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第一話 産声



最初に困ったのは、体が動かないことだった。




 動かない、というより、動かし方がわからなかった。




 田中誠として生きた四十五年間、体の動かし方に困ったことは一度もない。手を動かしたければ動いた。足を動かしたければ動いた。それだけのことだ。




 今は違った。




 動かそうとすると、全然違う方向に動く。力の入れ方がわからない。そもそも自分の体がどこからどこまでなのかが、よくわからない。




 これが赤ん坊というものか、と田中誠は思った。




 思ったが、どうにもならなかった。





――――――――――――――――――――





 視界も、最初はほとんど使い物にならなかった。




 ぼんやりとした光と影だけがある。輪郭がない。色がない。ただ明るいか暗いかだけだ。




 田中誠には、自分が今どこにいるかの見当もつかない。





 田中誠は考えた。




 自分は死んだはずだ。あの雨の夜に。モニターの光の中で。それは間違いない。




 なのに今、はっきりと見えないが天井がある。




 体がある。




 そして耳の近くで、誰かが泣いている。




 大きな声で、遠慮なく、泣いている。




 田中誠は思った。




 うるさいな。





――――――――――――――――――――





 しばらくして、田中誠の視界いっぱいに肌色が広がった。




 その肌色はだれかの顔だろう。それが何かを言った。




 柔らかい声だった。音の並びは短かった。




 アシュ。




 田中誠は、その音を聞いた。




 自分を呼んでいるのだとわかった。この体の名前だとわかった。




 田中誠、という名前は、誰もここでは知らない。知っている人間は、もうどこにもいない。




 ならばもう、田中誠でいる理由もない。




 アシュでいい。




 ここではアシュだ。




 田中誠はもういない。





――――――――――――――――――――





 言語の習得は、思ったより早かった。




 いや、正確には、自分でも驚くほど早かった。




 耳に入ってくる音を、アシュは無意識に分解していた。この音の組み合わせが何を意味するか。どの音が繰り返し出てくるか。どの音の後に何が起きるか。パターンを探す作業が、息をするように自然にできた。




 田中誠としての記憶がそうさせているのか、それともこの体に最初からそういう何かが備わっているのか、アシュにはわからなかった。




 ただ、できた。




 生後二週間で、家族の名前を聞き分けていた。




 ミラ。ガルド。レイン。




 一ヶ月で、よく使われる単語の意味が掴めてきた。




 二ヶ月で、短い文の構造が見えてきた。




 アシュはそれを、誰にも言わなかった。言える口がまだなかった。ただ天井を見上げながら、聞こえてくる言葉を一つずつ、頭の中に積み上げていった。





――――――――――――――――――――





 ガルドと初めて顔を合わせたのは、生まれて数日後だった。




 それまでは夜に低い声が聞こえるだけで、姿が見えなかった。




 ある朝、突然顔が現れた。




 大きかった。田中誠の視界の中で見てきたどの顔より、ずっと大きかった。黒い髪。金色の目。顎に無精髭。




 その顔が、アシュをじっと見た。




 アシュもじっと見た。




 しばらく、どちらも動かなかった。




 それからガルドは、短く一言だけ言った。




 アシュにはもうその意味がわかった。




 ――元気そうだな。




 それだけだった。




 ガルドはすぐに立ち上がって、部屋を出ていった。




 無口な人間だ、とアシュは思った。




 でも声のトーンは、悪くなかった。





――――――――――――――――――――





 寝返りが打てるようになったのは、生後三ヶ月ごろだった。




 体の動かし方を覚えるのには、理屈があった。どこに力を入れれば何が動くか。どれくらいの力が必要か。一度成功したパターンを記憶して、次に再現する。それだけのことだ。




 田中誠として四十五年間使ってきた体とは、全ての感覚が違う。でも構造を理解してしまえば、あとは繰り返すだけだ。




 システムの仕様書を読むような作業だった。




 寝返りが打てた日、ミラが大声を上げた。嬉しそうな声だった。アシュにはその嬉しさの規模が少し理解できなかった。寝返りひとつでそんなに喜ぶものか、と思った。




 でも悪い気はしなかった。





――――――――――――――――――――





 レインと初めてちゃんと顔を合わせたのは、生後一ヶ月ほど経ったころだった。




 子供の声だが、ミラやガルドとは違う、少し高くて速い声。それがレインだとはすぐにわかっていた。ただ姿がなかなか見えなかった。




 ある昼下がり、その声の主がアシュのすぐそばに来た。




 覗き込んでくる顔は、黒い髪に金色の目。ガルドに似ていたが、顔つきがまだ柔らかかった。




 レインはアシュの顔を見て、何かを言った。




 それから人差し指を一本、アシュの前に差し出した。




 アシュはそれを見た。




 何をしたいのかはわかった。掴んでほしいのだ。




 とりあえず掴んだ。




 レインが笑った。大きな声で、遠慮なく笑った。それからミラを呼ぶ声がして、ミラも来て、二人で何かを言い合っていた。




 アシュには、もうその内容がわかった。




 ――ほら、ちゃんと掴んだ。すごいだろ。




 ――そうね、力強いわね。




 賑やかだな、とアシュは思った。




 悪くない、とも思った。





――――――――――――――――――――





 一歳になる前に、アシュは言葉を覚えた。




 覚えた、というより、もうとっくに理解していた。口が動かなかっただけだ。




 口の構造が違う。舌の動かし方が違う。言いたいことと出てくる音の間に、途方もない距離があった。




 アシュは毎日、口を動かす練習をした。ミラが何かを言うたびに、同じ形を口の中で真似た。声は出さなかった。出し方がまだわからなかった。ただ形だけを、繰り返した。




 それが突然つながったのは、一歳になって少しした頃だった。




 レインが目の前で何か喋っているのを聞きながら、口が動いた。




 レイン。




 音になった。




 レインが固まった。




 それからミラを呼んだ。大声で。ミラが来て、アシュの顔を見て、また大声を上げた。




 また大げさだな、とアシュは思った。




 でも、レインが嬉しそうにしているのは、わかった。




 そのことは、悪くなかった。





――――――――――――――――――――





 歩けるようになったのは、一歳三ヶ月ごろだった。




 立つ、倒れる、立つ、倒れる、の繰り返しだった。




 アシュには、転ぶたびに起き上がることへの抵抗がなかった。




 転んだら起き上がる。それだけのことだ。エラーが出たら直す。それと同じだと思えばよかった。




 ただ、体が言うことを聞かない苛立ちはあった。




 原因はわかっている。筋肉がまだできていない。バランス感覚がまだ育っていない。時間が解決する問題だ。感情的になる理由がなかった。




 歩けた日、ガルドがいた。




 珍しかった。ガルドが昼間に家にいることは、あまりなかった。




 アシュがよろよろと数歩歩いたのを見て、ガルドは何も言わなかった。ただ、大きな手でアシュの頭を一度だけ撫でた。




 重かった。でも、痛くなかった。




 アシュはその手の重さを、しばらく感じていた。





――――――――――――――――――――





 二歳になると、世界の解像度が上がった。




 視界がはっきりした。体が言うことを聞くようになった。言葉は完全に聞き取れるようになっていた。話すほうも、短い文なら組み立てられるようになった。




 ヴァルド家の日常が、輪郭を持って見えてきた。




 朝、ガルドは早くに出ていく。冒険者の仕事だ、ということはわかった。詳しい中身はまだわからなかった。




 ミラは一日中動いていた。家の中を整えて、飯を作って、レインの相手をして、アシュの相手をして、それでも疲れた顔をあまり見せなかった。




 レインは毎日外へ遊びに行った。帰ってくるたびに服が汚れていた。ミラに何か言われて、決まって同じ顔をした。反省していない顔だ、とアシュは思った。




 夜、ガルドが帰ってくる。それで一日が終わる。




 アシュはその繰り返しを見ていた。




 静かだな、と思った。




 自分の部屋の、あの午前二時の静けさとは違う。あれは何もない静けさだった。




 これは、何かがある静けさだった。





――――――――――――――――――――





 二歳を過ぎたある日、アシュは自分の手を見た。




 小さな手だった。爪が小さい。指が短い。田中誠の手とは全然違う。




 その手を、ぐっと握った。




 どこかで、一度やった動作だと思った。




 いつだったか、思い出そうとした。




 思い出せなかった。




 ただ、やったことがある、という感覚だけがあった。




 アシュはしばらく、握った手を見ていた。




 それから、離した。




 何かが、微かにあった。




 何なのかは、わからなかった。

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