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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
青い目の子

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第三十話

 塔のない日は手が空く。

 ゼドルのところへ通うのは三日に一度と決まっていて、行かない日は体の方が先に持て余す。

 庭で木剣を振っていると門の向こうから足音が来た。

 走り方に迷いがない。

 顔を見るまでもなくガイだ。


「アシュ! いいってさ!」


 ガイは門を抜ける前から声を張っていた。

 琥珀(こはく)の目が昼前の光を弾いている。


「何が」


「剣。親父が、貸していいって言った」


 剣、と言われても何のことか分からず、ガイが最初から話した。

 フェイの予備の剣を、アシュに貸そうと前から考えていたこと。

 刃のない、訓練用の本物の剣だということ。

 木でできた今の剣とは重さが違う、とガイは言った。


「取りに来いってさ。親父が、自分の手で渡すって」


「フェイさんが?」


「うん。今日は詰所にいる。日が暮れるまではいるって言ってた」


 アシュは木剣を壁に立てかけた。

 素振りの続きはあとでいい。

 鉄剣がどれくらいのものなのか手で確かめる方が先だ。

 ミラには詰所へ行ってくると声だけかけた。

 ミラは「暗くなる前に戻りなさい」とだけ言って、それ以上は聞かなかった。

 どこへ何をしに行くのか、この家では最後まで聞かれないことが多い。


――――――――――――――――――――


 ガレアの詰所は広場の東の縁にある。

 板塀の囲いの中に、屋根の低い建物が二つ並んでいた。

 塀の外では若い男が二人、木の棒で打ち合っている。

 アシュたちが通っても手を止めない。

 片方が一瞬だけこちらを見て、それからまた棒に戻った。

 目が合ったのはほんの短い間で、その短さの中に見覚えのある種類の視線が混じっている。

 誘拐のあった夜、この塀の中から夜通し人が出ていったのだとあとで聞いた。

 その日のことを、ここの誰もアシュの前では口にしない。

 口にしない代わりにこうしてときどき視線だけが少し長くなる。


 建物の奥にフェイがいた。

 壁に背を向けて木の椅子に腰かけ、革の帯を油の布で拭いている。

 ガイと同じ琥珀(こはく)の目が、入ってきたアシュをすぐに見つけた。


「来たか」


「はい」


 フェイは布を膝に置いて、傍らの壁に立てかけてあった一本を取った。

 鞘には入っていない。

 鈍い色をした刃が、窓の光を重たそうに返す。

 刃と言っても縁は落としてあった。

 叩く道具であって、斬る道具ではない。


「ほら」


 柄を先にして、こちらへ差し出す。

 アシュは両手で受け取った。

 その途端、腕がぐっと下へ引かれる。


 重い。

 木剣とは比べものにならない。

 同じくらいの長さのものが、これほど下へ引っ張るのかと思う。

 柄を握る手のひらに剣の重さが丸ごとぶら下がっている。

 構えようとすると先端が落ちた。

 落ちる先を止めようとすると今度は手首が鳴る。

 重さの中心が、木剣とは違う場所にある。

 木剣は握りのすぐ先が中心で、腕の言うことをよく聞く。

 この鉄は中心が刃の真ん中あたりまで逃げている。

 だから先端が勝手に落ちたがる。

 握りの力だけで抑え込もうとしても、剣の方が言うことを聞かない。


「振り回すなよ」


 フェイがそう言うより先に体の方が分かっていた。

 これは振るものではない。

 少なくとも、今の自分の腕では。


「振れば手首を持っていかれる。当分は受けだけだ。ガイにもまだ持たせとらん」


 ガイがそばで口を尖らせた。


「持ち上げたことはあるぞ」


「持ち上げただけだ。それで泣きそうな顔をしてた」


「泣いてない」


「泣きそうだったって言ってんの」


 フェイが軽く笑って、それきり口を閉じた。

 親子のやり取りに割り込む言葉を、アシュは持っていない。

 剣を体の正面に立ててみた。

 立てているだけで前腕が張ってくる。

 重さを支えるだけでこんなに仕事があるとは思わなかった。

 木剣を握っていたこの半年、アシュは軽いものを軽く扱っていただけだ。

 軽いものは、軽いというだけで一つ嘘をつく。

 本当の重さを、今はじめて手が知った。


――――――――――――――――――――


 塀の内側の隅で、ガイが打ち込み役になってくれた。


「行くぞ。ゆっくりな」


 ガイの木剣が肩口へ落ちてくる。

 鉄剣を斜めに出して、当てた。

 当てた瞬間、手ではなく体の芯へ衝撃が抜ける。

 木で受けたときとは力の通り道が違う。

 軽い剣は手首でいなせる。

 重い剣は、腕から背中まで一本につながないと受けられない。

 レインが庭で言っていた言葉が、急に形を持った。

 力ではなく重さで受ける。

 あのとき頭では分かったつもりでいて、体はまだ何も分かっていなかった。


「もう一回」


「うん」


 二度目は足の裏から受けにいった。

 膝を沈めて、腰で衝撃を飲む。

 背中の奥で、今まで眠っていた筋が一つ、初めて仕事を受け取った。

 剣は同じ場所で止まる。

 手首は鳴らなかった。


「今の、よかったぞ」


 ガイの承認は言葉より先に踏み込みで来る。

 次の一本が、少しだけ本気になった。

 その一本を、アシュは取りこぼした。

 鉄の先が土に落ちて、鈍い音を立てる。

 拾い上げるだけでまた腕が張った。


「無理すんな。まだ十本も受けてない」


 息が上がっている。

 塔で水を出すときは何十回続けても息は乱れない。

 この剣は十本で腕が笑う。

 アシュにもこういう普通の部分がまだ残っているらしい。

 それを確かめるたびになぜだか少しほっとする。

 何もかも規格外れというわけではない、と手が教えてくれる。


「アシュってさ」


 ガイが木剣を担ぎ直しながら言った。


「疲れる顔、初めて見たかも」


「そう?」


「うん。塔の帰りとかさ、いっつも平気そうな顔してるじゃん。今日は、ちゃんと疲れてる」


 ガイは笑っていた。

 悪意の類いはそこに一つも混じっていない。

 ただ、友達がふらついているのが面白いらしい。

 アシュは鉄剣を杖のようにして、少しだけ笑い返した。


 打ち合っていた若い男の一人が、いつのまにか稽古を止めて近くに来ていた。

 さっき一瞬だけこちらを見た方だ。

 しゃがんで、アシュの持つ鉄剣を覗き込む。


「フェイさんの予備か。よく手入れされてる」


「はい」


「そいつ、重いだろ」


「重いです」


「最初はみんなそう言う。俺も泣きそうだった」


 男はそれだけ言って、また少しだけアシュの顔を見た。

 あの夜、この塀から駆け出していった一人なのかもしれない。

 確かめる術はない。

 ただ、その視線に値踏みの匂いはなかった。

 弟でも見るような目で、男は立ち上がると棒のところへ戻っていく。

 この町の中では、アシュはこういう目に囲まれている。

 塀の外の話は、まだ塀の外にある。


――――――――――――――――――――


 休むあいだ、フェイが井戸の水を汲んでくれた。


「重いだろう」


「重いです」


「そのうち軽くなる。腕がついてくればな。木剣に戻ったとき、羽根みたいに感じる日が来る。それが狙いだ」


 フェイは自分の分の水を飲んでから塀の外の道の方へ目をやった。


「あの四人な」


 誰のことかすぐに分かった。

 喉の奥が少し冷たくなる。


「領主のところへ渡した。人さらいは首の飛ぶ罪だ。今は牢の中で沙汰を待ってる。俺たちの手は、もう離れてる」


「そうですか」


「ただな。牢で妙なことを言い散らしてるらしい。青い目の子供が魔法を使った、とな」


 アシュは水の椀を持ったまま、動かなかった。

 フェイの目はこちらを見ていない。

 塀の外の道の続きを見たままだ。


「気にするな。人さらいが命乞いに並べる作り話だ。まともに取り合う耳はない。この町の連中は、お前を赤ん坊の頃から見てる」


 そこで一度、言葉が切れた。


「……今のところは、な」


 今のところ、という言葉だけが、あとに残った。

 この町の中では、アシュはヴァルドの下の子だ。

 けれど町の外には、アシュを知らない耳がいくらでもある。

 いつかその一つが、青い目と魔法を結びつけて考える。

 ゼドルが「見せるな」と言った意味が、遠くの方で一本の線につながっていく。

 あの四人が、今度は別の形で残っている。

 終わったはずのものが、まだ終わりきっていない。


「怖い顔をするな」


 フェイがこちらを向いた。

 琥珀(こはく)の目が、まっすぐにアシュを映す。


「あの連中の口より、お前の口の方がずっと固い。それでいいんだ」


――――――――――――――――――――


 水を飲み終えても、フェイは井戸の縁に腰かけたままだった。


「一つ、言っておく」


「はい」


「ガルドには、うちの団を動かした借りがある、と言ってある。町じゅうを夜通し駆け回らせたからな。あいつはそれを返すつもりでいる。生真面目な男だ」


 アシュは頷いた。

 あの沢で、フェイがガルドに「借りだな」と言ったのを、ガルドの腕の中で聞いていた。


「だがな」


 フェイは井戸の水面を見下ろした。


「本当のところ、貸しがあるのはこっちかもしれん。あの沢で首の皮が繋がったのは、俺の腕のおかげじゃない」


 言葉には出さない。

 それでも、何を指しているのかは分かる。

 あの朝、アシュが二本目の風を出して、フェイに向いた刃を上へ跳ね上げた。

 あれがなければフェイはあの場所で斬られていた。

 助けられた側が、そのまま助け返す側にもなっている。

 それでも、釣り合った気はしない。


「だから、この剣は貸しでも礼でもない。ただの道具だ。重いだけの、鉄の棒だと思え。好きに使え」


 好きに使え、とフェイは言う。

 けれど、これはただの棒ではない。

 前世で借りたものはたいてい数字で返せた。

 金を借りれば金で返し、時間を借りれば時間で返す。

 帳面の上で貸しと借りは最後には消し合う。

 ここで負ったものはその帳面に載らない。

 命で助けられて、命で助け返して、まだ何かが手元に残っている。

 残ったものを、今のアシュに返せる形は多くない。


 思いつくのは一つだけだ。

 借りたこの剣で腕を作って、いつか誰かを守れる側に回ること。

 それと、フェイに迷惑がかからないように口を固くしておくこと。

 牢の中で誰かが並べる作り話を、本当のことにしないこと。

 子どもにできる返し方はそのくらいしかなかった。

 でも、そのくらいなら今日から始められる。


 アシュは鉄剣を、もう一度両手で持ち直した。

 重さは何も変わらない。

 ただ、持つ理由が一つ増えていた。


――――――――――――――――――――


 帰り道は来たときより長く感じた。

 剣を肩に担ぐと一歩ごとに骨へ食い込む。

 持ち替えても反対の肩がすぐに同じように痛む。

 途中で二度、道の端に下ろして休んだ。

 ガイは「途中まで持とうか」と言ったが、断った。

 自分のものになった重さは自分で運ぶ方がいい。

 運びきれない重さなら、運びきれるようになるまで運ぶしかない。

 肩の同じ場所ばかりが赤くなって、しまいには痛みの方が少し慣れてきた。

 痛みに慣れるのもたぶん腕がつく前の一段目なのだろう。

 道の途中で荷車を引く男とすれ違った。

 男はアシュの担ぐものをちらりと見て、歩みをわずかに緩める。

 それでも何も言わずに荷車の音とともに行き過ぎていった。

 この町では、それで足りる。

 誰もアシュの目の色を、荷物より重くは扱わない。


 家の門をくぐると庭でガルドが薪を割っていた。

 アシュが担いでいるものを見て、斧を止める。


「借りたのか」


「うん。ガイの父さんに」


 ガルドは剣の刃の縁を指でなぞって、落としてあるのを確かめた。

 指の腹で危なくないと分かるまで確かめてから頷く。


「フェイは、何て」


「好きに使え、って。貸しでも礼でもないって」


 ガルドは短く息を吐いた。

 笑ったのに近い息だった。


「あの男らしいな」


 それ以上は聞かれなかった。

 ガルドはたぶん、フェイが井戸のそばで言ったことのいくらかを、もう知っている。

 大人たちはアシュの見ていないところで貸し借りの帳尻を合わせているらしい。

 その帳面のどこかに、アシュの名前も載っているのだろうか。

 載っているのならいつか自分の手で、自分の欄を書き足したい。

 貸してもらった側から、貸す側の欄へ。


――――――――――――――――――――


 夜、部屋の壁際に剣を二本並べた。

 レインから受け継いだ自分の木剣。

 その隣に、鉄の一本。

 二本の中で鉄だけが影の落ち方が違っている。

 重いものはただ立てているだけで存在の主張が強い。


 リアが寝る前に部屋を覗いて、鉄剣に手を伸ばした。


「みら」


「これは駄目だ。重いから」


 持ち上げて遠ざけるとリアは頬を膨らませる。

 その小さな手を握って、開かせた。

 手のひらにはまだ何の豆もない。

 いつかこの手にも豆ができて、何かを握って離さない日が来る。

 その日のことは今は考えなくていい。


 寝床に入ると右の前腕がじんと熱を持っていた。

 十本も受けていない腕だ。

 情けないと思うより先にこの熱をどこまで減らせるかを数えている。

 そのうち羽根になるとフェイは言った。

 そのうちが半年なら、一年でどうなるか。


 塔で出す水はいくら重ねても腕を熱くしない。

 この剣はたった十本で腕を熱くする。

 二つの疲れはたぶん別の場所から来ている。

 片方は、返す当てのない借りに少し似ていて、もう片方は、腕さえ動かせば必ず返ってくる。

 返ってくる方の疲れは嫌いではなかった。


 目を閉じても、指の先に鉄の匂いがついている。

 油と、錆になる少し手前の匂いだ。

 明日はこの匂いの上に、塔の灰が重なる。

 剣の匂いと、魔法の匂い。

 どちらも少しずつ、アシュの匂いになりはじめていた。


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