも小さいものもある。あの男が今やっていることは、自分の中にあるその何かを使っているのではないか。


「なんで帰ってから治すの」


 壁際に立っていた緑髪の男が、水の入った器を持ったまま答えた。


「外じゃ表面しか塞げない。血が多い場所じゃレーベンヴィタの加護が受けづらくなる。精霊ってのは血の気配を嫌う。それに深いところまで治すには時間がかかる。安定した場所でないとちゃんとやれない」


 バルトは手を動かしたまま何も言わなかった。オルトがそのままぽつりと付け足した。


「まあ……子供には難しい話か」


 アシュは黙っていた。大体分かった、とは言わなかった。


 壁際の緑髪の男がこちらを見た。薄いオレンジの目が静かにアシュを見た。怖くはなかった。ただ、観察されているような目だった。


 誰も大袈裟に騒いでいなかった。


 こういうことが起きる仕事なのだ、とアシュは静かに理解した。ガルドは冒険者で、冒険者は怪我をする。ミラの手つきが慣れているのは、これが初めてではないからだ。


 ガルドが顔を上げてアシュを見た。


「起こしたか」


「起きてた」


 ガルドは少し笑った。痛みをこらえているはずなのに、表情が緩んだ。アシュは特に感傷なくそれを見て、廊下を戻って布団に入った。


 目を閉じても、あの淡い光のことを考えていた。


 あれは何だろう。あの男の中にあったもの。


 冒険者というのは、要するにそういう職業だ。それと、この世界には自分がまだ知らない何かがある。


 二つのことを考えながら、アシュは眠った。



――――――――――――――――――――



 夜明け前に目が覚めた。


 廊下に人の気配はなかった。ミラもレインも、まだ眠っている。アシュは布団の中でしばらくじっとしていたが、裏庭の方角から微かな音が聞こえた。


 規則的な音だった。一定のリズムで繰り返している。


 アシュは起き上がって窓に近づいた。


 ガルドが庭にいた。


 夜明けの薄い光の中で、剣を振っていた。素振りだった。一振り、また一振り。音は剣が空気を切るたびに生まれていた。右脚に昨夜の包帯がまだ巻かれていた。それでも踏み込む。踏み込むたびに一瞬だけ右脚に重心がかかって、体の軸がわずかにぶれた。ぶれても止まらなかった。


 アシュは窓枠に肘をついて、それを見ていた。


 なぜやるのだろう、とは思わなかった。理由を考える前に、やめないという事実だけが見えた。怪我をした次の日に、夜明けの誰もいない庭で、一人で剣を振る。それがガルドという人間だった。


 何度目かの素振りのあと、ガルドが動きを止めた。剣を下ろして、空を見上げた。


 横顔だった。


 アシュには、その表情が読めなかった。疲れているのか、考えているのか、何も考えていないのか。ただ空を見ていた。誰かに見せるための顔ではなかった。誰にも見せるつもりのない顔だった。


 ガルドはしばらくそのままでいて、それから剣を構え直した。また素振りが始まった。


 アシュは窓から離れて布団に戻った。


 目を閉じると、あの横顔がまだ残っていた。


 言葉にならなかった。


――――――――――――――――――――



 三歳というのは、見た目と中身の乖離が最も激しい時期だった。


 体は子供のそれで、口から出る言葉も短い。しかし頭の中ではとっくに言語が完成していて、周囲の大人の会話は全て聞き取れた。問題は「聞き取れる」と「話せる」の間に大きな溝があることで、アシュはそれを特に不満とも思っていなかった。観察に徹するには子供の姿は都合がよかった。


 ただ、一度だけ口が滑った。


「アシュ、ここ分かるか」


 レインが地図の写しを広げていた。薄い紙を膝の上に置いて、指先で町の一点を叩いていた。「兄ちゃんが今日行った場所だ」と得意そうに言った。


 アシュは地図を見た。


「ちがう」


 レインの指が止まった。


「どこだよ」


「もう一個むこう」


「……なんで分かるんだ」


 アシュは少し考えた。うまく言葉にならなかった。


「あるいた」


 それだけ言った。


 レインはしばらくアシュを見ていた。それから地図を丁寧に畳んで、「外行くか」と言った。



――――――――――――――――――――



 それ以来、レインはアシュを外へ連れ出すようになった。


 目的を言ったことは一度もなかった。ただ「行くぞ」と声をかけて先に出た。アシュは後ろをついていった。


 最初は近所の路地だった。石畳の細い道を、レインが特に目的もなさそうに歩いた。アシュはその背中を見ながら、頭の中で地図を作っていた。角を曲がるたびに、道の形が記憶に刻まれた。建物の高さ、窓の数、壁の色。一度見れば忘れなかった。


 レインはそれを知っているのかいないのか、何も言わなかった。ただ歩いた。


 路地を抜けると広場に出ることがあった。石畳の真ん中に古い井戸がある小さな広場で、昼間は近所の子供たちが集まる場所だった。アシュとレインがそこを通りかかると、何人かの子供が井戸の縁に座っていたり、石畳の上を走り回っていたりした。


 その中に、一人だけ動き方が違う子供がいた。


 銀色の髪をした男の子だった。アシュより少し年上に見えた。他の子供が走り回っているのに、その子だけ広場の端に立って、木の棒を剣のように構えていた。特に誰かに向けているわけでもなく、ただ構えた姿勢のまま、何かを考えるように動かずにいた。


 アシュは立ち止まって見た。


 しばらくして、男の子が棒を振った。一回だけだった。それから何かに納得したように小さく頷いて、また構えた。


「知り合いか」とレインが聞いた。


「しらない」


「衛兵のファルドんとこの子だな。ガイってやつ」


 レインはそれだけ言って歩き始めた。アシュは一度だけその銀髪を振り返ってから、後をついた。


 何が違うのかは分からなかった。ただ、他の子供と何かが違った。動き方か、目の向き方か。うまく言葉にならなかったが、引っかかりだけが残った。



――――――――――――――――――――



 次の日も、また次の日も、レインが「行くぞ」と言った。行き先が少しずつ遠くなった。市場の方向、川沿いの道、職人が多い区画。アシュはその全てを歩きながら頭に入れていった。


 一度通った道は完全に記憶される。それだけではなく、道と道の接続、建物の高さと日の差し込む角度、朝と昼と夕方での人の流れの違い。全部が積み重なって、アシュの頭の中にヴァルンの町が立体的に構築されていった。どの時間帯にどこが混むか。雨の日にどの道が水たまりになるか。どの路地が近道で、どの路地が行き止まりか。


 歩くたびに層が増えた。


 広場を通るたびに、銀髪の子供がいることがあった。いつも同じ場所に立っていた。棒を持っていることもあれば、素手のこともあった。他の子供と話すこともあったが、どこかひとつ離れた場所に立っていることの方が多かった。


 アシュはその子供を見るたびに、少し長く目が留まった。なぜかは分からなかった。ただ、見てしまった。


 ある日、広場を通りかかったとき、ガイがアシュの方を見た。


 目が合った。


 ガイは特に何もしなかった。アシュも何もしなかった。ほんの一瞬のことで、レインが「行くぞ」と言ったのでアシュは歩き始めた。


 それだけだった。


 ある日、市場に差し掛かったとき、レインが立ち止まった。


「ここから宿屋通りはどっちだ」


 振り返らずに聞いた。


 アシュは考えた。一度しか通っていない道だったが、場所はすぐに出てきた。


「あっち。橋の手前で右」


「…………」


 レインは何も言わずに歩き始めた。橋の手前で右に曲がった。しばらくして宿屋通りの看板が見えてくると、レインが短く息を吐いた。


 それから帰り道、レインはアシュの手を引いた。普段はそういうことをしない兄だった。何も言わなかったが、手の力は少しだけ強かった。


 アシュには、それで十分だった。


 三歳から五歳のあいだで、アシュはヴァルンの町のほとんどを把握した。

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