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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
青い目の子

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第二十八話

 目が覚めると家の中はまだ暗い。

 ミラはいつも家の誰より先に起きる。

 窓の隙間から入る色がまだ青いうちにそっと寝床を抜け出す。

 冷えた土間に足を下ろすとそのつめたさで頭の芯が起きる。

 竈《かまど》の前にしゃがんで、昨夜灰をかけておいた種火を掘り返す。

 息を吹きかけると赤い点が一つ、灰の中で目を開ける。

 細い薪をその上に組んでやる。

 火は急かすと消えるものだ。

 この家で一番それを知っているのはたぶんミラだ。

 棚の隅には火起こし石もある。

 叩けば一叩きで火はつくが、あれは使うたびに刻んだ式が減る。

 刻み直しは高い。

 種火が生きているうちは石の出番はない。


 火が育つのを待つ間に鍋を出す。

 水を汲んで、昨日の残りのパンを布から出す。

 手が先に動いて、頭は後からついてくる。

 台所に立っていると体のどこかがちゃんと目を覚ましていく。

 もう長いこと、この順番で朝が始まっている。


 外で木のぶつかる音がした。

 ガルドとレインが庭で剣を合わせている。

 ガルドが家にいる間の、朝の決まりごとだ。

 どすんと地面が鳴るのがガルドだ。

 その音を受けずに逃がすのがレイン。

 音を聞いているだけでどっちがどう動いているか分かる。

 長く同じ家にいるとそういうものが読めるようになる。


 鍋が湯気を上げ始めた頃、奥から小さな足音がした。

 リアだ。

 壁に手をついて、一歩ずつ台所の方へ来る。

 このごろは掴まらずに数歩あるく。

 途中で尻から落ちてももう泣かない。

 ミラの足にたどり着くと裾を掴んで見上げてくる。


「みら」


「はいはい。おはよう」


「みら」


 ミラの名前だ。

 リアが覚えた、初めての言葉。

 かあさん、と何度教えても直らない。

 椀を指してもみら、火を指してもみら、猫が通ってもみら。

 リアにとって世界はまだ、全部ミラの名前でできている。


 名前で呼ばれるのはミラには慣れたことだ。

 実家は酒場だった。

 朝から晩までミラ、酒。ミラ、こっち。ミラ、勘定。

 一日中、名前で呼ばれて育った。

 母親になるより前からミラはずっと名前で呼ばれる女だった。

 だからリアが最初に選んだのがミラの名前でも不思議はない。

 一番近くで一番たくさん喋っていたのがミラだった。

 それだけのことだ。

 ……それでも、あの晩は目のふちが少し熱くなった。


 名前を配るのはこの家でいつもミラの役だ。

 リアの名は生まれる前から決めてあった。

 男ならカール、女ならリア。

 どっちが出てきてもいいように先に両方用意しておくのがミラのやり方だ。

 レインの名もアシュの名もミラが付けた。

 名前を配ってばかりだったミラが、今になって一つ返してもらった。

 みら、と。


 庭の音が止んで、ガルドとレインが汗を拭きながら入ってきた。

 アシュは音を立てずに現れる。

 起きているのは知っていた。

 それでもいつの間にか卓の前に座っている。


「おはよう」


 アシュがミラを見て、そう言う。

 青い目だ。

 この町でこの色を持って生まれた子はほかにいない。

 道で会う大人はアシュと目が合うと笑ったまま視線をよそへ滑らせる。

 悪気があるわけではない。

 見慣れない色を前にすると人の目は勝手に逃げる。

 ガルドでさえ、今でもアシュの目をまっすぐ見られない日がある。

 口では何も言わないけれど、そういう日は椀のあたりに視線を落として喋る。


 ミラは、逃げたことがない。

 生まれた晩、取り上げてもらったアシュを胸に抱いたとき、目が合った。

 まだ何も見えていないはずの赤ん坊が、ミラをじっと見上げている。

 きれいな色だと思った。

 それだけだ。

 アシュが何なのかミラには分からない。

 でも、分からなくていいと思っている。

 酒場で育つとそれを覚える。

 客が何を抱えて店に来るのか。

 店の側から聞くものではない。

 注いで、置いて、また注ぐ。

 聞かないでそばにいるのが、一番あたたかいこともある。


 朝の卓はいつもにぎやかだ。

 ガルドが汁をすすり、リアは椅子の上で皿を叩いて、みら、と叫んでいる。

 レインは黙って食べる子だ。

 朝はいつも眠そうにしている。

 口より先に手が動いて、パンを二つ取って、一つをアシュの皿にのせた。

 言葉はない。

 でも、レインなりに弟を気にかけている。

 ミラはそれを口に出したりしない。

 アシュだけが静かに食べている。

 食べるときに妙な顔をする子だ。

 うまいともまずいとも言わない。

 一口ごとに初めて食べるものを確かめるような顔をする。

 ミラはときどき、味付けを少しだけ濃くしてみる。

 アシュが「これは好きだ」と言うのを一度でいいから聞いてみたいと思っている。

 でも、まだ聞けていない。


 食べ終わるとアシュが腕当てを着け始めた。

 誕生日にガルドが選んだ革の腕当てだ。

 毎日着けているから革はもう手首の形になじんでいる。


「ゼドルさんのとこ?」


「うん」


「気をつけて」


 それだけ言って、送り出す。

 塔で何をしているのかミラは詳しく知らない。

 魔法、というものらしい。

 この歳で使えるのは珍しいのだとガルドが小さな声で教えてくれた。

 外では言うな、とも言われている。

 ミラは頷いた。

 言わないでいることなら得意だ。

 この家には外に出さないものがいくつかある。

 ミラはそれを全部、台所の奥にしまっておく係だ。


 レインは庭で薪を割っている。

 頼んだのは三日前だ。

 やる気になるのはいつも朝稽古の後で、斧の音が同じ調子で続いている。

 ああ見えて、頼まれたことは忘れない子だ。

 ただし、やるのは自分の決めた時にやる。

 急かしても早くはならない。

 そういうところは火とよく似ている。

 だからミラは追い立てない。

 夕方に薪が壁際へきちんと積んであるなら文句を言う筋はどこにもない。

 割り終えたレインが台所に顔を出して、黙って水瓶から一杯飲んでいく。

「ありがと」

 声をかけると返事の代わりに手だけ上げて出ていった。

 ガルドの若い頃もああだったのか。

 聞いたことはない。

 聞けば本人はきっと否定する。


――――――――――――――――――――


 昼前にリアを連れて市場へ出た。

 片手にかごを提げて、もう片方の手でリアの手を引く。

 リアはすぐに立ち止まる。

 犬を見てはみら、荷車を見てはみら、道の石を拾ってはみら。

 そのたびにミラは「そうね」と返す。

 中身は何もない返事だ。

 でも、リアには返事があることが大事らしい。

 呼べば返る。

 それを確かめて、また次のものを指す。


 魚屋のかみさんが、ミラを見つけて手を挙げた。


「ミラ、いいのが入ってるよ」


「あら。じゃあ二尾もらおうかしら」


 まけてもらう代わりに店番の合間の愚痴を少し聞く。

 こういうやりとりは実家の店で覚えた。

 物の値段はたいてい、世間話の長さで決まる。

 急いでいる客からは高く、話していく客からは安くなる。

 ミラは昔から話していく方の客だった。


 通りの人混みは音で読む。

 これも店で覚えた癖だ。

 値切る声、急ぐ足音、朝から酔いの残った笑い方。

 耳に入る順に並べるとその日の市場の機嫌が分かる。

 今日は穏やかだ。

 リアを連れて歩くにはいい日だった。


 ミラの父は酒場の亭主だ。

 ランドの店といえば第五地区では通りが利く。

 父は無口な男だ。

 ミラは酒より先に人を見る目を仕込まれた。

 誰が金を落とすか、誰が面倒を起こすか、注ぐ前に見当がつくようになる。

 ミラはその店で生まれ育った。

 ガルドと出会ったのもあの店だ。

 依頼の帰りに寄った冒険者が、隅の席で静かに飲んでいた。

 体が大きいのに声の小さい男だと思った。

 その男が今、この家の卓の端で汁をすすっている。


 かごが半分埋まった頃、パン屋の前で足を止めた。

 顔なじみの女が、リアをのぞき込んで目を細める。


「まあ、大きくなって。……下のお兄ちゃんは、元気にしてる?」


 下のお兄ちゃん、というのはアシュのことだ。

 この女はアシュの目のことを、遠回しに聞いている。

 町の人はときどきこうやって、確かめるように聞いてくる。

 アシュは変わりないか。

 何か変わったことはないか。

 ミラは笑って、いつもと同じように返す。


「元気よ。朝から晩までじいさんに剣だの何だのしごかれてる」


「そう。……いい子だものねえ」


「ええ。うちで一番、手のかからない子」


 嘘ではない。

 アシュは手がかからない。

 かからなさすぎて、ときどき心配になるくらいだ。

 でも、それは外の人に言うことではない。

 ミラは礼を言って、パンを一つ多く包んでもらった。


 帰り道、リアが歩かなくなった。

 両手を上げて、抱っこをせがむ。

 かごとリアを両腕に抱えるとさすがに腕にこたえる。

 昔はこれくらい、何でもなかった。

 少しずつ、ミラも歳をとっている。


「重くなったわねえ、あんたも」


「みら」


「はいはい、ミラよ」


 肩に頭を預けて、リアはすぐ眠った。

 寝息の合間にまだ小さく、みら、と言っている。

 夢の中でもミラを呼んでいるらしい。

 悪い気はしない。


――――――――――――――――――――


 日が傾き始めた頃、アシュが帰ってきた。

 戸を開ける音も静かだ。


「ただいま」


「おかえり。疲れた?」


「ううん」


 いつもの返事だ。

 アシュは疲れたと言わない。

 本当に疲れていないのか、それとも言わないだけなのか。

 ミラには読めない。

 顔色を見て、変わりなければそれでいいことにしている。

 今日の顔は変わりない。


 水を一杯汲んでやると両手で受け取って飲んだ。

 その手の甲に細い擦り傷がいくつかある。

 剣の稽古の跡だ。

 ミラは黙って、棚から軟膏を出す。


「いい。自分でやる」


「じっとしてなさい」


 傷に薬を塗ってやる間、おとなしくしている。

 七つにしては手が硬い。

 まだ小さい手のひらにもう豆ができ始めている。

 レインもこんな手になるまで何年もかかった。

 アシュはそれをずいぶん急いでいる。

 何をそんなに急ぐのか。

 聞いたことはない。


 急ぐ理由を聞けばきっと答える。

 嘘はつかない子だ。

 でも、答えを持っていないことにミラは薄々気づいている。

 だから聞かない。

 答えられないことを聞いても困らせるだけだ。


 夕方の庭でレインとアシュが木剣を合わせ始めた。

 ミラは台所の窓からそれを横目に見る。

 鍋を混ぜながら、時々顔を上げる。

 レインは力を受けずに流す。

 アシュはその流れを読もうとして踏み込む。

 兄の剣と弟の剣はまるで似ていない。

 でも、向き合っている時の二人の背中はどこか似ている。

 打ち込む音が、暗くなり始めた庭に響く。

 その音を数えながら、ミラは汁の味をみる。

 塩を、ひとつまみ足した。


 しばらくして、外の水音がやんで、二人が入ってきた。

 レインは井戸の水を頭からかぶったままで、アシュは絞った手拭いを首に掛けている。

 兄は派手に疲れてみせて、弟は疲れを見せない。

 同じ庭で同じだけ動いても出方がまるで違う。

 ミラは二人分の椀を、多めによそっておく。


――――――――――――――――――――


 夜になって、家じゅうの音が卓の上に集まった。

 ミラは鍋を運びながら、みんなの顔を順番に見る。

 これがミラの、一日でいちばん好きな景色だ。


 リアが皿を叩いて、みら、と叫ぶ。

 ミラは「はいはい」と応えながら、椀をよそう。

 ガルドがそれを見て、低く唸った。


「俺のことはいつになったら呼ぶんだ」


「無理よ。この子、あんたのことまでみらって呼ぶんだから」


 レインが噴き出して、ガルドがますます唸る。

 ミラは笑いをこらえながら、汁を注ぎ足した。

 レインが空の椀を差し出してくる。

 これで三杯目だ。

 育ち盛りの食べ方は見ていて気持ちがいい。

 アシュは一杯を時間をかけて食べる。

 同じ腹から生まれてもこうも違う。

 違うまま同じ卓に並んでいる。

 それでいい。


 こういう夜がずっと続けばいい、とミラは思っている。

 ガルドが家にいて、子どもが三人そろっていて、卓の上が名前でいっぱいで。

 冒険者の女房になった時、こんな夜が当たり前になるとは思っていなかった。

 ガルドはいつか帰らない日が来るかもしれない仕事をしている。

 それを承知でミラはこの家に来た。

 だからこそ、帰ってきた夜の卓はよけいにあたたかい。


 今日は市場で買った魚を、少し濃いめに煮た。

 アシュの椀を、ミラはこっそり見ている。

 一口食べて、箸が止まった。

 いつもの、初めて食べる顔だ。

 でも今日はそのあと、すぐにもう一口食べた。

 それきり、何も言わない。

 ミラも何も言わなかった。

 ただ、明日もこの味付けにしようと決めた。


――――――――――――――――――――


 夜が更けて、家じゅうが寝静まった。

 最後に起きているのはいつもミラだ。

 卓を拭いて、椀を片づけて、明日のパンの粉を量っておく。

 繕い物が一つ残っていた。

 アシュの袖口だ。

 稽古で擦り切れるのはいつも同じ場所で、当て布はこれで三度目になる。

 針を動かしながら、夕方見た手の甲の傷を思い出す。

 軟膏は残り半分。

 なくなる前に市場の薬屋で同じものを頼んでおく。

 母親にできる備えはたいていこういう地味な形をしている。

 一日の終わりは始まりと同じ場所だ。

 竈《かまど》の前にしゃがんで、火を灰の中にしまう。

 朝また掘り起こせるように種火だけを残しておく。

 この火を絶やさないのが、ミラの役目だ。

 派手なことは何もしていない。

 剣も振れないし、魔法も使えない。

 ミラにできるのは火の番だけだ。


 でも、火さえ絶やさなければ朝はまた来る。

 今日も一日、誰も欠けなかった。

 そのありがたさは毎日の家の仕事に紛れて時々見えなくなる。

 だから夜のうちに一度だけ思い出しておく。


 寝床に入るとガルドがまだ起きていた。


「アシュのことか」


 ミラが何も言わないうちにガルドがそう言った。

 長く一緒にいるとこういうことは筒抜けになる。


「別に。ただ、手が硬くなってきたなと思って」


「そうだな」


「あの子、急いでるみたい。何をそんなに急ぐのかしらね」


 ガルドはしばらく黙っていた。


「分からん。だが、あいつが急ぐなら俺たちは遅れないようにするだけだ」


 ミラはその言い方が好きだ。

 ガルドは難しいことを言わない。

 できることを、できるだけやる。

 たぶん、ミラと同じ種類の人間だ。


 ガルドはそれきり、静かになった。

 その背中は昼間の稽古のせいで少し汗くさい。

 それでも、ミラはこの匂いで眠るのに慣れている。

 ガルドが家にいる夜はそれだけで眠りが深い。


 すこし向こうでリアが寝返りを打つ音がした。

 小さな声が、一つだけ漏れてくる。


「みら」


 眠ったまま、まだミラを呼んでいる。

 ミラは返事をしない。

 起こしてしまうから。

 その代わり、暗がりの中で少しだけ笑った。

 竈《かまど》に残した種火が、壁の隙間からかすかに赤い。

 その色を見ているとまぶたが重くなる。

 明日もまた、ミラが一番先に起きる。


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