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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
青い目の子

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第三十一話

 朝の光が庭の土を白く乾かしている。

 アシュは鉄剣を正面に立てて、数を数えていた。

 立てているだけで前腕が張るのは初めて受け取った日と変わらない。

 変わったのは張るまでの数だ。

 最初の朝は十を数える前に腕が鳴った。

 今朝は三十まで数えてもまだ手のひらが柄を握っていられる。

 増えるのは一日に一つか二つで数えなければ気づかない。

 それでも増えている方へ動いている。


 庭の土は表面だけ乾いて、下は昨日の雨で締まっている。

 乾いた面は滑らず締まった下は踏んでも沈まない。

 足の裏で地面を掴めるぶん、重い剣を支える腕の負担がいくらか減る。

 そういう細かいことに最近は自然と目がいくようになった。


 庭の隅でガルドが薪を割っている。

 斧が木へ食い込む音が決まった間隔で庭に返ってくる。

 今朝はこの音から始まった。

 割った薪を積む乾いた音が二つ、三つと続いて、また斧が振り上がる。


「アシュ」


 振り向くとレインが縁側に木剣を提げて立っていた。

 寝起きの目のまま、顎で庭を指す。

 今朝は寝過ごして、ガルドとの朝稽古に出そびれたらしい。


「一本やるか」


「うん」


 鉄剣を壁に立てかけて木剣に持ち替える。

 鉄剣を握ったあとの木剣はたしかに軽い。

 羽根みたいに感じる日が来る、とフェイは言った。

 その入り口くらいには来ているのかもしれない。

 軽くなったぶん、木剣は速く動く。

 速さに手が置いていかれないよう、指の力を半分だけ抜いた。


 レインの一撃を木剣で受ける。

 軽いぶんだけ手首が楽をしたがる。

 その手首を、鉄剣で覚えた背中の使い方で押さえた。

 力ではなく重さで受ける。

 あのとき頭で分かったつもりでいたものが、今は少しだけ腕に入っている。

 二本目は肩で受けて、三本目は腰から落とすように受けた。

 剣先が同じ場所で止まって、手首は鳴らない。


 薪を割る音が、いつのまにか止んでいた。

 ガルドが斧を薪の上に置いてこちらを見ている。

 止めろとも続けろとも言わない。

 ただ、次の一本が終わるまで斧を握り直さなかった。

 ガルドが稽古を見るのはレインのときからの癖だ。

 その目に、いつからか自分も入っている。


「重いの、続けてるんだな」


「うん」


「無理に振るなよ。手首をやる」


「フェイさんにも言われた」


「だろうな」


 レインは短く笑って次の一本を出してきた。

 その一本でアシュの受けが半歩遅れる。

 木剣の先が肩口をかすめて、レインが手を止めた。


「今のは鉄の癖だ。重いのに慣れると木が待ってくれると思う」


「うん」


「木は速い。忘れるなよ」


 それだけ言ってレインは井戸の方へ歩いていく。

 肩の張りをほぐすように腕を回しながら、途中で一度だけこちらを振り返った。


「半年前のお前なら二本目で崩れてた」


 崩れてた、とだけ言って、返事は待たずに行ってしまう。

 褒め言葉を長く続けないのはこの家の男たちに共通している。

 台所からは竈(かまど)の煙の匂いが流れてきていた。

 ミラが朝の火を起こしている。

 その足元でリアが椀を一つ握って、誰にともなく話しかけていた。


「みら」


「はいはい」


 ミラの返事は名前を呼ばれても呼ばれなくても同じ調子で返ってくる。

 リアの最初の言葉は、まだミラの名前のまま動かない。


――――――――――――――――――――


 昼近く、ガルドが部屋に入ってきた。

 手に短い木の棒を三本と木槌を提げている。

 アシュとレインの部屋の壁際には剣が三本並べて立ててあった。

 レインが今使っている木剣。

 アシュがレインから受け継いだ古い木剣。

 その隣に借りものの鉄剣が一本。

 どれも立てかけてあるだけで、今朝はアシュが庭へ出る前にリアが引っ張って倒しかけていた。


 ガルドは棒を置いて、まず端の鉄剣を手に取った。

 刃を横に寝かせ、重さを手のひらの上で二度、跳ねさせる。

 どこに重心があるかを確かめる大人の持ち方だ。


「重心が高い。振る剣じゃないな。受けで使え」


「フェイさんも受けだけって」


「そうだろう。これは腕を作る剣だ」


 ガルドはフェイの手入れの跡を目で追ってから鉄剣を元の場所へ戻した。


「錆をよく止めてある。あの男は道具を粗末にしない」


 それから壁の高いところに棒を当てた。


「立てておくとそのうち誰かが下敷きになる」


 背の低いアシュが背伸びしてやっと届く高さだ。

 リアの手は椅子を持ってこなければ届かない。

 アシュは棒を一本、壁に押さえる役をもらった。

 押さえたところへガルドが木槌を打ち下ろす。

 低く鈍い音が部屋の床を伝って足の裏まで来た。

 打つたびに棒が壁へ食い込んで指先に震えが返ってくる。


 棒は掛けるためのものだった。

 二本の間に剣を渡せば刃が壁から浮いて留まる。

 ガルドは間隔を目で測りながら二本、三本と打っていく。

 三本目の棒は少し斜めに入りかけた。

 ガルドが木槌の腹で横から二度叩いて、まっすぐに直す。

 力任せではない。

 どこを叩けば木がまっすぐ戻るか手の方が先に知っている打ち方だ。

 アシュはその手の使い方を、剣の受けと同じ目で見ていた。

 力ではなく、当てる場所で決まる。

 掛け棒を打つ手も剣を受ける腕も、たぶん同じことを言っている。


「レインのはこっち側だ。お前のはこの二本」


 ガルドが顎で右側を指す。

 アシュは自分の木剣を持ち上げて、言われた場所へ掛けてみた。

 柄と刃が棒の上でぴたりと止まる。

 その隣に借りものの鉄剣を掛けた。

 鉄剣は重いぶん棒がわずかにしなったが、落ちはしない。


「重いのは端がいい。落ちても足に当たらん」


 ガルドは剣の並びをしばらく見てから木槌を腰の後ろに差した。

 二本の剣が壁の同じ高さで横に並んでいる。

 床に立てていたときと違って、影が壁に貼りついたまま動かない。

 この家の壁にアシュの持ちものの場所が二つできた。


 リアがどうにか掛け棒に届こうと椅子を引きずってきた。

 小さい手が端の柄に触れる寸前でガルドがひょいと抱え上げる。

 リアは宙で足をばたつかせて、いつもの一言を放った。


「みら」


「まだ早い」


 ガルドはリアを肩に乗せたまま、掛け棒の高さをもう一度確かめた。

 リアの手は届かずアシュの手なら背伸びで届く。

 その高さにちょうど二本が収まっている。


 レインが戸口から覗いて、自分の側の壁を見た。


「俺のときはこんなの作ってくれなかったぞ」


「お前のときは剣が一本だった」


「一本でも掛け棒はいるだろ」


「言えばよかったんだ」


 ガルドの返事にレインは肩をすくめて引っ込んでいった。

 アシュは壁の二本をもう一度下から見上げた。

 掛け棒を頼んだ覚えはない。

 朝にリアが剣を倒しかけただけで昼には壁に居場所ができている。

 レインが八つで稽古を始めたとき、この家の壁はきっと少しずつ場所を空けたはずだ。

 今は同じ壁が、アシュの二本ぶんだけまた場所を空けている。

 空けてもらったことに気づくのはいつも空いたあとだ。

 この家では頼む前に手の方が先に動く。

 自分のためにそれが動くのを、アシュは黙って見ていた。


――――――――――――――――――――


 夕方、卓に椀が五つ並んだ。

 ミラが鍋の中身を分けていく。

 リアのぶんは小さい椀で木のさじが添えられている。

 残りの四つは同じ大きさで順に湯気を立てていた。


 ガルドが端に座り、その隣にレイン。

 アシュはミラの隣に座り、向かいにリアの椅子がある。

 誰がどこに座るかはいつのまにか決まっている。

 決めた覚えはないのに毎晩そのとおりに埋まる。

 埋まった形の中にアシュの場所も端ではなく間にあった。


 箸を取るのはいつもガルドが一番早い。

 ひと口含んだところで顔を上げずに言った。


「今日は魚が濃いぞ」


 ミラが味を濃くした日はガルドが先に気づいて口に出す。

 アシュは煮汁を含んで一拍おいてからもう一口を続けた。

 濃い味は薄い味より少しだけ長く舌に残る。

 残ったところでそれが好きかどうかまではまだ自分でも分からない。

 ただ、続けて手が伸びるくらいには悪くなかった。


「アシュ、それ好きなの」


 ミラがこちらを見た。

 試すような目ではなく、ただ確かめる目だ。


「分からない。でも、もう一口食べたい」


「じゃあ好きなんでしょ」


「そうかもしれない」


 ミラは笑って、アシュの椀へ煮汁を足した。

 その理屈でいいのなら好きなものは今日一つ増えたことになる。


 レインが箸を置いて、ガルドの方を見た。


「アシュ、今朝は三本受け切ったぞ。半年前なら二本目で転がってた」


「そうか」


 ガルドはそれだけ言って、魚の身をほぐす手を止めなかった。

 止めないまま、口の端だけがわずかに動いた。


「腕は」


「立てているだけでまだ張る。前よりは長く持つけど」


「それでいい。急ぐな」


 急ぐな、という言葉をアシュはこの半年で何度も聞いている。

 同じことを、ゼドルもフェイもガルドも別の場所で口にする。

 早く来た分だけ早く重くなる、とゼドルは言った。

 その重さを、この家の卓はいつも普通の速さで受け止めてくれる。

 朝に受けた一本の話が、夕方の魚の湯気の上で家じゅうに配られていく。


 ミラがリアの椀の位置を直しながら、レインの方を見た。


「あんたが弟の稽古の話をするの、珍しいね」


「別に。ただ残ったってだけ」


 レインはそう言って、魚の骨を器の端へ寄せた。

 照れを隠すときのレインは、手元の作業が急に丁寧になる。

 ミラはそれ以上からかわずリアの口の周りを布で拭いた。


「掛け棒、ガルドが作ったんだって」


 ミラがアシュに聞いた。


「うん。剣を二本掛けた」


「そう。じゃあ倒れてこないね」


 ミラはそれだけで安心した顔をした。

 危ないものが低い場所にないだけでこの家では一つ片付いたことになる。


 リアがさじで椀の縁を叩いて、ガルドの方へ手を伸ばした。


「みら」


「父さんだ」


「みら」


「父さんだ」


 ガルドが根気よく言い直してもリアは同じ音を返す。

 レインが噴き出してパンを口に押し込んだ。


「ガルドも負けたな」


「まだ負けてない」


「全員負けてる。俺もアシュも」


 試しにアシュも自分の名前を教えてみた。

 リアはアシュの目をまっすぐに見て、それから椀を指してこう言った。


「みら」


「惜しくもない」


 レインがまた噴き出す。

 リアだけが、なぜ皆が笑うのか分からない顔で椀を叩いていた。

 全員から名前を教わって、全員に同じ音を返し続けている。

 卓の五人のうち、リアだけが誰にも譲っていない。

 その一点張りがなぜか毎晩この卓を柔らかくする。

 名前を返してもらえない側が、揃って笑っているからだ。


 アシュは椀の湯気の向こうに三つの顔と小さいひとつを見た。

 誰も自分の目の色を見ていない。

 顔を見て、話しかけて、椀を差し出してくる。

 青い目はこの卓では椀より軽い。

 今日は一日、自分の目の色を一度も考えずに過ごしていた。

 そういう日が、この頃は少しずつ増えている。


――――――――――――――――――――


 夜、家の中の音が一つずつ消えていった。

 ミラが台所の片付けを終えて、竈(かまど)のそばを最後に離れた。

 光の付与石に布が掛けられて、戸の隙間から漏れていた薄白い明かりが消えた。

 ガルドの寝息が先に落ちて、レインがそれに続く。

 リアは寝返りのたびに小さく「みら」と漏らして、また眠りに戻っていく。


 アシュは目が冴えて、寝床の中で天井を見ていた。

 昼に掛けた二本の剣が、暗がりで壁に黒く並んでいる。

 その一番端の鉄剣を目でたどっているうちに井戸のそばで聞いた声が戻ってきた。


 あの四人は領主のところで沙汰を待っている。

 牢で妙なことを言い散らしているらしい、とフェイは言った。

 青い目の子供が魔法を使った、と。

 まともに取り合う耳はない、とも言った。

 その言葉のあとに一度だけ間が空いた。


 ――今のところは、な。


 今のところ、という言葉の先を、アシュは知っている。

 牢の四人の、さらに向こうがある。

 あの納屋で四人の一人のヴェルクがこう言った。

 注文だ、青い目の子供をという注文があった、と。

 注文を出した者の顔を、アシュは一度も見ていない。

 あの注文が取り消されたという話はどこからも聞こえてこない。

 だとすれば見ていない相手は今も同じ青を探しているはずだ。

 この卓で椀より軽く扱われる色が、遠くでは値のつくものとして数えられているのかもしれない。


 同じ青が、家の中ではただの弟の目になり、家の外では品書きの一行になる。

 二つは遠く離れているのに同じ一つの色から出ている。


 アシュは寝返りを打って、壁の二本の方を向いた。

 線の続きは今夜は追わないことにした。

 追っても今の腕では届かない先にある。

 届く腕を作るために壁には鉄剣が一本掛かっている。

 掛け棒を打ってくれた手と種火を残した手が、この家の中で先に眠っている。

 剣を掛ける棒を打ち、椀に煮汁を足し、名前を呼び直す。

 どれも大きな守り方ではない。

 小さくて、毎日そこにある守り方だ。


 外の暗がりが何を探していようとそれはまだ塀の外の話だった。

 塀の内側では四人ぶんの寝息が同じ暗さの中で上下している。

 そこへ自分の息を一つ足せば卓に並んだ椀と同じ五つになる。

 その五つ目を、もう数えて確かめる必要はなかった。

 自分がその中の一つだということはいつのまにか分かるようになっていた。


 前世では夜に息を数えても一つきりだった。

 隣に誰かの寝息がある夜を、あの頃は知らなかった。

 どんなふうに終わったのかを、今夜は呼び起こさなくていい。

 ただ、最後まで独りだったことと帰る場所がどこにもなかったことだけは体の奥にまだ残っている。

 その頃の自分が、今はこの暗がりで誰かの息のすぐ隣にいる。


 この世界で生きていく。

 考えて選んだわけではない。

 五つ目の息が、もう元の一つには戻らないだけだ。


 アシュはもう一度寝返りを打って、今度は窓の方を向く。

 窓の外で夜明けまでにはまだ遠い青が、町の屋根の上に薄く伸びていた。


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