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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
青い目の子

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第二十九話

 右肩の芯に、昨日の稽古の張りが残っている。

 レインは寝床の中で肩を回した。

 張りの残る場所で前の日の癖が分かる。

 受けが遅れた日は肩に来る。

 足が流れた日は腿に来る。

 今日は肩だ。

 つまり昨日は受けが遅かった。

 壁の向こうで薪が爆ぜて、ミラが動いている音がする。

 この家の一日はいつも火の音から始まる。


 隣の寝床はもう空だった。

 アシュは起きる音を立てない。

 寝るのも起きるのも静かな弟だ。

 布団の畳み方だけがいつも律儀に残っている。


 外へ出ると空はまだ白い。

 ガルドが庭の真ん中で木剣を提げて立っていた。


「来たか」


「うん」


 朝の稽古はガルドが家にいる間の決まりごとだ。

 八つの歳から始めて、もう四年になる。

 最初の一年は打ち込みだけをやらされた。

 二年目に受けを教わった。

 流すことは教わっていない。

 ガルドの一撃をまともに受け止めたら腕が保たない。

 保たないから逃がした。

 逃がし続けるうちに勝手に型と呼ばれるようになった。


「行くぞ」


 地面が鳴った。

 ガルドの踏み込みは音で来る。

 見るより先に音で分かる。

 レインは半歩引いて、木剣を斜めに合わせた。

 受けない。

 当てて、逸らして、流す。

 衝撃の余りが手首を抜けていく。

 まともに受ければ痺れる重さだ。

 ガルドの剣は体ごと来る。

 足の裏から肩まで全部が一本に繋がって、その先に木剣がある。

 同じことをやれと言われてもまだできない。

 体の造りが違うと言えばそれまでだが、それを言うと稽古が終わるので言わない。


「遅い」


「分かってる」


 二の太刀が下から来る。

 これも流す。

 三の太刀は流しきれず木剣ごと押されて土を踏み直した。


「今のを拾うな。捨てて下がれ」


「下がったら詰む」


「詰まん。下がり方を工夫しろ」


 短い言葉の稽古だ。

 ガルドは多くを言わない。

 言われた分だけ直す。

 直した分だけ次の朝が変わる。

 その繰り返しが四年続いている。


 四本目。

 今度は踏み込みの音を聞いてから下がった。

 下がりながら木剣の先だけ残す。

 ガルドの太刀筋が先端をかすめて流れた。


「それでいい」


 五本目からは何も言われなかった。

 言われないのは直った印だ。

 この家の褒め言葉は昔からこの形をしている。


 途中で一度、ガルドが構えを解いた。


「俺の真似はするな」


「してない」


「なら、いい」


 ガルドの剣は正面から潰す剣だ。

 レインの剣はそれとは別の筋で育っている。

 教えた本人が一番先にそれを認めた。

 四年前には想像もしなかったやり取りだ。


 日が屋根の上に出た頃、ガルドが木剣を下ろした。


「終わりだ」


「ガルド」


「なんだ」


「最後の一本、緩めたか」


「緩めん。お前が上げたんだ」


 それだけ言って、ガルドは井戸の方へ歩いていった。

 レインは手のひらを開いた。

 豆の位置は変わらない。

 でも今朝は、手の中で木剣が暴れなかった。


――――――――――――――――――――


 朝飯の後は薪割りだ。

 ミラに頼まれたのは一昨日で、やるのは今日と決めていた。

 薪割りは剣に似ている。

 力で割ろうとすると斧が曲がって入る。

 落とす場所を決めて、あとは斧の重さに任せる。

 同じ調子で振っていると頭が空になっていく。

 この時間は嫌いではない。


 門の方で声がした。


「精が出るね」


 斧が半端な場所に落ちた。

 薪が斜めに裂けて転がる。

 ライナだった。

 赤茶の髪を首の後ろでまとめて、門柱に肩を預けている。

 挨拶より先に手を見てしまうのは剣をやる者の癖だ。

 ライナの手の甲には古い傷が二筋ある。

 前衛の手だ。

 ガルドの手と同じ場所に同じ癖がついている。


「……どうも」


「どうも、って」


 ライナが笑う。

 レインは次の薪を台に載せた。

 載せてから置き直した。

 一度で決まらなかったのは今日これが初めてだ。


「ガルド、いる?」


「中に」


「ん。邪魔するね」


 ライナはレインの横を通るとき、足元の薪の山を見た。


「割り口が揃ってるじゃない。几帳面なのはミラさん似ね」


 何か返そうとして、間に合わなかった。

 ライナはもう戸口の中だ。

 台所の方からミラの声とライナの声が重なって聞こえる。

 やがて奥へ移って、ガルドの低い声が加わった。


 レインは斧を振り直した。

 調子が戻るまで五本かかった。

 話の中身は聞こえない。

 聞こえても聞かない。

 ガルドに用のある話はガルドの話だ。

 関係のある話ならいずれ夕飯の席に回ってくる。

 回ってこない話は、回ってこなくていい話だ。


 しばらくしてライナが出てきた。


「お、まだやってる」


 ライナは薪の山の横で足を止めて、レインの手元を眺めていた。

 見られていると分かると斧はまた重くなる。

 それでも三本、同じ調子で割った。


「あんた、いい振り方するようになったね」


「……そうか」


「そうよ。じゃ、またね」


 軽く手を振って、ライナは道の方へ消えた。

 レインは斧を下ろして、首の後ろを掻いた。

 返す言葉はあとからいくつも出てきた。

 どれも遅い。

 剣なら遅れた分は体が取り返す。

 これは取り返しが利かない。

 レインは残りの薪を全部割った。

 いつもより数が多く割れていた。


――――――――――――――――――――


 昼前、ミラに使いを頼まれた。


「塩と糸。白いのよ。それから薬屋で軟膏。いつものって言えば分かるから」


「分かった」


「ついでに寄り道してきていいわよ」


 寄り道の意味はよく分からなかったが、聞き返さなかった。

 聞き返すと長くなる。

 ミラの話は、聞き返した分だけ増える仕組みになっている。


 市場は昼前の混みようだった。

 塩と糸はすぐ買えた。

 薬屋では「ヴァルドのとこの」と言っただけで話が通った。

 包みを受け取るとき、店の親父が「弟は元気か」と聞いてきた。


「元気」


「そうかい」


 それで終わりだ。

 この町の大人はときどきこうやってアシュのことを聞いてくる。

 聞き方はみんな似ている。

 悪気の匂いはしない。

 しないが、毎回少しだけ引っかかる。

 引っかかったまま、流す。

 流していい類いのものかどうかはまだ決めかねている。


 広場を抜けようとしたところで声が飛んできた。


「あ、レインだ」


 ガイだった。

 木剣を担いで、琥珀(こはく)の目をこちらに向けている。

 アシュの友達で、フェイの息子だ。

 広場で顔を合わせれば話すくらいの仲ではある。


「アシュは塔?」


「ああ」


「だよな。爺さんのとこの日だもんな」


 ガイは木剣を担ぎ直して、少しの間もじもじした。

 言いたいことがある時の顔だ。

 アシュもたまにこういう顔をするが、アシュのは分かりにくい。

 ガイのは看板みたいに分かりやすい。


「あのさ。アシュに、親父の予備の剣、貸そうと思ってんだけど」


「本物か」


「刃はないやつ。訓練用」


 レインは少し考えた。

 アシュには重さで受ける持ち方をもう教えてある。

 覚えは早い。

 早すぎるくらいだ。


「持てるとは思う」


「だよな!」


「振り回せば手首をやる。最初は受けだけやらせろ」


「受けだけな。分かった」


 ガイは頷いたが、まだ何か言いたそうにしていた。


「まだあるのか」


「いや、あのさ。……アシュってさ、なんか、変わってるよな」


 ガイの目はまっすぐだった。

 悪意の類いは一つも入っていない。

 ただ不思議がっている目だ。


「弟だ」


 レインはそれだけ返した。

 ガイは数秒待って、それ以上出てこないと分かると笑った。


「そっか。まあ、いいや。剣のこと、アシュにはまだ言うなよ。親父に聞いてからにする」


「言わない」


「約束な」


 ガイは走っていった。

 走り方に迷いがない。

 ああいうのは強くなる。


――――――――――――――――――――


 家に戻るとリアが土間の縁に座っていた。

 レインを見上げて口を開く。


「みら」


「レインだ」


「みら」


「レ・イ・ン」


「みら!」


 勝てる気がしない。

 ガルドも先日同じ勝負をして負けていた。

 この家で唯一、リアだけが全員に勝ち越している。

 レインは荷物を台所に置いて、リアの頭に軽く手を載せた。

 リアは満足そうに「みら」と言った。

 呼び方はともかく、呼ばれていることは伝わる。

 今はそれでいいことにする。

 その手がレインの木剣の柄に伸びてきた。


「それは駄目だ」


 持ち上げて遠ざけるとリアは頬を膨らませて「みら」と抗議した。

 抗議の言葉もまだ一つしかない。


 部屋に戻って自分の木剣を壁際に立てかけた。

 隣にもう一本ある。

 アシュに渡した古い方だ。

 柄の布が巻き直してある。

 巻き方は不器用だが、端の始末だけ妙に丁寧だ。

 四年使って、一度も巻き直さなかった。

 渡した先で手入れされている道具を見るのは悪い気分ではない。

 レインは自分の木剣を取って、庭で素振りをした。

 誰も見ていない時間の振りが一番正直だとガルドがいつか言っていた。

 正直な振りを百本。

 百本のうち、いいのは十本もない。

 いい十本がどれだったかは手が覚えている。

 覚えている手を信じて、明日も同じ場所から振るだけだ。

 肩の張りは五十本目あたりで抜けた。


――――――――――――――――――――


 夕方、アシュが帰ってきた。

 戸の音はしない。

 気づくと土間に立っている。

 服から薄く灰の匂いがした。

 塔の匂いだ。


「ただいま」


「おう」


 弟が塔で何をしているのか詳しくは知らない。

 じいさんの弟子になって、何かを習っている。

 魔法の理屈か、文字か。

 魔法使いの塔で習うものなど、そのあたりだろう。

 本人に聞いたことはないし、聞く理由も特にない。

 塔の中身は弟の領分だ。

 レインの領分は剣で、その二つは今のところどこでも交わらない。

 交わらないものを並べて悩むのは時間の無駄だ。

 弟が塔から灰の匂いをさせて帰ってくる。

 夕方に木剣を持って庭へ出てくる。

 見えているのはそれで全部だし、それで足りている。


「今日も、やるか」


「うん、やる」


 庭に出る。

 夕方の光が低くなって、土の凸凹に影がつく。

 アシュが構えた。

 七つの構えではない。

 どこがどうとは言えないが、立ち方から無駄が減っている。


 一本目。

 レインが打ち込むとアシュは半歩引いて木剣を合わせてきた。

 教えた通りの受けだ。

 教えた通りにやるのが一番難しいことを、この弟はまだ知らないでいる。


 二本目は線を隠した。

 肩を左に沈めて、右から行く。

 アシュの目が一瞬だけ迷った。

 迷ったが、木剣は正しい側に出てくる。


 三本目はアシュの方から来た。

 浅い踏み込みで小手を狙う。

 ガイの型の借り物だ。

 借り物はすぐ分かる。

 足が本人のままだからだ。

 レインは剣を引いて空を打たせ、開いた肩を軽く叩いた。


「今のはガイの真似だろ」


「分かる?」


「足が違う」


 アシュは自分の足元を見て、それから小さく頷いた。

 一度見たものをすぐ試す。

 この弟の稽古は昔からそうだ。


 当てられはしない。

 でも遠くない。

 半年前は線を隠せば必ず崩れた。

 今は隠しても半分読んでくる。

 どこで読んでいるのかレインには見えない。

 目か、肩か、足か。

 聞けばたぶん答える。

 答えを聞いたら稽古が詰まらなくなるから聞かない。


 水を飲む間、アシュがこちらを見ていた。


「どうして受けないの」


「受けたら潰されるからだ」


「僕なら?」


「お前はまだ、受けても流しても潰される」


 アシュは怒らない。

 事実を言われるとこの弟はむしろ納得した顔をする。

 納得した顔のまま、次は流す側を試してくる。

 だから教える方も気が抜けない。


「もう一本」


「まだやるのか」


「やる」


 弟は急いでいる。

 何を急いでいるのかは知らない。

 ただ、急ぐやつの隣は並んで走れば済む。

 先に息が切れた方が負けだ。

 まだ負ける気はない。


 日が落ちかけて、ミラが窓から声を出すまで打ち合った。

 最後の一本はきわどかった。

 アシュの切っ先が手元をかすめて、レインの返しが一拍だけ遅れた。

 当たってはいない。

 当たってはいないが、手のひらが覚えている。


「今日は終わりだ」


「……あと少しだった」


「まだ足りないんだろ」


「うん」


 アシュが手拭いで顔を拭く。

 その口元が少しだけ笑っていた。

 レインは井戸の水を頭からかぶった。

 冷たさで一日の熱が流れていく。


――――――――――――――――――――


 夕飯の席はいつも通りだった。

 リアが皿を叩いて、みら、と叫ぶ。

 レインは黙って椀を差し出した。

 三杯目だ。

 ミラが呆れ半分によそってくれる。


「そういえば」


 ミラが汁をよそいながら言った。


「昼間ライナが褒めてたわよ。レインの薪割り」


「……別に」


「別に、って」


 ミラが笑いをこらえる顔をした。

 ガルドがちらりとこちらを見る。

 見ただけで何も言わない。

 言わないのが一番効く。

 レインは椀に顔を伏せて汁を飲んだ。

 耳の後ろが熱いのは湯気のせいだ。


 リアが「みら」と言って、アシュの袖を引いた。

 アシュが自分の皿からパンを半分割って渡す。

 ミラが「甘やかさないの」と言いながら止めはしない。

 いつもの卓だ。


 ライナの用件は夕飯に回ってこなかった。

 つまり今のところ、子どもに関係のない話だ。

 ガルドの顔はいつもと変わらない。

 変わらない顔ができる男だということも知ってはいる。

 それ以上は考えなかった。

 回ってくる日が来たらその日に受ける。


――――――――――――――――――――


 寝床に入ると隣でアシュがもう横になっていた。

 起きているのは息で分かる。


「なあ」


「なに」


「塔って、疲れるのか」


 少し間があった。


「剣ほどじゃない」


「そうか」


 聞きたいことはそれで全部だった。

 疲れないなら夕方の稽古はこれからも同じだけやれる。

 それが分かれば十分だ。

 塔で何を習っているのかは知らないままでいい。

 弟の速さの理由も、たぶん剣の話ではない。

 剣の話でないなら追わない。

 間合いの内側に入ってきたものだけを見て、受けるか流すかを決める。

 昔からそうやって生きているし、当分それで足りる。


 アシュの息が眠りの深さに変わっていった。

 静かな弟だ。

 静かなまま、どこか遠くへ行こうとしている。

 行き先は知らない。

 知らないが、隣で走るくらいはできる。

 明日の稽古の組み立てを考えているうちにまぶたが重くなってきた。

 線を隠して、読ませて、また隠す。

 三本目はどこから行くか。

 考えの端に揃った割り口の話が浮かんだ。

 浮かんだことにして、流した。


 右の手のひらを、暗がりの中で一度だけ握って開く。

 夕方の最後の一本が、まだそこに残っていた。


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